新しい生活
「ファラッシュお兄ちゃん、おはよう」
ドアを開けて、フィリスが飛び込んできた。私を抱きしめ、眠たい目を擦りながら背伸びをして私の顔を覗き込もうとする。少女が自分に課した朝一番の日課だ。私がどこにも行っていないことを確認したいようだ。
「おはよう」
フィリスを優しく抱きしめながら答えた。私は、起きぬけではなかった。早朝の散歩を終え、外の景色を眺めながら少女がやってくるのを待っていた。窓の外には、淡い水色の上に綿を薄く引き伸ばしたような空が広がっている。陽射しは強くない。過ごしやすい一日になりそうだ。
フィリスと一緒に部屋を出た。姿を見るだけでは安心してくれないフィリスは、私の手をしっかりと握り、大きく腕を振って朝食が並ぶテーブルへと連れて行ってくれる。フィリスの姉と弟と挨拶を交わした。家族全員がそろってから食事を始めるのは、この家で決められた数少ないルールの一つだ。私も家族の一員に加えてもらっていた。
砂浜で唄を聴いた日から、十日ほど経過していた。
明るい性格の姉、愛らしい妹、早朝に剣を振る弟との生活が続いている。十日前との大きな違いは、私が、受動的にではなく、能動的に生活を受け入れていることだ。家族の名前も覚えた。姉はテオリア、弟はファーンだ。近い未来ではないだろうが、やがて、日常と呼べる日が来るのかもしれない。
日課ではないが、毎日の生活にも一定のリズムが生まれていた。
早朝、目が覚めると、外へ出て行くファーンの足音を聞いてから、私も外へ出る。少年の起床を待つ明確な理由はないが、おそらく、朝一番の世界は、私ではなく、早朝訓練を続ける少年のものだと心のどこかで考えているのだろう。外へ出た私は、自然の匂いを吸い込み、景色を楽しみながらゆっくりと山道を歩く。剣は振らない。ファーンの訓練を見守ることもない。剣の道は捨てたのだ。
歩いている途中で、うっすらと汗が滲み、頭が覚醒したと感じたら、その場所で立ち止まってほぐす程度に体の筋を伸ばす。今日一日が始まったと実感するのは、きまって、柔軟体操の最中だ。家までの帰り道は、無意識のうちに、新しい生活の意義を考える。具体的な何かを思いつくことはないが、この家の三兄弟に対する感謝の気持ちがいつも思い浮かぶ。
朝食を終えると、部屋を掃除して昼食までフィリスと遊ぶ。まだまだ戸惑うことも多いが、私をまっすぐに見つめる円らな瞳にも、少しずつ慣れてきた……はずだ。昼食の間は、新しい世界についてテオリアから話を聞き、午後は、夕方ちかくまでテオリアに連れられてフィリスとともに山中で果実やキノコを摘む。
夕食は、街の学校に通うファーンが家に帰ってきてから始まる。ファーンは気づいていないようだが、話し上手かつ聞き上手のテオリアは弟からさりげなく学校の出来事を聞きだしている。夕食のあとは再びフィリスと遊び、少女が眠い目をこすりだすのを合図に、私は自室へ戻る。
部屋に戻ったあとは、窓辺に立って夜空を眺める。一日で、もっとも穏やかな時間だ。しばらくすると、両手にティーカップを持ったテオリアがやってくる。ティーカップの中身は、この地方の特産だというゴンゴ茶だ。紅茶の一種らしく、色が濃い割に渋みが少なく飲みやすい。湯気と一緒にたちのぼる微かな甘い香りを楽しみながら、テオリアから色々な話を聞く。彼女が話す内容は、彼女の生い立ちや何気ない日常に関することが多い。私の過去や、この大陸に辿り着くまでの経緯ついて聞かれることは無い。新しく家族になった頼りない弟に気を遣っているのだろう。
ゴンゴ茶を飲み干す頃に、彼女は部屋から出て行く。リラックスした気分でベッドに入れば、すぐに眠りに落ちて一日が終わる。
今までに経験したことのない生活だった。起伏の少ない毎日が、ゆったりと過ぎていく。常に気を張り、絶えず前に進もうとしたバルガルディアの日々とは大きく異なる。しかし、居心地はよかった。若干の違和感はあるが、今の私には、充実した生活と言えるのだろう。その証拠に、身近な生活だけではなく、小舟で辿り着いたこの世界に対しても興味を持ち始めていた。
