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巨人との邂逅

 青空が広がっていた。細い雲が連なるように幾つも並び、雲の間をつなぐように、白い翼の鳥たちが飛んでいる。太陽は高い位置にあった。


 額に浮いた玉の汗をシャツの袖で拭った。胸や背中も汗で濡れ、シャツが肌に貼り付いている。不快ではなかった。涼しい風が吹いているからだろう。久しぶりに身体を動かした心地よさもあるが、もしかすると、精神的な要因が大きいのかもしれない。


 向かうべき場所は無く、気の向くままに歩いていた。計画や予定も無い。考え方によっては道に迷っているようなものだが、心情的にはゆとりがあった。どの道を選んでも、間違いではない。何の制約もなく、思いつきで道を選べると思えばいいのだ。


 少年の訓練をしばらく眺めてから、広場を離れた。しばらくと言っても、長い時間ではなかったはずだ。ほんの僅かな時間で、私の胸は満たされていた。少年を通して、その向こう側に、どこにも存在しないはずの世界が見えた。今の私が、あの場所に辿り着くことはない。時間的にも距離的にも遠い世界だ。それでも、強くなりたいという想いで溢れていた日々の空気を味わうことができた。あの日の私は、純粋で単純な世界の住人だったのだ。


 どこを歩いているのか検討もつかなかった。当然だ。初めて歩く道なのだ。この大陸や国の名前も知らない。分かれ道では登る道と下る道を交互に選んだ。それでも、徐々に下っていた。興味本位で細い道を選ぶことが多かったからだろう。誰とも出会わず、民家も見かけていない。今も細い道を下っている。踏み固められた道ではなく、獣道だ。この近くで物音が聞こえるとすれば、音の主は二足歩行ではなく四足歩行だろう。集落や街までの距離は遠いはずだ。


 太陽の位置が変わるにつれて、気温は上昇していた。ゆっくりとした歩調だが、すぐに汗が吹き出てくる。疲れを感じると、木陰に座って休んだ。木々の間を吹き抜ける風は心地よく、自然の匂いを多分に含んでいた。空の青、雲の白、植物の様々な緑。自然は鮮やかで美しい。木の幹に寄りかかって目を閉じれば、風に揺れる木の葉の音さえ楽しめた。バルガルディアの生活では、欠落していた感覚だ。周囲の風景になど、気に留めたこともない。僅かな時間をも惜しんで、周囲ではなく、前だけを見ていたからだろう。


 漠然とした思いつきだが、私を介抱してくれた姉たちの家に戻る気はなくなっていた。理由はわからない。心のどこかで彼女たちに甘える自分を恥じていたのかもしれない。もしくは、ようやく外の世界に興味を持ち始めたからかもしれない。いずれにせよ、昨日までの生活は、脆弱な私には甘美すぎた。そこへ安易に浸ってしまえば、抜け出せなくなってしまう。今が絶好の機会だ。


 彼女たちには、一方的に世話になってしまった。何も返していない。礼を言っていないどころか、フィリスの姉に関しては名前すら知らない。しかし無責任にも、礼など求められていない気がしていた。少なくとも、私は彼女たちの生活に必要ではない。突然居なくなったとしても、迷惑をかけることはないはずだ。


 気分が高揚している。分かっていた。この高揚感が無くなれば、また、元の不安定で無気力な精神状態に戻るだろう。しかし、それならば、それでいい。今、気に病んだところでどうしようもないのだ。今後のことは、意識的に考えないようにした。もしどこかへ辿り着けるのならば、新たな出会いがあるかもしれない。そうでなければ、行き倒れるだけのことだ。大切なものは、とうに失っている。それ以外の何かを惜しむ理由もなかった。


 道の勾配が緩やかになっていた。道幅は大きくなり、地面も踏み固められている。麓近くまで降りたのかもしれない。少年の早朝訓練を眺めてから何時間も経っているはずだが、体調は悪くなかった。休憩を取りながら、ゆっくりと歩いたのがよかったのだろう。親指の付け根で地面を噛むような感覚も戻りつつある。もっとも、以前のような力感はない。筋肉は確実に衰えている。激しい運動は難しいはずだ。


 道端には、様々な花が咲いていた。バルガルディア大陸でも咲いている花だろうか。それとも、この土地特有の花だろうか。今の私は、道端の花について考えるほどの余裕があった。


 突然だった。人の声が耳に飛び込み、背筋に寒気が走った。


 耳にしたくない類の声だ。若い男の叫び声。それも苦痛から発せられた悲鳴だった。恐怖は感じない。それでも、足取りが重くなった。関わりたくない。とっさに頭に浮かんだのは、そんな思いだ。どうするべきだろう。呼吸が浅くなっていく。何も決断できないまま、足音を殺して前に進んだ。道の先は開けている。野原のようになっているようだ。


