盈盈一水
様々な過去を孕んだ光が瞬く、美しい夜空。冴えた満月が、闇に支配された世界で己を静かに湛えていた。
「ね。だから、約束」
夜空から視線を移し、声がした方を向く。しかし声の主は暗い場所にいるらしく、顔が黒くなり、誰が喋っているのかは判然としない。声から、喋っているのは少女なのだろうと推測する。
少女が白い腕を伸ばし、指切りの体勢を取る。
少女のその姿を見て、咄嗟に抱き締めたい衝動に駆られるが、それは不可能だった。何故なら、少女は檻の中に入れられていたからだ。無骨な金属の鉄格子に阻まれ、彼女を抱き締めることは叶わない。
「そんなに哀しい顔をしないで。私なら、平気よ」
闇の中、少女がくすりと笑う気配がした。
それに吊られて、腕を伸ばし、少女の指に自身の指を絡める。
「ゆびきりげんまん。うそついたらはりせんぼんの〜ます。ゆびきったっ!」
可憐に唄う少女の声がいつもより幼く、それが更に胸の痛みを助長する。
「私、待ってるわ。貴方が私と同い年になるのを。ずっと、ずっと」
――そうしたら、また私に逢いにきてね。
>>>
「――……るみず、……た、…水。垂水!」
野太い男性教師の叱責の声で、垂水水羽流は覚醒した。
「俺の授業で寝るとはいい度胸だなぁ?一体どんないい夢を見てたんだ?ん?」
分厚い生物の教科書をメガホンのように丸めて掌に打ち付けるその様を見て、水羽流は怒りの表し方が一昔前だな、と目の前の白髪混じりの教師を見上げる。すると一変。男性教師が水羽流の顔を心配そうに覗き込んできた。
「垂水、お前どうしたんだ?」
「……?」
男性教師の言葉の意味が分からず、返答に惑う。しかし、男性教師の動揺の原因は直ぐに判明した。
「………」
なんとはなしに自分の顔に触れてみると、指先が生温く濡れる。指先を見つめると、窓から射し込む光に照らされ、指先に付着した液体がキラキラと輝く。
(なんで僕、泣いてるんだろう)
今はもう涙は止まっているが、どうやら先程まで泣いていたようだ。理由は肝心の水羽流にも分からない。
「垂水、大丈夫か?なんなら保健室にでも行くか?」
生徒を想う気持ちの強いらしい男性教師がそう問うてきた。しかし、水羽流本人としては、自分が何故泣いていたのか分からないため、保健室に行っても意味がないように思えた。そもそも泣いたくらいで保健室には行くまい。
「いえ……大丈夫です」
だから水羽流は短くそう言うに留めた。
「そうか?何かあったら遠慮せず言うんだぞ」
尚も心配そうに見つめてくる男性教師が何か言おうと口を開いた時、授業終了を知らせるベルが鳴った。
「あ、そういや授業中だったな」
男性教師は慌てて教壇まで戻ると、ホームルーム長に号令の下知を送った。
「起立、礼、着席」
挨拶の三段跳びが終わるや否や、水羽流の前の席に座っている少年が振り返り、話しかけてきた。
「よう、水羽流。寝てたのか?」
「高橋…」
水羽流に話しかけてきた少年の名前は高橋孝輔。陸上部に所属する彼は、日焼けした肌と色素の薄い髪をしていた。幾ら外に出ても全く日に焼けない水羽流はその健康的な肌の色が少し羨ましかった。
「あとなんか言われてたみたいだけど。どうかしたのか?」
(前の席なんだから聞こえてたと思うんだけど…)
水羽流に自ら言うように促しているのか、なんなのか。とにもかくにも水羽流は答えた。
「なんか、泣いてたみたいなんだよね」
「怖い夢でも見たか?」
孝輔がからかうような笑みを浮かべる。どうやら怖い夢を見た(と孝輔が勝手に思っている)水羽流を弄りたいらしい。
「いや…怖い夢と言うより…」
「と言うより?」
自分の思った返答が返ってこず、孝輔はきょとんとした顔をする。
「――哀しい夢だったよ」
「え?」
そこで水羽流は顔を窓の外に向けた。先程までは耳に届かなかった蝉の鳴き声が姦しく木霊する。つい先日、水羽流は十八歳の誕生日を迎えた。自分は自ら主張するタイプではないのに、何故こんなに蝉が自分の命を、存在を主張する時期に産まれたのかと心底不思議に思う。
(でも、最近なんだか胸騒ぎがする)
