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泣き虫少女と笑う少年

作者: 秋空 夕子

 糸谷 恵という少女は幼い頃からよく泣く子だった。

 おやつのクッキーを落としては泣き、大好きなアニメを見終わってしまえば泣き、梅干しを飴と間違えて口にいれては泣き、手をつないでいた母が疲れたので一旦手を離せば泣き、お気に入りのぬいぐるみが洗われて干されているのを発見しては泣き、毎日毎日、泣かない日は無いんじゃないかと言うぐらい泣いた。

 そして時が流れ、高校生になった彼女だが、泣き虫なところは一切変わらなかった。


「う、う……ぐすっ……」

 放課後、図書室にやってきた恵は隅にある椅子に座って本を読んでいた。

 ちょっと前に泣けると流行った小説が図書室の棚に並んでいたので、何気なく読んでみたら涙が止まらなくなったのだ。

(あー、やだ……涙が止まんない……えーと)

 今は放課後。図書室を利用する生徒も多く、このまま泣いていたら目立ってしまう。

 泣くのが治まるまでハンカチで押さえておこうと思い、鞄に手を入れる。

(あれ? 嘘、あれ?)

 しかし、いくら探してもハンカチが見つからない。

(も、しかして、忘れてきちゃったのかな?)

 ハンカチが無いとわかったら、余計に泣けてきてしまう。

 どうしようと戸惑う恵に、そっとタオルが差し出された。

「これ、使うか?」

「え?」

 振り向くと、そこにいたのは同じクラスの男子である久郷 司。彼は笑いながら恵を見つめている。

 あまり喋ったことはないが、恵は彼のことが嫌いじゃなかった。けれど、こうしてタオルを貸してくれるとは思わず、それを受け取ってもいいものか、迷ってしまう。

「……困っているように見えたけど、もしかして余計なお世話だったか?」

「う、ううん! ありがとうっ」

 受け取らないほうが彼に悪いと、慌ててタオルを受け取る。

「えっと……恥ずかしいところを見られちゃったね」

「そうか? 泣くことぐらい別に恥ずかしくもなんともないだろ」

「そ、そう? ありがとう。あの、タオルはちゃんと洗って返すね」

「そんなに気を使わなくていいさ……それ読んでたのか?」

 司が指差したのは恵が先程まで読んでいた本だった。

「そうだよ」

「面白い?」

「うん、すごく。あ、読んでみる?」

「ああ、ありがとう」

 本を受け取った司だが、少し考え込むように本を見つめる。

 どうしたのだろうと恵が思っていると、彼は口を開いた。

「あのさ、これ以外にも泣ける本とか知ってたら教えてくれねぇかな」

「泣ける本?」

「ああ、なんか、思いついたのでいいんだけど」

「うーん……ちょっと待ってね」

 司に一言断りを入れて、恵は本棚に向かう。そこから一冊の本を見つけ出し、彼に渡した。

「これなんてどうかな?」

「悪いな、ありがとう」

 二冊の本を持って、図書委員のいるカウンターに向かおうとする。貸し出し手続きをするのだろう。

(気に入ってくれるといいなあ)

 そんなことを思いながら、恵は帰り支度をした。勿論、司から借りたタオルも忘れないように。

「糸谷、ありがとうな。早速、今日から読んでみる」

「どういたしまして。読んだら感想、聞かせてね」

「ああ、わかった」

 それじゃあ、といつもどおりの爽やかな笑みを浮かべて司は去っていき、恵はそれに手を降って見送る。

 そして彼の姿が見えなくなると、ふう、とため息を付いた。

「……めちゃくちゃ喋っちゃった……」

 クラスでも人気者の部類に入る司に比べて、恵は地味なグループに属しており、接点は多くない。

 けれど、先程も言ったように恵は司を嫌っておらず、むしろ、いつも明るい笑顔を振りまいている彼を、好ましく思っていた。

 まだ明確な形を持たぬ淡い感情といえど、そんな相手と何の前振りもなく接触したとあれば、体温が上がってしまうのも無理はない。

 このまま離れるのが惜しくて、つい次を期待するような約束をしてしまった。

(それにしても泣ける話かぁ……久郷君ってそういうの好きなのかな?)

