喪失色の煽情
叫び声は、その欠けらも響かなかった。私自身にさえ聞こえない。荒れ狂う波の上、私は小舟が傾く方向へ反転していた。豪雨に全身を打ちつけられて何も見えず、強風で呼吸すら満足にできない。私は、世界に漂うほんの小さなノイズでしかなかった。どれほど大声を上げようとも、血が滲むほど拳を叩きつけようとも、波紋は広がらない。私が世界に与える影響は皆無だ。
所詮、この程度なのだろう。私の意志や想いなど限りなく小さい。存在すらがちっぽけだ。全ては何かに翻弄され、受動的に受け入れるしかない。
なぜ、生きているのだろう。
理解できない力に苦しみ、誰よりも強かった父親を死なせ、大切な人たちを全て失った。もう一人きりだ。何を目指し、何を信じて呼吸を繰り返せばいい。
腹の底から叫び声をあげた。
やはり、聞こえない。豪雨は、どこまでも私を掻き消してしまう。舟が大きく揺れ、なすがままに転がって頭と肩を何かにぶつけた。沈むかもしれない。直感的にそう思ったが、恐怖はなかった。手を着いて上半身を起こす。ふと、この行為の意味を考えた。何もない。舟に乗ったことは、ほとんどなかった。嵐の対処方法など知らない。そもそも小舟では対処などできないのかもしれない。起き上がって何をしようというのだ。力が抜け、舟の床に額を打ちつけた。痛みすら鈍い。どうにでもなってしまえばいい。
過去へ思いを巡らせた。何ができたのだろう。何をすればよかったのだろう。開いたままの口の中へ、雨水と混ざった海水が入り込んでくる。意識すれば辛さを感じるが、どこか遠い。興味もない。そんなことよりも、答えが見つからなかった。“正しい”とは、何を指すのだろう。“正しい行動”とは、何なのだろう。私は、どんな行動をすべきなのだろうか。いや、すべきだったのだろうか。
現実と想いとが混ざり合い、頭の中が灰色に混濁していく。決して変わることのない過去の映像と、その場所にいる私の思い上がった言葉が頭の中を駆け回る。誰でも構わない。時を戻してほしい。あの慣れ親しんだ場所へ帰りたい。もしくは与えてほしい、無条件に心酔できる何かを。それが適わない妄想であるのなら、せめて理性を砕いてほしい。どうして、これほど苦しまなければならないのだ。この先に何がある。救いなど待っているはずがない。
目をかたく閉じて、拳を握った。何も見たくない、聞きたくもない。
雨が弱まっていた。
空は黒い。夜なのか、それとも嵐のためなのか分からなかった。波は依然として高く、舟は大きく揺れている。転覆してしまえばいい。他人事のように思った。外なる闇と内なる深淵の中、視界が黒い色で溶け合っている。稲光の見える方が外の闇だろう。深淵には、一筋の光も無い。
ときおり、体の奥の方で痛みを感じた。体の中心近くだが、心臓ではない。正確な場所は分からなかった。自分の体さえも、意識の外にあるようだ。己の無力さを噛み締めながら、放心してしまったのだろうか。恥ずかしかった。己の身体すら律することができない。騎士としてあるまじき姿だ。
予兆無く、感じていた痛みが弾けた。反射的に体が横を向いて丸まり、喉から水のような液体が噴き出た。腹部が凹み、舌先が口から出る。苦しい。しかし、なによりも惨めだった。私は、私を取り囲む状況だけでなく、私自身に対しても絶望するしかないのか。這いつくばり、こんな姿になってまで生きる意味があるというのか。頭の中に思い浮かぶ親友に問いかけた。彼は答えてくれない。なぜ私を殺さなかった、ガルディ。宿敵となった男も、答えを与えてはくれなかった。力の漲った瞳さえ向けてくれない。ガルディの視線は私を避けている。いや、違う。自分自身を恥じるあまり、私がガルディを直視できないのだ。
ゆっくりと意識が遠のいていった。
いつの間にか意識が戻っていた。嵐も過ぎ去っている。舟の揺れ加減で、海が凪いでいることも分かった。空は晴れ渡り、日差しが真上から照りつける。私は無意味な呼吸を続けていた。
