安らぎ色の部屋
ぼんやりと天井を眺めていた。昨日も同じだったような気がする。明日も同じだろう。天井に私の求める何かがあるわけではなく、長い時間眺めていても飽きないような幾何学模様が描いてある、わけでもない。目を開ければ、天井がある。それだけだ。窓の外の景色にも、ベッドのそばに飾られている黄色い花にも興味は湧かなかった。
この日々は、いつまで続いてくれるのだろう。欲求というよりも、漠然とした願いを持っていた。自分から何かをしたいという気力はない。舟の上と同じだ。ただし、ここには肉体的な苦痛が無かった。嵐や照りつける日差しもなければ、不快な波の揺れも無い。私を苦しめる刺激もほとんどなかった。代わり映えのない時間だけが過ぎていくが、退屈には感じない。むしろ、安堵すら覚えていた。清潔なベッドと食事さえ与えられさえすれば、人は生きていける。何もかもが終わってしまったような虚脱感がないと言えば嘘にもなる。しかし、今の私にとっては瑣末なことであり。苦痛の少ない現実を受け入れた方が圧倒的に楽なのだ。
抜け殻。私を表現する最も適した言葉だろう。
砂浜で気を失った記憶はある。意識を取り戻したとき、私はこのベッドの上にいた。ここが何処なのか。誰もが抱くはずの疑問を、私は誰にも確認しなかった。そればかりか、何の行動も取っていない。目を開けていても、閉じていても、横になったままだ。ただひたすらに、安らかな状況を受け入れた。そのおかげか、舟の上では日常的だった眩暈も、大地に降りたときに感じた頭痛もいつの間にか消えていた。光の無い深淵に落ちるのは眠っている間だけだ。眠りから覚めれば、再び、白く清潔なベッドの上に戻ってくることができる。
一昨日までは、歩くことすらままならなかった。立ち上がって身体に力を入れようとしても、綿の上を歩くようで、足もとが定まらなかったのだ。排泄のために部屋を出るときは、壁に寄りかかりながら移動した。私の体力は、精神と同様に舟の上で尽きていた。そう、改めて認識した。
砂浜では少女を救おうとして走ったが、実際、走ることさえ満足にできないほど衰弱していた。今は、ゆっくりとならば歩くことができる。力が漲る感覚は無いが、体力は着実に回復していた。充分な静養と栄養のおかげだ。
部屋には窓が二つあり、簡素な部屋の中を若干の冷気を含んだ風が通り抜ける。この部屋に運ばれた記憶は全くない。舟をおりてからどれくらいの日数が過ぎたのかも分からない。崖下で気を失ったあと、私は昏睡状態に陥ったようだ。おそらく、一日や二日ではないだろう。誰かに聞いたわけではなく、右手首の状態から推測できた。砂浜を駆けた私は転びそうになり、体勢を立て直すために両手を砂浜に叩きつけた。あのとき、右手首の骨を負傷した感覚があった。過去の経験からいえば、完全に折れてはいないが罅が入っていた。負傷した部位にも依存するが、骨を負傷した場合、一週間以上は患部が腫れあがる。昏睡状態から覚醒したとき、右手首の腫れはすでに引き始めていた。動かすと痛みを感じたが、固定する必要がない状態だった。かなり長い期間、私は意識を失っていたはずだ。
目を閉じれば、ときおり、大波に揺られる感覚が蘇る。漂流時の記憶は、今でも、深い絶望や孤独を直接的に呼び起こす。不安を感じて呼吸が浅くなり、酷いときは体が震えてしまう。それでも、目を開ければすぐにこの場所へ戻って来ることができる。私は、ベッドの上に戻るたびに、手のひらでシーツの感触を確かめながら安堵している。ここ数日は、波の感覚を思い出す頻度も減った。不思議だった。今という密度の低い時間を噛み締めれば噛み締めるだけ、果てが無いと感じた深い絶望は薄れていく。
目を覚ました。今日という一日が、昨日と同じように訪れてくれた。
平坦な時間は緩やかに流れていく。安らぐ空間と衣類を与えられ、ほぼ決まった時間に食事も運ばれてくる。何の目的も持っていない私は、安静を貪ることを赦されていた。当然ながら、充実した日々を駆け抜ける時の達成感や充実感は無い。それでも、本当に心地よかった。
人間という動物の根本を形成しているのは、おそらく精神ではない。もっと肉体に近く、本能的で単純なものだろう。生きていくためには呼吸を続けなければならない。しかし、自発的な行動や思考は必須ではない。崇高な精神や気高い心も要らない。栄養と睡眠さえ与えてもらえばいいのだ。それだけで、少なくとも目の前の不安は払拭される。
