いつかの私と、いつかの親友
夢の中にいる。
気付いていた。懐かしい情景が眼前に広がっていたからだ。現実であるはずがない。私は、脳のどこかに蓄積された記憶の中にいる。おそらく、眠っているはずの意識に投影された仮想世界だろう。身体はベッドの上で寝息をたてているはずだ。
夜の草原。剣を振る青年がいた。一人だ。草原の中央には、五本の巨木が連なっている。真ん中の巨木の根元には、真新しい制服が置いてあった。
忘れもしない。親友とともに騎士団本部へ制服を取りに行った日の夜だ。
騎士団への入団が正式に決まり、私の気分は高揚していた。親友は私の半分ほども嬉しそうではなかった。嬉しさの理由も違った。親友が嬉しさを感じたのは、入団が認められたからではなく、覚えたばかりの酒を飲む口実になると考えたからだ。案の定、親友は祝盃を上げようと強く誘ってきたが、私は訓練を優先させた。
「堅物め。本当につまらん奴だ」
祝杯の代わりに親友から浴びた、別れ際の捨て台詞だ。彼の言葉は間違っていない。しかし、私たちが飲酒を認められる年齢に達していなかったことも間違いではなかった。
結局、親友も酒場へは向かわなかった。予定を変更して私の妹と夕食を楽しんだあと、戦術資料室で夜を明かしたらしい。「今夜は、君の兄上の勤勉さを見習おう」、そう言って、親友は妹に格好をつけた。妹は、「どことなく寂しそうだった」と親友の表情を読んだが、彼のポケットに小瓶が入っていたことも、その中の液体が琥珀色だったことも見逃さなかった。
夜空に月や星は見えないが、草原は完全な闇ではなかった。剣が風を切る音とともに、喧騒も微かに聞こえる。この草原は街の繁華街から遠くない場所にあるため、その灯りや音が届くのだ。
青年の身体は、しなやかに動いていた。河の水面を木の葉が流れるように、よどみなく剣を操っている。私は草原の隅の方から、彼を見ていた。剣の道を志したことがない人間が見れば、思い通りに動いているように見えるかもしれない。しかし、今の私からすれば、技術も体力も不十分だった。もちろん、青年自身も認識している。だからこそ、親友からの誘いを断ってまで、無心に剣を振っているのだ。
どうすれば、理想と現実の距離を縮められるのか。青年は自らに問いかけ、数日前に一つの答えを見いだした。剣の使い方ではない。より効率的に力を生み出すための身体の使い方だ。今、それを実践しようとしている。
力は、緊張と弛緩の差分から生まれる。ならば、無闇に筋肉を硬直させるのではなく、完全に緊張を解いた状態から使うべき筋肉のみを最大限に緊張させることができれば、効率的に力を生むことができる。しかし、説明は簡単だが、その実践は難しい。肉体的および感覚的に修練を積まなければ、意識と実際の動作にどうしてもズレが生じてしまうからだ。つまり、連動した動作ができない。加えて、実際の戦場では、相手の動作に対して反射的に身体が動き出すことも多い。瞬時に、かつ意識通りに身体をコントロールするためには、身体の中心から末端までの状態を常に把握する必要があった。
やがて青年は、目を閉じて剣を振り始めた。顎の先から滴る汗を拭おうともしない。意識は、剣とともにあるはずだ。指と剣の柄が融け合い、剣先までを腕として実感している。あの頃、ガルディとの戦闘を意識して私がやっていた訓練の一つだ。ガルディは恐るべき膂力によって剣を振る。ならば私は、不必要な力を込めずに素早い連続攻撃を繰り出して対抗する。相手を剣ごと弾き飛ばし、その先の肉を斬るような必殺の一撃はいらない。身体を無理なくかつ効率的に連動させることによって、隙をみせずに攻撃と防御をつなぐのだ。
本当に懐かしい光景だった。
強くなる。幼き時分に抱いた思いは、擦れて消えるどころか、私の精神に太い根を下ろしていた。想いだけでどこまでも進むことができた。周りを見る必要もなかった。親友は常に傍らにいてくれたのだ。
全身が汗で濡れ、両肩からうっすらと湯気が出るまで剣を振って、青年は訓練を終えた。巨木の根元に置いた制服を掴み、こちらへ歩いてくる。私に近づいて来るのではない。帰り道の方向に私が佇んでいるのだ。過去の人間に、未来の人間は見えない。
目の前の青年は、この日からちょうど四年後に騎士隊隊長に任命される。もちろん、青年は未来を知らない。しかし、青年の瞳には磨き上げられた黒曜石のような艶がある。意志の力で溢れているのだ。騎士隊隊長になるべき男の片鱗だろうか。
