第28話
朝食を真っ先に食べ終えたエルさんは、ワンちゃんを連れて山に入ってしまった。枯れ木を探しに行ってくると言ってはいたが、きっとどこかで空を飛ぶための秘密の特訓でもするのであろう。僕は一緒に行くことはせず、ナナちゃんとここで過ごす。もしかしたらエルさんは僕達を二人っきりにしてくれたのかもしれない……と、一瞬思ったが、多分そんな事は考えていないだろう。
ナナちゃんはあの時買った本をここまで持ってきて読んでいた。よほど気に入ったのであろうか。僕はそんなナナちゃんと一緒に本を読んだりして過ごした。別に僕達はこれといって特別なことはしなかった。ただ、二人で同じ場所で同じ事をするのが、僕達にとって何よりの楽しい時間となっていた。
僕はお昼近くになると、ナナちゃんを連れて庭に出ることにした。太陽は真上に来ており、辺りは春の陽気に包まれた。太陽からの暖かい日差しが、僕の心までもポカポカにしてくれるようで、空の何処までも透き通るような青さが、僕を清々しい気持ちにさせてくれた。周りを見渡せば、新しい葉を身にまとった木々が生い茂っている。僕は改めて自然の美しさと尊さを胸にする。
こんな光景は街では見られない。この精気のこもった木々の代わりに、人工的に作られた灰色のコンクリートの建造物が立ち並び、この澄み切った空は電柱や電線、広告塔に遮られ僕達の目に入ってくることはない。
こんな自然に囲まれた中で、僕はナナちゃんの乗った車椅子を押し、周囲を回りながら自然の温もりを体全体で感じ取っていた。そして僕は視線をナナちゃんへと移す。今日のナナちゃんはまた一段と綺麗に見えた。なんというか生き生きしているというのか、窮屈なところから開放されて伸び伸びしているというのか……
「きれいだね……」
「そうですね、こんなに素敵なところに来たのは初めてです」
僕のその言葉はナナちゃんに向けての言葉であったが、ナナちゃんは目の前に広がる光景を目にして言ったようだ。
「…あの……どうかしましたか?」
急に黙り込んだ僕に、ナナちゃんが顔を向けて尋ねてきた。
「あ、いや、なんでもないよ」
僕は急に恥ずかしくなって顔を逸らした。
なかなか言えないよな~ その………ナナちゃんへの気持ち… それにナナちゃんは僕のことどう思っているのかな……それを考えると、不安だし怖い。でも急ぐことはないよ、ゆっくりと時間をかけて……お互いの距離を縮め……そうすればきっといつか……
僕はナナちゃんと一緒にしばらくの間、周囲を散歩した。そのときは別に僕の気持ちとかナナちゃんがどう思っているのかは、特に気にしなかった。ただこうやって一緒にいられる事だけで十分僕にとっては幸せだった。
……そんな時だった。突然、どこからか車のエンジン音が聞こえてきた。それは段々ここに近づいているようで、次第にその音が大きくなってくる。
何だろう? こんなところに。父さんかな?
僕は家の正面から山のふもとにつながる唯一の道へと顔を向けた。そこで僕は山中には不釣合いの黒塗りの高級車がここへ向かってくるのを目にした。
あれはもしかして、ナナちゃん達を追っていた車! 何でこんなところに!
僕はとっさにナナちゃんを抱きかかえると、小屋の裏から逃げようとする。 …しかし、それを阻止するかのように車が僕たちを追い越し、進路を塞ぐように目の前に横付けした。車のドアが一斉に開き、中から数人の男達が降りてくる。
僕は反転して、今度は小屋の正面から山奥に逃げ込もうとするが、いつの間にか来たもう一台の同じような車が家の前で既に止まっていた。
どうしよう、このままでは………
そんなことを考える暇もなく、僕は背中から大きな力を加えられ、前に倒れ込んだ。地面に叩きつけられた衝撃が伝わってくると同時に、体を何度も蹴られる痛みを受ける。わけの分からないまま執拗な攻撃に、僕はなんとか体を丸くして自分の身を守ろうとしたが、それでもあまりの痛みに気を失いそうになった。
「やめてください! 真一さんは何にも悪くないんです。……お願いですから……やめてください……」
誰かが僕の体にしがみつき、男達の攻撃から身を挺して守ってくれた。
たぶんナナちゃんだろう……本当なら僕がナナちゃんのことを守るはずなのに………僕の方が守られるなんて……なんて情けないんだろう………格好悪いな……
そこにもう一台の車がやってきて、僕の頭すれすれのところでタイヤが止まった。その車のドアが開く音が聞こえると、誰かここまでやって来くる足音が聞こえた。
「探したぞ、ナナ………」
足音が僕の顔のところで止まると、低く、そしてとても冷たい男の声が聞こえた。僕は顔を何とか持ち上げて、その声の持ち主の顔を見ようとする。
目の前に立っていたのは、あの公園で見た黒い服を着た男……ナナちゃんが怖がっていたあの男だった………まさか、こんなところにまでやって来るとは…
そして僕はその男に思いっきり顔を蹴られた。
「やめてください………真一さんに酷いことをしたら……私、舌をかんで死にます」
蹴られた右頬の痛みで泣きそうな僕の耳には、ナナちゃんの覚悟を決めた必死の声だけが聞こえた。それは強い意志の感じられるハッキリとした力強い口調であった。
死ぬだなんて……僕のことなんか……ナナちゃんが命をかけて守るだけの……価値なんて無いというのに………
僕とナナちゃんは数人の男達によって引き離されようとしていた。しかし、ナナちゃんは僕の体にしがみつき、離れようとしなかった。きっとここで離ればなれになったら、僕はもう二度とナナちゃんと会うことは出来なくなってしまうのだろう。ぼんやりとした意識の中で、そのことだけは直感した。そこには既に、僕がどうなるのかという恐怖とか、体の苦痛なんて感じられず、ただナナちゃんと別れてしまうことへの不安と悲しみだけが僕を包み込んでいた。
既に動く力を失った僕に、ナナちゃんは懸命にしがみ付き、しばらくの間、数人の男の力を持ってしてもナナちゃんと僕とを引き離すことが出来なかった。
……ナナちゃんにこんな力があったなんて……こんな僕のために必死になってくれるなんて…
「かまわん。そのままこいつらを連れて行け」
あの男がそう言った。直後、僕の体は宙に浮きナナちゃん共々、車の後部座席に投げ込まれた。
僕は車の座席の上に崩れ落ちた。今頃になって体中に激痛が走り回って、僕はうめき声を漏らした。
それより、ナナちゃんは大丈夫なのだろうか? ナナちゃんは酷い事されてないだろうか………これからナナちゃんは……僕たちはどうなってしまうのだろうか?
「ごめんなさい……真一さん………ごめんなさい………」
まだ僕の体を覆う様にして離れることのないナナちゃんは、そんな僕への謝罪の言葉を、声を詰まらせながら繰り返し述べていた。
………何でナナちゃんが謝るんだろうか………謝るのは………ナナちゃんを……守ってあげられなかった………………僕の方だって………いうのに…………
僕はその事を告げようとしたが、呼吸するのが精一杯で言葉を出すことが出来なかった。そして徐々に薄れていく意識の中で、ナナちゃんの震える声だけが聞こえていた……