バ ルガルディア大陸にいた頃の私は、自分自身を高めようとする意志を持っていた気がする。為すべきことを見据えて道を進みながら、さらに前へ行くための課題を自分に与えていた。間違いだった。自らに対する期待や希望が無くても、なんら不自由を感じない。これが真実だ。少なくとも、今の私に当てはまる現実だった。目を覚まして悪夢から逃れてはほっとし、天井を眺めてはこの部屋に永住したいとさえ本気で感じてしまうのだ。
足音が聞こえてきた。食事の時間だ。足音だけで、誰が来たのか分かるようになっていた。もっとも、選択肢は二つしかない。ドアが開き、トレイに食事を載せた女性が入ってきた。女性の名前は、聞かされたような気がするが覚えていない。
「お体の調子はどうですか」
「ええ」
「元気になってきましたね」
彼女は、いつものように微笑んだ。
「そういえば、頬のあたりがちょっぴり丸くなった気がします」
反射的に、頬へ手をあてた。髭の感触しかない。顎や鼻の下を触れたが、同じだ。かなり伸びている。輪郭が判るのだろうか。
「ごめんなさい。冗談です」
言葉では謝りながらも、彼女は悪びれた様子も無く口に手をあてて笑っている。私はどんな顔をすればいいのか分からない。おそらく、そんな顔をしているだろう。数日前から、こんな調子だった。時々、気まずい思いをさせられるが、彼女に悪気はないようだ。明るい性格なのだろうか。それとも、寝惚けたような相槌しか返せない見知らぬ男に気を遣って、明るく振舞っているのだろうか。
彼女がこの部屋に居るあいだ、私は慣れない笑顔を浮かべる努力していた。しているだけで、できたことはない。私から彼女に話しかけたこともなかった。話題が思い浮かばないのだ。誰かに何かを教えてもらいたいという欲求もない。必要なものは、すでに与えられていた。
「フィリスに叱られないように、たくさん食べてくださいね。お代わりもありますから」
「ええ」
上半身をベッドから起こしながら、答えた。
フィリスとは、歳の離れた彼女の妹であり、崖の花を摘もうとした少女だった。ここがバルガルディア大陸ではないと知ったのは、フィリスという名前を聞いたときだ。私の祖国ザクトスでは、フィリスは聖母の名を表す。人は神と同じ名前を与えられない。隣国には異なる神を信仰する国もあるが、そのような国では、なおさら他国の神の名を子供には与えない。
「今日もいい天気ですよ。夏も終わりになって、過ごしやすくなりましたね」
窓辺に立って外を見る彼女は、両手を大きく広げながら空気を深く吸い込んでいる。
「ええ」
世話好きの姉ができたようだった。実際は私の方が年上のはずだが、第三者から見れば、姉がいなければ何もできない人見知りの弟に映るだろう。兄弟という関係を除けば、全てが当たっている。
彼女は右足のつま先だけでくるりと反転し、視線をこちらへ向けた。微笑みが私を包み込む。思わず、罪の意識を感じて目を逸らした。誰かに微笑んでもらえる資格が私にあるのか。自信がなかった。私は、何をすることもなく、自らの命さえ絶てずに生き長らえているだけの存在だ。
別の足音が聞こえた。短い間隔でパタパタと軽い音が続く。フィリスだ。食事を終えたのだろう。
昏睡状態から目覚めて最初に見たのは、涙を流す少女の姿だった。フィリスは、私の右腕を軽く掴みながら、不安と心配を溶かしたような視線を私に注いでいた。フィリスの姿を見た私は、反射的に仰け反りながら叫び声をあげた。おぼろげな意識が引き裂かれ、明らかな恐怖が胃を収縮させたことを覚えている。
彼女たちは、叫び声の理由を、負傷した右手首の痛みのためだと理解した。たしかに、右手首は今でも完全には回復していない。しかし、間違いだった。私が驚いたのは、崖下へ落下したはず少女が目の前にいたからだ。
少女は白い花とともに砂浜へ墜落して死んだはずだった。
「お兄ちゃん、ちゃんとご飯食べている?」
ドアの向こうから大きな声が聞こえた。私は、反射的に視線を落とした。トレイにはシチューとパンが載っている。勢いよくドアを開けてベッドへと駆け寄ってきたフィリスは、深皿に入ったシチューの残り具合ではなく、私の顔を真っ直ぐに見つめた。つぶらな瞳だ。しかし、あまりにも近距離すぎる。