何か。大切な何か。なんとしてでも叶えなければならない、叶えて『あげなければ』ならない何か。
しかし、それがなんなのか幾ら思いを巡らせようとしても、先程見た、そして最近頻繁に見る内容の思い出せない夢のように、水のように、水羽流の掌から零れ落ちていった。
>>>
家に帰った水羽流は、ウォーターサーバーからミネラルウォーターを汲むと、一気に飲み干し喉を潤した。
リビングからニュース番組の中継の声が聞こえてくる。
《こちら、谷原ダムです。連日の日照りにより、ダムの底にあった岩が見えてきています。市は、住民に節水をするよう喚起し――》
「やあねぇ。ダムが枯渇寸前なんて。こんなに毎日暑いのに、水がなくなったら大変でしょうに」
リビングでテレビを観ながらアイロンをかけていた義母がテレビに向かって声を出す。
「そうですね、お義母さん」
水羽流が新たに汲んだ水を入れたコップを持ちながら義母に同調する。
「あら、水羽流くん。お帰りなさい」
「ただ今戻りました」
義母がこちらを振り向き笑顔で出迎える。水羽流はテレビの前に置いてあるソファに腰かけた。
「家は水を買っているから困らないけれど、谷原ダムから水を引いているお宅は大変よね。今年はとても暑いし」
「そうですね」
そう言って、水羽流は自分の持っているコップに視線を落とす。
水羽流には、両親がいない。十二年前、道端で、大怪我を負って意識不明の重体で発見された水羽流を引き取って、ここまで育ててくれたのが今目の前にいる義母と、義父だった。
命を助けてもらった恩義があるため、水羽流は二人に絶対に負担はかけないようにしようと心に誓っていた。しかし、この家、いや、ダムから水を引いている全ての建物の水、つまりはダムの水がどうしても飲めなかった。飲むと全身を掻き回されるような不快感に蝕まれ、嘔吐してしまうのだ。最初は二人に迷惑をかけまいと、無理をして飲んでいた。しかし、飲んでは嘔吐を繰り返す内、脱水症状を引き起こし意識を失ったことがあった。二人に原因を問われ正直に話すと、水羽流の身を案じた二人に散々怒られ、解決策としてウォーターサーバーを設置してくれることとなったのだ。
「あのダムも完成していれば、もう少し楽だったんでしょうけど」
水羽流がコップを見つめたままぼんやりとしていると、義母がぼそりと呟いた。
「ここには谷原ダム以外にもダムが作られる予定だったんですか?」
耳敏く聞き咎めた水羽流が義母に問うてみると、義母は今の発言は心の内に秘めておきたいことだったらしく、明らかな動揺を示した。
「え?あ、ええ。まあ、そんなところよ」
(……訊いて欲しくないことなのかな)
素早くそう察知した水羽流は、それ以上言及することを止めた。
(でも…)
何故だろう。何故、こんなにそのダムのことが気になるのだろう。話を聞く分に、そのダムは完成していないはずだ。なら、自分がそのダムに抱くこの思いはなんなのか。
「あ、そうだ。水羽流くん」
「はい、なんですか?」
水羽流が物思いに耽っていると、話題を変えようとしたのか、義母がこんなことを訊いてきた。
「今日のお夕飯は何がいい?何か食べたい物はあるかしら?」
「………」
その質問に水羽流は一瞬押し黙った。
(血の繋がりもない僕を育ててくれているお義母さんに、何かを要求するのは気が引ける…)
「……お義母さんの作るものならなんでも好きですよ」
「……そう」
だから、水羽流はそう答えたのだが、何故だか義母は少し寂しそうだった。
(……何か余計なことを言ってしまったんだろうか)
水羽流の胸に黒い影が落ちる。
「………?」
義母の満足いく回答が出来ず、暗い感情になることは、別にこれが初めてではない。だが、今日はいつもと感覚が少し違った。
思わず水羽流は首を傾げる。
(違う。僕がお義母さんの質問にちゃんと応えられないのは、そうじゃない)
応えられないのではない。
応えないのだ。
応えたくない。
拾ってもらって、これ以上の迷惑はかけられない、なんてある意味謙虚で綺麗な感情じゃない。
――強迫観念?
