33.病院
しばらくの間、車内は静かだった。
猪倉さんは何やら作業をしていて、
忙しそうにスマホとパソコンを操作している。
白燈は俺の手を握ったまま、頭を抱えて考え込んでいる。
俺はどうする事も出来なくて、何となく外を眺めていた。
……車が停まる。
「さて、降りよう。」
着いたのは見覚えのない小さな病院。
俺と白燈は車を降りても手を繋いだまま。
車から降りる時離したが、白燈が黙ったまま繋ぎ直した。
また繋ぐとは思ってなかったから驚いて顔を見たが、
白燈は無表情のまま病院の外装を見ていた。
…無意識に繋いできたのか。それだけ不安、なのだ。
それ以上は考える事をやめた。
病院内に入っていく猪倉さんの後を追う。
中は人1人居なく、静まり返っていた。
ある部屋の前まで来ると、 猪倉さんはノックをする。
少し間をおいて、中から返事が聞こえた。
「はーい。…やあ、待っていたよ。」
「わざわざ休みの日にすまない。」
そう一言交わすと、中に案内された。
俺と白燈は大きなソファに座って、
猪倉さんは1人掛けのソファに座った。
中に居た人は白衣を着ていて、机の前の椅子に座った。
「この2人が…ふふふっ。大きくなったねぇ。」
「気持ちは分かるが、自己紹介をしてくれないか?」
「おっと、そうだった。
僕は洸のお母さんの担当医だった菊春だ。」
「こ、う、って言うのは?」
聞き慣れない名前に俺が聞き返した。
そういえばまだ、 白燈の本名を聞いていなかった。
まぁ話の流れから、この名前が誰のものかなんて察しがつく。
一応、確認のため聞き返したが間違ってはいないだろう。
「ごめんごめん。言ってなかったね。
白燈くん、君の本名は洸、だよ。」
「…洸。」
静かに名前を繰り返す。
すると一瞬、眉間にしわを寄せた白燈。
そしてこめかみらへんを押さえる。
「大丈夫か?」
「ちょっと、頭が…」
眉間のしわはどんどん深くなる。
これは白燈の忘れていた記憶が反応しているからなのか。
洸。俺にとって、白燈は光。
そんな彼にぴったりの名前。
……俺は親のくれた名前に、気持ちに。
答えられているのだろうか。
優咲、父親の名前の漢字が入った名前。
どんな想いで、俺にこの名をくれたんだろう。
聞いてみたい。先生なら知ってるかな。
「 優咲ちゃんのご両親には本当にお世話になった。
薬品だけじゃなくて、人手が足りない時は手伝ってくれていたんだ。」
楽しげに話す菊春さん。
それから続けて当時の話をしてくれた。
白燈のお母さんは意外とわがままを言って、
菊春さんはいつも手を焼いていた事。
仲の良い俺の両親を冷やかすのが菊春さんの楽しみだった事。
その冷やかしに優司さんはいつも照れて怒った事。
まるで昨日のことの様に話す菊春さんに、
俺も白燈もつられて笑った。
「まぁ募る話もあるだろうけど…。
今日は思い出話をしに来た訳じゃないんだ。」
「おっと、失礼。そうだったね。」
延々に話し続ける菊春さんを
やれやれと制止する猪倉さん。
でも話をしてくれたおかげか、
来たばかりの時の緊張感は無くなっていた。
少し肩の力が抜けた気がする。
「僕が知っている 洸くんはちゃんと見えていたんだよ。
でも君にその記憶はない。そういえば君はお母さんを亡くした後、
親戚に引き取られた。そうだったよね?」
菊春さんは確認する様に尋ねる。
白燈は覚えてはいないらしいが、
先生から話を聞いた事がある様で戸惑いながら頷く。
「これは僕の憶測に過ぎないけど…。
親戚に引き取られた後に目が見えなくなった。
…目を閉ざしたくなる程の、何かがあった。
としか思えないんだよね。それ以外原因になり得るものがない。」
「…精神的ストレス、だね。」
そう呟く猪倉さんに、菊春さんは頷いた。
白燈は下唇を噛み締めている。
表情から気持ちは読み取れない。
しかし握った手からはうっすらと汗を感じた。
「 白燈?大丈夫?」
「うん…。」
白燈の険しい表情は変わらない。
俺はただ白燈を見守る事しか出来なかった。
猪倉さんと菊春さんはじっとこっちを見る。
こっち、というよりは白燈を、だけど。
