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私が救う

 違和感があった。眩暈は続いている。しかし、もう一つの揺れを感じなくなっていた。錯覚だろうか。感覚に自信は無かった。不安定な精神状態と極度の衰弱で、経験したことがないほど鈍化しているはずだ。


 うつ伏せの姿勢で、浅いまどろみの中を漂っていた。気温が下がっている。夜明けだろうか、それとも、夕暮れだろうか。外の世界は薄暗い。それだけは確かだ。背中に感じる風は冷たく、舟の床に直接触れている頬や手のひらに熱を感じない。おそらく、夜明けの方だろう。


 どこかに流れ着いてしまったようだ。


 眩暈の振幅が小さくなり、そう確信した。やはり、揺れを感じない。ほんの少しだけ安堵し、同時に大きな不安を感じた。刺激など欲しくない。小さな安堵と引き換えに、どこにも辿り着かなければよかったと後悔する時が必ずやって来る。鳩尾の裏あたりに冷たさを覚えた。不安を感じたときの兆候だ。思わず、鼻で笑ってしまった。口もとの筋肉が小さく動いて息が漏れただけで、声は出ない。


 懐かしい。初めて出場した剣術試合の前日にも、こんな冷たさを感じた記憶がある。私は、なんて間の抜けた人間だろう。矛盾しきっている。バルガルディア大陸では、幾度と無く戦場に身を投じ、その度に死への覚悟を決めてきた。そんな人間が、舟の上では命を絶つことができず、今も自分の行く末を怯えながら思い悩んでいる。乾いた頬の上を涙が流れた。涙の意味など、とうに無くなっている。


 自分自身を傍観し、負の感情が反発し合って弱くなる瞬間を待った。精神に空白ができたタイミングで体を動かそう。立てるようであれば、舟を降りよう。それだけを決めて、まどろみに浸り続けた。


 背中に感じる日差しが強くなっていた。舟の上に横たわったままだ。口の中だけではなく、喉の奥の方まで乾いている。不快だが、それでも、能動的に何とかしようという意識が生まれてこない。体に力が入らなかった。


 喉の渇きだけに集中しようとした。惨めさ、醜さ、虚しさ、寂しさ……。頭の中にこびりついた無数の負の感情を隅の方へ押しやり、僅かにできた空白に身体を動かすという意志をねじ込んで、上半身を起こした。身体は動くようだ。


 空を見た。快晴だ。水平線の向こうには、入道雲が浮かんでいる。舟の縁を掴み、体を支えて反対側を見た。


 鮮やかな色彩が、瞳に飛び込んできた。砂浜。その先の切り立った崖。崖の上に生い茂る緑。海と空と舟以外の景色を見たのは久しぶりだ。風が崖の上の木々を揺らし、私を包み込むように通り抜ける。涼やかな風だ。大地は生命に溢れている。当たり前のことを強く認識した。


 上半身に風を受けながら、私は光り輝く風景を浴びるように受け入れた。




 いつまで眺めても飽きなかった。瑞々しさを失わない。錯覚かもしれないが、癒される感覚まで覚えた。大地へ戻ろう。久しぶりに、正の感情が湧いた。微かだが、体の中に気力を感じる。絶望の住処となった小舟から離れ、生命が溢れる場所を目指すべきだ。


 崖の上へ向かう方法を考えた。崖上へと続く道は、ここからは見当たらない。崖に沿って、砂浜を右か左に回り込むしかないようだ。よくよく考えてみると、ここが大陸ではない可能性もあった。小さな無人島に流れ着いたのかもしれず、無人島であれば崖上へ続く道がないかもしれない。また、たとえ崖上に辿り着いたとしても、今の私には、果実を探したり、獣を追うだけの体力や気力は残っていない。


 小さく首を振って、余計な考えを振り落した。私は何も持っていない。崖上へ続く道を探す途中で力尽きたとしても、悔むべき理由はないのだ。ここが無人島であっても、慣れ親しんだ大地の上で死ねる。それだけで充分だ。最後に美しい景色と生命の息吹を感じることができた。どちらも、私の内側からは決して生まれない。予期せぬ幸運に感謝すべきだろう。


