13.分岐
玄関の方で優司さんが大声を出す。
その大声にびっくりして、天使が泣き出してしまった。
僕と麗子さんは目を合わせる。
すると大きめの物音が聞こえ出した。
…暴れてる?頭をよぎったのは、昨日の変質者の話。
『麗子さん、危ないからこの子と一緒に
奥の寝室に行って。あの部屋だと鍵かけられるよね。』
『待って、それじゃあ2人は?私だけ逃げるなんて…』
『麗子さん、今そんな事言ってる場合じゃない。
早くこの子を安全な場所に…』
食い下がる麗子さんの肩を掴んだ瞬間。
さっきより明らかに大きい物音がした。
同時に優司さんの唸る様な声が聞こえる。
…優司さんが危ない!!
『いい?とにかく早く寝室に行って!
僕も優司さん連れて行くから!早く!!』
麗子さんの背中を無理やり押して、
僕は玄関の方へ向かった。
…途中で、キッチンから包丁を持ち出した。
勢いよく廊下へ出ると、倒れている優司さん。
その奥には黒ずくめの人間が、“2人”。
2人ともフードと帽子を被り、鼻の上まで布で顔を覆っている。
性別すらも判別出来ない。
変質者は1人じゃなかったのか!?
『優司さん!!』
『っっ…』
痛そうに片腹を抑えている。
身体を起こそうと触れた時、手にべったりとした感触。
………、血?頭が真っ白になる。
そこからは考えるより先に動いていた。
優司さんの肩を持ち、半分引きずる様な状態で走り出す。
2人組は走る訳でもなく、無言でゆっくりと追って来た。
それが更に恐怖心を掻き立て、もうパニック状態。
急いで寝室に向かうと部屋の前に麗子さんが立っていた。
雪崩れ込む様に部屋に入り、鍵を閉める。
パニックになっていた僕はとにかく部屋に入ってこられない様にと、
棚や机を片っ端から扉の前に積み立てる。
『優!?しっかりして!!』
半泣きの麗子さんは部屋にある救急箱で
どうにか止血をする。包帯が足りず、シーツを破って代用する。
意識はある様で、手当てを受けながら麗子さんをなだめていた。
『あいつら誰なんだよ?!!なんでこんな事するんだ?!』
『分からねぇよ、でも落ち着け。』
『これが落ち着いてられる!?』
『うるせぇ!!分かってんだよ!!
俺が1番!!考えるから落ち着け!!』
優司さんの怒鳴り声でようやく冷静になる。
そうだ、今はこんな事を言ってる場合じゃない。
僕が今1番、冷静にならなきゃ。
この人たちを、僕が守らなきゃ。
『あの2人のうち、奥の奴。多分あいつが俺を
つけてた奴だ。雰囲気っていうか背丈があんな感じだった。
俺を刺したのは手前の奴。開けた途端に襲いかかって来て…』
あぶら汗を流しながら説明する。
傷口が結構深いらしい。
とにかくここに居ては、いつこの扉を破られるか分からない。
『家から出よう。町まで行けばなんとか…』
『あぁ、だったら急ごう。相手は2人だ。
外で待ち伏せられたら面倒だ。』
町へ降りるには家の玄関の方へ行かなければならない。
辺りは木に覆われていて、逃げ道がないに等しい。
赤ちゃんに、半泣きの麗子さん、重傷の優司さん。
僕1人でどうにか、この人たちを守らなきゃ。
包丁を持つ手に汗がにじむ。
…いざとなれば。
ひとまず麗子さんに抱っこを任せ、
僕はその2人をシーツで包んだ。
外は雨が降っている、身体を冷やさない様に。
優司さんはマットレスのシーツを被せて、
肩を持つ。いざという時の事を考えるとおんぶするのはやめた。
麗子さん達が襲われたら、すぐ助けに行けなくなる。
窓を開けると中に雨が入って来る。
__ドンッドンッ
『!!麗子さん、行って!!』
麗子さんを外へ押し出す。
奴らはもう、そこまで迫って来てる。急がなきゃ。
僕も続いて外に出た。雨がどんどん酷くなっている。
町へ降りようと玄関の方に行こうとしたその時。
『……!?』
『!!きゃあああ!!』
僕は言葉を失った。麗子さんは思わず叫ぶ。
そこに立っていたのは、黒ずくめの1人。
2人のうち、後ろに居た方。優司さんを付けていた奴。
まだ家の中からは扉を殴る音がしている。
…先回りされていたか。
『麗子さん!!僕の後ろに!!』
麗子さんは急いで僕の後ろまで走った。
黒ずくめのそいつは動かず、ただ黙ってこちらを見ている。
ただその手には鋭利なナイフが握られている。
家から漏れる光を反射して、綺麗に光っている。
『っっ!!何が!!目的なんだ!?
