生きる場所
森を抜けて大道に辿り着いた。シトカから三キロメートルほど離れた場所だ。道の先を確認したが、前にも後ろにも人影は無かった。
「間に合ったな」
「はい」
襲撃に臨む盗賊たちは、彼らに対抗するだけの戦力がシトカにないことを知っている。抱えているのは、戦闘へ望む緊張感ではなく、歪んだ欲望のはずだ。シトカに到着すれば、その感情に飲まれ、略奪と殺人のかぎりを始める。街の方から喧騒が聞こえてこないということは、少なくとも、まだこの場所を抜けていない。
道の中央に二人で立った。アーフィルの横顔に翳りは見えない。いや、私に見えていないだけだろうか。自らの死に恐怖を感じない人間などいない。
「ベドガでは、すでに戦闘が始まっているでしょう。間違いなく、ベドガの護り人が本領を発揮しています。負傷しているとはいえ、いえ、負傷しているからこそ、デュレクは誰よりも激しく戦う。その背中が、騎士たちを鼓舞しているはずです」
アーフィルは、前を向いたまま呟くように言葉を出した。視線の先に、小さな群れが見え始めていた。
この青年を死地へ導いてよかったのだろうか。後悔にも似た思いを感じていた。優柔不断な自分自身が恨めしい。考えれば考えるほど、アーフィルは死ぬべきではないと思えてくる。ベドガにおいて騎士隊が闇の鐘に敗れるとすれば、デュレクが生き残ることはない。ならば、やはり、誰かがベドガ騎士隊を立て直す必要がある。その人間は、アーフィル以外に考えられなかった。
正攻法で説得しても無駄だろう。聡明な副隊長は、デュレクとの約束を胸に抱いている。自ら納得した上で、この場所に立つことを選んだのだ。
「ここは私がなんとかする。君はベドガ騎士隊とシトカ警備隊を指揮して住民を避難させてくれ」
とも言えなかった。虚勢を張ったところで、真意を見抜かれるに決まっている。いっそのこと、剣によって打ち倒し、「役に立たないから消えろ」とでも言うべきか。
「もし、つまらないことを考えているのなら、やめてください。私はあなたに死んでくれと頼んだ。デュレクは、敗れることはあっても、最後の瞬間までベドガを護り続けます。私だけ生き残りたいとは思わない」
アーフィルの顔を見た。思わず驚いた顔をしてしまったのだろう。アーフィルは、私の顔を見つめて、首を横に振った。
「あなたも、デュレクも、優しすぎる」
「死ぬことが、怖くないのか」
心を読まれた悔しさからだろうか、それとも、正しい指摘を受けたからだろうか、気休めにもならない問いを投げかけた。青年は、再び私を真っ直ぐに見た。次いで、微笑んだ。
「怖いですよ。正直に言ってしまえば、今すぐに逃げ出したいと思っているんです。でも、足が竦んで動けそうにない。だから、一緒に戦わせてください」
自ら死に場所を決める。それを許された人間は多くない。もっとも、それができたからと言って幸福かどうかは分からない。やはり、アーフィルは生きるべきだ。隊長としての素質はある。この経験を糧として研鑽すれば、デュレクを超える騎士隊隊長になれる。
膨れ上がる想いを強引に押し潰した。アーフィルは、自らの意志で道を選んだ。ベドガ騎士隊としての選択としては、間違っているかもしれない。しかし、アーフィルはアーフィルとして生きるべきだ、私が私として生きているように。彼を止める権利を、少なくとも私は持っていない。
場違いなことは分かっているが、それでも苦笑が浮かんできた。瞬間的に、凝縮された記憶が脳裏を駆け巡ったのだ。この地に辿り着いた私は、崖の花を摘もうとしたフィリスに声をかけることができなかった。自分の不幸が少女に移ることを恐れたためだ。そんな私が、アーフィルの意志を曲げてでも、己の意志を押し付けようとした。小さな変化だろうか、それとも、大きな変化だろうか。