 舟の縁を掴みながら、砂浜へ降りた。正確には、ふらつきながら地面へ落ちて両膝を着いた。硬い。砂浜ですら、そう感じた。


 両手をついて腰を上げた。立ち上がろうとすると、眩暈が襲ってきた。力を抜いて、再び、四つん這いになる。胃がせりあがってくるように感じたが、吐き出せるものはなかった。揺ぎ無い大地の上ですら視界が揺れる。熱を帯びた砂浜を拳で叩いた。表層の砂は動くが、その奥はびくともしない。笑みが浮かんだ。眩暈がしたのは、久しぶりに立ち上がったからだ。大地に立つ感覚を思い出せば、すぐに消える。自分に言い聞かせて、ゆっくりと立ち上がった。今度は大丈夫だった。大地は揺れない。軽い頭痛を感じたが、眩暈に比べれば大したことはない。


 汗で濡れ、肌に貼りついた上着を脱ぎ捨てた。地面に落ちた服の色を見て驚いた。ひどく汚れている。口元や頭部を触ると髭や髪も伸びていた。絶望の中心で佇んでいたのは精神だけで、身体は時の流れに乗っていたようだ。


 舟から離れ、大地の上で生涯を閉じよう。大きく息を吸って崖下へ歩き出した。はじめの一歩を踏み出したとき、後ろ髪を惹かれるような思いに駆られた。理由は分からない。積んであった水は、飲み干していた。食料は嵐で濡れ、陽光に照らされて腐りかけている。思考をやめた。舟の上での経験など、思い出したくない。今は全てを忘れて、全身に浴びる風の気持ちよさだけを感じていたい。


 美しい景色を眺めながら、前に進んだ。


 風に揺れる木々と植物。記憶にあるどの風景とも合致しない。しかし、違和感もなかった。見たことがあるようにも感じるが、似ているだけかもしれない。植物について学んだことはなかった。薬草に関する知識を若干持っているだけだ。これまでの生活では、気に留めたこともない。


 一歩一歩、踏みしめるように歩いた。日常的な動作のはずが、体をうまくコントロールできない。両手両足を動かす感覚を忘れている。衰弱のためか、下半身に力が入らず、すぐに息が切れた。まだ、十五歩も進んでいない。どうにか十数メートルほど歩いたが、疲労に耐えきれなくなって腰を下ろした。口の中は唾が出ないくらいに乾いている。それでも、全身から汗が吹き出た。


 崖までの距離は遠くない。たかだか四、五十メートルだ。まずは、崖下の日陰まで歩こう。そこで少し休み、右と左のどちらかに回り込んで崖上へ向かう道を探す。崖を見上げた。真っ直ぐに切り立った崖だ。ゴツゴツとした岩肌が、七、八十メートルほど上方に伸びている。崖を登るのは無理だろう。


 真っ白いワンピース。


 見上げた崖の上に少女が立っていた。長い髪が風を浴びてふわりと浮いている。錯覚だろうか。汗で濡れた前髪をかきあげ、もう一度見た。間違いない。少女は、私に向かって無邪気に手を振っていた。笑顔だ。警戒心を抱いていない。つまり、ここは無人島ではない。そう確信した。


 バルガルディア大陸のどこかに戻ってきたのかもしれない。眠りから覚醒したときのような感覚があった。希望によって引き起こされた錯覚だ。マイナスの思考が、すぐに安易な直感を否定する。バルガルディア大陸ではないかもしれない。海を挟んだ見知らぬ大地に流れ着いた可能性もある。伝承が語るように、見知らぬ大陸にも人が住んでいるのだろうか。


 ここからでは、白いワンピースの細部は見えない。しかし、街で見かけるシンプルなデザインのようだ。この大陸がバルガルディアであることを願った。もしバルガルディアに戻ったのであれば、私は一人ではない。やるべきことがある。両の拳を強く握った。今からでも立ち上がれるはずだ。失ったものを、一つでも多く取り戻してみせる。


 再び、少女へ目を向けた。少女の興味は私から離れていた。しゃがみこんで崖下を見ている。冷たい汗が背中を流れた。崖の上方には、所々に白い小さな花が咲いていた。名前は知らない。少女が立つ場所のすぐ下にも咲いている。危険なことはしないで欲しい。思わず、目を背けながら願った。私は願うことしかできない。それで精一杯だ。


 もう一度、少女を見上げたとき、少女の姿は消えていた。安堵した途端、少女の顔が現れた。崖上で腹ばいになって、花の方へ手を伸ばそうとしている。やめるんだ。叫ぶべきかもしれなかったが、声は出なかった。私の声に驚いて転落するかもしれない。そうなってしまったら、取り返しがつかない。私には、乗り越えられない障壁ばかりがつきまとう。私の身体は不幸を塗り固めてできているのだ。