僕たちが何したって言うんだよ?!!』
『……。』
何も言わず、ピクリとも動かない。
でもどうする?町に行くにはこいつをどうにかしないと。
僕が立ち向かった所で勝てるのか?
こいつの力がどれ程なのか。
下手に手を出して怪我しても状況が悪化するだけ。
どうにかこの人たちだけでも…。
僕は目線を黒ずくめの奴に向けたまま、
優司さんのズボンに手を伸ばした。
手当たり次第に探ってみると、金属製の感触。
“それ”を握り締めた。
『…麗子さん、これを。』
『?』
後ろに手を伸ばして、麗子さんに差し出す。
それは、“研究所の鍵”。僕たちのすぐ後ろには研究所がある。
黒ずくめのもう1人が来てしまう前に、この状況を変えたい。
麗子さんはすぐに研究所の鍵を開ける。
目線はそのまま、ゆっくり後ずさる。
そいつはただ、黙ってそれを見ていた。
僕が研究所に入った所で、麗子さんが急いで扉を閉めた。
鍵をかけ、先程と同様。棚やら机やらでバリケードを作る。
研究所には裏口があるだけで、窓がない。
逃げるにしても、視界が良くないのに森に入るのは危険。
けれど今の状況を考えれば、そんな事も言ってられない。
何がある?この人たちが安全に逃げられる方法。
『っ、おい。』
『優司さん!まだ下手に動かない方が、』
『良いか!?俺の話をよく聞け。』
突然肩を掴まれ、引き寄せられた。
雨でびしょ濡れではあるが、額からあぶら汗が流れている。
それはそうだ。片腹刺されて、痛み止めだってない。
ただ止血しただけで、痛みはどんどん酷くなってる。
でもその目には、ずっと強い光が見えた。
『お前は2人を連れて、町に降りろ。
助けを呼んで来てくれ。』
『は?優司さんを置いていけって言うの?!』
『そうだ。今俺が足手まといになってる。
誰か1人でも町に行けば、助けを呼べる。』
『呼んでるうちに殺される!!置いてなんて行ける訳ないだろ!?』
思わず優司さんの胸ぐらを掴む。
ここに置いていくなんて、危険過ぎる。
2人とも武器を持っているのに、怪我人を置いていくなんて。
『うるせぇ!!俺だって分かってる!!
でもこのままだと全員殺される!!良いか!?
俺は!!自分のせいで、お前らを殺したくない!!』
今までに見た事のない気迫に、言葉を失う。
麗子さんは我が子を抱え、ただ泣いていた。
どうすれば、どうすれば良い?
だって、置いて行けば優司さんが…。
この子の父親で、この人の最愛の夫で。
その人が、死ぬと分かっていて。置いて行く?