 もしそうなら、他にもいろいろ薦めてみよう。

 そう決意し、恵は軽い足取りで家路についた。




 恵がまた司と会話したのは翌々日。タオルを返した時だった。

「タオル、ありがとうね。助かったよ」

「どういたしまして。あ、それから二冊とも読み終わったけど、どっちも面白かった」

「え、本当?」

「ああ、糸谷が読んでた方は途中でラストが予想できたけど、それでも最後まで楽しめたし、薦めてくれた方はいい意味で予想を裏切られて、思わず最初から読み返した」

「そっか、よかった」

 司の言葉に恵はほっと胸を撫で下ろす。

「久郷君って感動物が好きなの?」

「ん? 何でだ?」

「だって、わざわざ人に聞いて探すぐらいだから、そうなのかなって」

 恵の言葉に司は少しバツが悪そうに苦笑する。

「あー、いや、違うんだ……実は俺、泣くのが苦手でさ。こういうの読んでいけば泣けるようになるかなぁって」

「……泣けなくても、そんなに気にしなくて大丈夫じゃない?」

 ちょっとしたことでもすぐに泣いてしまう恵には逆に羨ましいかぎりだ。

 しかし、司は首を横にふる。

「……少し、人にいろいろ言われたことがあってさ」

「そうなんだ……」

 司の言葉に恵は昔のことを思い出す。

 小学生時代、恵は今よりも泣き虫で、クラスメイトの前でも涙を流すことが多々あった。

 友人達は理解を示してくれたが、同じクラスであまり親しくない女子があれは嘘泣きだ、周りに心配してほしいだけ、構ってちゃん、などと話しているのを聞いてしまったのだ。

 そう思われても仕方がないとは思っている。

 しかし、傷ついたし、そう思われてたんだ、とショックだった。

 それから、なるべく泣いているのを隠すようになったのだ。

(ああいう言葉って、気にしなくていいって思っても、結構いつまでも頭の中に残っちゃうんだよねえ……)

 きっと司も同じなのだろう。そう思うと、恵は彼に協力したくなった。

「あの、だったら、他にも本貸そうか? うちにはまだまだいろいろあるし」

「それは助かるけど、いいのか?」

「うん、うちの親、本を集めるのが趣味みたいだから」

 両親ともに読書家で、気に入った本は手元に置いておきたい派なようで家にある本は年々増え続けている。

 友人に貸したいと言えば、断ることもないだろう。

(まずは何がいいかなぁ?)

 早速、司に貸す候補の本を頭に思い浮かべる。




 こうして、二人のささやかな交流が始まった。週に一度か二度、本の貸し借りと感想を言い合うのだ。

 大したことはしていないのに、秘密を共有しているようで、恵は少し楽しかった。

 ただ、司が泣ける作品はなかなか見つからない。

 だから、今回は別の方向性に行ってみようと思う。

「映画?」

「そう、本で読むのと映像で見るのとはやっぱり違うと思うんだ」

 人には向き不向きがあり、小説を読む方が性に合ってるという人もいれば、映画やテレビで観た方が感情移入出来るという人もいる。

 司は後者かもしれない。

「悪いな、そこまでしてくれて」

「ううん、気にしないで。したくてしてることだから」

「ありがとう。それじゃあ、糸谷の家に行けばいいか?」

 流石にDVDを学校に持って来ることは出来ない。そうなれば、どちらかの家に行くことになるだろう。

「いや、私が持ってくよ。週末、行っていい?」

「ああ、大丈夫だ」

「本当? じゃあ、後で住所教えてね」

 こうして恵は司の住所と、ついでに連絡先を交換した。

 ちょっと前まで、ただのクラスメイトで、あまり話したこともなかったのに、今はこうして一緒にいるなんて不思議な感覚である。

 しかし、これが長く続かないことは恵にもわかっていた。

 もし、司が泣ける作品と出会えたら、もう二人は一緒にいる理由がなくなるのだ。

 元々友人ではなかった二人はクラスでは違うグループだし、理由がなくなれば、司から話しかけてくることもないだろう。恵から話しかけるのも、共通の話題がなければ難しい。

(……まあ、昔に戻るだけだし、気にするようなことでもないんだけどね……)

 でも、彼が泣ける作品が見つかるのは、もう少しだけ先にしてもらえないだろうかと、身勝手にもそう思うのだ。

(こんなこと考えてるなんて幻滅されちゃうよね……)

 彼の力になりたいと思うのは本心なのに、それだけで終わらないのが、恋心というものであった。


 週末、恵はおろしたてのワンピースを身に着け、普段はあまりしていない化粧までしていた。

 DVDを貸すだけにしては、少しばかり気合が入りすぎている気がしないでもない。

(変に思われないかな? ……思われないよね?)

