想い出の場所で、月を見た
「ほら、手を繋ぐぞ」
「く、暗いね」
「ここ?」
「ああ、ここだ。内緒だからな?」
「わぁ、月が綺麗!」
「空を切り取ったみたいだろ?」
それは近所の女の子との思い出だった。奥の奥にしまい込んでいた記憶が再生されている。それが夢なのだと気付くまで、そう時間はかからなかった。
「うっ……」
俺は息苦しさに思わず呻いた。繋いでいた彼女の手の感触が消え、喉を圧迫されたことによる強烈な吐き気に襲われる。
「かはっ」
無意味な声が漏れ、口から空気が吐き出される。首元に絡み付いているのは白くて細い何か。
俺はそこでようやく、青白い手に首を締め上げられていることに気付いた。
「ひっ……!」
全身に鳥肌が立ち、背筋に悪寒が走る。
そして電源を落とすように、ぷつりと意識が途切れた。
早朝。
俺は自宅の洗面台の前で眉を寄せていた。鏡に映った自分の首元に生々しい手形がついている。赤く腫れ上がり、しばらくは消えないだろう。
「なんなんだよ……」
俺は首筋を自分の指でなぞり、手形の薄気味悪さに顔をしかめた。これで三度目、三日連続だ。幼い頃の夢を見た後、必ず首を絞められ、途中で意識を失い、目を覚ますとすでに朝になっている、ということが続いているのだ。
昨日は霊感があるという会社の先輩に見てもらったが、霊的なものに影響を受けているわけではない、と言われた。
「やっぱ専門家に見てもらった方が良いよな。……はぁ」
俺はボサボサに乱れた髪を掻き、スマホを操作し始めた。
午前七時。
家を出ると凍えそうな冬の風が吹き抜けて行った。マフラーとコートで武装していても寒いものは寒いのだ。
空は青く、空気はキンキンに冷やされ、澄みきっている。
ふと見ると、向かいの家の庭にはクリスマスツリー、もうそんな季節かと苦笑を浮かべる。どうりで寒いはずだ。
「ユキ」
「!」
名前を呼ばれ、振り返る。制服姿の女子高生が一人、立っていた。笑顔で手を振っている。
「お……なんだ、お前。学校向こうだろ」
こいつは浅葱ヒカリ。六歳年下で近所に住んでいる。俺は来月から独り暮らしをする予定なので頻繁に顔を合わせるのも後少しだ。
ショートボブ、左側頭部を編み込んでいわゆるお団子ヘアにしている。丸顔で眼鏡をかけているが、地味な印象はない。今時の女子高生である。
「ねぇ、ねぇ。今日ってさ」
親しさ全開で近寄ってくるヒカリ。俺は視線をそらし、背を向けた。
「……悪いけど、仕事に遅れる」
「えー? ユキさぁ、大学卒業してから付き合い悪くなったわよね」
「当たり前だろ。こっちは社会人だぞ。お気楽女子高生と絡んでる暇はないんだよ」
俺は無駄にネクタイを閉め直す仕草を見せる。
「……そうだろうけどさ」
「じゃあな」
ヒカリは追いかけて来なかった。俺はヒカリに対して、一方的に壁を感じている。
社会人に成り立てで、まだ仕事も覚え切れてなかった頃。学校の友達だと思われる男女数人でファミレスに集まって楽しそうにしているヒカリを見かけてから、俺の中で何かが変わったのだ。ずっと一緒で家族ぐるみの付き合いをしてきた近所の女の子、いわゆる幼なじみだ。彼女のことならなんでも知っていると思っていたのに。自分の知らない彼女の姿は慣れない毎日に疲弊していた俺に精神的なダメージを与えた。近くにいると思っていた彼女の存在が酷く遠くに感じた。
きっと俺はガキなのだろう。これは嫉妬だ。……こんな自分勝手な感情にヒカリを巻き込みたくない。
会社へ向かう足取りが、いつにも増して重い。
その日は何事もなく過ぎていった。
その手の専門家には、例の先輩の紹介で明日にでも見てもらえることになった。
しかし……今日の夜は無事でいられるだろうか。何しろ三日連続だ。今日も、あの白い手が首を絞めに来るんじゃないだろうかという不安が沸き上がってくる。
午後七時過ぎ。駅からの帰り道、すっかり暗くなった細い通りを歩いていると前方に人影が見えた。街灯の灯りに照らされているのは、
「ヒカリ?」
「あ」
学校帰りなのか制服に鞄を持っている。ヒカリは駆け寄ってきた。
「おかえり、ユキ」
なんでこんな中途半端な場所で待ってるんだ。
「早く家に帰れよ。おばさん、心配するぞ」
「お母さんにはユキんちに行くって言ってあるし」
それで許可するのもどうかと思う。うちの両親は仕事でいつも遅いのだ。大事な娘が男と二人きりになってしまう状況を危険だと思ってほしいものだが。
「あのさ、ユキ。今日」
俺は歩調を速めた。
「あーもう。なんでそうイジワルするのよー」
「してない。お前、まさか学校終わってからずっと待ってたわけじゃないよな?」
ヒカリはビクッと肩を揺らし、
「い、良いじゃん。ホッカイロ持ってきたし」
「風邪引いたらどうするんだ? まったく」
しばらく、無言で歩く。
「ユ、ユキ。あのね」
隣に並んだヒカリが俺の手に触れた。それから手のひらを掴もうと、
「!」
「あっ」
俺は反射的に手を引っ込めていた。
遠くの街灯の淡い光がヒカリの顔を浮かび上がらせる。気のせいか、酷く傷ついた表情でこちらを見上げていた。
