表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
イシュハーブ騎士物語  作者: 歌舞・Na・意伝
A Will of the Knight
17/22

曇り空

 フィリスと手をつないで家を出た。上空にはどんよりとした空が広がっている。春はもうすぐのはずだが、気温は依然として低い。吐く息は白く、冷たい空気が肌を刺した。見送るテオリアに笑顔はなかった。フィリスも俯きがちだ。私は、平静を装うことに必死だった。


 二つの出来事が起こった。どちらも深いため息を誘う出来事だ。一つは家庭内で起こり、テオリアとフィリスは普段の生活に影響が及ぶほど気力を失っている。私は、彼女たちを何とかして元気付けたいと思っているが、今朝まで具体的な行動を取れなかった。もう一つはベドガを中心としたこの地方全域に及ぶ。現時点で事実を知る人間は少なく、私もテオリアたちに話していない。代わりに、普段通りの生活を心がけているが、内心では危機感を禁じえずにいた。昨晩の寝つきは悪く、今朝の早朝訓練にもあまり身が入らなかった。


 「天気、あんまりよくないね」


 空では無く地面を見つめるフィリスが、呟くように声を出した。表情まで空模様のように曇っている。いつも見せてくれる晴天そのもののような笑顔は、完全に影を潜めていた。一週間前、ファーンが家を出た。その後、少年は一度も家に戻ることなく、友達の家から学校へ通っている。テオリアとフィリスが元気をなくしている理由だ。


 一週間前の夕方、任務を終えてシトカから戻った私は、家に入る直前で激しい言い争いの声を聞いた。声の主は、テオリアとファーンだった。初めての経験であり、その場で立ち止まったまま、中へ入って仲裁すべきかどうかを悩んでいるうちに肌を打つ音がした。たとえ兄弟でも、女性に手を上げてはならない。また、ファーンの体力は、最近著しく向上している。大怪我を負わせてしまう可能性もあった。私が慌てて部屋へ入ると、泣き声をあげ始めたフィリスが走り寄ってきた。


 ファーンと向かい合うテオリアの頬は、涙で濡れていた。ファーンは口を引き締めて、テオリアをじっと見つめている。少年の頬は赤く腫れていた。 


 「テオリア、どんな理由であっても、家族に手を上げてはいけない」


 顔を押し付けるように私へしがみつく少女を優しく抱きしめながら、姉へ静かに声をかけた。テオリアは私の目を見つめて、微かな声で返事をした。その拍子に下まぶたに溜まった涙が流れ、新たな線を描いた。ファーンはテオリアから視線を外さない。


 「姉さん、ごめん。でもやっぱり、僕は間違っていない」


 それだけを言って、少年は家を出た。言葉を返さなかったテオリアは声にならない息を吐いて口を閉じた。私は動けなかった。


 やがて、閉じていたテオリアの唇を破って嗚咽が漏れ始めた。私を見上げたフィリスは、私のシャツに顔を押し付けて涙を拭い、テオリアのもとへ数メートルを走った。少女は背伸びをしてテオリアを抱きしめようとしたが、私はその時点になっても動けなかった。フィリスの髪に落ちるテオリアの涙の雫を眺めていただけだ。


 テオリアから事情を聞いたのは、その日の深夜過ぎだ。一時の激情は去ったのだろう。私の部屋にやってきた彼女は、表面的には落ち着きを取り戻していた。


 私が家に到着する少し前、ファーンは、剣の先生であるディーンと一緒にこの地方を離れることをテオリアに告げた。少年は、剣の修行のために世界を巡ることを独りで決めたらしい。しかしテオリアは、突然知らされた弟の決断を認められなかった。正確には、認められないだけでなく、あまりにも一方的な言い方に対して怒りと哀しみを覚えた。結局、お互いに自分の考えを譲らないまま、口論が始まった。


 口論の過程で、ファーンは自分が置かれている状況を包み隠さずに話した。少年は、自身の決断を、まだディーンに伝えていなかった。ファーンとしてはディーンに話すよりも先に姉の了解を得たかったのかもしれない。しかし、その行為ですら、テオリアにしてみれば身勝手にしか思えなかったようだ。


