第一章トンカツ 五節目
スーパーからの帰り道で話し合った結果、新人女将修行中と銘打って、先ずはトンカツ定食のみで戦おう事になった。道悟の案を逍子が快諾した形である。
戸口に、新人女将修行中につき、メニューはトンカツ定食のみ。その代わり、税込500円から350円にし、30人の方に美味いと言って頂けたら、定価に戻すという趣旨を書いた紙を張り、暖簾を店先に掛けてきた。
ネガティブな要素をあえて前に出し、可笑しな料理を出して失った信頼を取り戻そうとする奇策、いや苦肉の策だったが、いかんせん中々客は来ない。分かっていたとはいえ、世間は厳しいものである。待ち呆けていても仕方がないので、道悟は落ち込む逍子に調理の練習を持ち掛けた。
「女将でもトンカツを揚げられる方法を考えたのですが、試してみませんか?」
「ふぇ? ああ・・・そうね、そうしましょうか・・・暇だもんね」
奈落の底にでも叩き落とされたかの様にグロッキーな逍子を伴って、道悟はコンロの前にやって来た。
「低温調理をやってみようと思います」
「低温調理・・・何?」
「ふぅ・・・下味を付けた豚肉を、沸騰しない程度のお湯にしばらく浸けておくんです。女将は何故か油の温度が高めになってしまうので、こうすれば、通常は衣が揚がっただけの状態でも、肉を火が通った状態へもって行けるかと思いまして」
「おぉ・・・何だか、私でも出来そうな気がするわね♪」
「最大の目的は、女将自身が調理を出来る様にする事ですから、出来てもらわないと困ります」
「手厳しいわね・・・でも、その通り。やってやるわ♪」
「その意気や良し、ですね。早速、始めましょう」
小さめの鍋に、豚肉を容れてからなるべく空気を抜いておいた密閉袋を投じ、ケトルで沸かしたお湯を肉が浸るくらい回し掛ける。そこからは、超絶弱火で5分程放置しておけば良い。肉の表面が白くなり、菜箸で押した時に適度な固さを感じたら、取り出してしまう。後は通常通りにパン粉を付け、程好く熱しておいた油に滑り込ませるだけ。
「おんどりゃあ♪」
衣が狐色に染まったら、トンカツを取り出し、早速切り分けてみる。
「ほう・・・ちゃんと出来ているじゃないですか、やりましたね」
「えぇ・・・こんなの初めて。ちゃんとした料理を、この手で作り出せるなんて!」
「オーバーな・・・家庭科の調理実習とかで作った事ありませんでしたか?」
「うふふ、調理実習? 私にとって調理実習は・・・よく避難訓練に変わっていたわねぇ、不思議ねぇ、うふふ♪」
「女将!? まさか貴女、火災ほ・・・」
言葉の途中で、道悟の口は塞がれた。瞬時に、トンカツを詰められたのである。
「ほらほら、お味はいかが?」
「ホガッ・・・・・・美味しいですよ、やはり女将の味付けが光っています。ただ・・・強いてを言えば、衣のサクサク感がもう少し欲しかったですね。あと、低温調理の影響なのか、少し肉が固めかもしれません」
「うぅ・・・儘ならないものね、人生って」
「とはいえ、これは快挙ですよ。誇ってください、女将」
「そうね・・・・・・ドヤッ♪」
「振れ幅が凄い!? 流石というか、何と言うか・・・はぁ」
逍子が手を腰に当ててドヤ顔を披露し、道悟が溜め息混じりに肩を落としたその時、店の戸口が音を発てて、正確には戸口に嵌められたガラスが音を発てて、開かれた。何を隠そう、来客である。
お客が店内に足を踏み入れる寸前、逍子は道悟の両肩を掴み、入り口からは死角になる位置に彼共々移動した。
「ど、どうしましょう・・・お客が来たわ!?」
「いや、落ち着いてください。接客してください、速やかに!」
「そ、そうね・・・・・・やってやらないと!」
逍子は踵を返すと、神妙な面持ちでカウンターへ足を踏み出した。
「お帰りなさいませ、お客様! 食事処しょうようへ、ようこそ♪」
そして、一瞬ではっちゃけた。
「可笑しな事になっている!?」
道悟は頭を抱えつつ、厨房の陰からお客の反応を窺った。
「おお~」
お客様は、何故か逍子に拍手を送っていた。
「あなたが、新人女将さんっすか?」
