第33話
僕は足早に水槽の脇を通り過ぎる。そして下に下る階段を見つけると、急いでその場を離れようとする。暗い階段を抜けると、そこは本当に水族館のように、道の左右が水槽で囲まれた場所へとたどり着く。僕はエルさんの下手な地図を取り出して確認する。この水槽に囲まれたところが水中動物のエリアで、ここを真っ直ぐ道なりに進んで行かなくてはならない。そして、左の陸上動物のエリアに立ち入ってはいけない……と。
僕は道なりに進むことに。広く長い通路には誰もいなく静まり返っている。さらに辺りは薄暗く、そんな状況が僕を心細くさせる。道に沿って床に埋め込まれた緑色の光を発する蛍光灯と、水槽の中を幻想的にライトアップする青白い光りを頼りに進んでゆく。ここが水族館ならとってもロマンチックな所だが、これが僕の知らないような研究が行われている所だと思うと薄気味悪い。僕は左右の水槽を見ながらゆっくりと歩いていく。本来ならそんな余裕はないはずなのだが、水中を泳ぐ生き物たちが僕の目を釘付けにするのだ。
この水槽の中を泳ぐ魚は小アジくらいの大きさで、群れを為して泳いでいるのだが、時折蛍のようにうっすらと光を放つのだ。それが、水色、黄緑、オレンジ色と、綺麗な蛍光色を放って泳いでいる。こっちの水槽は凄い。アヒルくらいの大きさではあるが、本で出てくるような恐竜が泳いでいる。あの首が長い奴……ネッシーみたいなの。青い体で長い首を振りながら、四本の水かきで水槽の中を所狭しと泳ぎまわっている。
僕は思わず子どものようにはしゃいで見入ってしまう。これが本当に水族館で、ナナちゃんと一緒に来ているのだったら最高なんだけど………
……爆発音……
ここから近い……後ろの方だ……
暢気に珍しい生き物たちを観賞していた僕は、不意の揺れによって床に膝をついた。そして、後ろの方でガラスが割れる音が聞こえた。僕は手を付いて立ち上がろうとするが、後ろから水が流れてきて、手のひらが水に浸かる。
そうか今の爆発で水槽のガラスが割れてしまったのか。なら、ここも危険だから急がないと………
そう考えて立ち上がった僕の足下を、奇妙な魚が流されていった。
何だ……今の? よく見えなかったが………何か流されていった………十センチくらいの……黒っぽくて、グニャグニャして……魚なの? それ以前に生き物なのか分からない。少なくとも僕はあんな物見たこと無い……
僕は急に背筋が寒くなり、背中に何か取り付いているのではないかと、後ろを振り返る。僕の後ろは真っ直ぐ通路が伸びて折り、その先は暗くて何処まで続いているのか分からない。
ここは水族館なんかではなかったのだ。僕の知らない事が行われている研究所……
急に全身が氷水を掛けられたように寒くなった。怖くなった僕は急いでここから抜け出し、早くナナちゃんの所に…… もう水槽に気を取られないように…見ないように……急いで…この場所から…でも、それでも、僕の好奇心は恐怖心を超えてしまい、つい横目でチラッと……見てしまった……そして、思わず僕はその場で立ち尽くした。
目の前のこの水槽の中には、人のむき出しになった赤みがかった肌色をした脳みそのようなものが、クラゲのように無数の触手を伸ばして水中を漂っていた。そしてその無数に伸びた触手の中の二本は、先に眼球が付いていた。
………なにこれ? なんなの………これは…………
まるでそれには意思があるかのように、水中を上下に漂っていた。僕はそれを見たまま後ずさりする。そして後ろの水槽のガラスにぶつかって振り返った。
そこでは、まるで漫画で出てくる河童と呼ばれる様な姿をした生き物が泳いでいた。僕と同じくらいの大きさ、全身緑色の鱗で覆われており、背中には亀のような甲羅を背負っている。腕が異様に長くて、長い指には水かきが付いている。頭は黒い髪が普通に生えていて、顔は堀が深く、目は窪み、耳と鼻はなく、尖った黄色いくちばしが口の所にある。目の前を泳いでいたその生物は僕の存在に気づくと、もの凄い形相でやって来て、僕の目の前で口を開けて威嚇する。くちばしの中は鮫のように鋭い牙でギッシリと埋め尽くされていた。そして両手で水槽のガラスを激しく叩きす。