「はい」
「ほんと? 残してない?」
「まだ、食べ始めていないわよ。フィリスは食べ終えたの?」
「うん。もう、全部食べちゃった」
親子のような姉妹だった。この家には、姉妹と、フィリスよりも年上の少年が暮らしている。姉が親代わりとして二人の兄弟を育てているようだ。姉は温和な人柄で、自然体な言動と行動が兄弟を優しく支えているようにみえる。彼女は、素性すら分からない私に対しても、親切に接してくれた。多少気まずい思いはさせられるが、何一つとして質問を受けていない。
どうして、介抱してくれるのだろう。私はザクトスでは騎士だったが、聖人ではなかった。無償の愛を安易に信じることはできない。不安になり、理由を確かめたいと感じるときもある。しかし、思いが声になることはなかった。贅沢な夢から醒めてしまう気がして怖いのだ。
シチューを口に運んだ。キノコと野菜を煮込んだシチューだ。スプーンは、痛めた右手ではなく左手で持った。姉とフィリスは、笑顔で会話を続けている。
彼女たちにとっての私は、旅の途中で行き倒れた見知らぬ男だろう。当然だが、この大陸に私を知っている人間は一人もいない。また、私が話すバルガルディア大陸の公用語は、彼女たちが話す言葉と比べてイントネーションが微妙に異なった。地方に行けば耳にするような方言に似ているかもしれない。文法はほとんど変わらないため、会話の内容を聞き取ることはできる。根拠がうすい推測だが、おそらく祖国で聞いた言い伝えは正しかったのだろう。この大陸に伝わる言葉と、バルガルディア大陸の公用語は、起源が同じ言語なのだ。それ以外の説明は思いつかない。
姉と話すフィリスは満面の笑みを見せている。姉の表情にも、私に対する警戒の色は全くと言っていいほどない。なんとなく気づいていた。怪しい異邦人であるはずの私に対して、彼女たちはフィリスの命を救った恩人というラベルを貼ったのだ。常識で考えればありえない。七、八十メートルの崖から落ちれば、崖下の人間に落下した者を救う術はない。できることがあるすれば、受け止めようとして巻き添えをくうことだけだ。
それでも、少なくともフィリスは私に救われたと思い込んでいる。
「お兄ちゃん、ありがとう」
昏睡から目覚めた私に対して、少女は何度もそう言った。姉は、現実から目を逸らして、歳の離れた妹を信じたのだろう。私自身は、あの場所で何が起こったのか覚えていない。思い出そうともしていなかった。
「お兄ちゃん、また、ぼーっとしてるよ」
「ふぁい」
フィリスが顔をしかめながら、私の顔を覗き込んでいた。無邪気に心配してくれるのは構わないが、両手の親指と人差し指は私の両頬を引っ張っている。おかげで、言葉を覚えたての子供のような締まりの無い言葉を吐くはめになった。
「ホントに、大丈夫?」
「……」
「その手を離してあげたら、ね」
私の代わりに、姉が答えてくれた。目元は困ったような表情を浮かべているが、口もとは笑っている。
「遊んでもらうのは、お兄さんの食事が終わってからにしなさい」
姉はフィリスを後ろから抱きかかえて部屋を出て行った。
新しい家族ができたようだった。戸惑いというよりも、罪悪感に似た思いがある。私には贅沢すぎる温かさだ。
シチューを口に運びながら、非現実的な思考を始めていた。バルガルディアの公用語は、やはり、この土地の言葉と似ている。彼女たちの衣服や料理も、バルガルディアのそれと大差はない。窓から外から見える景色にも違和感はなかった。自分勝手な願望が体の内側から湧き出てきた。
しかし、願望はあくまで願望であって現実には作用しない。窓の外に広がる景色は、何の変哲も無い山の中腹だ。人工的な建物はない。たとえ大陸が違っていても、気候がある程度似ていれば、そこに生える植物にも大差はないだろう。この場所がバルガルディア大陸である可能性は極めて低い。
舟の上では、祖国ザクトスの紋章が入った制服を身につけていた。砂浜で脱ぎ捨てたときには汚れてぼろ布のようになっていたが、それでも紋章を確認できたはずだ。ここがバルガルディア大陸ならば、大国の一つであるザクトスとその紋章を知らない者はいない。砂浜から私をここまで運んできてくれた誰かが紋章を目にして、私の素性を知ったはずだ。