青年の真っ直ぐな視線が私の視線と交わった。
「やあ」
彼は微笑んだ。一片の迷いもない笑みだ。記憶と違う。私は、誰とも会っていない。後ろを振り返った。誰もいない。過去の私が、未来の私を見ていた。予期せぬ呼びかけに戸惑い、言葉を返せなかった。
「私はもっと強くなる。どんな困難にも立ち向かい、必ず乗り越えてみせる」
強い口調ではない。独白のようだ。しかし、きっぱりと断言した。輝く瞳。絶望を知らない色を帯びている。そうか、強く言う必要はないのだ。自分自身を信じているのだから。
「君には、いや、私にはできなかった」
私は呟くように言葉を返した。青年は、首を大きく横に振る。
「違う。乗り越える途中で転んだだけだ。まだ、終わっていない。できることの全てをやり尽くしていない」
「君にも分かる日が来る。今の君の視界は狭く、住んでいる世界も小さい」
青年は微笑んだ。私は言葉を続けた。
「今、それを知る必要は無い。しかし、自分の弱さとともに、深い絶望を知る日が、必ずやってくる」
青年の笑顔は揺るがなかった。
「そんなに卑下することはないよ。君は、君が決め付けたほどに脆くは無い。私が世界を知らないのではなく、君が自分自身を見失っているだけだ。空を見上げてごらん」
過去の自分に促されて、空を見上げた。
眩しい。
漆黒だった夜空が輝いていた。ダイヤモンドを散りばめたような星々で覆われている。
「最後に見る景色はこの空のはずだよ。為す術も無く何かに敗れ去り、精神も身体も力尽きたのなら、身動きさえできずに遠い空を受け入れるしかない。希望も絶望も枯れ果て、何も考えられずに、輝く星空をただただ美しいと感じるだろう。もし、そこまでやれたのなら、そこまでやって届かないのなら、そのときは君が正しい。一緒に、全てを諦めよう」
ふいに星空が消えた。星だけでなく夜空まで消えて白い空間が広がる。視線を下ろすと、微笑んでいたはずの青年は真剣な表情を浮かべていた。
「でも、まだ、終わっていない。だから、目覚めた君は、立ち上がって前に進みだすはずだ」
「違う。これまでの道のりは間違いだった。私は全てを失って、ようやく気が付いたんだ。私なんかが進む道ではなかった。そして、絶望の果てで、ようやく、存在を許される場所を貰った。もう、どこかへ向かう道など必要ない。これからの生活の障害になるくらいならば、バルガルディアの記憶の方を捨てる」
「違うよ。たしかに君は、大切な人たちと居場所を失った。でも、彼らだって、君を失い、君の居ない場所に取り残されたんだ。でも、彼らは君が居ない世界でも立ち止まっていない。前に進んでいる。だったら、君にもできるはずだ」
嘘だ。過去の私が現在の彼らを知っているはずは無い。今の私ですら知らないのだ。たしかに、彼らであれば前に進んでいるかもしれない。いや、……きっと前に進んでいる。
声には出さなかった。青年は言葉を続けた。
「私は決めた。決意した。もっと強くなる。強くなって、今よりも深い瞳を手に入れる」
深い瞳。どんな状況でも動じなかった父親の象徴であり、精神的な脆さを抱える私にとっての憧れだった。戦場へ向かう父親の瞳には、いつも強靭な意志が見えた。
青年は私の横を通り過ぎた。もう、私を見ていない。迷いのない足取りで草原を出て行く。
また、私は取り残されていた。
目が覚めた。私は昨日と同じベッドの中にいた。下半身の筋肉痛が、昨日が特別な一日であったことを告げる。窓の外には青空が広がっていた。ここに居ることを認めてもらった喜びを噛み締めながら、深呼吸を繰り返した。
夢を覚えていた。なぜ、あんな夢をみたのだろう。私のどこかに眠っている潜在意識が、夢を通じて何かを伝えようとしたのか。いや、夢に意味を求めても無駄だ。ベッドから身体を起こさずに、過去へと思いを馳せた。
祖国ザクトスで新生騎士隊の創設が決まったのは、あの日から四年後だ。暗黙の了解として、騎士隊隊長は親友に決まっていた。彼が卓越していたのは剣の技量ではない。戦略や戦術を生み出す頭脳の方だ。私は騎士隊の同期の中では剣技に最も秀でていたが、騎士団全体からみれば五指に入るかどうかの位置だった。