やはり私は、第三者的な視点を捨て切れない。戦闘を前にして、過去と現在の私を比較している。二人の私には大きな隔たりがあった。いや、そうだろうか。本質的には、大きな違いはないのかもしれない。バルガルディアにいた私は騎士として純粋だった。今の私はバルガルディアでは味わえなかった経験を積み、精神的な弱さも克服した。その上で、以前と同じように自らの足で戦場となるべき場所に立っている。今ならば、私は、自分を信頼することができる。仮に未来があるとして、そこで絶望の深淵に沈んでいくとしても、私は自らの力で抜け出せる。
ほんの少しだけ満足感に浸り、頭を切り替えた。盗賊たちの姿が大きくなっている。
「アルトスは、あの中にいるか?」
「姿は見えません」
「首領の姿は?」
「いないようです」
想定通りだ。闇の鐘の本隊はベドガにある。戦闘の要となる人間がシトカへ向かう理由はない。さらに言えば、ここへ来る盗賊たちは、戦闘能力の低い者たちである可能性が高い。戦力が皆無であるシトカでは、殺人と略奪さえできれば、役割としては充分なのだ。アルトスが、有効な戦力をシトカに割くとは思えない。
盗賊たちは三百メートルほど前まで迫っていた。横へ無造作に広がり、隊列を組んでいない。剣をすでに抜いている者、まだ抜いていない者、談笑している者、欠伸をしている者と様々だが、やはり誰も緊張を感じていない。心構えの観点からみても、個々の戦力は高くない。しかし、だからこそシトカへ辿り着けば、欲望の赴くままに歪んだ本能を撒き散らす。その結果は、目を覆いたくなるような惨劇だろう。
「どうやってあれだけの人数を食い止めましょう」
気負いの無い口調でアーフィルが言った。口笛でも吹きそうな口調だが、その裏側がみえた。半分は身体の内側に溜まりつつある恐怖を吐き出すため、もう半分は言葉通りの意味だろう。彼は、実際の戦闘に関して私の方が経験豊富であることを知っている。
「食い止めようとしないことだ。無理をせずに、可能な限り生き延びればいい。相手は烏合の衆だ。我々を無視して先を急ぐことなどできない。だから、生き延びた時間だけ、相手を食い止めたことになる」
「なるほど。では、どのタイミングで戦闘を始めますか」
「近くに来るまで待とう。盗賊からみれば、相手はたったの二人だ。慢心しきっている。また、統率する者もいない。我々を包囲することなど考えず、個々の意志にまかせて自分勝手に斬りかかってくるはずだ。盗賊が充分に近づいたら、彼らより先に私が斬り込み、盗賊の向こう側へ抜ける。向こう側に辿り着いたら剣を真上に突き上げるから、それを合図に君も斬り込め。私は、向こう側から再度斬り込む」
アーフィルが頷いた。
「何があっても、絶対に止まるな。止まれば、囲まれる。囲まれてしまえば複数の刃に襲われる。そうなれば、その時点で全てが終わる。無理をして、相手を斬る必要も無い。一人二人倒したところで、戦況は傾かない。防御を優先させ、盗賊の層が最も薄い場所だけを選んで駆け抜ければいい。その過程で、真正面に立ちはだかる相手がいれば、もしくは余裕があれば、その相手だけを斬れ」
「わかりました」
私は徐々に横へ移動してアーフィルと距離をとった。注意散漫な盗賊たちが私の動作を見逃さないように、身体ごと横を向いている。移動した理由は、盗賊の群れをさらに横へ伸ばすためだ。前方向から見た盗賊の層が薄くなれば、そのぶんだけ容易に向こう側へ行ける。また、アーフィルには伝えていないが、私自身は盗賊を斬ることにも重点を置くつもりだった。もちろん、無理をするつもりはないが、戦闘の早い時点で、立ち向かえば殺されるという恐怖を相手に植え付ける。明らかな勝ち戦では、誰もが自らの命を惜しむ。目の前に勝利がぶら下がった状況で、白刃の前に立ちたいと思う人間は少ない。
さらに、群れの中に盗賊を統率できる者がいれば、無理をしてでも、その人間を真っ先に殺す。五十人もの人間が組織的に行動すれば、たった二人の人間ではどうしようもないからだ。言い換えるならば、時間稼ぎができる前提条件は、相手が雑兵であることだ。もし雑兵でなければ、頭を潰して雑兵に貶める必要がある。
それでも、狂気に駆られ、捨て身で剣を振るう者が数人もいれば、我々はすぐに命を落とすだろう。
