第1話_私の異世界転生ガチャは、見事にドブってしまったようです。
別作品では元魔王が主人公ですが、こちらの世界では〝モブ〟が主人公です。(矛盾)
現在連載中の作品が終わり次第、この物語を進めていこうと考えております(※あくまで、現時点での予定)
2120年、8月14日。
この世の全てを焼き尽くさんとばかりの勢いで太陽が輝き、ジージーと忙しなく鳴き続ける蝉の大合唱を耳にするのが日常と化した頃。
1人の女性が、親族に見守られながら静かに息を引き取った。
女性の名は、橘 雫。
彼女は、数日前に88歳の誕生日を迎えたばかりだった。
最後の誕生日を病院で過ごすことになってしまった彼女だが、その程度で心が沈んでしまうほど悲しい人生を歩んではいなかった。寧ろ、充実していた方だったようだ。
その証拠に彼女の病室にある数個の花瓶には多種多様の花が飾られ、ベッドの脇にある机にはウサギの形に切られた林檎や籠に入った色とりどりのフルーツが置かれている。
そして彼女が永遠の眠りについた今、周囲にいる親族は皆、顔を俯かせて涙を流している。
生前の彼女が愛されていた何よりの証だ。
しかし、その輝かしい証よりも一際目立つ存在があった。
それは彼女の横たわるベッドからでも手を伸ばせば届く範囲に置かれた小さな本棚。中はギッチリと本で埋め尽くされ、入らない分は棚の上に積み上げられている。
積み上げられた本は全て黄ばんでおり、古本特有の埃臭い匂いがする。
そんな状態になっても尚、彼女は死ぬ直前まで、それらの本を皺だらけの手で持ち、薄っすらと開けられた目で小さな文字を追っていた姿を医者や看護師、親族達は何度も目撃していた。
にも関わらず、彼らは誰一人として彼女がどのような本を読んでいたのかを把握していなかった。
本には全て丁寧にカバーが付けられ、何を読んでいるのかと尋ねても彼女は誤魔化すばかりで本のタイトルさえ教えなかったのだが……彼女が亡くなったことで、親族達はタイトルさえ教えてもらえなかった本のカバーを外す権利が与えられたのだ。
──彼女が、あんなにも熱心に読んでいた本には一体、何が書かれているのだろう?
謎の緊張感に包まれる中、代表として長男が本を一冊だけ手に取り、恐る恐るカバーを外す。
カバーが外された瞬間、彼らの目に飛び込んできたのは爽やかな背景で微笑み合った男女数人のイラストが描かれた本の表紙絵だった。
しかも、そこに描かれているのは俗に言う顔の整い過ぎたイケメンや巨乳の美少女ばかり。
誰よりも早くカバーに隠された真実を見てしまった長男はショックに近い衝撃を隠せない。
自分の母親が死ぬ直前まで所謂、ラノベと呼ばれる本を読んでいたという事実も衝撃だし、そもそもラノベ愛読者だったこと自体も知らなかったし……と、最早どこから反応していくのが正解なのかすら分からなくなっていた。
長男を含め、その場にいた親族の間に気不味い沈黙が生まれる。
ちなみに余談にも程があるが、彼が手に取った本のタイトルは『異世界転生者〜勇者目指して高難易度ダンジョンでチート無双をしていたら、いつの間にか魔王になっていた件〜』である。
──────────────
──────────────────
──────────────────────
彼女が墓まで持っていった秘密に親族達が衝撃を受ける中、この混沌を生み出した張本人──橘雫もまた目の前の光景に衝撃を受けていた。
初めて見る天井、初めて嗅ぐ匂い。
これでも一応88年という長い年月を生きてきた彼女だが、まだ〝初めて〟見るものや感じるものがあるのだと驚いた。驚いて……硬直した。
親族に見守られながら息を引き取っところまでは覚えているが、その後のことは何も知らない。
だからこそ彼女は混乱している。
どのような過程を経て、自分は此処に居るのか? それ以前に、此処は何処なのか?
彼女の中で生まれた尤もな疑問に答えてくれる者はいない。
代わりに目の前にいる見知らぬ男女が自分を見つめながら喜びを頬に浮かべている。
「……ぅー?」
「えーと、どちら様ですか?」と、彼女は尋ねたかった。
尋ねたかったのに彼女の口から漏れたのは言葉ではなく、生後間もない赤ん坊が発するようなクーイング。
少し前までの喉風邪をひいたようなガラガラ声ではなく、生命力に満ち溢れた若々しい声だ。
「不思議そうに首を傾げているわ、貴方」
「あぁ」
そんな会話を交えながら男女は、こちらを見て微笑んでいる。
彼女からしてみれば目の前にいる貴方達の存在の方が不思議ですと言いたいところなのだが、何故か言葉に出せない。
口を開いても「あー」、「うー」といった未発達な声が発せられるだけだ。
まるで赤ん坊にでも戻ったかのような感覚に陥りながら彼女は、ふと自分の手を見た。
皺一つ無い、小さな紅葉のような手。
ここまでの情報を得て、首を傾げるほど彼女は鈍くはない。
況してや、そういう本を何冊も読んできた彼女は、この不可思議な現象の正体が既に分かってしまっていた。
(え、嘘、待って……これって、まさか……っ!?)
ほぼ確定された答えを告げる前に、彼女の身体が宙に浮く。
宙に浮いたといっても彼女が奇妙な能力に目覚めた訳ではない。単純に、目の前の女性に抱き上げられたのだ。
「近くで見ても、本当に可愛いわ。ねぇ、貴方?」
女性の問いかけに男性は迷いなく頷き、こちらを覗き込む。
「……パパだぞ」
男の一言に、女は吹き出してクスクスと笑い始めた。
「パパって……ふふっ!」
「……間違ってないだろ」
肩を震わせた女性を見た男は、ふて腐れたように言葉を吐き捨てた。
「ふふっ、そうね。それじゃあ、私も……ママよ」
女性の表情から、今が心底幸せだという気持ちが伝わってくる。隣にいる男性もまた、蕩けたような笑みで女性を見つめている。
そんな二人を見て、彼女は更に確信を得た。〝自分は異世界への転生を果たしたのだ〟と。
「これから、よろしくね。〝モブコちゃん〟」
そして転生した自分の名前は、モブコ……
(……………………………え?)
数秒後、彼女の心からの雄叫びは警報装置が作動したかのような赤ん坊特有の容赦の無い泣き叫びとなって部屋中に木霊した。