無理だ、無理だよ。嫌だ。
もうどうすればいいのか分からなくなって、涙が溢れてくる。
『っっ!!…お願いだ、お願いだから。』
『ゆ、優司さん…』
『俺に、大好きな人たちを、殺させないで…』
僕の肩に顔を預け、縋るように泣く優司さん。
固まる僕を更に急かす様に、扉を叩く音が聞こえ始めた。
2人が合流した様だ。
この僕の選択で、今目の前にいる優司さんが、死ぬ。
……無理だ。
『麗子さん、手伝って。』
僕はひとまずこの子を手当たり次第集めた布で包む。
濡れても寒くない様に。そして優司さんの
身体が冷えない様に研究所にあった白衣に着替えさせる。
麗子さんが痛み止めが見つけたらしく、急いで飲ませた。
給湯器でお湯を沸かして、それをみんな飲む。
体温が下がるのは致命傷になる。雨で濡れているから尚更だ。
『麗子さん、2人を見てて。』
『ど、どこに行くの?』
僕は包丁と武器になりそうなものを手当たり次第に身につける。
その武器になりそうなものを隠すために、白衣を着た。
そっと天使に近付くと、すやすやと眠っていた。
大丈夫、僕がこの人たちを。君を。
『麗子さん、僕が2人の気を引くから
そのうちに森に逃げて。あいつらに土地勘があるのか
分からないけど、この視界の悪さじゃきっと追いつかれない。
僕が時間を稼ぐから、それでどうにか町まで…』
『待って、貴方は?気を引くって…』
麗子さんの目はとても不安そうに揺れている。
あいつら2人に対して、1人で立ち向かうのはあまりに無謀。
…それでも、こうするしかない。
とにかく行動しないと、状況はどんどん悪化するだけ。
死ぬ覚悟は出来ていても、諦めている訳ではない。
僕だってこの子の成長を見たいから。
『まだ諦めた訳じゃない。僕は隙を作るだけ。
倒す事が目的じゃない。…それに僕には“これ”があるから。』
僕は白衣のポケットに入れた“あれ”を握る。
この作戦が上手くいけば…。
反論してくる2人を押し切って、裏口から外に出た。
冷たい雨が身体に降り注ぐ。
雨の音で足音は消されているが、慎重に表にまわる。
そっと覗くと1人が扉を壊そうと何処に隠し持っていたのか、
長いパイプの様なもので殴りかかっていた。
もう1人はそれをただじっと見ている。
さっきから思っていたけど、優司さんを襲ったのも
寝室や研究所の扉を壊そうとするのも。
手前の奴だけ。もう1人はただ見てるだけ。
時間を稼ぐにも、まずは壊そうとしているのをやめさせたい。
包丁を握り締める。
『…!』
『くそっ…!』
奇襲をかけたが、すんなり避けられてしまった。
扉を壊そうとしていたそいつは華麗に後退する。
ふとそいつの足元を見ると、思わず固まってしまった。
この雨で地面はぬかるんで、歩きづらい。
それなのにそいつは厚底で高さのあるブーツを履いていた。
そんな靴でこの地面を、あんなに華麗に動けるのか?
するとすぐにその厚底野郎は僕に襲いかかって来た。
長いパイプを振りかざす。
…今だっ!
『っっ!?!?!?』
僕はポケットに入れていた小さなスプレー缶を
その顔に吹きかけた。…催涙スプレーだ。
護身用として優司さんが作ったもので、
市販のよりも少し威力が上げてある。さらに僕は中の液体に、
研究所に何故かあった唐辛子を潰して入れた。
薬剤で使った残りらしいけど。
厚底野郎は唸り声を上げながら、倒れ込んだ。
顔を抑えて激痛に襲われている。
その姿に動揺したのか、もう1人が後ずさった。
『…逃がすかよ!!』
僕は握り締めた包丁を振りかざす。
しかし腕を蹴られて避けられた。横からナイフを
刺されそうになり、咄嗟に避ける。
少し距離を取って、お互いをじっと見つめた。
__ガッッ!!!
『…え?』
突然後ろから大きな音がした。
反射的に振り向くと倒れていたはずの厚底野郎が
扉を殴っていた。…しかも少し開いてしまっている。
どうして!?!?そんな短時間であの激痛は引かない。
なんで動けてるんだよ!?
『おい、お前…ゔっ!!』
急いで扉に向かおうとすると後ろから後頭部を殴られた。
そのまま倒れる。…やばい、焦って背を向けてしまった。
鈍い痛みが走る。視界が少しずつ歪んできた。
くっそ、身体に力が入らない。
僕を置いて、2人は扉を壊してしまう。そして中に入っていく。
どうかっ!!どうか逃げていて…!