学校指定のジャージで身を包み、リュックサックを背負った、如何にも部活帰りという風体の少女が、如何にも運動部っぽい口調で、逍子に尋ねた。
「ええ、そうですよ♪」
「トンカツ定食が350円で食べれるって、マジっすか?」
「もちろん、マジですよ♪」
「おお! それじゃあ、一つお願いするっす!」
「かしこまりました、お好きな席でお待ちください♪」
逍子は、部活女子に一礼すると、優雅な振る舞いで厨房へ踵を返し、死角に入ってからは猛然と道悟に掴み掛かってきた。
「お、オーダー、入りました!」
「わ、分かってますから、落ち着いて・・・俺は定食の用意をしますから、女将にはこれをお願いします」
道悟はそう言うと、逍子に小さな筒を手渡した。
「これは・・・茶葉?」
「ええ、ほうじ茶です。おひやの代わりに出してください」
「こんな物いつの間に・・・スーパーで買ってなかったし、そもそもお茶のコーナーにすら立ち寄ってないはずだけど?」
「はい、これは私物ですよ。私物と言っても、未開封の既製品ですから御安心を」
「そうなの? でも、どうして?」
「寒いのにお冷やを出された屈辱が忘れられなくて・・・・・・要改善です」
「ご、ごめんなさい・・・改善してきます」
逍子がそそくさとお茶を煎れ始めたのを確認してから、道悟はトンカツを揚げ始めた。普通に揚げていると、そこそこの時間が掛かる為、逍子にはお茶を出すついでに世間話で場を繋いでもらいたいところだ。待ち時間の過ごし方は人それぞれだが、あの部活女子は女将と話したがっているというのが道悟の見立てだった。何故だか、前のめりで待っているからだ。
「どうぞ、ほうじ茶です♪」
「どうもっす・・・ふぅ、温かくて美味しいっす♪」
「そ、それは、良かったです♪ ・・・ちなみに、お冷やだったら、どうなってました?」
「ああ・・・それは何と言うか、きっと地獄っすね」
「地獄!? ・・・で、ですよねぇ、あはは」
「へっ? ・・・ところで、その下に着ているジャージ、自分のと同じっすよね?」
「ええ、私も第一中学の生徒だったんですよ。ちなみやな、このジャージは、とある方の強い要望で着ているんです♪」
間違ってはいないが、その言葉選びには難がある。だが今は文句をつける事が出来ない、道悟は独り歯噛みしていた。
「おお、やはり直系の先輩! 意外な出会いに感激っす♪」
「うふふ、元気で面白い娘ね♪ そうだわ、トンカツを食べ比べてみて欲しいのだけど、いかが? もちろん、料金はそのままで」
「マジっすか!? 自分、お腹ぺこぺこなんで、お引き受けするっす♪」
「うふふ、ありがとう♪ 準備してくるから、もう少し待っててね」
逍子は一礼してから、早足で厨房へと舞い戻ってきた。明るい笑顔と思いきや、沈痛な面持ちであった事に、道悟は少しだけ動揺することになる。
「女将・・・大丈夫ですか?」
「・・・私よりも、新田君が・・・」
「ん? ・・・俺が、何です?」
「貴方に、地獄で、糞みたいな料理を、味わっていたなんて・・・謝って済む事では無いけれど、ごめんなさい」
「何を今さら・・・謝罪は必要無いので、ご飯と汁物を装ってください。食べ比べてもらうのでしょう? ちゃんと料理出来たんですから・・・ほら、笑顔もくださいね?」
道悟がトンカツを引き揚げながらニヒルに微笑むと、逍子はハッとした表情を浮かべた後に、パッと笑顔を咲かせてみせた。
「ありがとう、新田君! 生まれ変わったしょうようの力量、ここで示さないとね♪」
「女将・・・・・・早くご飯と汁物を装ってください」
「あ、は~い♪」
ようやく、しゃもじを手にした逍子を見届け、道悟は肩を竦めてから揚げたてのトンカツを切り分け始めた。それから、キャベツの千切りを中央に盛った大皿へ低温調理を施したトンカツと揚げたてを盛り付けていく。湯気立つ茶碗を二つ載せた盆、逍子が持ってきたそれに道悟が大皿を託すと、彼女は力強く頷いた。
「行ってくるわ」
「・・・行ってらっしゃい」
逍子の意図を理解し切れていない道悟は、とりあえず親指を立てておいた。流石に適当過ぎるか、このリアクションが正解か自信は無かったのだが、逍子がウィンクを返してきたので、大丈夫だったようである。