第一章トンカツ 八節目
買い出しから戻ったのは、開店の1時間前、午後5時の事である。
たたでさえ重たい荷物を担いで商店街の各店舗を回り、結果的に倍増した荷物を抱えながら帰路に就いたのだから、道悟、逍子、遙花の3人は見るからに疲弊していた。
とはいえ、休んでいる暇は無い。料理の準備が未だだからである。今回は急を要する為、遙花も請われて参戦した。流れはこうだ、まずは本日分以外の食材を3人掛かりで大型冷蔵庫に叩き込んでいく。それが終われば、次の作業に移行する。遙花が食材を洗い、次いで道悟がそれをテキパキと裁断(初めて肉切り包丁で塊肉を捌いた。楽しかった)していき、そして逍子の手で下味が付けられていく。
後は道悟のみで下拵えが進める。豚肉に柔らかな衣を纏わせ、やがて汁物の具となる野菜達を湯に浸からせて、生米の白い肌を清めていく。例えが何だかアレなのは、きっと疲労のせいだ。手持ち無沙汰になった遙花は厨房奥の自宅へ消えていき、逍子は必要な味付けを終えた後は接客に備えてカウンターの方で小休止を取り始めている。
道悟が汁物を完成させ、米が炊き上がり、茶を煎れる為のお湯が沸いたその時、時刻は午後6時に差し掛かった。後は客が来るまで椅子に腰掛けて、道悟は真っ白な灰に変化する。大丈夫、火は消えているから、安心してほしい。
目は半分だけ開いておき、思考は完全に停止させる。それは少しでも身体を休める為、イメージは豊前のおばあさんである。どれくらい、その様な状態だったろうか。店の戸口が開く音に反応し、道悟の意識が急速解凍されていく。
「いらっしゃいませ~♪」
カウンターから逍子の声が響いてきた時には、道悟は既に立ち上がり、各所に火を入れていった。正確には、汁物やお湯の温め直し、そして揚げ油の加熱である。汁物が静かに煮立ち、ケトルの沸騰が止まって、油が良い温度(菜箸の先を浸した時、気泡が生じる)に差し掛かったその時、逍子がオーダーを伝えるべく、厨房に顔を覗かせた。
「トンカツ定食12人前、お願いします♪」
「は~い、12人前・・・12枚かぁ・・・12ッ!?」
道悟は想定外の数字に驚きを隠せず、思わず素で2度見をしてしまった。
「ちょっ、女将・・・間違えてませんよね? それだと座敷が満席くらいなんですが?」
「ええ、事実満席よ? 昨日最初に来てくれた女の子、覚えているかしら? あの子がね、早速部員を引き連れて乗り込んできてくれたの♪」
「何という行動の早さと頭数の多さ・・・流石は運動部といったところでしょうか」
「あら? 彼女達、漫画研究部って言ってたけど?」
「・・・え、漫研? 運動部じゃなく?」
「ええ、ついさっき名乗られたばかりだから・・・間違いないと思う!」
「え、意外だな・・・ジャージ姿と独特な口調で勘違いしてた」
道悟は目を丸くしながらも、豚肉を3枚、油の中へ投下した。
「そうよねぇ・・・私も陸上部とかかと想像していたから、ビックリ・・・」
逍子は盆の上に人数分の湯のみを載せ、それぞれに、煎れたてのほうじ茶を注いでいった。
「ちなみに、新田君は何部だと予想していたのかしら?」
「う~む、それは・・・」
「それは?」
「せ、セパタクロー部・・・なんて?」
「やだ、古風だわ♪」
「忘れてください・・・それよりも、早くお客様にウェルカムドリンクを」
「は~い♪」
「それと、12人前揚げるには時間が掛かるので、順次提供していくとお伝えください」
「大丈夫、もうその旨は伝えてあるわ♪」
「おお・・・流石は女将、この店のスペックは把握しているわけですか」
「ええ、厨房がちゃっちいので時間が掛かると伝えたら、血で血を洗う友情もぶっ壊れそうなジャンケン大会が始まっていたわね♪」
「物騒極まりないですね・・・人死にが出る前にウェルカムドリンクで鎮火してきてください、早急に」
