第一話 『いざ行かん、目的への前進のために』
深い森の中、雪道を一台の馬車がゆっくりと進んでいた。二頭の馬に引かれた荷車には、積荷を守るかのように麻布が掛けられている。
御者台に座っているのは、一人の青年と一匹の黒猫。
青年は毛皮で出来た外套をズッポリと着て、時折身を震わせている。髪の毛はここらではあまり見かけない、黒色。降雪地帯を長い間進んでいることもあって、頭にはわずかに雪が積もっている。
黒猫は、赤い外套を身につけており、今は呑気に寝ている。
青年たちは現在、帝国の中部から北部にかけての道を進んでいた。
帝国は中部の山を境に、大きな寒暖の差がある。同じ、寒の刻でも異なるのだ。北部は豪雪に見舞われ、南部は安定した天気が続く。
今日は雪も降っておらず、道もぬかるんでいるとはいえ、馬車で走れないこともない。二日間、天候の影響で立ち往生していた彼らは、遅れを取り戻すべく、ゆっくりとだが前進していた。
青年がしばらく馬を進めると、道の終わりが見えてきた。左右の針葉樹林がだんだん減っていき、建築物が見え始めた。
モンターニュ山の麓にある、炭鉱の町ピエールだ。雪が積もり過ぎないように、屋根の傾斜がキツイ建物が数多く立ち並んでいる。
壁には隙間なくレンガが積まれている。屋根から僅かに飛び出している煙突からは、黒煙が空高く立ち上っていく。
青年はそんな街中に馬車を進ませ、やがて一つの建物の前で止まる。寝台の形が掘られた看板を下げている建物だ。
看板に掘られている物によって、その建物の種類が異なる。寝台なら宿屋、槌なら武具屋、小瓶なら薬屋、パンなら食品屋、ナイフとフォークなら料理屋、ジョッキなら酒場、硬貨なら商会、と判別がつくように決まっている。
青年は建物の脇に馬車を停めて、雪を振り落としてから建物の中へと入っていく。
建物の中は、暖炉の熱で温められていた。僅かばかり残っていた雪が溶けて、木の床に染みを作っていく。
受付には年若い女性が一人、店番をしていた。女性は青年らに気づくと、駆け寄ってくる。
女性はニコリと微笑み、それから青年の足元へと視線を注ぐ。
「素敵な黒猫ね。抱っこしてみてもいい?」
足元には、青年が気づかない間に、同乗者である黒猫が座っていた。寝起きだからか、何度もあくびをしては顔を洗っている。
「俺は、別に構わないですよ」
青年の言葉を聞くやいなや、屈みこんで目の前に抱え上げた。黒猫は不機嫌そうな顔をしながら、女性の顔を睨めつける。
「ワタシは許可していないけれど、ニンゲン」
「……何か言った?」
青年のでも、女性のでもないソプラノの声が聞こえ、女性の不思議そうな顔をし、青年は苦笑い浮かべる。
「目の前にいるのよ。さっさと下ろしてくれないかしら、ニンゲン」
「えっ? え?」
「いいから離しなさい!」
黒猫は身を捩って、女性の腕の中からするりと抜け出す。そして、青年の足元へと戻ってくる。
「まったく、これだからニンゲンは……。身勝手が過ぎるのよ」
「猫が……喋ってる……?」
「猫じゃないわ、聖霊様よ。崇めなさい、ニンゲン」
「えっと……ははぁ」
「ふふん、それでいいのよ、ニンゲン」
黒猫は得意気に言うと、すっかり機嫌を良くした。青年はいつものことだと、特に気にもせず話を進める。
「今日はここに泊まろうと思うのですが、一泊おいくらでしょうか?」
「え、うん。そうね、今だと一泊、ディグオ銀貨一枚ね」
ディグオ通貨は、帝国内で流通している通貨単位だ。金貨、銀貨、銅貨、銅銭の四種類に分かれている。
ディグオ銀貨一枚といえば、贅沢さえしなければ、一週間は普通に暮らすことのできる額だ。小麦で換算すれば、一キログラムは買えるだろう。宿泊料金としては、少し割高なように思われた。
「この街に、ほかの宿屋ってあるんですか?」
「ちょっと失礼じゃない、その質問」
女性は少しふくれっ面になり、
「ここ以外ないよ。昔は三、四軒はあったんだけど、訪問者が少なくなって需要がなくなっちゃって……。みんな次々と辞めてって、最後に残ったのがここよ。ちょっと割高なのは、まぁ世情が悪いからね」
戦争の超過需要は、物価の高騰を招く。南部の方は、現在行商人が集まっており、食料などの取引が頻繁に行われているので、価格の高騰もそれほどだ。
しかし、北部地域は、気候の関係で行き辛く、最初の頃は行われていた物資の援助も寒の刻では、ほとんど行われなくなっていた。
そうなれば、自ずと消耗品はなくなっていき、その価値が上がり、値段も高くなっていった。
「今の生活を維持するには、それくらいの額じゃないとキツいのよ」
「事情は、大体分かってますよ。それに、ここしかないのなら、仕方ないでしょう。後払いですか、先払いですか?」
「先払いでお願い。夕飯はどうする?」
「いいです、夕飯は外で食べようと思ってますし」
「この辺だと、酒場くらいしかないわよ」
「むしろ好都合です。ちょうど酒場でやることがあったので」
「ふぅん……」
女性は生返事をして、青年の前に掌を差し出す。青年は何を言わんとしているのかを察して、腰の麻袋からディグオ銀貨を一枚取り出して乗せた。
「毎度あり! 部屋は、二階の、階段から奥の部屋を使ってくださいな」
ふくれっ面は何処へやら。万点の笑みを浮かべながら、女性はそう言い放った。
やけにフランクで現金な女性に言われたとおり、受付の横の階段を上り、一番奥の部屋の戸を開けた。
部屋は、掃除が行き届いているようだった。調度品は、机、椅子、ベッドと必要最低限のものが揃っていた。
「まぁまぁな部屋じゃないの」
黒猫は椅子に飛び乗ると、二足で立ち上がる。
「それで、これからどうするの?」
「まずは、情報収集かな。北部は初めて足を踏み入れるからね」
「そうだったわね。それよりも、何か忘れてないかしら?」
「何かあったっけ? 宿はとったし、酒場もあることを確認出来たし、やることはやったけど」
「馬車はどうするのよ。品物が盗られるかも知れないわよ」
青年は数度目を泳がせて、
「……すっかり忘れてた」
「全くおっちょこちょいね、ユウは」
「迷惑をかけるよ、ベルには」
青年――ユウと、黒猫――ベル、人間と精霊の二人組は、奇妙な関係を築きながら旅をしている。
目的へと前進するために、彼らは帝国北部へと足を踏み入れた。
というわけで、主人公達の登場です。
次回更新、三月一日(予定)