応えるな、と心の奥底の自分が警鐘を鳴らす。
忘れるな、と心の奥底の自分が慟哭する。
果たせ、と心の奥底の自分が水面を揺蕩う自分の首を絞める。
「………」
一瞬にして気まずい空気が漂った空間に身を置くことが、酷く苦痛だった。なんて、嘘だ。
首を絞めてくる自分が何故だか無性に色濃く見えて。
目の前の光景が酷く色褪せて見えたから。
「お義母さん、ちょっと出かけてきます」
「え?あ、水羽流くん――」
義母が何か言いかけるのを振り切り、水羽流は家を抜け出した。
>>>
「………」
とりあえず自分の中の衝動に従って外に出てみたはいいが、どこに行けば良いのかなんて、分かるはずもなかった。
「……はぁっ」
訳も分からない焦燥感が躰を侵蝕する。動悸が速くなり、呼吸が浅くなる。
傍から見ればそれは、熱中症にでもなったかのようだ。
「……水羽流?」
その時丁度、水羽流に話しかけてきた人物がいた。孝輔だ。
最初は姿を見かけただけで、気軽に声をかけようとした孝輔だったが、近づくと水羽流が胸倉を掴んで苦しそうにしているのが目に入り、駆けつけてきたのだ。
肌が白く、身体と顔の線が細い水羽流は簡単に倒れてしまいそうだった。
「水羽流、大丈夫か…?」
「………」
孝輔の言葉に反応して、水羽流がゆるゆると顔を向けた。
「ッ」
その水羽流の顔を見て、孝輔は思わず息を呑んだ。
水羽流の目は、確かに孝輔の方を向いていた。しかし、その瞳は孝輔を映してはいなかった。
仄暗く沈んだ瞳は彼が見ている世界のようだ。
「……お前、俺が見えてるか?ちゃんと、色付いて見えてるか?」
孝輔は水羽流の肩を掴み、思わずそう問うた。
「………」
水羽流の瞳は相変わらず現実を捉えておらず、孝輔の声も、頭に響く何かだと認識しているようだ。その証拠に、彼は酷く掠れた小さい声で呟いた。
「……『今』はこんなに色褪せて、『過去』はこんなに鮮やかだ…」
「ッ、水羽流!」
水羽流の返答に危機感を感じた孝輔は水羽流の肩を揺さぶる。今にも何かの呪縛に引き寄せられてしまいそうな彼を現実に引き戻そうと、本能が命令したのかも知れない。
「……嗚呼、そうか」
しかし、水羽流にその声は届かず。
彼は何か合点がいったのか、空を仰いだ。
「そこにいたんだね…」
闇に沈んだ瞳のまま、彼は酷く穏やかな笑みを浮かべた。そしてそのままどこかへふらふらと歩き出す。
「――……ッ!」
孝輔は咄嗟に水羽流の腕を掴んだ。このまま彼を行かせては駄目だと思った。しかし。
「……きみ、だれ?」
ようやくこちらを見た水羽流から発せられた言葉に衝撃を受け、思わず手を離してしまった。
身動きが取れるようになった水羽流は、今度こそ孝輔の前から姿を消した。
「……クソッ」
孝輔は感情に任せて近くにあった電柱を殴った。鈍い痛みが頭を少しだけ冷静にさせる。
水羽流の表情はいつもどこか影があった。それは、孝輔も理解していた。小学校一年生の夏、転校してきた水羽流は体中怪我だらけで、色んな場所が包帯で覆われていた。そんな水のように掴みどころのない彼が無性に心配で、それから孝輔はずっと水羽流と一緒にいた。
話せば楽になるかも知れないと思い、孝輔は水羽流にその怪我の原因を訊いてみたことがあった。孝輔は、水羽流の怪我はきっと両親による虐待か何かだろうと勝手に思っていた。何故なら、そうでなければ水羽流が里子である意味が分からないからだ。しかし、水羽流から返ってきた返答は思いもよらないものだった。
――憶えていない。
そう。水羽流は、今の里親に拾われる前の記憶をすっかり忘れてしまっていたのだ。だから、何故自分が怪我をしていたのかも、両親がおらず捜しにも来ない理由は分からないのだと言う。
「そうだ…」
ここまで思いを巡らせた時、孝輔は自身のこの尋常ではない胸騒ぎの発生源を突き止めた。
「アイツ、あの時と同じ顔してやがったんだ…」
孝輔は思い出した。
先程の仄暗い瞳をした水羽流の表情を、孝輔が怪我の理由を問うて、水羽流が自身の記憶の欠落について話し終え、俯きがちに『また逢う日まで』と独りごちた時にしていたことを。
「もしかして、記憶が戻りかけてるのか…?」
それ自体は喜ばしいことのはずなのに。孝輔は、彼が忘却された記憶を思い出すことは、何か大きな秘密を暴くことになるのではないかと。水羽流が壊れてしまうのではないかと。そんな漠然とした不安を抱いた。
――鏡花水月に続く――
この作品を執筆中、常に頭にあったのは、『なんかこれ水の押し売りみたいだな…』です(笑)
この調子で、次話も水の押し売り感満載でいきたいと思いますw
字数が上手くいけば(いつものようにハッスルしすぎて、長くなってしまうことも往々にして有り得るので…w)、このお話は次話で完結します。