イシュハーブ。私が辿り着いた大陸の名前だ。イシュハーブ大陸は、大陸の大半を七つの国家、通称ウェイトナーデ連合王国よって統治されている。ウェイトナーデとは、連合王国を形成する一国家の名前でもある。連合王国にも冠されるため、国家ウェイトナーデは、中央国と呼ばれることも多い。連合王国となったゆえんは、ある時代にイシュハーブ大陸全土が存亡の危機に瀕し、ウェイトナーデ国が中心となって主要国家と緊密な協力関係を築いたことに由来するらしい。また、連合王国という名前こそ現在も残っているが、実質的には、7つの国家に統治上の優劣は無く、各国家はそれぞれの領土を独自に治めている。
私が流れ着いたのは、ウェイトナーデ連合王国の南東部に位置するロシナムという国だ。ロシナムは連合王国の中でも特に広い領土を有するが、平野はそれほど多くない。領土の三分の一は山岳地帯であり、最東部は海岸線に面している。よく言えば、起伏に富み、自然豊かな領土と言えるだろう。実際、山岳地帯にも街は存在し、地形に適した多くの特産物があるらしい。もちろん、全体的に見れば、人口は内陸部の平地に存在する主要都市に集中している。国都も内陸部にあり、他国と同様に文化、経済、教育、交通、建築が繁栄しているらしい。
テオリアたちが暮らすこの地方はロシナムの最東部に位置し、彼女に確かめるまでもなく主要都市からは離れた場所だった。都市と比べて若者の好奇心をくすぐる刺激は少ないはずだが、テオリアに不満はないようだ。逆に、ロシナムの内陸部で幼少期を過ごしたテオリアは、父親の故郷であるこの地方を気に入っている。理由は、気候が温暖で豊かな自然に恵まれているからだ。たしかに、私の祖国であるザクトスと比較しても、自然を意識することは多い。海や山々によって季節の移り変りを感じることもできるのだろう。
テオリアの両親は他界していた。彼女は弟と妹を養っているが、収入の面で問題は無いようだ。山に入れば、山菜、果実、キノコ類が豊富に取れ、自然の恵みを摘むことによって生活の糧を得ている。実際、この地方では、職業として自然の恵みを収穫している人たちの数は少なくない。ロシナムではこの場所でしか収穫できないキノコもあるらしく、比較的高価で取引されるようだ。また、フィリスが言うには、テオリアは山菜取りに関してロシナムで二番目の名人だ。一番目は、フィリスが大人になるまで空席らしい。
テオリア三兄弟の家は山の中腹にある。最寄りの街はシトカという港町で、ロシナム国最東端の街とも呼ばれている。シトカは漁業の街であり、街の規模自体は小さくない。しかし、港は漁業のみ使用され、主要都市へ物流を行う機能がない。このため、他の街との交流は少なく、人口もそれほど多くない。もちろん、日常的に必要なものはシトカで調達可能であり、生活に必要な一通りの施設もシトカに揃っている。ファーンが通う学校もシトカにあった。少年は、授業だけでなく、放課後に開かれている剣術教室にも参加しているようだ。
シトカから最も近い主要都市は、二十キロメートルほど内陸部にあるベドガという街だ。ロシナム東部における最大の主要都市であり、政治や経済、内陸部への交通を含めて、この地方の中枢になっている。シトカや周辺の街で集められた海や山の恵みも、ベドガで加工されてロシナム国都や内陸部の主要都市へ運ばれることが多い。
シトカには、テオリアとフィリスに連れられて三日前に行ってみた。想像通りに長閑で、気さくな人々が多い街だった。治安もいいのだろう。剣などの武器を携帯した者とすれ違うことはなかった。こちらも予想通りだが、テオリアは知り合いが多く、老若男女を問わず親しげに挨拶を交わしていた。
意外だったのは、私を知っている人が少なくなかったことだ。どうやら私には、元傭兵の旅人という背景が創造されていた。背景を描いたのは、私を砂浜からテオリアの家まで運んでくれたガルトーシュだ。
ガルトーシュ本人にも会った。私よりも十歳ほど年上だろう。いかにも漁師然とした風貌で、日焼けした顔に無精髭をたくわえた大男だった。テオリアは、毎日の生活で、度々、ガルトーシュの口真似をする。ガルトーシュに会ってわかったのは、世の中に完全な人間など存在しないということだ。才色兼備で料理が得意なテオリアも例外ではない。つまり、彼女の口真似は全く似ていない。