…そんな僕の思いは雨に消されて、流れていった。
『きゃぁあああああ!!!!!』
『 麗!!!』
麗子さんの叫び声、優司さんの声。
どれもが少し遠くに聞こえる。
首元に流れる生暖かい液体の感触。
やめて、やめてよ。なんでなの、なんで僕らなの。
僕らが何をしたって言うんだ。
涙が溢れてくる。だめだ、泣いてる場合じゃない。
無理矢理起き上がる。…早く、早く動いて。
後頭部を抑えながら研究所に急ぐ。
早く、早く…。
研究所の壊された扉に手をかける。
『れ、麗子、さ…優、司、さん…』
あぁ、カミサマ。どうして?どうして。
どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして。
どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして。
どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして。
どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして。
『あぁ、あああああああ』
一面真っ赤に濡れて。倒れている2人。
優司さんが麗子さんを守る様に抱きしめた形で。
その2人の腕の中にいる、天使。
その子はゆっくりと起き上がって座った。
きょろきょろと周りを見渡して、僕を見た。
全てが、スローに見える。
そしてその子は可愛らしい声をあげて、笑った。
『うわぁぁあああああ!!!!』
そこからはもうよく覚えていない。
ただ黒ずくめの2人組に包丁を振りかざした。
しかし僕はすぐに倒れてしまう。
そんな僕を見て、死ぬのは時間の問題だと判断したのか。
2人の足は、天使に向いた。
やめろ、やめてくれ。これ以上、僕から。
何も、誰も。
『奪わせねぇよおおお!!』
2人を押し退け、そのままの勢いで
麗子さんと優司さんの間に倒れ込んだ。
手に感じる生暖かい液体。
そんな僕の目の前にいるその子は、その小さな両手を。
僕の頰にそっと添えた。…小さいけど、温かい手。
まだ、この子はまだ。生きているんだ。
すると地面についていた両手を掴まれた。
『…お、い。』
『優司さん!?』
『うるせぇよ、ばぁか。』
ふっと笑う。麗子さんもぎゅっと
僕の手首を掴んでいる。
…生きてる?生きてるの?
『ご、めんね。やっぱり貴方を置いて行くなん、出来なくて。』
『いい、もういいから。だから、!』
『なぁ、あ、れを。』
そう言って優司さんの指差す方を見ると、
あの日記があった。
まだ読んだことのない日記。
『あれ、持って、行け。は、やく。』
『行けって…』
まだ息のある2人を置いて?
今度こそ、本当に死んでしまう。身体が震える。
そっと振り向くと、奴らはじっとこちらを見ている。
2人とも返り血に濡れていた。…しかし。
厚底野郎はズボンに少し飛び散ったのが付いただけ。
さっきまで何もしなかったもう1人の、全身が血に染まっている。
…こいつが、殺ったのか。
心の底の方からぐつぐつと何かがあがってくる。
眼球が揺れている感覚。
すると強く腕を引っ張られた。
『っ!!いいか?!お前が今やる事はっ!
ゲホッ…この子と一緒に、生き延びる事だけだ!!』
『…!』
僕が今、復讐心に染まれば。
この子まで危険に晒してしまう。
僕が、この子を。守らないといけない。
麗子さんと、優司さん。2人の思いを。
決心を、生きた証を。…無駄にする訳にはいかない。
ぐっと、拳を握りしめる。
『優司さん、麗子さん。
…今までありがとう。2人のおかげで僕の人生は照らされた。
……大好きだよ。愛してる。』
『ばぁか…俺の娘を、頼んだぞ。』
『ありがとう…この子をどうか、お願い。』
涙で視界が歪む。だめだ、泣いてる場合じゃない。
僕にはまだ、やらないといけない事が沢山ある。
涙を拭う。すると麗子さんと優司さんの手が
頰に伸びて来た。我が子の手を覆う様に重ねる。
『…愛してる、陽司。』
『…愛してるよ、陽くん。』
…ずるいなぁ。名前を呼ぶなんて。
本当にずるい。
我が子にも、そう言って額にキスをする2人。
これが、この親子の最後の会話で。
僕もそうだが、呼ばれるのはこれが最後。
もうこの2人の声で、呼んでもらえる事はない。
天使を抱え、日記を握ってゆっくりを立ち上がる。
僕も体力はそう残っていない。
走り出す僕を黒ずくめの2人が逃すまいと立ちはだかる。
『邪魔だぁああ!!』
襲いかかって来た厚底野郎を蹴飛ばし、
もう1人には持っていた包丁を刺した。
咄嗟に避けられ、包丁はそいつの腕に刺さった。
怯んだ隙に走り去る。
胸に抱いたその子はずっと、笑っていた。




