魔女の忘れ薬
「好きの気持ちに目隠しを」
月明かりが差し込む部屋には薬草の匂いがツンと香る。一人で本を見ながら、何かを作る黒いローブの少女がいた。月の魔力が薬に流れ込み、薬の色が緑から青に変わっていく。
「この匂いは忘れ藥を作っているのかい?」
「うわっ! びっくりした。お師匠様じゃないですか」
背後から、この部屋にいるはずのない主の声がした。彼女は体をびくりとさせながらも聞き馴染みのある声に製薬作業を続ける。
「お前、記憶を弄る薬は好きじゃないだろう。一体どうした?」
「フレドったら、他の女といちゃついていたんです。腹が立つ。フレドとの思い出を思い出すと悲しくて……忘れようと思いました」
彼女は彼にくいと顎を取られる。
「忘れなくていいさ。恋がお前を美しくする」
覗きこまれた彼女の目に翠玉が映り込んだ。馴染んだ師の瞳は彼女の肩から力を抜く。
師匠の目は不思議だ。見つめているとひどく落ち着く。森林の中にいるようで、自然の力を感じる。
「あまり見るものではないよ」
彼女はハッと現実に戻った。きっと師匠の目には何か魔力が宿っているのだろう。その忠告をしてくださったに違いない。
「すいません。つい引き込まれてしまって……。未熟でした」
「いや、その……わたしも男だからね。お前みたいな娘にじっと見つめられるとね……」
何故か彼は彼女から視線を逸らす。自ずと彼女の視線は彼の顎に向かう。
「あっ、お師匠様また髭剃ってない! ダメじゃないですか!」
「材料仕入れに行ってたんだ。仕方ないだろう」
「もう。お師匠様ったら。椅子に座ってください。髭剃りますから」
彼女は慣れた手つきで彼の髭を薬品を使って剃っていく。
「お前が弟子入りしてから一番目に覚えたのは何だったか覚えているかい?」
「お師匠様、喋らないでください。怪我しますよ。……髭剃りでしょう。あの頃のお師匠様はずっと無精髭を生やしていましたから」
彼の顔が身綺麗になった。いつも髭を剃っているはずの彼女が一瞬視線を奪われるくらいには彼の顔は整っているのだろう。彼女はそんな自分を恥じるように咳払いをし、彼に終わりましたよと告げた。
「ああ。ありがとう」
彼は立ち上がり、ふっと彼女の唇に触れた。彼女は何が起こったのだろうと彼を見上げる。彼はゆるく微笑んで、彼女の髪を撫ぜる。
「わたしはお前が好きだよ。可愛い女の子だと思っている。お前を悲しませる男なんてやめて、わたしのものにおなり」
彼女の髪を耳にかけ、そこで彼は意地悪い顔をする。
「ああ、お前は作った忘れ薬をどちらに使うんだろうね? お前を悲しませた恋に使うのかな? それとも今わたしが好きだと伝えたことに対して?」
彼女のかきあげられた無防備な耳に、ふきこまれるかのように言葉が体に滲んでいく。彼の言葉に魔力はないはずなのに、今彼女を揺らしているのは彼だった。
優しいお師匠様は時折意地悪になって私を試すのだ。
「恋が私を美しくするのなら――」
彼女は何か吹っ切れたかのように笑い、薬棚に忘れ薬をしまった。その彼女の笑みは美しかった。