 どうするべきなのか。本当に分からなかった。何かを考えようとしているが、何を考えるべきなのか分からない。具体的な選択肢がみつからなかった。


 惰性で身体を動かした私は、これまでに選んだことのない行動をしていた。


 何をやっているんだ。落胆よりも、驚きの方を先に感じた。次いで、自分自身への哀れみが胸の裡で膨れ上がり、弾けるよりも前に悲しみへ変わって重く沈んだ。快晴だったはず空が、灰色に曇っていく。


 私は、野原の中に踏み入ることなく、その直前で、体が隠れるくらいの大きな樹の幹に身を潜めていた。樹の陰に隠れて、悲鳴が聞こえてくる野原の様子を窺っているのだ。これが、ザクトス第七騎士隊隊長だった男の成れの果てだ。騎士ではなく、傍観者としての私がここにいた。


 野原はフィリスの兄が木剣を振っていた場所よりも広く、足場もよかった。中央付近は草ではなく地面がみえている。悲鳴を上げているのは若い男ではなかった。少年たちだ。三人の少年が、二人の男に囲まれている。少年たちはフィリスの兄と同じくらいの年頃だろうか。戦闘と呼べるものではなかった。大人が子供を一方的にいたぶっている。少年たちは、表情を恐怖で引きつらせながら泣いていた。足もとには、三本の木剣が落ちている。襲われたのかどうか分からないが、逃げ出そうとせずに無謀な勝負を挑んだのだろう。


 二人の男は、ともに長剣を帯剣したまま、長めのナイフを握っていた。無精髭を伸ばし、身なりも整っていない。この国にも盗賊という輩がいるのだろう。正規の訓練を受けているような動作は見受けられない。しかし、明らかに場馴れした動きだった。三人の少年を中心にしてゆっくりと回りながら威嚇し、ときおり、少年たちの衣服を撫でるように薄く切りつけている。ナイフを振るとき以外は、常に距離を取っていた。少年たちが恐慌に陥って飛び出してくる可能性を考慮しているのだろう。


 何をするべきだろう。傍観者となった私は、まだ、迷っていた。いや、思考を放棄したまま迷った振りをしていた。私という人間が、どういう選択肢を選ぶべきなのか分からないのだ。盗賊に後れを取るとは思わないが、少年たちを救える自信もなかった。


 同じ動作を繰り返す男たちの顔には、歪んだ笑みが貼りついている。唾棄すべき人間だ、と昔の私ならば感じただろうか。


 断続的に襲う恐怖に耐え切れず、一人の少年が泣き崩れた。座り込み、地面に両肘を着いて、腕の間に顔を挟み込む。真下を向いて、前を向こうとはしない。精神が現実から逃げ出していた。経験が近未来を予測させた。恐怖は連鎖する。予測通りに、別の少年が、大きな泣き声を上げて両膝を地面についた。もう一人の少年も、すぐに同じ状態になるだろう。


 救うべきだ。他に選択肢は無い。


 それでも、足は動かなかった。盗賊たちの恥ずべき行為を前にしてなお、迷い、混乱している。病み上がりの体調を気にしているわけではない。悲しいことに、目の前の光景に、私自身との関連性をどうしても見い出せないのだ。私は脆弱で無力な人間であり、剣は捨てた。盗賊たちの行動は不快だが、少年たちを救うという直接的な理由には結びつかない。悲劇は、いつだって私の目の前で起こるのだ。


 私は、生来こんな人間だったのだろうか。それとも、変わってしまったのだろうか。分からない。もし生来だとすれば、こんな自分を認めたくないがために、私は人生の一時期において剣を握ってしまったに違いない。もし、変わってしまったのならば、私は本来の姿へ変わったのだ。この姿こそが私の本性だ。泣き叫ぶ少年たちを見て何の行動も取れない男に、騎士となるべき資格などない。


 「おい、寝坊助。助けてやらないのかよ」


 背筋が凍った。


 状況が飲み込めない。脳が全機能を停止したかのように、頭の中が空白で埋まった。信じられなかった。いつの間にか、誰かに後ろを取られていた。男の声に緊張感はない。しかし、一瞬前まで存在し得なかった強烈な存在感が背後にある。


 動けず、言葉も吐けず、呼吸さえ忘れていた。気配をどれだけ消そうとしても、動作をともなう限り、完全に消し去ることはできない。暗殺者としての特別な訓練を受けた者であっても不可能だ。暗殺者は、自分の音を限界まで消し、相手の意識を別のものへと向けることによって闇に溶ける。私は、周りが見えなくなるほど必死に、目の前の光景を見ていたというのか。違う。傍観していただけだ。ならば、動作に気が付かないほど戦士としての感覚を失い、身体的な能力も衰えているのか。