 私が入れたゴンゴ茶のカップを両手で持つテオリアは淡々と説明してくれた。口調は、熱を帯びていなかった。しかし、少年の親代わりであり、家族で暮らしたいと願う彼女の意志は、立ち上る湯気のように熱を失っていなかった。たしかに、テオリアの主張は間違っていない。少年の決断を認めたくないという気持ちも分かる。それでも、ファーンの決意は固いはずだ。推測だが、見誤ってはいないだろう。テオリアは感情が揺れ、弟の頬を叩いて涙を流した。一方ファーンは、強い視線を姉に向け、「ごめん」と謝って家を出た。少年は、姉の思いが分かるほど冷静でありながら、その思いを受け入れなかったのだ。


 テオリアが部屋に戻ってから、私はテオリアもしくはファーンのためではなく、二人のためにできることを考えた。眠ってしまうまでの数時間頭を悩ませたが、具体的な方法はみつからなかった。どちらの主張も正しく感じてしまったのだ。そもそも、正しい、正しくないで論じられる内容ではないはずだ。話し合ってお互いの妥協点を探すべきだと思うが、不甲斐ない私にはどこが妥協点になるのかも分からなかった。逆に、こんな状態で話し合えば、再び口論になり、歩み寄れないほど二人の仲が悪化することを恐れた。


 思い返せば、バルガルディアで生活していた私は恵まれた環境に居たのだろう。幼き頃より、強くなるために心血の全てを注ぐことができた。私の思いを、家族や友人が肯定してくれたからだ。ファーンを私に照らし合わせるならば、少年の思いを受け入れたくなる。しかし、テオリアは失意の底に沈んでいた私に救いの手を伸ばしてくれた。彼女はかけがえの無い恩人だ。正直な気持ちとしては、テオリアの力になりたい。結局、純粋で単純なはずの二つの思いは、私の胸の奥で絡み合って相反する方向を指したままだった。


 シトカ警備隊には、ファーンと同級生の子を持つ隊員がいる。私は、毎日彼に会って、ファーンの様子を聞いていた。残念ながら、今のところ、少年が家に戻る様子はない。テオリアは普段どおりの生活を続けているが、表面的にそう見せているだけだ。フィリスはテオリアに気をつかっているのか、意識的にファーンのことを話そうとしない。食事のときに、いつもならばファーンがいるはずの席をちらりちらりと見るだけだ。


 何らかの行動が必要だ。昨日の朝、焦燥感に駆られた私は、遂に決心した。結局、私の中で蓄積した思いは、具体的な考えに結実するまでに一週間もかかってしまった。


 フィリスと手をつないで、山道を下っている。ファーンと話をするために、シトカへ向かっていた。私が強引に導き出した結論は、どちらかと言えば、二人の中間というよりテオリアの考えにちかい。ファーンの剣術がある一定のレベルを超えるまで現在の環境で訓練を続け、そのあとで世界を巡るべきかを話し合う、というものだ。もちろん、一定の根拠もある。現時点におけるファーンの技術と体力は、旅に出て本格的に剣を磨くにはまだ足りていない。むしろ、旅に出るのならば、もう少し実力を上げてからの方が効果的なはずだ。ディーンがこの地方を離れてからの剣の指導は、私が務めるつもりだ。


 間違った考えではなく、私の本心とも矛盾しない。テオリアも受け入れてくれた。ファーンがどういう反応をするのか分からないが、私の考えを押し付けるのではなく、少年の考えを聞きながらストレートに説明してみるつもりだった。


 客観的に考えれば幼児の半歩程度でしかないだろうが、私は自分にできる最大限の行動をしているつもりだ。しかし、小さな姉の決断力と行動力は、その年齢を考慮すれば、私の遥か上空にあった。実は、フィリスを連れてシトカへ向かっているのでは無く、フィリスに連れられてシトカへ向かっている。ファーンと会う決断をしたのは、私ではなくフィリスだった。昨晩、小さな姉は、貯めたお小遣いを全て持って私の部屋に現れた。


 「ファラッシュお兄ちゃん。明日、ファーンお兄ちゃんに会おう」


 姉や兄に劣らない行動力を持った少女は、彼女なりに二人を仲直りさせる方法を考えていた。


 フィリスのアイデアは、テオリアが好きなフルーツとファーンが好きなお菓子を買って二人にプレゼントするというものだ。微笑ましく、いかにもフィリスらしい。美味しい物を食べて笑顔になれば二人の仲がよくなると考えている。相手が少女自身であれば、それが成り立つのだろう。


