過去との邂逅
目覚めていた。夜明け前だ。体力は順調に回復している。右手首の調子もいい。日常的な生活ならば支障はなかった。全力で振るほどには回復していないが、両手であれば剣を握ることもできるはずだ。ただし、二度と訪れることのない瞬間だ。
相変わらず、一日の大半をベッドの上で過ごしていた。一人で居るときは、ぼんやりと物思いに耽っている。他の時間は、姉の笑顔を陽光のように浴び、フィリスに叱られては戸惑いを含んだ笑みを返す。その繰り返しだ。肉体的な疲労が溜まるはずはなかった。日が昇る前だというのに、体が睡眠を欲していない。そういえば、最近は眠りに就く時間も遅くなっていた。
音も色彩も無い世界。身体の緊張を完全に解いた状態で、暗闇の世界に佇むことができた。以前ならば、精神的な空白が少しでもあれば、負の感情が濁流となって流れ込んでいた。時が全てを解決する。ありふれた言葉だが、真実を含んでいるのかもしれない。精神的な恐慌に陥ることはほとんど無くなり、悪夢をみる頻度も減っている。
しかし、これが衰弱からの復活と言えるのかどうかは分からない。今でも、ときおり、精神が揺れる。私自身でありながら、自分がどういう人間なのか掴めないときもある。精神的な安定や、何事にも動じない強い心を手に入れたのではない。意志や激情を無くしてしまったという半ば確信めいた思いがあるだけだ。
私は毀れてしまったのだろうか、それとも、その手前の状態だろうか。どちらにしろ、変わった。たとえ今感じている無気力感が消えたとしても、そこに残る人間は以前の私ではない。別の人間だ。元に戻ることもない。遠い過去の世界を思い浮かべてはため息をつく。こんな枯れた生活を続けていくのだろう。
目を覚ましても、やるべきことが無かった。呼吸を繰り返しているだけだ。相変わらず何に対しても興味は無く、自発的に行動を起こしたい気分にもなれない。目を閉じて、遠い世界を思い出した。バルガルディアの日々。今では過去というよりも夢物語の方に近い。子供の時分に母親から聞かされた童話のような気さえする。
瞼の裏に映る少年は、真っ直ぐに前を見つめて進んでいた。力強い足取りだ。瞬時に映像が消え、哀しさとともに乾いた感情が芽生えた。意志の輝きを放つ人間が、私であるはずがない。もし私であるのならば、私を除いた世界の方が偽物だ。
目を開け、慣れ親しんだ灰色の世界に戻った。本当の私は、この世界に存在する。あの場所で信じたものや大切だと感じたものは、何ひとつとして残っていない。手のひらで水をすくうように全てこぼれていった。舟の上で抱いた激情でさえ、もはや私の中には存在しないのだ。
芽生えた負の感情は、膨れずに萎んでいった。緩やかな生活のおかげだ。このベッドの上には、苦味や渋みがなく、代わりに心の平静が乗っている。
人は生きていくかぎり、自らの足跡を残していく。たとえ影のように引きずって歩くとしても、過去を切り離すことはできない。ならば私には、剣を振り上げて信じるべき正義を叫び、信頼できる者たちとともに戦った日々があったのだろう。しかし、私が進むべき道ではなかった。進む必要もなかったのだ。今の私には、ベッドと食事が与えられるこの部屋が全てだ。
時間を持て余しているせいか、無意味な思考が止まらなかった。現在の自分を客観的に捉えようとしているのか。それとも、過去の自分と比較して、今の自分を婉曲的に否定したいのだろうか。
戦場では、幾度と無く相手の心理を読んだ。敵だけではない。味方の心理も読んだ。人心を掌握できてこそ、隊を率いることができる。できなければ、多くの命を無駄に失う。いや、そう思い込んでいただけだろう。分不相応な役割だったのだ。私は、他人どころか、自分がどんな人間であるかさえ分かっていなかった。本当の私は、戦場ではなく、平穏で刺激の少ない環境を望む人間だ。そんな物静かな人間が、生まれ育った環境によって心に幻想を描き、自分自身すら騙して無理を重ねていたのだ。
足音が聞こえた。小さな音だ。家の中から聞こえる。フィリスの足音でも、姉の足音でもない。足音は家を出て行った。少年だろうか。フィリスや姉とは違い、十代前半と思われる少年とは、あまり顔を合わせていなかった。私はこの部屋を出ることがほとんどなく、少年も私に会いに来ることはない。避けられているのではなく、単に私に対する興味がないのだろう。少年からすれば、私は素性の分からない居候でしかないのだ。
目を閉じても、眠れそうになかった。仕方無く、瞼の裏にある世界を受け入れた。ここではない、どこかの国のおとぎ話だ。
色彩の無い景色が広がっていた。早朝と呼ぶにはまだ早い時間。父親も、まだ起きていない。少年は、できるだけ音を立てないように家の中を歩き、外へ出て行った。凛とした冷たい空気が少年の肌を刺激する。吐く息が白い。