ガルトーシュには、砂浜から家まで運んでくれた礼を言った。「兄ちゃん、気にするな」と、気のいい大男は笑って私の背中を叩いたが、テオリアとフィリスが並んで海を眺めている間に、「二人だけで男の話をしたい」と小声で囁かれた。表情は真剣そのものだった。耳を傾けたところ、同じ家に住んでいるからといって、この地方で一番、ベドガを入れても三本の指にはいる美人に手を出すなと釘を刺された。話し終えると、テオリアがこちらを向く前に彼の表情はもとの笑顔に戻ったが、別れ際に私の背中を叩く手のひらには先ほどよりも力がこもっていた。
自然体で気取りのない性格のテオリアは、本人はあまり意識していないようだが、シトカだけではなく、ベドガでも美人の山菜取り名人として知られた存在らしい。ガルトーシュの漁師仲間たちから聞いた話だ。たしかに、テオリアと並んで街を歩けば、片目から憧れの熱視線を彼女に送り、もう一方から冷ややかな視線を私にぶつける若者と何度もすれ違った。ガルトーシュが誇らしげに語るには、テオリアは吟遊詩人だった母親の容貌を色濃く受け継いでいるらしく、母親は素晴らしい歌声の持ち主でもあったらしい。私は娘の歌声も素晴らしいことを知っているが、見知らぬ勘違いを受ける可能性があったため、余計なことは口にしなかった。
ガルトーシュは、私の素性も知りたがった。「俺も少しは剣を使えるが、今じゃ、竿や網の方が得意だ」と大声で笑う大男は、本人曰く、若いときは家業の漁師ではなく騎士を目指したらしい。私は、自分が騎士だったと言う代わりに、質問を曖昧に躱して話題をロシナムの治安へと変えた。別の話題でもよかったはずだが、昔の習性が出たのかもしれない。
ロシナムには、私の祖国ザクトスと同様に、騎士団が存在する。ロシナムに限らず、連合王国の全国家が騎士団を組織しているらしい。騎士は、基本的には兵士と同義であり、騎士団の役割は、平時は治安の維持、戦時は外敵の排除となる。ロシナムの各主要都市には騎士団の拠点があり、ベドガにも設置されている。ロシナム国騎士団第九騎士隊、通称ベドガ騎士隊だ。シトカには騎士団の拠点は無いが、代わりに街の有志で組織された十名弱の警備隊がある。警備隊の隊長はガルトーシュだ。ただし、警備隊と言っても職業ではなく、全ての隊員は本職を別に持っている。ようするにボランティアに近い組織で、目下の活動は、シトカへ見回りに来るベドガ騎士隊が開催する訓練会への参加と、剣術教室を開いて青年たちに剣術を教えることだ。騎士団の拠点が無く警備隊が暇な街に、住みにくい街は無い。シトカはそれほど治安のよい街だ。
また、ウェイトナーデ連合王国には、各国の騎士団とは別に、国境越えて支部を持つ騎士団Networkウィザーブと呼ばれる組織もあるらしい。ウィザーブという名前には聞き覚えがあった。山中で出会った金髪の男がその名を口にしたはずだ。興味は湧いたが、ガルトーシュは詳しい知識を持っていなかった。ベドガを含むこの地方にウィザーブの拠点が無いためだ。
話のついでに、この地方の治安についても確認した。過去の習性というよりも、純粋な興味に従ったのだ。この地方は総じて安全だが、危険が皆無かと言えばそうではなかった。ザクトスでも同様だったが、善人が大陸全土にいるように、数の違いこそあれ、善人でない者も大陸全土に散在する。この地方には、幾つかの盗賊団が存在した。最も身近では、ベドガとシトカの間の山中に、この地方で最も大きな盗賊団のアジトがある。盗賊団の名は闇の鐘と言い、しばしば、シトカとベドガをつなぐ大道に現れて略奪を行っているらしい。山中で少年たちを襲っていた輩は、闇の鐘だったのかもしれない。また、もう一つ、シトカ寄りの山中には鬼神と呼ばれる得体の知れない組織のアジトがあるらしい。ガルトーシュは、鬼神に関してもそれほど詳しくはなかった。
シトカからの帰り道、疲れて眠ってしまったフィリスを背負った私は、テオリアからイシュハーブ大陸に伝わる古い歴史を話してもらった。正確には、歴史ではなく、彼女の母親が歌っていた神話であり、勇者たちの活躍が誇張された武勇譚だ。