蒼い。空一面には、鮮やか過ぎるほどの蒼色が広がっている。しかし、それだけだ。蒼色は蒼色でしかない。視界に入る光景に、何の感情も湧き上がらなかった。
しばらく空を眺めていると、不安定さを感じ始めた。未経験の感覚で、なぜか、とても不快だった。何かふわふわとした大きなものに全身を包まれ、頭部を不規則に揺らされているようだ。不安定さを払拭するために、体を反転させてうつ伏せになった。
これでも生きていると言えるのだろうか。体のどこにも力は残っていない。何日も同じ衣服を身につけたまま、半ば受動的に呼吸を続けている。私のような存在を人間と言っていいのだろうか。わからない。考えたくもなかった。未来も欲しくない。この世に希望などありはしないのだ。ならばいっそのこと、これ以上の刺激を受けることなく、世界から消えてしまいたい。絶望はもう充分だ。どこにも流れ着かず、干乾びて死んでしまいたい。はやく私を解放してほしい。
加速する負の思いとは裏腹に、言葉が蘇った。
「最後の約束だ、次に会う日までの」
言葉など、取るに足らない記号と同じだ。意味を含んでいるとは限らない。声を打ち消そうとして、頭を振った。
「頼む。生きてくれ」
親友だと信じた男が吐いた、別れ際の言葉だった。どこまでも、彼らしくない言葉だ。目的を達成するためには、都合のいい真実とさらに都合のいい嘘を絶妙に混ぜてさらりと話す男が、最後の最後に子供にでも見抜ける嘘を口にした。
「会うことなんて、もう、あるわけないだろう」
久しぶりに、自分の声を聞いた。弱々しい乾いた声だ。
別れ際、私は終始無言だった。親友は、それ以上何も言わずに食料と水を小舟に積んだ。聡明な彼は知っていたはずだ。一方的な言葉など約束ではない。
数日が経過した。
舟に乗せられてから、どれくらいの時間が経ったのだろう。分からなかった。一週間くらい過ぎたのだろうか。嵐に遭遇したのがいつだったのかさえ覚えていない。
海へ出てから何も口にしていなかった。空腹は感じないが、口の中が粘っこく渇いている。背中や後頭部に受ける日差しが強くなり、べとつくような蒸し暑さも感じる。水を飲みたい。そう思うが、欲求よりも気だるさの方に支配されていた。
理由は分からない。しかし、ときおり、親友の言葉が頭に浮かぶ。
「できることなら、全てを忘れてしまえ。悩んだところで答えは見つからない。たとえ見つかったとしても、それは新たな苦しみでしかない」
呟くように話す親友は、辛そうな顔をしていた。いや、彼は、本当にそんなことを言ったのだろうか。記憶は定かではない。無言の視線から、私が勝手に感じ取っただけなのかもしれない。あのとき、私はすでに絶望の深淵に落ちていた。他人と会話をする精神力は失っていたはずだ。それなのに、なぜだろう。親友の最後の姿が、容易に思い浮かぶ。初めて見た表情だったからだろうか。それとも、私の脳が私を生かそうとして、実際の記憶以上に印象的な映像を見せているのだろうか。
これまでの人生で、誰かと約束を交わした経験はあまりなかった。はっきりとした理由は思い付かない。縛り付けられるようで、好きではなかったのだろうか。そう言えば、親友とは、幾つかの約束をした。その全てを守ったような気がする。私が誠実だったわけではない。最も身近にいたリアリストは、実現可能な約束しか求めなかった。それだけのことだ。
理由も無く、少しだけ力が湧いた。起き上がらずに上半身を横に捻った。遅れて、下半身が反転し、仰向けになった。眩しい。光が鋭角な白い多角形となって瞳を突き刺した。反射的に目を閉じ、今度はゆっくりと目を開けた。
蒼い。そして、遠い。空はどこまでも広がっていた。あちらこちらに浮かぶ真っ白い雲は、勢いよく膨れ上がっていくようだ。どこかを注視するのではなく、全体的な蒼と白のコントラストを眺めた。やはり、何の感情も湧き上がってこない。
呆けたように、ぼんやりとしていた。気がつくと、空へ吸い込まれていくような感覚があった。体が浮き上がっていく。大空の果てへ引き寄せられ、私の存在が消える。感覚に身をゆだねて全身の力を抜いた。視界が霞み、白く、薄く融解していく。