 足が地面に着くたびに、微かな金属音が鳴った。帯剣ベルトに吊るした剣が音を立てている。普段であれば意識することはないが、それだけ、神経が過敏になっていた。もう一つの出来事は、さらに深刻だった。


 デュレクが盗賊に急襲されて重傷を負っていた。一命こそ取り留めたが、立ち上がることすら困難な状態にある。襲われたのは二日前だ。


 現在、ベドガ騎士隊は動揺と混乱を防ぐ目的で内部に緘口令を敷き、デュレク負傷の事実を公にしていない。ベドガの住民は非常事態に際していることを知らなかった。私は、ベドガ騎士隊との合同練習にやってきた副隊長のグストフから、昨日、知らされた。三人の副隊長の中で最年長のグストフは、剣技においてアーフィルほどの冴えをみせないが、言動も行動も落ち着いた男だ。騎士隊では、デュレクやアーフィルを含めた隊員たちの相談役を担っている。そんな彼が、昨日の訓練では平静を装えずにいた。


 アーフィルは、デュレクの代わりに騎士隊長としての職務に追われ、もう一人の副隊長であるフーゴは、通常の職務に加え、事件の調査を含めた事後処理を行っている。結果として、現在のベドガ騎士隊は、騎士隊としての機能を充分に果たせる状態にない。


 ベドガの東部にガーガルというシトカと同規模の街がある。デュレクが襲われたのは、定期的に実施しているガーガルへの見回りから帰る途中であり、具体的な場所は森を抜ける道の途中だった。デュレクが率いていた騎士の数は十名。対して、盗賊の数は二倍を超えていた。さらに、敵は烏合の衆ではなかった。少なくとも、戦闘を熟知した人間が指揮を執っていた。


 盗賊は兵力を二つに分け、騎士隊を待ち伏せた片方が先に襲い掛かり、もう片方は騎士隊が怯んだ隙に、騎士隊の後方から襲い掛かった。


 挟撃されて退路を失った騎士隊は、戦闘の態勢を整える時間すら与えられずに半数が死んだ。全滅しなかったのは、デュレクが負傷を受けながらも盗賊の壁を突破したからだ。五名の騎士が壁の隙間を抜け、奮闘を続けるデュレクの指示に従ってベドガへ逃走した。デュレク自身も、追いすがる盗賊を斬りながら、かろうじてベドガヘ辿り着いた。その過程で、彼は五人以上の盗賊を骸にかえ、さらに同数の盗賊に負傷を負わせた。しかし、やはり大打撃を受けたのはベドガ騎士隊だった。純粋な戦士としても騎士隊の中で最強であり、かつ精神的支柱であるデュレクは、街に着くと同時に倒れて意識を失った。その場へ駆けつけて彼の傷を診た老齢の騎士隊専属医師は、デュレクを取り囲んでいた騎士達を大声で叱りつけ、拳を振り上げて重傷を負った人間を手荒に運んだ人間を探したらしい。彼は、騎士たちから説明を受けても、デュレクが自力でベドガまで辿り着いたことを信じなかった。それほどの傷を、デュレクは負っていた。


 グストフからデュレクの負傷を聞いたとき、私は私を含めた周囲の空気が凍りついたかのような衝撃を感じた。デュレクの容態を心配したのは、友人として当然だ。しかし、衝撃の理由は他にあった。盗賊が闇の鐘であり、かつ闇の鐘の標的がベドガ騎士隊の誰かではなく、ベドガの護り人であったとすれば、今回の襲撃は氷山の一角でしかない。水面下では、さらに深刻な事態が広がっている。最悪の場合、すでに手遅れかもしれない。私は、昨日の訓練を途中から自主練習にかえてアーフィルへ手紙を書いた。的を外している可能性もあったが、状況を見守って判断できるほどの余裕はなかった。手紙はグストフに渡してある。アーフィルは、すでに読んでいるはずだ。迅速に対応してくれることを願った。