「精神的ストレスの原因を解決出来れば…。
白燈の目は、見える様になるの?」
「僕の勝手な予想に過ぎないんだけどね…。
でも昔の話をしてその目が痛み出すんなら、
試してみる価値は充分あると思わないかい?」
だから猪倉さんは俺たちをここに連れて来た、か。
俺たちの両親が過ごしていた、この街に。
きっと解決する鍵があるのだと。
「でも変に刺激して大丈夫なの?」
「正直、リスクも高い。
だから洸くん、君が決めると良い。
忘れた記憶を探すかどうか。」
「…。」
白燈は考え込んでいる。
俺たち3人は白燈の気持ちが決まるのを待つ。
少し心臓がどきどきしている。
じっと見つめる白燈の顔はいつも通り整っている。
もし、もしこの綺麗な顔立ちで。
ずっと閉じられているこの目が開いたなら。
きっと、もっと。綺麗なんだろう。
白燈は短く息を吐いた後、顔を上げた。
「…思い、出したいです。
忘れている事があるのなら、思い出したい。
母の事も、目が見えていた頃の記憶も。」
「さすが洸くん!そう言ってくれると思っていたよ!」
にこにこ笑う菊春さんは何かファイルを取り出した。
それを俺たちに差し出す。
白燈の代わりにそのファイルを受け取り開いてみた。
どうやらこれは、カルテの様だった。
「それは洸くんのお母さんのカルテだよ。
いつか君に渡せるかなって取っておいたんだ。」
「…母の、」
白燈は震える手でファイルを受け取った。
白燈にはファイルに何が書かれているのかは読めない。
それでも白燈は、じっとファイルを見るように顔を向けていた。
ファイルを見てみると、その日の体温や脈数、
顔色や食欲加減など細かく書かれていた。
その日交わした会話のキーワードらしきものまである。
所々には医療関係の用語らしきものが書かれていた。
すると白燈は顔をしかめた。
「見えない、のに。頭が痛い。」
「そのカルテは頻繁に書き足してたんだけど、
君もその場面を見た事があるはずなんだ。些細な事だと思ったけど、
やっぱり目が反応してるって事は覚えがあるんだね。」
本当に小さな事でも関わりがあれば反応する。
きっとこの街にはたくさんヒントがあるはず。
それらをかき集めれば、もしかしたら…。
少しずつ、希望が見え始めている気がした。
それから病院を後にして、街中を歩く事になった。
「そうだ。少し離れているけど、優咲さんの
ご両親の研究所のあった場所に向かおう。
元研究所を目的地にして、とりあえず街中を歩こう。」
そう言う猪倉さんの後をついて行く。
見慣れない街並み。ここで両親は、暮らしてた。
白燈は不安げで、さっきから眉間にしわが寄ったまま。
時折こめかみや頭を押さえている。
俺はただ白燈の手を引きながら歩くだけ。
頭痛で悩む白燈がはぐれない様に。
どれだけ歩いても、見慣れない街並みが続く。
俺も少しは何か思い出すかと思ったが、
さすがにそんな事はなかった。
俺がここに居たのは1歳の頃だった。
それからすぐ施設に入ったらしいから、
覚えてないのも無理はないか。
そう分かっていても、何も感じない自分に悲しくなる。
白燈はこんなに反応しているのになぁ。
しばらくすると街から外れ、道がレンガから土に変わった。
さらに進んで行くと、広い場所に出た。
そこは見晴らしの良い、広い空き地。
しかし俺の心臓が、どきりと大きく嫌な音をたてた。
……なんだこの感じ。
「ここが、研究跡地だよ。
ここに研究所と、 優咲さんたち家族の家があった。」
「…。」
何もないその場所を見つめる。
俺は何か焦りを感じていた。心臓がどきどきしている。
気付けば俺の耳には、風の音しか届かなくなってた。
見えない何かが、俺を強く引き寄せている。
まるで金縛りにあったみたいに、動けなくなる。
…だがそれは腕を強く引かれる事で解かれた。
「え、白燈?大丈…」
俺は言葉を失った。隣を見ると俺の手を握ったまま、
しゃがみ込んでいる白燈が居た。
俺は声をかけながら白燈の顔を覗き込んだが…。
白燈の目からは大量の涙が流れていた。
しかもその涙はうっすら赤みを帯びていた。
血が、混ざっている…?
