宮中伯の役割
衝撃的過ぎる言葉に私は開いた口が塞がらず、声すら発することができませんでした。
そういう筋書きなのでしょう。彼にそれを実行させようとした、依頼主の。
「よっぽど憎まれているんだろう? 魔力も才能もない人間が、王族の婚約者なんだから。気持ちは分かる」
「あっ……!!」
再び走る手首の痛み。
血が、滲んでいる可能性は否定できません。けれど今は、それどころではなく。
「しっかり抵抗して、傷だらけになってもらわなきゃ困るんだ。それだけ必死でショックな出来事だったんだって、周囲が納得するくらい」
魔力ではなく、単純な腕力。
確かにこれでは、私は敵いません。
(けれど、それでは……)
犯人が特定されない前提で話が進んでいるのは分かりますが、その結果彼の望む未来が手に入るとは限らないのです。
つまりそれが、彼を納得させ説得できる唯一の方法。
このままでは私も困りますもの。できることは全て試していくしかないのです。
「お待ちくださいっ! それでセルシィーガ公爵令嬢とあなたが婚約できるとは限りませんっ!」
「そんなことはないっ!! セルシィーガ公爵は約束してくれた!!」
「私が第三王子殿下の婚約者でなくなれば、セルシィーガ公爵令嬢が次の候補にあげられる可能性もあるのですよ!?」
この緊急事態に、令嬢教育はかなぐり捨てて。大声で訴えかけます。
事実、私がホーエスト様の婚約者でなくなってしまえば、セルシィーガ公爵令嬢は必ず次の候補へと名乗りを上げることでしょう。
けれど。
「うるさいうるさい!! ボクはスミーヤ嬢と婚約するんだ!! 彼女を手に入れるんだ!!」
「きゃあっ!!」
聞く耳を持たない彼は、怒りに任せて私の胸元のドレスを引き裂いたのです。
響き渡る、絹が裂ける音。
アフタヌーンティー用のティーガウンは薄い生地で作られているため、普段のドレスとは違い男性の力で容易に破くことができてしまうのだと、今初めて知りました。
(知りたくはなかったですけれど!!)
幸い夜会用のドレスに比べれば露出部分は少ないので、この程度であればまだ疑われることはないでしょう。
ですが。
(私が純潔を散らされたと疑われた時点で、きっとホーエスト様の婚約者からは外されてしまうっ……!)
こんなことを引き起こした、相手の計画通りに。
そうなる前に、何とか手を打たなくてはいけません!
「わっ、私を婚約者の座から引きずり落とせば、あなたは不利益を被る可能性があるのですよ!?」
「君の婚約の継続の有無なんて、ボクにとってはどうでもいい!!」
「あぁっ!!」
今度は腕ではなく直接縄を掴んで強く擦り付けられたせいか、先ほどよりも強い痛みを感じました。
ジンジンと痛む手首はきっと、赤く縄の跡が付き血が滲んでいることでしょう。
(それでも、私はっ……!)
ホーエスト様の婚約者であることを、やめるつもりはありません。
私だって、ホーエスト様のお隣に立ちたいと決意を固めたばかりなのですから!
「君を徹底的に傷つけるのが、条件なんだから。大丈夫、最後には全部忘れてる。痛かった記憶もつらかった記憶も、ぜーんぶね」
「っ……!!」
そう言って覗き込んできた瞳に、背筋がゾクリと凍り付きました。
暗い地下室なので、瞳孔が開いているのは当然のことでしょう。
けれどなぜか、彼の視線はどこか虚ろで。私に向けられているようで、彷徨っているようにも見えました。
一言で言ってしまえば、狂気。
そうとしか言いようがないソレは、理性などとうの昔に置き去りにしていて。
ここでようやく、私は気が付いたのです。
どんなに言葉を重ねても、目の前の人物には決して届かないのだと。
(怖いっ……!)
無意識のうちに考えないようにしていた恐怖が、最大限の力を持って私に襲い掛かってきた瞬間でした。
それは逃げることの許されないこの場で、私が抱いてはいけなかった感情。
(いけませんっ……!!)
私は、宮中伯令嬢。宮中伯の役割は、魔術師団の監視及び抑制。
それなのに魔術師に恐怖を抱いてしまっていては、この先本当の有事の際に動けなくなってしまいます。
それでは、私がホーエスト様に嫁ぐ意味がなくなってしまう。
「君はただ、恐怖におびえ抵抗していればいい」
けれど。
「すべてが終わった頃には、君は記憶を失くしボクは幸せになってる。それだけだよ」
魔術師である前に、彼は一人の男性。
現段階で彼が容易に魔術を扱えないほど魔力を吸い取り終わっているとはいえ、単純な力ではどうやったって敵わないのですから。
「ぃ……ぃゃっ……」
スカートの端を持ち上げられた瞬間、次の行動が予測できてしまった私は。
「だからボクのために、いっぱい傷ついてね」
狂気を宿したままの表情で嗤う彼の表情を見た瞬間、こみあげてきた涙を抑えることができませんでした。
「いやぁぁーーーー!!!!」
二人しかいない灰色の空間に、絹が引き裂かれる音と私の悲鳴だけが響き渡ったのです。