手紙には、闇の鐘がベドガ騎士隊の壊滅にむけて準備をすすめている可能性を書いた。私の推測が当たっていれば、準備はすでに完了し、実行段階へ入っている。その一つが、騎士隊隊長の襲撃だ。


 昨年の夏に鬼神が全滅した時点で、ベドガ騎士隊と闇の鐘の力関係はベドガ騎士隊の方に分があった。ただしアーフィルが言ったように、「人数のみを比較すれば闇の鐘が上」だった。戦闘における常道は相手よりも大きな戦力をそろえることだが、たしかに夏の時点ではベドガ騎士隊の方が優位だったはずだ。片や訓練によって技術と体力を磨いた騎士であり、片や自分すら律することができない盗賊だ。戦力としての質が明らかに違った。


 しかし現時点では、闇の鐘、いや、おそらくアルトスという男が、戦力の差を縮めるどころか逆転させた可能性がある。アルトスがどれほどの男なのか知らないが、現状から推測する限り相当に優秀な男なのだろう。ベドガ騎士隊の動向を知ったアルトスは、ベドガ騎士隊が闇の鐘討伐の準備を始めた同時期に、対抗手段の準備を始めたはずだ。数で優位に立つ闇の鐘が取るべき道は単純だ。盗賊を鍛えて、個の戦力を向上させればいい。言うほどに簡単ではないはずだが、その効果は現れている。デュレクへの急襲では、圧倒的に有利な状況をつくりあげ、かつ、騎士隊隊長に深手を負わせたのだ。


 また、ベドガ騎士隊からみれば、闇の鐘の戦力が上がったことよりも、騎士隊隊長の負傷自体が痛撃となる。ベドガの護り人として騎士隊の象徴であったデュレクが倒れた影響は計り知れない。精神的な支柱を欠いた騎士たちの士気は間違いなく低下し、その原因をつくった敵に対して恐怖を感じるだろう。


 結果として、デュレクやアーフィルからすれば忸怩たる思いだろうが、春先に迫っていた闇の鐘の討伐は延期せざるを得ない。しかし、それだけで済むようであれば影響は小さい。私が恐れているのは、アルトスがさらなる一歩を踏み出す可能性だ。闇の鐘による襲撃は、デュレクの殺害には失敗したが、重症を負わせることには成功した。この状況をアルトスがどうみるかだ。ベドガ騎士隊を壊滅させる絶好の機会とみれば、次なる行動に出るにちがいない。実際、今、ベドガ周辺の街が襲われてしまえば、ベドガ騎士隊は個々の街を守りきれない。襲われた街は壊滅的な被害を受け、大々的な略奪や殺人が起こるだろう。


 身近に迫る危機を回避するためには、迅速な対応が必要だった。アーフィルには、私の考えとともに、闇の鐘の動向を調査し、状況に応じてあらゆる手段を検討するように要請している。また、一刻も早く、国都へ一時的な援軍の要請を行うように伝えた。


 隣を歩くフィリスが静かだった。地面を見つめたまま、私へ顔を向けようとも、話しかけようともしない。少女へ話しかける言葉を捜したが、すぐには見つからなかった。代わりに見つかったのは後悔の念だ。


 真冬にアーフィルから聞いた情報では、闇の鐘は周辺の盗賊団と抗争していた。正直に言えば、違和感というよりも、意図的な隠蔽を感じていたのだ。アーフィルに話すべきだった。盗賊同士の抗争は、明らかな敵対関係にあれば別だが、積極的な意味が無い。盗賊を襲ったところで略奪する物はなく、仮にあったとしても、街人を襲う方が遙かに効率的なのだ。ベドガ騎士隊を油断させるための陽動ではないかと考えていた。すなわち、闇の鐘はいたずらに戦力を減らすような愚を犯していない。抗争によって戦力を低下させたのではなく、周囲の盗賊団と手を結ぶことによってさらに戦力を上げているはずだ。


 私の推測に、明確な根拠は無い。外れていてほしいとも思う。しかし、楽観的な気分にはなれなかった。今日はシトカ警備隊としての職務を休むつもりだ。しかし、フィリスと一緒であるにもかかわらず帯剣している。理由は、決意に等しい。もしもシトカで何かが起こるようであれば、全力をもって私が対処する。

 



