第1話
夜の海は昼間見るそれとは違い、暗闇と静寂の中、波の音だけが辺りに響き、夜空から降り注ぐ月や星達の輝きが反射してキラキラ波打っている水面は遙か彼方まで続いている。それは美しくもあり、常にとどまることなく変化する儚さと、広大な海原を目の前にして自分一人が取り残されたような孤独感と、足下までやって来る波に足をつかまれ深く暗い海の中へと引きずり込まれるような恐怖さえ感じる。大昔の人はこの光景を見て、大自然の美しさと恐ろしさを肌で感じ、それを神と崇め畏敬の念を抱いたのであろう。
僕は目の前に広がる海を眺めながら、柄にもなくそんなことを思った。
毎晩、家の近くの海岸までやって来て、果てしなく続く海を眺めるのは、僕にとっては子どもの頃からの日課となっていた。この日も例外なく、ここから歩いて数分の自宅で夕食を食べた後、ここまで来たのだった。僕は海岸に沿いながら歩き始める。既に暦では春を迎えているが、この時期はまだ気温は低く、まして日の暮れた今の時間帯では少し肌寒く感じる。この海岸も夏になれば多くの人で埋め尽くされるが、まだこのような時期では僕みたいな物好きを除いては誰も来る人はいない。
今日もきっとこのまま何事もなく一日が終わってしまうのであろう。
本当はこんな事を何度繰り返しても意味がないことは分かっているのだ。でも、やはり心の奥底にはそれを認めたくないという気持ちが、微かに残っていることも事実である。
僕は絶えず繰り返される波の動きから星の輝く夜空へと視線を移す。
……そして僕は大好きだったおじいちゃんのことを思い出す……
まだ小さかった僕は、おじいちゃんからいろんな話を聞くのが大好きだった。おじいちゃんは足が悪く、車椅子を利用していたため、たいてい部屋の中に居た。僕は学校から帰ってくると真っ先におじいちゃんの部屋に飛び込んでは、いろんな話を聞かせてもらっていた。今でもはっきりと覚えているのは、人魚の肉を食べた人が不老不死になったという伝承。ここ福井県には人魚の話が残っていたのだ。おじいちゃんはそんな話を独特の語り口調で僕によく語ってくれた。僕はそれを夢中になって聴いていた。
僕は数ある人魚の話の中で、特にアンデルセンの人魚姫の物語が大好きだった。不老不死という事がよく理解できなかった幼い僕にとっては、地元に伝わる人魚伝説よりも、綺麗な人魚姫が活躍する話の方が魅力的だった。その話が悲劇の話なんてこともまったく理解せぬまま、僕は「人魚姫に会いたい」と、子どもながらに強く願っていた。
そんなおじいちゃんも三年前に死んでしまった。
そして僕も気づいた。不老不死なんてありもせず人が必ず死んでしまう様に、どんな楽しいことでも終わりがあること。それはあの人魚姫の物語が儚く、悲しい結末の物語であるように。そして、多くの物語は架空の出来事で現実していないこと……
僕だってあんなにクリスマスの日に楽しみにしていたサンタクロースも、あんなに憧れていたテレビの中のヒーローも、現実には存在しない人物だと、当の昔に気が付いた。
その時にはガッカリしたが、今となっては笑い話にしかならない。もう僕も子どもではないのだ。十六歳にでもなれば、分別の付く一人前の社会人へと成長していくものだ。
………そう、だから、もう、この世には人魚なんてものは、存在しない事など分かっているのだ。理解しているのだ。あの頃、どんなに会いたくてこの海岸を毎日歩いたか。僕の頭の中では、尊敬と憧れと、それと恋に似たような感情とで、人魚に対する思いが誇大なイメージとなって、いつも僕にまとわりついていた。
……幻想……
今、一言で言ってしまえば、そんな薄っぺらい言葉で、当時の僕の思いの全てが表されてしまう。しかし心のどこかには「でも、もしかしたら……」という気持ちもある。それは今までの自分を否定したくないからなのかもしれない。あの大好きなおじいちゃんが語ったことを、幻という言葉で表したくないのかもしれない。どちらにしろ、いつかはその思いを断ち切らねばならないのだが、どうしても僕にはそうする事への勇気が無く、今日もまた、その「もしかして」を信じて海岸線を一人で歩いていたのだった。
僕はその海よりも果てしなく遠く、無限に広がる夜空を見ながら歩いていた。
主に海しか眺めてこなかった僕には、久しぶりに見る星空は新鮮に見えた。
海だけでなく星空ってのも、結構綺麗なんだな………あっ、あ~
……急に夜空が一回転して海に、そして砂浜…………グシャッ……
痛っ、何か大きな物に足がとられ、つまずいてしまったようだ。上を見ていたため、手を付く暇もなく顔からもろに砂浜に突っ込んでしまった。
僕は怪我をしていないか、全身の感覚を確認する。……どうやら、怪我はないようだ。少々顔面がヒリヒリする程度だ。
僕はゆっくりと起きあがろうとする。何で海岸に大きな物体が横たわっているというのだ。僕は立ち上がり、顔や体に付いた砂を払いながら、振り向いてその物体を確認した。
………えっ………
僕は自分の目を疑った。その時、僕の体の全ての機能が止まってしまった気がした。まず視界に入ってきた物は、人間の上半身であった。人が横たわっていたのだ。暗くて顔は見えないが、上半身から伸びる細い腕らしきものが、二本伸びているのが分かった。
……死体? 人が死んでる!?
僕の頭から血の気が引いていった。
ど、どうしよう、どうすればいいんだ? どうする?
情けないことに僕は、呆然と立ち尽くすしかなかった。そして、かろうじて動かせる眼球を使って、足下に横たわっている人へと視線を向ける。
そこに飛び込んできた光景は、すでに動揺している僕に追い討ちをかけるようなものだった。その人には足がなかったのだ。その代わり腰から先は魚のような鱗のあるシッポが伸びていた。