最終話
僕はナナちゃんと見ていた写真をポケットにしまうと、そこからひとつのケースを取り出した。それを不思議そうに見つめるナナちゃんの目の前に持ってくると、僕はそのケースのふたを開けた。
中には白い真珠のネックレス。
安物の人造真珠ではあるが僕はこれをナナちゃんにプレゼントしたく、急いで買ってきたのだ。ナナちゃんは何も持たずにこの海の中へと旅立とうとしている。そんな中、これを身に着けて、これを見たとき僕のことを少しでも思い出してくれれば……そう思ったのだ。僕はナナちゃんと出会って何もしてあげられなかった。だから、その代わりに何かプレゼントしたかったのだ。
「これ、たいした物じゃないんだけど、ナナちゃんに…」
僕はケースから、星空の下、それ一つ一つが夜空に輝く星のように艶やかな光を反射させている真珠のネックレスを取り出して、ナナちゃんの目の前に持ってきた。
「えっ、これを、私に? とてもきれい……」
僕はナナちゃんの首の後ろに両手を回し、その細くて白い首にネックレスをかけて上げた。僕の顔のすぐ横にはナナちゃんの顔が………こんなにも近くに僕の大好きな人がいる。肌と肌とが触れ合うことのできる距離に……
僕はそのまま顔を引き、ナナちゃんを見つめる。やっぱり安物だな。ナナちゃんの肌のほうが白く美しい。でもそれがかえってナナちゃんの美しさを引き立てて見える。
ナナちゃんはそっと首にかかったネックレス視線を落とし、手を添える。そして今度は照れくさそうに白い頬を桃色に染めて、微笑みながら僕のことを見つめ返した。
「あの…真一さん……ありがとう…ございます」
ナナちゃんは恥ずかしそうに目を細めながら言うと、そのままゆっくりと瞳を閉じた。
僕は自分の顔を、再びナナちゃんの顔に近づけると、その可愛らしい唇に僕の唇を重ねた。僕にとっての初めてのキス。息をするのも忘れて、僕は大好きなナナちゃんの存在を確認するかのように、その温もりを感じ取る。しばらく僕たちはそうしていたが、先にナナちゃんが、はにかむようにして唇を離していった。
「あの……真一さん……そろそろ私、行きたいと思います」
息が触れ合うほどの距離で、ナナちゃんはしっかりと見開いた瞳で僕の目を見ながら言った。いつかはくると分かっていたその言葉が、僕の火照った体を冷ました。
「うん……そうだね……」
僕はナナちゃんを抱き上げる。そして海のほうに体を向けると、ゆっくりと波の中へと歩いていく。
これでお別れなのだろうか。本当にこれでお別れなのだろうか。
ナナちゃんはエルさんを蔑ろにして自分だけ幸せになることに抵抗があるのだろうか? それで自ら過酷な道を選んで、一人この荒れ狂う大海原へと旅立とうとしているのだろうか?
ナナちゃんは言っていた。この広い海のどこかで本物の人魚たちを探して見ると。もしナナちゃんが他の人魚たちを見つけたなら、そこでみんなで仲良く暮らすことだろう。それがナナちゃんにとって幸せなのかもしれない。それなら僕はナナちゃんが仲間たちと見巡り合えることを祈っている。
でも、正直僕は、本物の人魚なんて見つからずに、またここにナナちゃんが戻ってきてくれることを望む。ナナちゃんを幸せにできるのは僕だけだと、多少の自惚れもある。でも、そんなことなくてもナナちゃんはきっと戻って来てくれると信じている。これは単に一時的なお別れであって、永久の別れではない。だから僕は、さよならは言わない。
僕は波の中へと足を入れる。水温は低く、僕の体温は水に浸かった足元から逃げていく。僕は服が濡れるのも気にせずに、そのまま進んでゆく。ナナちゃんはこんな冷たい水の中に潜って行くのだろうか。こんなに冷たく、真っ暗で、静かなところで……
僕は体を震わせた。それは寒さからではなく、ナナちゃんとこれで別れてしまうことへの寂しさから体全体が悲しんでいたのだ。
僕はナナちゃんの存在を確かめるように、胸元へと強く抱きしめた。できればこのままナナちゃんを抱きしめたまま帰りたかった。それに僕はまだ納得していない。ナナちゃんが一人で行ってしまうなんて。ナナちゃんだって本当は僕と一緒にいたいはずなんだ。
こんなことは誰も望んでいないんだ。
だから……僕は………こんなの…いやだよ。ナナちゃんと別れるなんて…そんなの……
僕は今まで必死に押さえ込んでいた感情が溢れてきた。最後くらいは気持ちよく迎えたかった。それなのに、胸が苦しくて、喉が痛くて、みっともなく鼻水流して、涙が溢れてきて……
僕は瞳を強く閉じ、涙が流れるのを止めようとした。しかし、ナナちゃんを両手で抱えていた僕は涙を拭うことができず、頬を伝って僕の腕の中にいるナナちゃんの胸の上へと落ちていった。一度流れた涙は再び止めることは難しい。堰を切ったよう流れ出した涙には、抑制が効かなかった。
そこへナナちゃんが、涙でグシャグシャに汚れた僕の顔に手を添えてくれた。頬を優しくなでてくれて、目元にたまった涙を瞼の上をなぞる様にして僕の涙を拭いてくれた。