「おっけ~♪」
逍子は、実に愉しそうに湯飲みの載った盆を携えて、厨房を出ていった。
「火に油・・・いや、ニトロか?」
道悟は漏れ聞こえてくる阿鼻叫喚に眉間を押さえつつも、きっちりとトンカツを揚げ続けた。綺麗に揚がった後は切り分けて、皿に盛り付けていく。するとそこへ、ちょうど良く逍子が帰還する。
「戦いは虚しくも、この胸を熱くしてくれる。彼女達の生き様を私は決して忘れない・・・」
「えっと・・・ほうじ茶出してきただけですよね?」
「勝者は決まった。私はただ、トンカツを運ぶだけ・・・」
「ごはんと汁物、忘れてますよ」
「・・・てへぺろ☆」
その後も、この様なやり取りを繰り返しながら、トンカツ定食を提供していく。逍子のおふざけネタも尽きた頃、トップ差40分で12人前の提供を完遂した。
酷使してきた手首を擦りながら、道悟は椅子に腰を下ろした。案外、ハードコアな仕事である。家業ならともかく、バイトは推奨出来ない。
「お疲れ様、新田君♪」
色紙を胸に抱き、ほっこり満足そうな表情で、逍子が舞い戻る。
「お疲れ様です、女将・・・戦果は上々だった様ですね?」
「ええ、全員から高評価を頂けたわ♪」
「おお、それは凄い。ウケが良くて困ることはありませんからね」
「実は、値上がりして欲しく無いからって署名を拒否されそうにもなったのだけど・・・修行期間が明けないと、そもそもお店が潰れちゃうぞ☆ って説得したら、快く筆を走らせてくれたのよ♪」
「OH・・・自虐的と思いきや強気な脅しだったとは・・・やりますね、女将」
「それはもう、女将ですから♪ それじゃあ、お客様の見送りをしてきますね~」
「え、もうお客様はお帰りなのですか? 最後の定食をお持ちしてから、それほど経っていませんけど?」
「大人数とはいえ、近頃物騒だから、やっぱり門限があるらしいの・・・最後に定食を運んだ娘なんて、大急ぎで食べ始めていたわ」
「そうですか・・・俺はもう少し、揚げ具合を妥協しておくべきでした。そうすれば、もっと早く・・・」
「・・・妥協なんて、無しにしましょう。納得出来ていないものを提供すべきでは無いと思うから」
「その通りですね・・・分かりました、赤子泣いても蓋取るなの精神で臨んで行きたいと思います」
「うふふ、美味しいは正義なのよ。さてと、お見送りお見送り♪」
逍子が厨房を後にしてすぐ、入り口の方からアンサンブルの様な御礼の掛け声が響いてきた。まさに体育会系の去り際なのだが、本当に彼女達は漫画研究部なのだろうか。道悟は首を傾げながら、逍子と共に食器の片付けを行なった。12人前ともなると、洗い物が大変である。とはいえ、本日の来客はこれで打ち止めだろうと、この二人は根拠も無く考えていた。人数的には昨日の来客数を超えた事と疲弊に次ぐ疲弊で、もはや来るなとすら、どちらも暗に願っていたからだ。
しかし幸か不幸か、店の戸口はまたすぐに開かれ、新たな客が顔を覗かせる。結局12人のお客の外、閉店の午後10時までに8人の客がしょうようへ訪れた。もちろん、全員が美味しいと認め、色紙に署名を書いてくれている。もしかしたら、あの脅し文句は効果絶大なのやもしれない。
「・・・それでは、お疲れ様でした」
「今日もお疲れ様、新田君♪ 気を付けて帰ってね~」
片付けを済ませてから道悟は店を後にした。外へ出るなり、大きく背伸びをしつつ、盛大に欠伸をかく。その際に吐いた息が白くなった事から、気温がグッと冷え込んでいるのだと、道悟は勘付いた。こんな日は、早く帰宅して、暖かな寝床で寝息を発てるに限る。限るのだが、道悟には未だ、仕事が残っていた。
「さて・・・約束は11時だが、間に合いそうだな」
道悟は携帯を取り出し、駅とは反対方向に歩き始めた。坂の上、高台に建つ団地へと。