シチューを食べ終えた。空腹からの欲求はないが、これまでに食べ残したことは一度もない。正確には、残すことを許されていなかった。食事のあと、フィリスは必ずこの部屋にやってきて、食べ残しがないかどうかを確認する。できれば確認だけにしてほしいが、食べ残しを見つけると小さな姉は本気で私を叱り、全て食べ終えるまで見張り続ける。私は視線をつかって姉に助けを求めるが、姉はあからさまに気づかない振りをする。
フィリスと私の関係は、まるで飼い主とその顔色を窺う犬だった。フォリッシュ。妹が可愛がっていた犬の名前を思い出した。もともとは番犬としての役目を担うはずだったが、いつも気持ちよさそうに寝てばかりで、目を覚ますと妹の足もとにまとわりついた。妹だけにならばまだいいが、見知らぬ人にまで警戒を示さずに走り寄っていくため、いつしか番犬としての役目を期待されなくなった。
私も同じようなものか。いや、愛嬌があるぶんだけ、フォリッシュの方がましだろう。
パタパタと軽い足音がした。いつものように勢いよくドアが開いて、フィリスが部屋に飛び込んできた。
「お兄ちゃん、全部、食べた?」
言うが早いか、横から私に抱きついて深皿を見る。シチューが空になっていることを確かめると、大きく頷きながらトレイをひったくり、部屋を飛び出して行った。足音は小さくなったあと、すぐに大きくなる。再び、部屋に飛びこんでくると、また私に抱きついた。
フィリスは、いつも真っ直ぐに私を見つめる。ただし、顔が近すぎる。私は、いつもと同じように戸惑い、少女を引き離すこともできずに、かろうじて右手首だけを庇った。私が慣れるのが先か、それとも近すぎることにフィリスが気づくのが先か。少なくとも、前者は期待できない。フォリッシュを必死に躾けようとしていた妹の姿が頭に浮かんだ。
「右手、まだ痛いの?」
曖昧に頷くと、フィリスは大きく頷き返し、私から離れてベッドの端に座った。
「わかった。じゃあ、お話しよう。ねえ、どこから来たの? 嵐の中を舟で進んできたの? どうして、いつもぼーっとしてるの? 名前はなんて言うの? どんな仕事をしてるの? 学校の先生? それとも、お姉ちゃんと同じで山菜採りの名人? どうして、しゃべり方が少し変なの? お姉ちゃんのこと好き? お姉ちゃんとどっちが料理上手なの? お兄ちゃんとどっちが強いの?」
矢継ぎ早に質問が飛んできた。食事のあとの恒例行事だ。私が言おうとすれば舌を噛むだろうが、少女の言葉は高位の僧侶が唱える古代の呪文のように淀みない。いつものように半分ほど戸惑いながら、完全に戸惑った振りをした。前半の質問は毎回同じだが、後半は毎回違う。部屋に来る前に考えているのだろうか。
質問を浴びせかける少女に悪気はなく、答えられない私にも悪気はない。しかし、空気が質量を得たような気まずい時間が流れていく。もうすぐ姉がやってくる。それまでの辛抱だ。
「やっぱり、記憶が無くなってしまったの?」
フィリスの目が輝いている。返事のしようがなかった。理解できないが、記憶喪失はそれ自体が少女にとってロマンとなるらしい。しかし、残念ながら私は記憶を失ってはいない。忘れてしまいたい記憶は抱えきれないほど持っているが、その多くは脳裏に焼きついている。忘れることなどできそうもなかった。
円らな瞳が、私を凝視する。旺盛な好奇心を満足させる何かを返してあげたいが、言葉どころか、フォリッシュのような愛らしい表情さえ私には無理だ。
「フォリッシュの方がましか」
小声で呟いた。
「フォリッシュ」
フィリスの目と口が大きく開き、続いて笑みが広がった。笑顔の花が咲いたようだ。
「それが名前ね。とうとう思い出したのね。お兄ちゃん、頑張ったね。お姉ちゃん、お兄ちゃんが名前を思い出したよ」
喜びのあまりに私の怪我のことを忘れたのか、全力で私を抱きしめた小さな姉は、ついでに私の頭を撫でてから駆け足で部屋を出て行った。足音は、一旦遠ざかり、消える前にまた大きくなって部屋に飛び込んできた。
「ファラッシュお兄ちゃん、お姉ちゃんにも名前を教えてあげるね。明日までに、がんばって他のことも思い出してね」
それだけを伝えると、また駆け出していった。忙しない。ついでに、名前も変わっていた。
ファラッシュ。
久しぶりに、自然な苦笑が浮かんだ。