やばい…ここは………普通じゃない……逃げなくては……
僕は怖くなって夢中で走り出す。ただ真っ直ぐだけを見て、脇目も触れずに、足音も気にせずに走る。胸が痛い。頭の中がぼんやりする。静まり返った空間に僕が走る足音と、荒い呼吸音、そして心臓が高鳴る音が聞こえてくる。
まだ着かないのだろうか、ナナちゃんの所まで。早くこんな所抜け出したい。こんなに走ってるのに、まだ続くのだろうか、この道は………
僕は息を切らせながらヨロヨロになりながらも走り、足がもつれてバランスを崩し体ごと倒れ込む。
……もう、ヤダよぉ………何でこんな事しなきゃいけないんだよ………
僕は倒れたまま、この先にあるだろうナナちゃんの待つ部屋の方を見る。そこへ飛び込んできた光景は、向こうの方で倒れている動物の姿であった。僕は驚いて飛び上がる。
……あれはなんだ? ………動かない……死んでいる?
ここから見るに……ライオンのようだが……顔が二つある……
ライオンと思われた動物は、首が二股に分かれておりその両方の先には顔が付いている。こちらを背にして倒れているため、どんな生き物なのかよく分からないが………
近寄って確かめている時間も勇気もない。その動物は腹部から血を流していピクリともしない。どうやら息絶えているようだ。一体どこから来たのだろうか。
どうやら通路の左脇にある隣のエリアに繋がる通路から来たようだ。今はシャッターが降りているが、向こう側から強い力が加わったのか、シャッターの所々がこちら側に盛り上がっている。その光景が僕を震え上がらせる。僕は目の前の動物が死んでいると知ると、恐る恐るとその死体の横を通り過ぎようとした。
……うっ、なんか……くさい……
僕は手で鼻を覆う。………周囲は血の生臭い臭いが漂っていた。よく父さんが家で魚を捌いてくれるときの臭い、生臭い魚の血の臭い…
僕は横たわったライオンの脇を、距離を取りながら通り過ぎようとした。……そこで、ライオンの影になって見えなかったが、裏に人が倒れていたのに気が付く。
白衣を着て仰向けに倒れているその男の腹部は……無くなっていた。胸と腰が左の脇腹でかろうじて繋がっている。きっとこのライオンに食いちぎられたのに違いない。何だかよく分からない判別不能の赤い肉の塊が飛び散り、辺りは血だらけになっていた。
僕はとっさに視線をそらし、込み上げてくるものを感じて、両手で口を押さる。頭の中の血液が全部下に流れていってしまったように、頭の中が真っ白になって、目を閉じてうつむく。
何度か嗚咽を漏らすと、何とか気を静めようと自分に言い聞かせる。そしてゆっくりと目を開けて、そのまま震える足で、この場から立ち去ろうとする。男の手元にはショットガンが転がっていた。相打ちになったのであろうか…… それは、ここには武器を持った人間もいて、武器で相手をしなくてはならない生き物もいると言うことになる。
僕はゆっくりと歩きながら先へ進む。出来ることならもう進みたくない。この先どんな恐怖が僕を待っているのか分からない上、最悪死んでしまうことだって考えられる。
………怖い……もう泣きそうなくらい怖い……実際本当に泣いているかもしれない……もう歩きたくない………怖くて動けないのに、足だっていうこと聞かないのに……でもこんな所で立ち止まったらもっと怖いし………………帰りたい……頭が痛い…胸が痛い……
もう僕はボロボロになっていた。何とか僕をこの場につなぎ止めていたのは、ナナちゃんという僕の大好きな子の存在だけだった。でも、そのナナちゃんだってここにいるとは限らないし…………
そう思うと僕はその場に立ち止まった。