 足音が聞こえてきたのは、山の麓まで下りたときだった。分岐した細い道の先から、誰かが駆け足で迫ってくる。頭の中で嫌な予感が膨れた。この辺りの地理には詳しくなっている。足音が聞こえてくる道は、シトカへ続く道ではなく隣の山へ通じる道だ。ただし、別の用途でも利用される。「若者への道」と呼ばれるベドガへの近道だ。もちろん、通れば若くなるという意味ではない。若者でなければ通れないほど険しいという意味だ。ベドガとシトカをつなぐ大道は平坦だが、左右の山を迂回するように道が伸びているため、かなりの距離になる。一方この道は、高低差は激しいが、シトカとベドガを直線でつないでいる。


 手を強く握ったフィリスが、不安な表情で私を見上げた。


 「大丈夫。知っている人だよ」


 できるだけ優しく答えた。イシュハーブ大陸へ流れ着いたばかりの私は、生活圏の全てがベッドの上だった。そのおかげで、テオリアとフィリスの足音を聞き分けられるようになった。シトカの雑踏の中でも、二人の足音であれば、私は聞き分けることができる。意識していなかったが、いつの間にか彼の足音も覚えてしまったようだ。


 立ち止まった。分岐点を曲がり、速度を落とすことなくこちらへ駆けて来る人間が、私たちに気づいた。アーフィル。彼はほんの少しだけ目を見開き、表情を変えることなく、私たちの前まで駆けた。戦闘用の制服を着用し、帯剣している。額に浮いた玉の汗と荒い息が、緊急の事態であることを告げていた。驚く必要も、慌てる必要もなかった。ある程度は予期していたのだ。


 肚を決めるまでに、瞬きをするほどの時間も必要なかった。おそらく、私はすでに肚を決めていたのだ。テオリア三兄弟は私が守る。これだけは絶対にゆずれない。また、デュレクとアーフィルが窮地にあれば、彼らに協力する。シトカ警備隊隊長としての自覚もある。今、全てのベクトルは同じ方角を向いている。なんの矛盾も無い。


 フィリスをどうするべきか考えた。一人で家まで帰れるだろうか。もしくは、シトカまで一人で行けるだろうか。どちらでも大丈夫だ。私が一緒に暮らす三兄弟の行動力は、極めて高い。副次的に、自分自身の精神状態も把握できた。死を覚悟した状態にあっても平静だ。


 「闇の鐘が動いたか?」


 アーフィルは、再度目を見開いたあと、少しだけ微笑んだ。


 「はい。総攻撃に出ています」


 「私は何をすればいい」


 ベドガ騎士隊副隊長は、無言で私の顔を見つめ、視線を斜め下へ落とした。荒かった息が整いはじめている。アーフィルも冷静だ。フィリスを気遣ってくれている。私は無言で頷いた。


 「フィリス。急ぎの用事ができてしまった。一人で家に帰れるかい? もしくは、ポピンか、ファーンの友達の家に行けるかい?」


 「家に帰すべきです」


 アーフィルが答えた。危険はシトカまで及ぶ。そういうことだろう。


 「一人で家へ帰れるかい? 用事を済ませたら、ファーンに会って家に戻るように話すよ」


 少女の円らな瞳を見つめた。フィリスは口を開きかけたが、そこから質問が飛び出ることはなかった。口を閉じた少女は、湿り気を含んだ視線で私を窺う。直面している事態は分からなくとも、緊迫した状況を感じとったのだろう。そういえば、私が鬼神のアジトへ向かったときも、フィリスは直感でわかったようだ。今回も同じだろうか。


 「お兄ちゃんに会うの? じゃあ、お兄ちゃんが大好きなお菓子を買って渡して。あと、お姉ちゃんが大好きなフルーツも買ってきてね」


 「わかった」


 「約束だよ」


 頷いて、フィリスがポケットから取り出したお小遣いを受け取った。単なる銅貨ではない。誓いだ。私は、約束を守るために全力を賭す。踵を返して家へと戻ろうとするフィリスを、後ろから抱きしめた。もう会えないかもしれない。その思いが、反射的に身体を動かしていた。少女は、驚かずにじっとしている。ありがとう。心の中で呟いた。