「…真一さん……ごめんなさい………その…………ごめんなさい………… あの、ここで降ろしてください。私は大丈夫ですから」
気づかないうちに僕は胸の辺りまで水面に浸かるところまで来ていた。僕はナナちゃんを下ろすと、手で目をゴシゴシ擦り、赤く腫れているであろう目で波に揺れながら浮いているナナちゃんの顔を見た。
ナナちゃんはうっすらと笑みを浮かべた表情で、僕のことをじいっと見つめていた。
「真一さん、本当にお世話になりました。私、真一さんのことは一生忘れません………ありがとうございます…本当に…………あの、これから先は私一人で行きますので………その………」
僕はナナちゃんに何か話そうとしても、喉が詰まって言葉が出てこない。
「あ……あの……ナナちゃん……どうしても……行っちゃうの…かな……」
僕はナナちゃんのことを引き止めるように、ナナちゃんの手を取り、強く握り締めて言った。でもナナちゃんは、口を開くことなく静かに顔を縦に振った。
「そっか……そうだよね…………………それじゃあ………気をつけてね……」
「はい…………真一さんもお元気で…………それでは……行ってきます……」
ナナちゃんは僕の手を握り返しながら言うと、ゆっくりと振り返って沖のほうへと向かっていった。僕の手からナナちゃんの細く柔らかい指がすり抜けてゆく。
人差し指から一本一本……僕の大好きなナナちゃんが離れてゆく。もしかしたらもう二度と会えないのかもしれない。この手を離したら………二度と…………寄り添うことも……話すことも……一緒に笑うことも……そんな、そんなのは…嫌だ。ナナちゃんと離れ離れになるなんて……
いやだ!
僕は離れ行くナナちゃんの手を掴むと力いっぱい引っ張り、ナナちゃんの体を僕の胸元まで引き寄せ抱きしめた。
「だめだよ、ナナちゃん……一人で…行っちゃうなんて……僕は…やだよぉ……」
「……し、真一さん………」
ナナちゃんは僕の胸の中で、苦しそうにもがきながら呟いた。そしてナナちゃんは僕の体から距離を置こうとして、後ろへ引いた。そのとき僕は一瞬、背を向けようとしたナナちゃんの顔が見えた。瞳を硬く閉じて涙を流し、悲しみのあまり崩れた表情を。
ナナちゃんも僕と同じ気持ちだった。でもこうするしかなかったのだ。お互い一緒にいれば、これ以上の悲しみを僕たちは迎えなくてはならないのだ。僕はナナちゃんといつまでも一緒にいたかった。でも、これ以上ナナちゃんの悲しむ姿は見たくない。
「ごめん、ナナちゃん。でも、これだけは約束して。いつか必ず戻って来てくれるって」
ナナちゃんは崩れた顔で、懸命に笑った表情を作って僕の方を振り返った。
「……はい………必ず……真一さんに会いに戻ってきます……」
僕たちは両手を握り合い再会を誓った。
そして…………今度は潔く僕からナナちゃんの手を離した。
「それでは、今度こそ、行ってきます」
ナナちゃんが笑いながら言った。
「気をつけて行ってくるんだよ。あまり遅くならないように帰ってきてよ」
「はい」
ナナちゃんは涙を流した笑顔で元気良く頷くと、ゆっくりと振り向き水の中に入ってゆく。水面から頭だけ出すと、そのまま夜の海を暗闇に向かってゆっくりと泳いでいった。
僕は立ったまま、ただその様子を見守ることしかできなかった。どんどんナナちゃんの姿は小さくなってゆく。
黒い髪の毛が周囲の闇に同化して、既にナナちゃんの姿は確認できない。ナナちゃんが泳ぐことによって立つ小さな波が、夜空の星の光に反射してゆっくりと弧を描きながら、何重にも広がっていくのが見える。
周囲の景色が歪んで見えた。僕の涙のせいだ。ナナちゃんの姿を最後まで目に焼き付けようとしていたのだが、既に涙で視界が利かなくなっていた。
僕は膝をついた。波が僕の顔に当たっては顔を洗い流して行った。
僕は、ただ、悲しかった。
苦しかった。
切なかった。
胸や喉がナイフで切り裂かれたように痛んだ。
今はただ泣くことしかできなかった。
こんなのって…………こんなことって……うっ…くぅっ……
ナナちゃんの笑った顔が、何度も頭の中に浮かんでは消えていった。
「真一さんに会いに戻ってきます」
僕の今後の人生は、この言葉のためだけに生きていくことになるだろう。もう、僕の人生には、ナナちゃんという最愛の人の存在が必要となっていた。
涙で満ちた僕の目には、僕へ最後の挨拶をするかの様に、ナナちゃんが遠くの水面からイルカのように飛び上がる光景が入ってきた。
もうナナちゃんはあんな遠くまで行ってしまった。今からでは追いつくことができないほど、もう触れることができないほど、遠く離れたところまで……
僕はいつまでもナナちゃんが向かった、既にいつもの穏やかさを取り戻した海を眺めていた。顔に触れる波の音がナナちゃんのささやき声のように聞こえた。
「必ず真一さんに会いに戻ってきます」
僕はただ優しく微笑むナナちゃんのその言葉を、何度も頭の中で再生しながら、遠く広がる静かな海を眺めていた。
(完)