「他に気をつけるべきことはありますか?」
「戦闘が始まれば、周囲の全方向に敵は存在する。目の前の一人を凝視することなく、可能な限り群れの全体像をとらえるんだ」
「わかりました」
アーフィルが頷き、静寂が訪れた。しかし、長くは続かなかった。
「デュレクが言ったとおりかもしれない。あなたの戦場は、ここではなく、もっと大きな舞台であるべきだ」
闇の鐘の集団は、表情を読み取れる位置まで近づいていた。彼らには、これから戦闘を行うという認識はないのだろう。覚悟の欠けらもない緩んだ表情が並んでいる。
「私は、デュレクを尊敬しています。彼は今、死力を尽くして戦っている。私の戦いも、もうすぐ始まる。おそらく、今の状況こそ絶体絶命と言うのでしょうが、それでも、あなたと一緒に戦えてよかった」
「アーフィル」
「はい」
この状況で満足感など覚える必要はない。どうしても感じたいのであれば、それは力尽きるまで盗賊たちを食い止めたあとの一瞬だけでいい。言葉を替えて伝えた。
「力を抜いて、できるだけ深く呼吸をしておけ」
「わかりました」
盗賊の群れとの距離が五十メートルを切った。確信した。統率する者はいない。群れはだらしなく横に伸び、十人前後の人間が先頭にいる。頭数は、アーフィルが把握していた通り五十人程度だろう。すなわち、盗賊は縦に五人ほど並んでいる。また、彼らの表情を見る限り、数の優位をそのまま己の戦闘力の差異だと勘違いしている。まずは、二、三人を斬り捨て、向こう側へ走り抜ける。そのあとは、群れの形を考慮しながら判断する。
アーフィルが剣を抜いた。帯剣ベルトはずして、鞘とともに地面に置く。少しでも軽く、速く、そして長く動くためだ。ベドガ騎士隊副隊長は、劣勢に瀕した状態でも冷静だ。
盗賊たちの嘲笑が聞こえてきた。相手を見下した顔。筋肉と同じくらいに贅肉を付けた身体。磨かれていない剣。無造作な足取り。こんな輩に私が負けるわけが無い。私を斬れるわけがない。自らを鼓舞し、全身を、そして魂を灼熱の炎へと変えていく。
目を瞑った。
視覚、聴覚、嗅覚、全てが遠くなる。静寂。何もかもが消え去った空間に私がいる。盗賊も、アーフィルもいない。過去の私もいない。フィリスも、テオリアも、父も、ガルディも、親友さえもいない世界。広大な世界に私だけがいた。私は自らの両足で真っ直ぐに立ち、目の前には道がある。私の裡にも、外にも、負の感情は微塵も無い。答えが見つかったのかもしれない。いや、築き上げたのかもしれない。
目を開けた。私は、今、戦場にいる。ここが私の生きる場所であり、前には道がある。信じる道を行こう。この道を戻ることは、イシュハーブ大陸で築き上げた自分自身の否定につながる。この道で佇むことは、己を信じて鬼神との戦いに臨んだ、あのときの私を裏切ることになる。私は生きている。さらに生きるために前に進む。
剣を抜いた。銀色の刃が艶のある輝きを放つ。内なる精神は論理的思考を保ち、身体は躍動する瞬間を待っている。
盗賊たちが十メートルに迫った。地面を踏みしめた。
「ファラッシュ」
私の名を呼ぶアーフィルは、前ではなく後ろを見ていた。目が合うと、青年は微笑んだ。
「ここは私が食い止めます。行ってください」
それだけを言い残し、アーフィルは盗賊の群れへ向かって走り出した。
「行かないで」
叫び声。振り返った。女性が一人駆けてくる。テオリア。なぜ。疑問は、すぐに消えた。私は彼女の行動力は知っている。
「来るな」
力の限りに叫んだ。テオリアが立ち止る。
驚きはある。しかし、精神は揺るがない。この世の中にある全ての不幸と困難は、私に向かって降り注ぐ。以前から知っていたことだ。それでも、私は前に進む。
やるべきことは変わっていない。全力を賭し、最後の瞬間まで盗賊を食い止める。その間に、テオリアは逃げるはずだ。
前へ向き直った。アーフィルが駆けている。順番が替わった。彼が先陣を切り、私が続く。盗賊の向こう側で彼の剣が頭上高く掲げられる、その瞬間を待つと決めた。