 そんな不安に襲われるも、司の自宅は目の前。ここで引き返すわけにはいかない。

「……よしっ」

 小さく気合を入れて、インターホンを押す。扉の向こうから人の足音が聞こえ、鍵が開かれる。

「いらっしゃい」

「こんにちは」

「来てくれてありがとうな、お茶出すから上がってくれ」

「えっと、じゃ、失礼します」

 促されるまま室内に足を踏み入れると、そこは想像するよりずっとこざっぱりしていた。

 けれど、恵はなんだか違和感を覚える。

(……なんだろう、この感覚?)

 通されたリビングを見渡す。何もおかしなものなど置かれていない。けれど、何かが、恵の家とは徹底的に違う。

 だが、その正体にたどり着くより先に司が彼女に声をかける。

「そんなに見ても珍しい物なんて無いぞ」

「あ、ごめん」

「はは、座って待っててくれよ」

「うん」

 司の言葉に従い、恵はソファに腰掛けた。

(きっと、私の気のせいだよね)

 抱いた違和感をそう片付けると、おとなしく司を待つ。

「そういえば、ご両親は?」

「仕事だ」

「へえ、そうなんだ」

 休日まで仕事なんて大変なんだな、と思いながら司から麦茶を受け取って口に含む。

「持ってきてくれたDVDってどんな内容なんだ?」

「ああ、えっとね、猫が自分を拾ってくれた家族に恩返しする話でね」

 ネタバレしない程度に説明して、DVDを渡そうとすると司が笑みを深めながら言った。

「なあ、もし時間があるなら一緒に観ないか?」

「え、それは、いいけど」

「本当か? 実は、貰い物のお菓子があるんだけど、食べ切れなくてさ。少しでも食べてくれると助かる」

 そういって司が持ってきたのは苺が乗ったケーキだった。

「わぁ、これ食べてもいいの?」

「ああ。口に合うといいんだが」

「なんだか、悪いな。こんな美味しそうな物をもらっちゃうなんて」

「いや、俺がいつも借りてばっかりなんだから、気にすんなよ」

 先程は貰い物だと言っていたが、もしかしてわざわざ用意してくれたのだろうか。

 しかし、それを確認するのも野暮だと思い、恵は再度お礼を言ってDVDを観ながらケーキを食べる。

 DVDは初めて観た時、号泣してしまった作品だ。

 とはいえ、一度も観たのだからそう泣くことは無いだろう。

 そう恵は楽観視していたのだが、その結果は……

「う、う、ひっく……ううっ……」

「タオル、もう一枚いるか?」

「ご、ごめん……」

 司からタオルを受け取り、顔を覆うように押し付ける。

(あーもう、やだ……何でこんなに泣けてきちゃうの?)

 展開も結末も知っているはずなのに、涙が溢れて止まらない。

(久郷君が一緒にいるのに……)

 笑顔は綺麗だと言われることもあるが、泣き顔なんてみっともないだけだろう。そんなもの、見せたくない。

 しかし、映画は気になるので司から見えないように、顔をテレビに向ける。

 映画は終盤。

 すっかり年老いた猫を、家族は懸命に世話をするも、とうとうその日が来てしまった。

『きなこ、目を開けて、きなこっ』

『きなこ、きなこ!』

 目を閉じて開かなくなった猫を、姉弟が呼びかけ、両親はそれを静かに見守る。そして、猫と家族との思い出と思われる写真が曲と共に流れていった。

「う、う……ああ、うう!」

 猫と人間。どうしても寿命の差があることはわかっているが、やっぱり別れは悲しい。

 しかし、そこで恵は当初の目的を思い出す。

(そういえば、久郷君はどう感じただろう)

 そっと伺うと、彼はまだテレビ画面に目を向けていた。そして、その顔にはいつも通りの笑顔がある。

(……あれ?)