瞬間的に、世界の全てが濁った。目が眩み、視界が禍々しく歪む。強烈な嘔吐感が体を縦に突き抜け、地面に叩き落された。見えない巨大な足が私の腹部を踏みつける。体を丸めて胃にあるものを吐き出そうとした。嘔吐するものがない。呼吸さえできずに、嗚咽だけが喉から溢れた。乾いた喉がひび割れてしまいそうだ。
苦痛の砂漠に溺れたような時間がしばらく続いた。舌の裏側に少量の唾が湧いたとき、私の身体は小刻みに震えていた。苦しみは去ってくれない。意思に背いて反乱を起こした体が、いやそれ以上の何かが私を許してくれなかった。吐き出すものがない嘔吐を何度も繰り返した。涙が流れる。苦しい。辛い。誰か助けて欲しい。嘔吐と同じ数だけの救いを求めた。誰も助けてくれない。私は一人きりなのだ。
もう、青空すら見たくない。目を閉じた。しばらくすると嘔吐感と震えが止まった。しかし今度は全身が痺れだした。加えて、波とは異なる波長の揺れが頭を揺さぶり始めた。麻痺も眩暈も軽度だが、吐き気の予兆は断続的に胃の底を刺激する。不快さに耐え切れず、横を向き両手で両足を抱くようにして小さく丸まった。目の奥にある黒い世界さえ不規則に回っている。体の中で、何かの崩壊が始まったのかもしれない。舟ではなく、私自身が終着へ辿り着こうとしているのだろうか。
まどろみ、意識を失いかけては目を覚ます。判然としない空間を彷徨っていた。
声が聞こえた。
「真っ直ぐに、前だけを向いて進めばいいだろう。お前は不器用だから、それ以外の方向は見えないよ」
歪んだ世界に、いつかの親友がいた。ガルディに剣術を指導する私の父親の姿も見える。
「道の傍らにある障害物は、俺が取り除く。お前は、正面の壁のみを打ち砕け」
俯いて地面を見つめる私に、親友が言い放った言葉だ。少年の面影が残る彼の顔は、確信に満ち溢れている。初めて出場した剣術試合の直後かもしれない。決勝でガルディに勝利するつもりだった私は、準決勝で対戦した昨年の準優勝者に敗れた。
必死に、甘いまどろみから這い出した。過ぎ去りし思い出だ。過去の記憶など、今はもう甘すぎる毒でしかない。頬が濡れている。私は、また泣いていた。
どうしようもなく情けなかった。小舟の上に存在する小さな世界には、果てしないほどの私の弱さが詰まっている。可能ならば、全身をかきむしり、内部に溜まった膿を全て排出したい。
高ぶった感情の光が、己の惨めさと醜さをさらに照らす。私は、自分自身の本当の姿を知ったのだろう。騎士という鎧を取り去れば、一人で立ち上がることすらできない人間だったのだ。世界は、苦痛で満ち満ちている。ここから逃げ出したい。楽になりたい。心の底から願った。
願いが通じたのかもしれない。涙の泉が枯れた頃、受動的ではなく、自発的に楽になれる方法を思いついた。ガルディに敗れ去り、私は剣を捨てた。脆弱な人間が進むべき道ではないと確信したからだ。それでも親友は、食料や水とともにそれを舟に積んだ。
上半身を起こした。頭を持ち上げた途端に眩暈が酷くなった。視界に飛び込んできた海の濃い青色と空の明るい青色が不規則に回る。我慢できずに、また横になった。嘔吐感が全身を硬直させ、冷たい汗をかきながら浅い呼吸を繰り返した。楽になりたいと願うだけでも苦痛がつきまとう。そんなものだろう。生きることなんて、苦痛を感じることに他ならない。
しばらく待ったが、眩暈は治まらなかった。逆に、こめかみの辺りを締め付けるような痛みを感じ始めた。もうこれ以上、我慢できない。瞬間的に自分自身を騙し、腹筋に力を入れて上半身を持ち上げた。足もとを見る。剣が見えた。舟から落ちないように、舟の縁に紐で縛り付けられている。酷い眩暈のせいか、剣は曲がりくねっていた。世界全体も揺らぎながら回転している。身体を支えることができずに、再び後ろへ倒れこんだ。
どれほど待っても、眩暈と頭痛がやまない。これで最後だ。本当に最後だ。自分に言い聞かせ、強引に体を起こして四つん這いになった。手足を動かすことだけに集中する。頭が割れそうだ。日差しを浴びて汗をかいているはずなのに、寒さを感じている。それでも、前に進んだ。舟は小さい。剣はすぐそこだ。指先が鞘に触れた。