……帰ろう……やっぱり僕には無理なんだ…………ナナちゃんには悪いけど………僕には出来ないよ………
僕は後ろを振り向いた。………どこか遠くで爆発音が聞こえた……今度は音だけで、振動はなかった………
………そうだ……エルさんもいるんだ…ワンちゃんも。……僕がこうしている間にもみんなが頑張っているんだ。……もう少し、もう少し僕もがんばってみよう。
僕はみんなから少しだけ勇気をもらうと、もう一度振り返ってナナちゃんのいる住居区へと向かった。
この通路を辿って行くと突き当たりに到着した。目の前には厳重そうな鋼鉄製の扉があり、右脇にはパネルがついている。きっとこのパネルに番号を入力すれば開くのだろう。
ここで通路の両脇に設置されている巨大な水槽は途切れており、通路はここから直角に左方向へと延びていた。どうやら向こうの方はシャッターが閉まっているようだが、真っ暗でよくわからない。人が来る気配がないことを確認してホッとする。でも向こうからひんやりとした空気が流れてくるのに、僕は不安を感じながら早く扉を開けようとする。
番号は確かエルさんが言うには1027……
僕は電卓のような数字のパネルにその数字を入力する。
入力したとたん、目の前の扉は真ん中から左右に音もなく開いた。突然開いたので僕は驚いて物影に隠れた。
ビックリした……急に開くんだから……まだ心の準備だってできてないのに……
僕は恐る恐る中を覗き込む。人がいる気配はないようだ。僕は中へとゆっくりと足を踏み入れる。中は今までの殺風景で無機質な冷たさを感じさせる環境とは打って変わって、乳白色を基調とした壁に、大理石の床に赤いカーペットが廊下に沿って敷かれている。間接照明が照らされた内部の空間は暖かく見える。廊下の所々には木製の棚や机が置かれ、その上には高そうな壺とか飾られている。ここには洋風の感じを思わせる造りや装飾品が並んでいる。高そうな絵画まで飾ってある。そんな雰囲気に僕は少し安らぎを感じた。
本当に高級ホテルみたいだ……僕はそんな所行ったことないが……
道に沿って部屋の扉が並んでいる。僕は踏み心地のよいカーペットの上を歩きながら、ナナちゃんがいると思われる1027号室を探す。一見ホテル風に見える場所だが、部屋の前を通り過ぎていくとドアが木製ではなく、白く塗られた金属製で、ここも電子化されているのだろうか、ドアノブがない代わりに横にパネルがついている。
僕は一つ一つドアの前に立って、ドアの上につけられた番号プレートを確認する。ここは、1019番……さっきは1018番…このまま奥へと番号順に並んでいるようだ。僕は途中の部屋を通り過ぎて1027番まで一気に進む。
これらの部屋には、やはり誰かが住んでいるのであろうか? ナナちゃんやエルさんのように注文されて生み出されたような人たちが…… 僕はこのまま通り過ぎてよいのだろうか? ここから出してあげたほうがよいのでは? いや、今は一刻も早くナナちゃんのところへ向かおう。
部屋番号がナナちゃんに近づいていくにつれて、僕の胸は高鳴る。ナナちゃんに会えるという期待と、もし居なかったらという不安……1022、1023、1024、一つずつカウントされていくような気持ちで、番号を数えてゆく。
そして遂に1027号室の前にたどり着いた。ここに…この中にナナちゃんがいる。やっとここまで来る事が出来たんだ。僕は戸を叩こうとする……が、一瞬ためらう。もしここにナナちゃんが居なかったら……僕はどうすればいいんだ。
そのとき、またどこかで爆発音が聞こえた。三回連続で…… まるでそれがウジウジしている僕へのエルさんの怒鳴り声のように聞こえた。
何をしているんだ僕は。こんなところまで来てためらっているとは。僕は思い切ってドアに近寄って力を込めてドアを叩く。
……………
………中からは何も反応がなかった。