 何かが、胸に引っかかる。

 それはここに来たときにも感じた、何もおかしなところなど無いのに、訴えてくる違和感。その正体を探っていくと、ある疑問が浮かんだ。

 自分は、司が笑顔でない時を見たことがあっただろうか?

「これ、面白かったな」

「え、うん……」

 いつもと全く変わらぬ笑顔の司はDVDを取り出し、恵に返す。

「猫ってやっぱり可愛いよな」

「……そうだね。でも、やっぱりあのラストは悲しかったな」

 恵は自身の感じた違和感と疑問に言及することなく、何事もない風を装って会話を続ける。

 帰り道、彼女は今まで自分が見てきた司を思い浮かべていた。

(久郷君は、ずっとずっと笑ってた)

 その笑顔が、好きだった。きっと、明るくて優しい人なんだろうと思った。

 でもそれは、恵の勝手な理想ではないだろうか。

(もっと、ちゃんと、久郷君のことを見ていこう……)

 そうしなければ、彼の笑顔が好きなのだと、胸を張って言えないような気がした。




 それからも、二人の交流は続いていった。

 本を貸し借りしたり、映画を一緒に観たり、たまにご飯を食べたり、そうしていくうちに、恵の中にあった疑念はある確信に変わるも、それでも恵は特に態度を変えること無く、司と接し続けた。

「遊園地?」

「ああ、たまたま手に入ったんだけど、どうだ?」

 司が持っているのが有名な遊園地のペアチケット。

「い、いいの? 私で」

「うん、糸谷にはいつも世話になってるから」

「そんな世話だなんて……でも、ありがとう。すごく嬉しい」

 今にもにやけてしまいそうな顔を必死に抑えようとするも、多分うまくいっていないだろう。

「じゃあ、待ち合わせ場所とか時間は、あとでまた連絡するから」

「うん、わかった」

 司と別れた後、恵はいろいろと支度しなくちゃと軽やかな足取りで家路についた。


 そして当日。

 遊園地に行くということで、見た目だけではなく動きやすさにも重点を置いた格好をして、恵は待ち合わせ場所に向かう。

(そういえば、こうやって外で遊ぶのは初めてだなぁ)

 今までは司の家で過ごしていたので、なんだか新鮮な気持ちだ。

 まだ時間まで余裕があったのだが、待ち合わせ場所にはすでに司が立っていて、慌てて駆け寄る。

「ごめんね、待たせちゃった?」

「いや、俺が早く来すぎただけだって。行こうぜ」

「うん」

 休日だけあって、遊園地にはたくさんの人がいた。

 はぐれないように気をつけつつ、アトラクションを回っていく。

「そういえば、この遊園地なんて小学生以来、来てないなあ」

「へえ、俺はここ初めてなんだ」

「そうなんだ。じゃあ、もっといっぱい回ろうね」

 そんなことを話しながら、この遊園地の名物だというジェットコースターの列に並んでいると、不意に司が「あっ」と声を上げた。

 恵がその視線を追うと、同い年ぐらいの少年たちのグループがいた。彼らには見覚えがないが、彼らの中にいる一人が驚いたように司を見ている。

「あれ? もしかして、久郷?」

「ああ、久しぶり」

「小学校ぶりだから、四年ぶりだよな?」

「そうだな、そうなる。元気だったか?」

「うん、まあ。そこそこ」

 どうやら彼と司は元同級生だったらしい。

 しかし、二人の間に流れる空気はどことなくぎこちなく、互いにあっさりと会話を終えるとそのグループは二人の後方で列に加わった。どうやら彼らもジェットコースターに乗るらしい。

 「友達?」と恵が問いかけると、司は目線をそらして笑いながら「昔のな」と答える。あまり話したがりたい様子には見えず、恵はそれ以上追求しなかった。

(どうしたんだろう?)