そこまでだった。鞘を掴む前に、記憶が途切れた。意識は無くなったはずだ。しかし、闇の中をどこまでも落ちていく感覚だけが残った。
どれくらいの時間が過ぎたのだろうか。時間的感覚は完全に欠落していた。必要のない感覚だ。今日も昨日も、その前の日も、舟の上にいた。暗くなり、明るくなっては、また、暗くなる。それだけだ。絶望は、絶え間なく、そして静かに続いている。眩暈は依然として頭の中に居座っているが、頭痛や吐き気は消えた。理由は分かっている。本能が、無意識に約束を守ったからだ。
意識を取り戻した私は、傍らに転がっている革袋と千切られた紐を見た。革袋は空で、苦痛は減っていた。つづけて、剣を鞘ごと抱きしめている自分に気づき、無意識に自分が取った行動を知った。意識が曖昧な状態で水を飲んだのだ。その先のことは、はっきりと憶えていない。おぼろげな記憶によれば、涙を流しながら、さらに別の革袋を取って喉を潤した。泣いた理由は分からない。知る必要も無いだろう。
眩暈が治まりかけては仰向けになって空を眺めた。実際には、何も見てはいない。目を開けているだけだ。眩暈が酷くなると、うつ伏せになって目を閉じ、まどろみの中に落ちた。苦痛は思考を鈍くする。そう考えるならば、眩暈も薬の一種だった。苦痛の無い状態で目を閉じれば、常に何かが思い浮かぶ。ほとんどが、充実していた過去のへ羨望か、死への願望だった。
激情は、どこかへ消え失せた。私という人間は、精神的に追い詰められた状況でさえ、自分に対する第三者的な視点を捨てることができない。絶望した状況にありながら、自分の状態を把握しようとする。一時的な恐慌状態に陥ることはあっても、精神が完全に破綻することは無いのだろう。命が途切れる最後の瞬間まで苦しむしかないのだ。
仰向けになった。いつの間にか、夜になっていた。空には星屑が広がっている。小舟の上には、幾千、いや幾万もの光が燦々と降り注いでいた。波の音だけが聞こえる。無機質な光を見上げながら、ただただ寂しかった。
この寂しさこそが、今の私だろう。星は輝くことをやめない。そこに意志はなく、自らが砕け散るまで光を放ち続ける。人の視点からみれば星の一生は無限であり、時の流れとして捉えるならば果て無き大河だ。人間の過去や未来など、星にとっては誤差程度の短い時間でしかない。一瞬の一言で片付けられる。ならば、星空を眺める人は変わっても、星空は変わらない。
私は今、星を眺めている。時間や場所に依存しない絶対的な存在を眺めている。どこかにいる誰かもきっと眺めている。過去の誰かも夜空を見上げ、未来の誰かも同じように見ているに違いない。そうだとすれば、私はその人たちと時を共有していると言っていいのだろうか。一緒に星を眺めている誰かとつながっていると考えてもいいのだろうか。
古い言い伝えを思い出した。この舟は、バルガルディア大陸の南方を漂っているはずだ。現在、完全な世界地図は存在しない。海の向こうに関する確たる情報はなかった。ただ、古い言い伝えは残っている。遥か昔、この海の先には大陸があったらしい。言い伝えは、バルガルディアに住む人々の祖先が、そこから流れ着いたと語る。もし本当ならば、海の先にいる人々も、私と同じ星を眺めているのだろうか。
やはり、寂しかった。夜空を埋め尽くす全ての星々が大地へと降り注ぎ、私も世界も崩壊してしまえばいいという妄想を抱きながら、それでも、傍らに誰か居て欲しいと思った。確信は持てないが、たとえこの身を海へ投げ出したとしても、酸素を求めてもがきはしないだろう。しかし、私以外の誰かが海に落ちたのならば、全力でその誰かを救おうとするはずだ。もう一度、強くなろうと思い立ち、生きることへの執着が湧くかもしれない。いや、幻想だろうか。私は、自分自身がどうしようもなく弱い人間であることを知っている。
また、眩暈がひどくなり、星と月が回転を始めた。