 少女に不幸がおよぶことを恐れ、せめてもの想いで母が信仰していた聖母に祈った。少女に悲劇が訪れないように。いや、私の目の前で悲劇が起こらないように。


 少女は花を摘むために、手を伸ばし続けた。祈りも願いも届きはしない。それどころか、上半身を乗り出している。私は、それでも、祈りだけを捧げた。少女のためではない。私自身のために祈った。


 自分にだけ都合のいい祈りなど通じはしない。知っていたはずだ。身勝手に祈るだけで幸運が訪れるならば、戦場へ向かう父親の背中に憧れなど抱かなかった。剣を振ることなく、毎日、教会へ向かっただろう。人々にとって信仰は必要だ。しかし、それだけでは生きていけない。だからこそ、私は、父親と同じように剣の道を選んだ。


 思考と矛盾している。しかし、目を閉じてもう一度だけ祈った。私はこの程度の人間だ。惨めな想いが膨らんでいく。祈りによって現実が変わることはない。分かってはいるが、愚直に祈るしかなかった。


 目を開いたとき、少女は前のめりに落ち始めていた。右手で花をつかみ、左手には掴むべきものが何もなかった。悲鳴があがる。少女はゆっくりと回転していった。少女の足先が見えるまでの一秒にも満たない間、私は気が狂うほどに憎むべき対象を探した。悪いのは誰だ。


 少女か。白い花か。崖か。神か。いや違う、私自身だ。


 暴発した感情が、思考を麻痺させた。気が付いたとき、私は我武者羅に手足を動かして、走り始めていた。明確な意志に基づいた行動ではない。軽蔑すべき自分自身への抵抗が身体を突き動かしたのだ。間に合わない。瞬時に分かったが、諦めるための言い訳にはしなかった。


 すぐに、よろめいた。加速をつけるための前傾姿勢を下半身が支えきれない。罵声を上げながら堪えた。実際は、掠れた小さな声が口から前に落ちただけだ。身体にうまく力が入らない。筋肉が連動してくれない。無駄なことはやめるべきだ。意味の無い愚かな行為だ。結果など分かりきっている。何の役に立たない否定的な考えばかりが脳を刺激した。


 違う。首を強く左右に振った。全てを放棄して、海の上で感じた以上の絶望を味わうのか。止まれない。止まれば、また深淵へ沈む。


 砂に足を取られ、身体が斜め前に大きく傾いた。絶対に止まらない。両手を砂浜に叩きつけた。右手首に激痛が走り、背筋も凍ったが、些細なことだった。体勢を立て直し、さらに前へ駆けた。


 ここで諦めてしまえば、私は終わる。今度こそ確実に私の精神は死ぬ。自分に言い聞かせ続けた。すでに息は上がっている。全身の感覚はバラバラだ。全力で砂浜を蹴っているはずなのに、前に進まない。足が空回りしているかのようだ。体が重い。頭痛も急に激しくなった。瞬間的な激情とは裏腹に、諦めるべき理由と言い訳が数ダースも頭の中に並んだ。なぜ、私と私の前だけで世界中の悲劇が起こる。私は誰も救えはしないのに。


 衰弱しきった精神と肉体に対して、精一杯に抗った。しかし、限界だった。速度が徐々に落ちていく。少女の悲劇は、もうすぐ最悪の形で幕を下ろす。砂浜に叩きつけられるまで、あと十メートルほどしかない。私から落下地点までの距離はその倍以上ある。砂に足を取られてバランスを崩し、走る速度が大きく落ちた。


 諦めてはいない。出鱈目に全身の筋肉を動かしている。それでも、分かっていた。間に合わない。仮に間に合ったところで、何もできはしないのだ。少女の未来は、砂浜に叩きつけられるか、私に叩きつけられるかのどちらかでしかない。


 臆病者。言葉にならない感情の塊を吐き出した。死んだも同然となったこの期に及んで、何を躊躇っている。違う。断じて違う。私に不可能なことなど一つもない。怯えるな。全てを解放して曝け出せ。天使の生き血が必要ならば殺して啜る。悪魔が望むのなら、地獄の業火に焼かれてやる。それでも、少女を救う。


 私は完全に自由だ。束縛などありはしない。


 身体の奥底に、凝縮されたエネルギーの塊を感じた。急速に膨れ上がっていく。身体が内部から破裂してしまう。湧き上がった恐怖をねじ伏せてエネルギーに身をまかせた。


 足がもつれ、倒れこみながら、それでも少女へと手を伸ばした。私は知っている。私が少女を救う。そう、私だけが少女を救うことができる。


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