 抱きしめる力を緩めると、今度は、反転した少女が私を抱きしめた。


 「お姉ちゃんと待ってるからね」


 再び反転した少女は、走り出した。


 心残りは、ある。今回も、テオリアに別れの挨拶を言えなかった。束の間目を閉じて、想いを胸の奥深くへしまった。アーフィルと視線を交わして頷く。戦場へ向かおう。視線で、そう告げたつもりだ。


 「言いづらいのですが、おそらく、生きては帰れません。それでも、私に、ベドガ騎士隊に力を貸して…」


 「戦場へ急ごう」


 私の顔には、自然な笑みが浮かんでいるはずだ。私ほど幸運な人間はいない。この大陸へ辿り着いて、本当によかった。心の底からそう思った。優しい人たちに出会い、いい友を持った。アーフィルは緊急事態であるにもかかわらず、あくまでも正直に私を説得しようとした。


 「しかし」


 「くどい。デュレクがベドガ騎士隊の精神を携えているように、私にも騎士としての心得がある。私が知る騎士とは、自らの意志で困難へ向かう者だ。騎士が困難から目を背ければ、守るべき存在を誰が守る。君が止めても、私は自らの判断で戦場へ向かう」


 気分が高揚したのだろう。私は、普段ならば、決して吐かないセリフを吐いていた。


 「……ありがとうございます」


 アーフィルの言葉を合図に走り出した。戦場が待っている。今は感傷などいらない。背後に聞こえたベドガ騎士隊副隊長の足音は、すぐに私の横へ並んだ。走りながら、戦況を聞いた。


 現在、ベドガへ約六百五十人の盗賊が向かっている。対するベドガ騎士隊の数は五百だ。昨年秋の時点では、闇の鐘が五百、ベドガ騎士隊は四百だった。戦士としての質の差で優位にあったベドガ騎士隊は、戦力の強化としてさらに厳しい訓練を課し、騎士の数も増やした。しかし結果として、数の差は広がった。盗賊が急増した理由は、闇の鐘の規模自体が大きくなったのではなく、周囲の盗賊団がベドガ襲撃に加わったためだ。


 戦闘を回避する道は、すでに閉ざされていた。昨晩、アーフィルは闇の鐘へ緊急の交渉を申し入れたが、アルトスはそれを即座に拒絶した。その時点で、アーフィルはこの事態が発生する可能性を考え、闇の鐘のアジトに見張りをつけた。今朝になって、見張りを行っていた騎士から連絡が入り、盗賊の群れがベドガへ向かって出発したことがわかった。アーフィルの判断は悪くない。ただし、彼はベドガ騎士隊と闇の鐘の戦力差を見誤った。


 「デュレクの容態は?」


 「胸と背中に深手を負っています。しかし、どんなことがあっても戦場に立ちます」


 私もデュレクの性格は知っている。誰かが止めようとしても、ベドガの護り人は決して首を縦に振らないだろう。戦士としての純度が高く、ベドガ騎士隊隊長であることに誇りを持っている男だ。ベッドの上から戦場へ向かう騎士を見送るくらいなら、戦場で散ることを選択する。しかし、それが正しい行為だとは限らない。


 「指揮を執れるのか?」


 デュレクはベドガ騎士隊の象徴だ。彼が戦場に姿を現さなければ、騎士たちの士気は下がる。しかし、剣も握れぬ状態で戦場に現れ、むざむざと殺されるようであれば、そうなった時点でベドガ騎士隊は崩壊する。


 「大丈夫です」


 アーフィルが、強い視線をぶつけてきた。瞳には有無を言わせない力があった。先ほどと逆だ。私に言われるまでもなく、アーフィルは誰よりも状況を把握している。その上で、傷付いた隊長が戦場へ出ることを認めているのだ。


 闇の鐘のアジトを出た盗賊たちは、現在、ベドガとシトカを結ぶ大道を進んでいる。時間的には、すでにベドガへ到着しているかもしれない。対するベドガ騎士隊も、盗賊を迎え撃つべくベドガを出ているはずだ。ベドガは要塞ではない。防御に適した外壁は無かった。ならば、住民たちを危険に晒さないために、ベドガから離れた場所を戦場に選ぶ必要がある。