 もしかして、喧嘩別れでもしたのだろうか。そう思っていた恵だったが、後ろからあのグループの会話が耳に届いた。

「誰だよ、あいつ」

「知り合いか?」

「あー、小学校時代の友達。昔は家に行き来するほど仲良かったんだ」

「へー、でもあっちはもう彼女持ちみたいだぞ?」

「なんか可愛い女の子紹介して貰えば?」

「バーカ、何言ってんだよ。それにあいつって結構変な奴なんだぞ。昔、車にぶつかったことがあるんだけど、あいつ怪我してるくせにヘラヘラ笑っててさ、大したこと無いんだと思ったら骨が折れてたみたいでさ。それだけじゃないんだ。教師にめちゃくちゃ怒られた時も、クラスで飼育してたハムスターが死んだ時も、あいつ笑ってたんだぜ? な? 不気味だし、気持ち悪いだろ?」

 気づくと恵は、司の手を握っていた。

「行こう」

「え? でも、もう少しで乗れるぞ?」

「行こう」

「……わかった」

 列から抜けた二人は、そのままなるべく人気のないところに進んでいく。

 そして、遊園地の隅にある売店の裏に回り込むと、そこでようやく恵は司の手を離した。

「んっん……ひっく……」

「……大丈夫か?」

 嗚咽を漏らして震える背中を、司はそっと撫でる。

「ごめ、ごめん、ね……」

 きっと、恵にも聞こえていたのだから、司にもあの会話は聞こえていたはずだ。

 それなのに彼は、こうして恵のことを心配して慰めようとしてくれている。

 本当なら、それは自分の役目のはずなのに。

「なんで糸谷が謝るんだよ。何もしてないだろ?」

 そういう司は笑っている。何事もなかったかのように、いつもと変わりなく、同じように、笑っている。

「……なあ、さっきのあいつらのことなんだけどさ……あれ、本当のことなんだ」

 司は笑顔のまま。何も嫌なことなどないかのように、悲しいことなどないかのように、見える。

「俺さ、おかしいんだよ。どんなことがあっても、泣けなくて、ずっと笑ってて……それのせいで、親からも気味悪がられてさ……中学に上がった時には、放任っていうか、一人暮らしすることになったんだ」

 恵は司の家を思い浮かべる。

 あそこは、食器は全部一人分しかなく、司以外の存在の痕跡が一切見当たらなかった。それが、あそこに初めて訪ねた時に覚えた違和感の正体だったのだ。

 司は持っていた荷物からタオルを取り出すと、恵の顔を拭う。

「ほら、泣きやめよ。別に、糸谷が言われたわけじゃないんだからさ、気にすんなって」

 笑顔を浮かべる司に、ぽつりと恵は告げる。

「私、ね……久郷君の笑顔、好きだよ」

「……そうか」

 司が笑顔しか浮かべていないことには気づいていた。けれど、彼の美点がそれだけで損なわれるものではないことにも、わかっていた。

「笑顔だけじゃなくて、優しくて思いやりのあるところも好き」

「……」

 司は困ったようにしながら、けれどやっぱり笑顔で恵を見つめる。

「俺、きっと、糸谷に何かあっても笑ったままだぞ……例えば怪我や病気をしても、何か嫌なことがあって傷ついてる時も、俺はヘラヘラ笑ってる」

 そんなことしか出来ないんだよ、俺は。

 司のその言葉に、恵はそれは違うと思った。

 だって、司は実際にこうして自分の涙を拭ってくれているのに。

「一緒に泣いたり、落ち込んだりすることだけが、気持ちを共有したり、相手を慰める手段じゃないでしょ?」

「……いつか絶対、嫌な思いをする」

 その嫌な思いというのは、今までずっと司が感じてきた事ではないのか。

 彼は何も悪いことなどしていない。いないのに、周りの人は彼から離れていくだけではなく、傷つけていく。

 この人は今までたくさんの傷を負ってきたのだろう。そして、これからも傷つけられていくのだろう。

 恵は、それら全てから彼を守る事は出来ない。それでも、せめて彼に寄り添って、泣けない彼の代わりに泣くことぐらいは出来るはずだ。そして、そうしていきたい。

「私、久郷君の傍にいたい」

「……俺も、糸谷と一緒にいたい」

 司の表情はやはり笑顔のまま。けれど、どうしてだか、恵にはそれが、泣いているように見えた。




 交際を始めた二人だが、変化はほとんどなかった。

 それまでと同様に、本を貸し借りして、映画を見て、食事して、変わったことと言えば、そこに外に遊びに行くことが加わり、呼び名が変化したことぐらいだろうか。

 今日、二人が観たのは恋愛物。カフェで働く女性がそこの常連の男性と恋に落ちるという話である。

 初めて見た時から君が好きだった、という男性俳優の台詞に恵の中で、ふと疑問が浮かんだ。

「そういえば、司君は私のどこがいいなって思ってくれたの?」

 問いかけられた司は笑顔で振り向く。

「え、言わなきゃ駄目か?」

「聞きたい」

「あー……」

 口籠って考える司を恵はじっと見つめる。

 やがて観念したのか、司は重い口を開いた。

「最初はさ、泣いてる恵が羨ましかったんだ。俺もあんな風に泣けたらって思った。何度も泣いてるのを見て、何か泣くコツを知ってるんじゃないかって思うようになって、話してみたいと思うようになったんだ」