広場に到着する頃、朝日が夜の闇を焦がし始める。少年を含めた景色全体が、力強い臙脂色に染まっていく。少年は、ゆっくりと剣を振り始めた。目を覚ましたばかりの体は、言うことを聞かない。しかし、汗が流れるにつれて、柔らかくかつ滑らかに動きだす。少年は父親に憧れていた。逞しい背中に少しでも近づくために、考え付く限りの努力をした。早朝訓練は、その一つだ。
少年は、どこまでも真っ直ぐな表情をしている。強くなりたい。意志が滲んだ黒い瞳は、艶を帯びて輝いていた。少年はまだ、自分を取り囲む世界について多くを知らない。それでも、父親に近づけば、自分と世界とを変えられると信じていた。
瞼の裏に、いつかの私がいた。
目を開いて闇の向こうを見た。ほんの少しだが、窓の外が明るみ始めている。薄くなった闇の先に天井が見えた。
外へ出てみよう。ふいに意志が生まれた。理由は分からない。おそらくは、気まぐれな思いつきだ。それでも、水面に落ちた水滴が波紋を広げるように、私自身に対して無理のない自発的な欲求だった。
ベッドから体を起こした。身体は思い通りに動く。先ほどの足音の主と同じように、できるだけ音を立てないようにして外へ出た。ドアの向こうには、瞼の裏と似たような世界が広がっている。違いは匂いだ。記憶には、強い草の匂いは無かった。胸一杯に空気を吸い込んだ。想像していたよりも、温度が低い。季節は秋へ変わったのかもしれない。
朝日が山の向こう側を登り、稜線を赤く焦がしていた。間抜けな話だが、今頃になって、自分がどういう場所に居たのかを知った。窓枠に切り取られた景色から、ここが山の中腹であることは知っていた。しかし、それ以外は何も知らなかった。家の周りは小さな広場のようになって開けている。近くに他の家はない。家の前から道が一本伸びているだけだ。
地面を踏みしめるように、ゆっくりと歩いた。眩暈は感じない。どこか不安定に感じるのは、地面が柔らかいからではなく、ずっとベッドで寝ていたために、歩く感覚を忘れているからだ。すぐに慣れる。
歩行すれば、感覚を研ぎ澄ませなくても、筋肉や脂肪のつき方がわかった。無駄な脂肪は増えていないが、全身の筋肉は痩せ衰えている。自分の状態を常に把握してしまうのは、騎士としての習性のようなものだ。いつも、気がつけば無意識のうちに測り終えている。
少し進むと、道が二つに分かれていた。上へ伸びる道と、下へ伸びる道。山頂へ登る道と、街へ下る道だろう。下る道を選んだ。太陽が夜の闇を急速に溶かし始めている。この時間帯は、短い時間で景色の表情が大きく変わる。白と黒の世界に、太陽が濃い色彩を塗りつけていくのだ。幼い頃は、この景色が好きだった。父親よりも、ガルディよりも早起きして訓練に励んでいる。世界を独り占めしたような気分になっていのだろう。
緩やかな傾斜を、急がずに下った。すぐに、膝上の筋肉に疲労が溜まり出した。座り込むほどではないが、地面に足を着いて体重を支えるたびに、衝撃が膝に響く。小さなため息が出た。情けない。騎士だった頃の面影は、身体にも残ってないようだ。分かれ道にぶつかり、右側の道を選んだ。左側よりも太い道だったからだ。しばらく進むと、生木を叩くような音が聞こえだした。短い間隔ではないが、断続的に続いている。やがて、道の先が開け、広場のようになった場所へ出た。
鼓動が速くなり、喉の渇きを覚えた。理由は明白だ。見知らぬ場所で、私に似た少年の姿を見ることができるかもしれない。淡い期待が、緊張を呼び込んだのだ。広場の前で足を止めた。少年は私に気が付かない。
目の前に、どこかで見たような風景が広がっていた。
少年は、広場の奥に生える大きな木の幹に木剣を打ちつけていた。一振り、一振り、大きく振りかぶって全力で剣を振っている。シャツは汗で濡れて色が変わっていた。肩で息をしているのが、後ろ姿からでも分かる。
珍しい光景ではないのかもしれない。それでも、胸が熱くなった。少年は必死に剣を振っている。木剣を振り下ろしては、また、振り上げる。私が行っていた訓練とは違う。しかし、剣の道を選んだ人間としての姿勢は同じだった。方法論ではない。人知れず努力して流した汗の量が、鍛え抜かれた身体と技術の糧になる。また、実戦を経験したことがないはずの少年は、まだ知らないだろう。実力が拮抗した紙一重の勝負で勝者と敗者を分けるのは、純粋な剣技というよりも、修練に費やした時間と、そこで裏付けられた自信であることの方が多いのだ。
少年は、木の幹を打ち続ける。疲労によって体幹がぶれ、木剣を振る速度も明らかに遅くなっているが、それでもやめようとしない。
少年はどのような理由で剣を握っているのだろうか。木の幹は、表皮が剥げ落ち、木剣の跡が幾重にも刻まれている。早朝訓練を始めたのは、昨日や今日ではないはずだ。誰よりも強くなりたいのだろうか。それとも、誰かに憧れているのだろうか。もしくは、守りたい誰かがいるのだろうか。
気がつくと、両頬に熱い筋を感じた。舟の上で流したものとは違う。そういえば、私は昔から涙もろかった。父親からは渋い顔をされ、親友からはよくからかわれた。そんな日々があった。私にも、全力で剣を振っていた日々があったのだ。