 私がデュレクであれば、数の優位性を最小限に抑えるため、大道の最も細い場所で盗賊を待ち受ける。しかし、闇の鐘は先手を打っていた。約半分の盗賊を、昨晩の時点で、アジトとは別の場所へ移動させていたのだ。六百五十のうち、三百五十の盗賊は闇の鐘のアジトから出発したが、残りの三百名はガーガルとベドガをつなぐ別の道を進んでいた。二つの道はベドガの直前で交わる。そこは大道で最も広い場所だ。兵力に余裕がなく、かつ、ベドガの守備を最優先とするベドガ騎士隊は、どちらか一方のみを撃退することも騎士隊を二つに分けることもできなかった。結局、闇の鐘にとって最も有利な場所で彼らを迎え撃つしかない。


 ベドガ襲撃の全貌を察知できたのは、昨晩、アーフィルが闇の鐘だけではなく、周囲の盗賊団にも見張りをつけたからだ。副隊長の機転により、闇の鐘を迎え撃つ最低限の準備をすすめることはできた。またアーフィルは、昨日の未明に、最も近い主要都市である国都ロシナムへ援軍要請の使者を送った。しかし、最も近いとは言っても実際の距離は遠い。最短でもロシナムからの援軍が到着するのは今日の夕方以降だ。つまり、ベドガ騎士隊は自らの戦力のみで盗賊団を撃退するか、もしくは、少なくとも今日の夕方まで持ちこたえなければならない。


 ベドガ騎士隊副隊長は、あくまでも冷静だ。正確に状況を把握している。しかし、だからこそ、疑問があった。危機的状況とアーフィルの行動が一致しない。


 「五十名前後の盗賊がシトカへ向かっています」


 胸の裡にあった疑問は、その言葉によって迫り来る刃へと変わった。常識的に考えれば、ベドガが襲われる状況で、副隊長であるアーフィルがここへ来るはずがなかった。私を戦力と考え、戦闘への参加を要請するのであれば、要職にない人間を送ればいい。また、私の家は、ベドガからみれば、闇の鐘のアジトよりも遠い。私の到着が戦闘に間に合わない可能性も少なくない。


 アーフィルは説明を続けた。


 闇の鐘から三百五十名の盗賊が出発した三十分後、アジトに残っていた約五十名の盗賊も出発したらしい。後発の盗賊は、ベドガ方向ではなく反対方向のシトカへ向かっている。盗賊たちの動きは非常に緩慢で、自分たちの存在を知らしめるように大道を進んでいるらしい。


 闇の鐘がシトカを襲う理由は、おそらく、デュレクおよびベドガ騎士隊へ精神的な苦痛を与えることだ。アルトスは、アジトがベドガ騎士隊に見張られていることを知っていた。また、ベドガ騎士隊がベドガの防御で手一杯であり、現時点でシトカへ騎士を送る余裕がないことも把握している。ベドガ騎士隊は、シトカの犠牲を止むを得ないと考えざるをえない。しかし、責任感の強い人間であればあるほど、己の責任と無力さを感じてしまう。そして、その思いが強すぎれば冷静な判断力を失ってしまう。戦闘にも影響するだろう。アルトスの狙いは、そこにあるはずだ。


 結論から言えば、アルトスの狙いはみごとに当たり、想定を超えた結果を生んだ。デュレクは、選ぶべきではない選択肢を掴み取り、騎士隊の中心的存在ともいえる副隊長と数名の騎士をシトカへ向かわせたのだ。デュレクが重傷を負った状況において、アーフィル自身が願い出たからとはいえ、ベドガの戦闘におけるアーフィルの欠如は致命的と言ってもいい。しかも、デュレクが向かわせた場所は死地だ。相手が盗賊とは言え、戦力差はあまりにも大きい。実戦を知らないシトカ警備隊が加わったところで、到底太刀打ちできない。


 「何名の騎士がシトカへ向かった?」


 「私がベドガを出る前に、三名の騎士が向かいました。私と同様に山間の近道を通ったため、盗賊を追い抜いてシトカへ到着しているはずです。到着次第、シトカ警備隊に事情を話し、彼らと協力して全ての住民をシトカから非難させるように指示を出しています」


 言葉を切ったアーフィルは、口元を僅かにほころばせた。口もと以外は無表情に近く、全くと言っていいほど自我も欲も無い。くわえて、異常なくらい澄んでいる。ザクトスの騎士隊隊長だった頃に、何度か見たことがあった。彼らは皆、自らの死を予期し、そこへ向かうことを覚悟した人間だった。