 背後にある気配は、まるでそびえ立つ巨人だった。無造作に首を掴まれるだけで、握りつぶされてしまう。そう感じるほど圧倒的な気配だった。


 巨人が動き、私の右横へと並んだ。しなやかな動作だ。存在感が萎むように消えていく。視線を向けた。私よりも小柄な男が立っていた。体の線は細い。痩せているのではなく、無駄な肉が付いていないと判断すべきだろう。金色の長髪、青い目。頬と顎には若干の無精髭を伸ばしているが、童顔だった。年齢の判断が難しい。右手には白い薄手の手袋をしている。もしかすると、私よりも若いのかもしれない。長剣は帯剣していないが、腰の左右には長めの短剣を吊るしている。肉厚だ。長剣とも渡り合えるだろう。


 「そんなに驚いたか?」


 男は平然と言ってのけた。声に緊張感はまったく無かった。


 「驚かせたのなら、悪かったな。まあ、そんなに気にするなよ」


 無造作に私の肩へ手を伸ばす。咄嗟にサイドステップを踏んで、間合いを取った。男の手が空を掴む。男はこちらへ向き直り、口笛を吹く真似をした。真似だけで音は出さない。広場の男たちを気にしたのだろう。


 「悪くないな。なるほど、大げさに驚くだけのことはある。ようするに、不用意に背中を取られて、自尊心を砕かれたわけだ」


 男は白い歯を見せた。小声だが、明瞭な発音のため、よく聞こえる。


 一歩。男がこちらへ踏み出した。同じ距離だけ後ろへ下がった。


 「おまえ、傭兵あがりじゃないな。正規の訓練を受けている。どこかの国の騎士か。それとも、ウィザーブか。どちらにしても、こんな片田舎で見かけるような人間には見えんな。興味深い。寝ぼけて、道にでも迷ったか」


 腕組みをした男の声に鋭さは無い。再び、白い歯を見せた。楽しんでいるようだ。


 「でも、わからんな。どちらかと言うと、お前、生真面目な人間にみえるぜ。爺みたいなことを言って悪いが」


 男は、広場の光景と私とを交互に見た。


 「やっぱり、お前の方があいつ等よりもよっぽど強い。二対一でも、問題にならんだろう。なぜ、隠れる?」


 男の視線が私の顔を捉えて止まった。


 殺気。爆発的に膨らんだ。男が膝を曲げて、わずかに沈む。来る。私は、咄嗟にバックステップを踏んだ。真後ろに下がりながら顎を引き、膝に余裕を持たせた体勢で左手を腰の位置へ伸ばした。間抜けなことに、そこに剣はなかった。帯剣していない。くわえて、着地時にバランスをくずした。動揺したからではない。反応に身体がついていかなかったのだ。


 金髪の男。弾けるように膨らんだ殺気は、すでに消えていた。男の動きは見えた。しかし、見えただけだ。極めて俊敏な動きだった。私の動作も予測されていたのだろう。


 男が右手で掴む短剣は、私の顎のすぐ下で止められていた。


 「ほんとうに悪くない」


 男は、剣を下ろしながら笑顔を見せた。


 「手ぶらじゃなかったら、もっと面白かったな」


 世の中には、こんな人間がいるのか。おそらく、帯剣していても結果は同じだった。男の動作は、疑いようもなく私より速かった。殺気が膨らんだ瞬間、金髪の男は、私の動作を確認しながら前に飛び込み、長剣の間合いを潰した。同時に、腰のナイフを抜き取って跳ね上げたのだ。たとえ、私が帯剣していたとしても、剣を抜く余裕はなかった。顎の下で止める気が無ければ、この男はもっと高速にナイフを扱えたのだ。


 慣れ親しんだ暗い感情が、私の全身を完全に飲み込む。そうだった。私は唯一の取り得だった剣術さえ、道半ばで投げ出した人間だ。この程度の男なのだ。


 「悲しい顔だな」


 ナイフを鞘に戻しながら男が呟いた。明るい口調ではない。心まで読まれたのか。男の表情を読む前に、男は私から顔を背けて広場へ進み出した。


 「適当にやっておくから、消えてしまえ。何があったのかは知らん。興味も無いが……、いや、やめておこう。男に慰めてもらっても嬉しくはないだろう」


 「私は……」


 「言うなよ」


 男の言葉には、悲しい響きがあった。哀れみだろうか、なんらかの予測に基づく同情だろうか。


 「死んだ瞳で戦場をうろつくな。戦場の女神が逃げていく」


 金髪の男は、私を置き去りにして光景の中へ入っていった。明らかな境界線。私は、中に入ることを許されなかった。いや、足を踏み出せなかったのは私だ。私自身が、傍観者になることを望んだのだ。胸の奥に、痛みにも似た哀しみを感じた。


 なぜだ。なぜ、私は、こんな人間なのだろう。光景を見るのさえ辛くなり、踵を返した。死んだ瞳。体の内側まで見透かされたのか。足元がぐらついていた。地面が泥沼へと変わる。濁りきった液体の中へ落ちていくようだった。


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