「えっ、そんなに何度も見られてたの?」

 まさか、泣くのを見られたのがあれが初めてではないとは。

 一応、周囲には気をつけていたつもりだったのに、全く気づかなかった。

「まあ、俺も図書室はよく利用するから」

 司はそう言って慰めてくれるも、恵としてはやっぱり恥ずかしい。

「それで、話すようになっていくと、もっといろいろと話したくなって……そのうち、泣いてる顔も可愛いなって思うようになったんだよな」

「か、可愛い?」

 恵からすれば、自分の泣き顔なんてみっともない以外の何物でもないので、可愛いだなんて言われるとは思わなかった。

「そんな中で泣いてるの見かけて、拭くものを貸したら受け取ってくれるかもなって思って、あのタオル、渡したんだ」

「そうだったんだぁ……なんだか照れちゃうなあ」

 ということは、自分がよく泣くからこそ、司と親しくなれたということだろうか。

 もしそうなら、あまり好きではない自分の一面に少しだけ感謝したい。

「……恵もさ、俺の笑顔が好きって言ってくれたけど、あれっていつからだ?」

「え、えっと……」

 それを答えるのはちょっと気恥ずかしいが、先に質問したのはこちらなので、答えないわけにはいかない。

「初めて見た時から、なんとなく目で追っちゃってたから……もしかしたら、一目惚れかもしれない」

「そうか」

 司は、笑っている。そこから彼の真意を見抜く術を恵は持っていない。

 喜んでいるのか、照れているのか、嫌がっているのか、それとも何も感じていないのかさえ、彼女にはわからないのだ。

 付き合い始めても、恵は彼の笑顔以外の表情を見たことがない。もしかしたらいつかは見られるかもしれないが、一生見られないかもしれない。

 それでもいいと、彼女は思っている。

 彼が何を思い、何を感じているかは、彼自身の言葉を聞けばいいのだから。

「ねえ、司君はさ、もしかして笑顔が好きって言われるの、嫌?」

「……どうしてそう思うんだ?」

「その……司君、自分の笑った顔が好きじゃないみたいだから」

 彼は自分の笑顔のせいでいろいろ苦しい思いをしてきた。であれば、そこに触れられたくないと思うのは当然だろう。

 告白した時には思わず笑顔が好きだと言ったが、あれはもしかしたら、彼に嫌な思いをさせてしまったのではないか。冷静になってからその考えに至り、内心気になっていたのだ。

 だが、司は恵の不安を消し去るように首を横に振る。

「確かに、俺はこの顔が嫌いだ。でも、恵に好きだって言ってもらったのは、嬉しかった。こんな俺でも受け入れてもらえるんだって……そう思った」

 誰からも嫌われて、疎まれて、だがそれも仕方がないと思ってきた。

 けれど、一人。たった一人でも、そのままの自分を好きだと言ってくれる人がいる。

 その喜びを、彼はあの日初めて知ったのだ。

 恵と一緒にいれば、この顔を好きだと思える日がくるかもしれない。そんなことさえ、思っている。

「……よかった。嫌がられてたらどうしようって思ってたから」

「嫌なことがあればはっきり言うよ。恵もさ、何か嫌なことがあったら言ってほしい。少しずつ改善していくから」

「それじゃあ……外でキスしようとするのは止めてほしいかな。恥ずかしい」

「……それはちょっと」

「えー」

 お互いに照れくささからかじゃれ合いへと移る。

 テレビ画面にはいつの間にかエンドロールが流れ、最後にhappy endと出たが二人はまだそれに気づかない。


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― 新着の感想 ―
[良い点] なんて初々しい!! 図書室での出会いとか夢でしたわ~(*´艸`) コンプレックスを補うまでではないけど、言葉にすることで不安を減らそうとする二人が素敵です。 オバチャンにはこの若さが…
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