「な、な、な…」
「…。」
白燈は驚いているのか、ぴくりとも動かない。
ただ涙に濡れた両手を広げ、じっとしていた。
俺は自分の顔から血の気が引いていくのが分かった。
これは、ただの涙じゃない?何処か切れてるのか?
「は、 白燈っ!!
それどうしたっ!?目、目からっっ」
「 洸くんっ!!」
俺の叫びで異変に気付いた猪倉さんが、
白燈に駆け寄る。
猪倉さんはジャケットから取り出したハンカチで、
丁寧に涙を拭ってくれる。かと思うと猪倉さんの動きが止まる。
「あれ、これもう涙は流れてないみたいだ…。
一気に溢れ出した感じかな、ずっと流れてる訳じゃないみたい。」
確かに涙は頰を流れていったが、
目元を見ると拭かれた後さらにそこが濡れる事はなかった。
ハンカチで拭えるだけ涙を拭う。
すると白燈のまぶたが微かに揺れた気がした。
「 白燈?痛いか?大丈夫なのか?」
「痛みはない、けど…。これって涙?だよね?」
痛みがないからか、驚きのあまりなのか。
流れるそれが涙だと、分かっていないらしい。
薄い赤の混じる涙。
猪倉さんは涙で濡れたハンカチをその場に捨てた。
そして着ていたジャケットを脱ぎ始める。
そのジャケットで顔についていた涙を拭い、
びしょ濡れだった両手を拭かせた。
「えっ!?これ涙なんですよねっ!?
今拭いてるのって、ジャケットじゃ…」
「すまない。今拭くものがなくてね。
ちょっと痛いかもしれないけど、我慢してね。」
高そうなジャケットで躊躇なく両手を拭かせる。
俺も突然の行動にただ黙って見ているしか出来なかった。
白燈の顔と両手は綺麗に拭かれ、
反対にジャケットはびしょ濡れになっていった。
「あ、ごめんなさい。ジャケットが…」
「こんなもの、気にしなくて良い。
それよりも君の方が大切だ。」
にっこりと笑う猪倉さん。
すると猪倉さんが白燈の顔をじっと見つめた。
何かに気付いたのか、じっと見つめる。
「 猪倉さん?」
「… 洸くん、今目を開けるかい?」
「え?」
白燈は驚いている。俺も驚いた。
俺は思わず白燈の顔を凝視した。
白燈はまだ目を閉ざしたままだ。
驚いて動きを止めた後、微かに震え出す白燈の身体。
まるで、何かに気付いたみたいに。
「 白燈?どうし…」
「ねぇ洸くん。」
俺の問いかけと、 猪倉さんの声が重なった。
猪倉さんの表情は真剣だった。
俺は状況が読めなくて、
猪倉さんと白燈の顔を交互に見る。
何だか俺だけが蚊帳の外みたいだ。
「もしかして君……目、見える?」
突然の発言に驚いたが、もっと驚いたのは。
…その言葉に怯えた表情をした、白燈にだった。