今から数百年前、イシュハーブ大陸に人ならざる異形異能の存在が現れた。彼らは、その能力と容姿がゆえに、人々から神と呼ばれた。しかし、人類を遙かに凌ぐ能力を持った神たちは、ある時期を境に、眷属を従えて人類を襲い始めた。その頃から、神は人々にとって神ではなくなり、魔王と呼ばれる存在に変わった。各国家は魔王の進攻に対抗した。しかし、魔王とその眷属の前に敗北を重ねるばかりだった。滅亡した国家もあったらしい。そんな中、ウェイトナーデ国の次期王位継承者の呼びかけにより各国家が団結し、魔王の打倒を志す勇者たちが国家を越えて集められた。神話は、この団結こそがウェイトナーデ連合王国の始まりだと語る。勇者たちを統べた男は、勇者の中の勇者、もしくは太陽の勇者と呼ばれた。彼の名はザクトスといった。私の祖国と同じ名だ。偶然ではないのかもしれない。武勇譚の最後は、勇者たちの勝利に終わるはずだが、その前に、家に着いてしまった。
「楽しかったですか? では、続きは今度シトカへ行った帰り道にしましょう。街は賑やかですし、いい気分転換になりましたね」
結局のところ、最も記憶に残ったのは、テオリアの気遣いと、背中に感じるフィリスの温もりだった。いつものように、四人で夕食を摂りながら、私はあらためて幸せな環境を噛み締めていた。
さらに、五日が過ぎた。
窓の外の夜空を見ていた。夜空は厚い雲で覆われている。月も星も見えない。
右手首の怪我は完全に治っていた。その気になれば、全力で剣を振ることも可能だ。剣を振る。窓ガラスに、私の苦笑いが映った。回復具合の判断として、剣術のことを考えてしまう。騎士だった頃の思考は、すぐには変わりそうもない。
今の私に剣を振る必要は無かった。理由もない。ベッドの下を覗くこともないだろう。
相変わらず、充実した日々が続いている。私は幸福の輪の中にいた。精神的な安定を取り戻しただけではない。テオリアたちへの感謝の想いが、さらに一歩前へ出る推進力になろうとしていた。数日前からその具体的な方法を検討し始め、昨晩、ようやく小さな決心をした。
シトカで仕事を探す。仕事が見つかれば、幾ばくかの収入を得ることができる。収入は全てテオリアにわたして生活の足しにしてもらうつもりだ。もちろん、分かっている。私と同年齢の人々からみれば、仕事を得ることは当然のことで、決して特別ではない。だからこそ、私にもできるはずだ。いつまでもテオリアに甘えてばかりの弟ではいられない、という思いもあった。昼食後の果物や山菜採りは、今も続けている。しかし、実質的にはあまり役に立っていない。経験が浅いだけでなく、どうやら要領もよくないようだ。慣れてくれば少しは役に立つかもしれないが、私には騎士だった頃に鍛え上げた身体がある。この遺産を有効的に使えばいいのだ。
明日、シトカへ向かい、私に適した仕事を探すつもりだ。一日では見つからないかもしれないが、数日も通えば何かしらは見つかる。そう、楽観的に考えていた。まだ仕事が決まったわけでもないのに、少なからず気分も高揚していた。うまくいけば、わずかだが、新しい生活を与えてくれた三兄弟に恩返しができる。
テオリアたちには、さきほど、夕食を食べながら話した。彼女は、少しだけ驚いた表情を見せた。
「わかりました。頑張ってください。お仕事が決まったら、みんなでお祝いをしましょう」
「ありがとう」
「でも、もし決まらなかったら、そのときは、私のことを師匠と呼んでください。一番弟子として、果物や山菜採りの名人を目指してもらいます」
彼女はいつもの笑顔を浮かべた。
「それから、一つだけ約束です。朝食と夕食は一緒に食べましょう。いいですね?」
「もちろ…」
「いいですね!」
私の返事は、元気のいいフィリスの声に掻き消された。テオリアは楽しそうに笑い、私は、ばつが悪そうな顔をするしかなかった。淡々と食事を続けていたファーンの口からも、小さな笑い声が漏れた。毎朝の訓練を欠かさない少年とは、まだ会話を交わす機会があまりない。しかし、私は決めている。いつの日か、バルガルディアで騎士だった自分自身を受け入れる。そのときこそ、ファーンに剣術を教えよう。未来の自分との約束だ。きっと、少年も喜んでくれるだろう。
約束。私は生きている。親友が望んだとおり、今も生きていた。彼との約束は果たしている。しかし、祖国ザクトスの危機を救った彼であっても、今の私の姿を想像することはできないだろう。夢の中で出会った若い頃の私も同様だ。騎士として進んでいた道は捨てた。それでも私は幸せだ。ここには、ありのままの私を受け入れてくれる居場所がある。