「あ、わ、悪い。つい」
「……」
ヒカリはうつむいて、唇を噛み締める。
「ユキのバカ。……話も聞いてくれないんだから。距離を置いたり、冷たくしたり。何か言ってくれないとわからないじゃない」
正論だと、思った。自分の中で自己完結して、勝手に決めて、ヒカリには俺の気持ちを伝えたことはない。
「いや、その」
「もういい」
ヒカリは静かにそう言って、そのまま背を向けて、暗い道を駆けて行ってしまった。
その夜、息苦しさで目が覚めた。
「あっ……がはっ」
いつにも増して強い力で首を締め上げられる。自室の天井がぐるぐると回っているような気がする。
白い手が、細い指が首に巻きついて。
「っ、あ」
俺は、白い手に、自分の手を、
「はっ」
重ねようとした瞬間、首の圧迫が消えた。突然呼吸が出来るようになる。
「かっ、はっ、……うう」
目を開けると、白く発光する手が浮かんでいた。
「っ……!」
それはゆっくりと俺の部屋を横切ると、窓硝子をすり抜けて外へ。
「ま、待てっ」
俺はだるさの残る体を起こし、ベッドから飛び降りた。追いかけなければいけないような気がしたのだ。
窓の施錠を解いて、外へと飛び出す。白い手はうちの敷地内から出ていくところだった。
「くそっ」
裸足で駆け出す。走る度に砂利が足の裏に食い込み痛んだ。
正門を出ると細い通り、白い手は角を曲がるところだった。
俺は走る速度を上げる。
「はぁっ、はぁっ」
白い手は俺を導くかのように浮遊しながら飛んで行く。
すでに足先の感覚はなくなっていた。アスファルトが氷のように冷たい。
と、俺は足を止めた。
「……?」
夜の町をひたすら走った俺は、郊外にある林の前にたどりついていた。周辺に民家はなく田畑や山が広がっている。そして、白い手が林の奥へと消えていった。
「ここは、確か」
俺は裸足なことも忘れて、林の中へ足を踏み入れた。真っ暗で何も見えないはずなのに、前方に微かな光が見えるのだ。
「まさか。まさかっ」
そして、目の前に現れたのは、崩れかけの空き家だった。幼い頃の記憶がフラッシュバックする。ヒカリと共に見つけた秘密の隠れ家。
入り口の脇に小さなLEDランタンが置かれている。
人がいる?
疑問に思うと同時に何故か、ヒカリだと確信していた。
俺は空き家の中へと入る。
「っ!」
穴が開いた天井から射し込む、月の灯りに照されていたのは、膝を抱え、顔を埋めたヒカリだった。
「おいっ」
こんな寒い夜に、こんなところで何をしてるんだ? しかも、彼女は制服のままだった。
駆け寄って俺がしゃがみ込むとヒカリがぼんやりとした様子で顔を上げる。
「……ユ、キ?」
「何やってんだっ、バカっ」
俺はパジャマ代わりに着ていたフリースを脱いで、ヒカリの背中にかける。服の上から触れただけで、冷えきっているのがわかった。
「あ、来て、くれたんだ……」
「はぁ? 何言ってんだよ。すぐ帰るぞっ」
早く温めないと低体温で病院に連れていかなければならない事態になりうる。
「よかった」
俺が肩を抱くと、ヒカリが甘えるように体を傾けてきた。
「ほら、綺麗でしょ」
ヒカリの指さす先、そこには、
「あ……」
空き家の天井に開いた大きな穴の向こうには紺色の空。そして、煌めく星々と、満月が。
「覚えてる?」
それは、夢に出てきた満月だった。家を抜け出し、ヒカリと一緒にここで見たのだ。
綺麗だった。金色の光を纏う衛星はあまりにも神秘的で美しい。
「綺麗、でしょ?」
ヒカリの声にはっとする。見惚れていた。
「……お前、何考えてたんだよ。月を見に来たのか?」
「ユキがさ、引っ越しちゃうから。いなくなっちゃうからさ。寂しくて。今日は最後の満月なのよ。次の時は、ユキは、この町にいないから。一緒に見たかった」
「一緒に」
ヒカリは頷いて、俺の腕の中で目を閉じた。
「嬉しい。来てくれて」
ヒカリの体を抱く腕に、力を込める。
ヒカリはこの満月を一緒に見たいと、俺に伝えたかったのだろう。朝の時も、夕方の時も。
俺がこの町を離れることを寂しい、と思ってくれていたなんて。
「バカ、だな。戻って来ないわけないだろ。その時に、また見れば良い」
「……うん。そうだね。ユキ」
「ん?」
ヒカリが俺の手に自分の手を重ねた。普段とは違う、切なげな笑みに少しだけ心臓の鼓動が速まる。
「ごめんね、呪ったりして」
「……」
見ると、ヒカリの手には何やら藁で出来た人形のようなものが……見なかったことにしよう。
俺は彼女の体を抱き締めた。
「俺もごめん。話を聞かなくて」
「……引っ越しても、私を一番に考えてくれたら許すよ。ただの幼なじみじゃ嫌だもの」
「なんだよ、それ」
はぐらかしてはみたが、それは一種の告白というやつなのだろう。今、この時だけは鈍くなりたい。女子高校生と付き合ってるだなんて下手したら通報される。
でも、自分の気持ちに嘘はつけなさそうだ。情けないことに。
「また、一緒に見てくれる?」
「ああ。もちろんだ」
「えへへっ」
俺はいつかのようにヒカリの手を握る。俺達はしばらく、そのままで月を見上げていた。