 「戦場におけるデュレクの集中力と精神力は並外れています。しかし、シトカの住民を見殺しにしたという負い目を感じた状態では、充分に戦うことができない。だからこそ私は、シトカを守ると彼に宣言しました。だから、ベドガは、きっと大丈夫です。シトカは、私とあなたで一人でも多く救いましょう」


 私が成すべきことを完全に理解した。アーフィルと二人で、シトカへ向かう盗賊たちをできるかぎり足止めするのだ。その時間を利用して、シトカへ向かったベドガ騎士隊とシトカ警備隊が、住民たちを非難させる。アーフィルが判断したとおり、これが今の私にできる最善だろう。


 正直なところ、ほんの少しだけ以外だった。この青年は物事の大局をみることができ、判断力もある。だからこそ、リアリストに徹することができると考えていた。言い換えるならば、自分の死を前提に行動するとは思っていなかった。


 アーフィルを死なせるべきでは無い。友として、また客観的な視点からみても、結論は同じだった。ベドガ騎士隊にとって、アーフィルは必要不可欠な人材なのだ。彼とシトカへ向かった騎士たちにおける最良の選択肢は、可能な限りシトカで住民を救い、不可能となった時点で無理をせずに撤退することだ。生きてさえいれば、たとえ歴史ある街が蹂躙されたとしても再建することはできる。容易ではないが、アーフィルであればできるはずだ。


 無論、私自身が選ぶ選択肢は異なる。


 「アーフィル」


 青年がこちらを向く。真正面から彼の顔を見た。瞳に狂気の光はなかった。一時的な感情に流されているわけでも、現実が見えなくなっているわけでもない。副隊長は、騎士の本分として、いや、幼き頃にデュレクと交わした約束にしたがって戦い、その果てに死ぬつもりだ。

親友の言葉が蘇った。


 「貴様らの愚かさは目に余る。味方殺しの大罪を犯すつもりか。なぜ、己の意志で自らを殺そうとする。騎士隊において、貴様らの命は貴様らのものではない。騎士隊のものだ。その小さな胸を満足させながら死んで何になる。現実を無視してつまらん幻想を抱きたいなら、いっそのこと、過去へ戻って騎士隊へ入隊しようとする馬鹿な己を止めてこい。それができないのなら、現実に立ち返り、軽率な行為によって有能な人材を失う騎士隊の損害を考えろ」


 ため息が出て、少しだけ力が抜けた。まったく、お節介な男だ。遠い地で生きているにも関わらず、私に危機が迫れば記憶の底から顔を見せる。肉体を捨て、私の頭の中で暮らし始めたのだろうか。


 それにしても、相変わらず、正しいことしか言わない。美学も自己犠牲の精神も全く理解しない男だ。親友がこの場所に居れば、私とアーフィルを戦場へ行かせはしないだろう。今回は、半分だけ賛成だ。アーフィルの意志は尊重したい。しかし、ほんの少しでも逡巡するようであれば死なせはしない。戦場から遠ざける。ただし、私には戦うべき明確な理由がある。シトカにはファーンがいる。フィリスとの約束もある。私だけが生き残ったとしても、もしファーンが無事でなければ、何の意味もない。むしろ、私だけが生き残るべきではない。そして、私はシトカ警備隊隊長なのだ。命が途切れる瞬間までシトカを護り、住民が避難する時間を稼ぐ。


 「盗賊を迎え撃つ場所を決めているか?」


 胸の裡をみせずに、迎え撃つという誇大な言葉を吐いた。シトカとベドガをつなぐ大道に極端に狭い場所はない。それでも、できるだけ道幅の狭い場所を選ぶべきか。私の答えは「否」だ。約五十対二という戦力差は圧倒的だ。道幅が多少狭い場所があったとしても効果は無い。囲まれてしまえばどうすることもできないが、前面からのみの攻撃であっても、直進する五十人の人波に飲まれてしまえば同じだ。幸いなことに、私はシトカ周辺の地理には詳しくなっている。アーフィルとともに、シトカ周辺で最も道幅の広い場所へ向かった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