おそらくザクトスだけではないだろうが、騎士隊隊長としての職務を得るには、能力だけでなく相応の実績が要求される。つまり、親友は序列を一気に飛び越えるほどの実績を上げていた。彼は、未曾有の危機からザクトスを救ったのだ。その活躍において、実動として中心に動いたのは私であり、私も一戦力以上の活躍をしたのかもしれない。しかし、たとえ一戦士が獅子奮迅の働きをしても、それだけで戦局を変えることはできない。全ての作戦は親友の頭の中から生まれ、私と私の仲間は彼の作戦を忠実に遂行したまでだ。勝利は、実際に戦闘が起こる前に、親友の頭の中で決まっていた。
ザクトス建国以来の歴史において、入団四年目で隊長へ抜擢された者はいない。親友は、最年少の騎士隊隊長として歴史に名を刻むはずだった。副隊長は、その絶対的な戦闘能力により、入団五年目にしてすでに他国までその名が轟いていた男になると噂されていた。ガルディだ。
新生騎士隊となる第七騎士隊の隊長任命式は、騎士隊の創設決定から三ヶ月後に行われた。任命式とは、公の場において国王の承認を得る儀式だ。国王をはじめ、政治および軍事を司る重鎮が見守る中、ザクトス騎士団副隊長から親友の名が呼ばれた。その場で親友に求められたのは、型通りの短い言葉だけだった。
「身に余る栄誉、感謝の念に堪えません。不肖ながら、愛するわが祖国のために最善を尽くすことを誓います」
百以上の視線を一身に浴びた親友は、ほんの少しも声を震わせずに声を出した。ただし、予定通りだったのは、そこまでだった。言葉を切った親友は、物怖じしないばかりか、副隊長ではなく、国王の隣にひかえる騎士団団長へ向き直って予定外の言葉を続けた。
「では、我が言葉に偽り無きことを証明するとともに、ここに新生騎士隊隊長の人選における最善を申し上げます」
あろうことか、親友は事前に決められていた筋書きを無視して、余計なことをしゃべり始めたのだ。当然ながら、儀式の場はざわついた。
「騎士隊長としての役割が、駒を操るだけの頭脳ゲームならば、私が適任でしょう。勝負の数と同数の勝利をご覧にいれることができます。しかしながら、騎士隊は駒の集合ではなく、意思を持つ騎士によって構成されます。そして、騎士隊としての戦術を具現し、敵を殲滅するためには、騎士たちを鼓舞し、騎士隊を意のままに指揮する存在こそが肝要であり、その存在こそが騎士隊長たり得ます。私は、残念ながら、そのような能力を備えておりません。ゆえに、辞退させて頂きます」
誰もが唖然とした。形式だけの儀式で余計な言葉を吐いただけでなく、わざわざ公の場で騎士隊隊長の拝命を断ったのだ。
「記念すべき瞬間を見に来い」と親友から誘われ、その場にいることを特別に許された私も唖然としていた。明らかに、記念すべき瞬間を取り違えていた。結果から言えば、この時点でも、私は記念すべき瞬間の意味を分かっていなかった。
儀式の場は、予定外の出来事によって、ざわつきを通りこして完全に凍りついた。唯一の例外は、騎士団団長である私の父親だったかもしれない。父親は、目を細めて親友を見返していた。口元に淡い笑みが浮かんでいるように見えたが、これは私の見間違いだったかもしれない。
親友との付き合いが長いためか、いち早く平静を取り戻した私は、会場を見回して騎士隊隊長としての職務を担うべき人物を探した。親友は突拍子もない行動を取るが、それは第三者からの視点であって、彼の視点から見れば全ての行動には必然性がある。少なくとも、その場の思いつきや浅慮、もしくは感情によって行動や言動を選ぶことはない。
私の視線はガルディで止まった。騎士団の精神的な支柱となりつつあった彼も冷静だった。良し悪しは別として親友とガルディは浅からぬ縁があり、また、好き嫌いは別としてお互いの能力は認め合っている。新生騎士隊隊長の人選で、ガルディを推す声が少なくなかったことも私は知っていた。
親友は周囲を見回し、私を見つけるといつもの笑みを浮かべた。私は、再び、凍りついた。彼の考えが聞こえたような気がしたからだ。親友は、視線を再び騎士団団長へと戻した。周囲の凍りついた人々に思考力が戻るのを待ち、かつ、誰にも発言する時間は与えずに、彼は言葉を足した。
「私は、現在と未来において最も優秀な騎士隊長に成りえる人物を知っています。許可を頂けるのであれば、私はその者を補佐し、その者とともに戦場における常勝を誓います」
親友は自信たっぷりに名前を告げた。
結局、その場では新生騎士隊隊長は任命されなかった。私が最年少の騎士隊隊長となったのは、その三日後だった。