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戦場

 坂を上り終え、ゆっくりと男に近づいた。肩と首から不必要な力が抜けている。親友、いや悪友との思い出が役に立ったのかもしれない。


 前に立つ男は、慌てる様子もなく私を待っている。仲間を呼びに行く様子も、先手を取って攻撃にでる気配も無い。口元の笑みをそのままに、視線だけが鋭いものへ変わっていた。好戦的で剣の技量に自信を持っている可能性が高い。精神的な駆け引きや話し合いを好む相手ではなさそうだ。


 久しぶりの戦闘が、すぐそこまで迫っている。緊張感は膨張しなかった。激情もない。死への恐怖は腹の底あたりに感じるが、囚われてはいない。充分に冷静だ。自らの状況を観察して判断した。総体的にみて精神状態は悪くない。それどころか、妙なことまで思いついてしまった。過去の私では、考えられないことだ。なにしろ、私は真っ直ぐな石頭だったのだ。戦闘に際して、勝負師のような側面は少なかった。


 三メートルを切った。歩きながら剣を左手に持ち替え、前に出して男へ翳した。髑髏が松明の光を反射したはずだ。運が味方すれば、男は油断する。運が無かったとしても、状況は悪化しない。私はテオリアを救うと決めた。ならば、その過程ではなく結果に拘り、持ちうる全ての手段を使う。まるで親友の顔をした悪魔が耳元で囁いているような錯覚を感じたが、今回は素直に受け入れた。


 男の表情が少しだけ動いた。目を細めている。口元は、相変わらずだ。


 二メートル。男は、まだ動かない。それほどに自信を持っている。立ち止まって、向かい合った。男までの距離は、剣の間合いよりも遠い。


 「一つだけ教えて欲しい。女性を攫ったか。攫っていなければ、用は無い。すぐに消える」


 男は鼻で笑い、ゆっくりと首を横に振った。


 「演技か。それとも、場違いな間抜けか。何のためにここへ来た。知っていることを全て吐けば、楽に殺してやる」


 余裕に溢れた口調だ。己の立場に、絶対的な優位性を感じている。


 「私が知りたいのは、女性を攫ったかどうかだ。それだけを教えてほしい」


 「どうやら、間抜けの方だな。たまに、お前のような馬鹿が自ら命を落としにやってくる。いずれにしても殺す。鬼神が、武装して現れた人間を帰すことはない」


 会話が噛み合わない。目の前の男は勘違いをしているようだ。すぐには言葉を続けず、息を吐いて間をおいた。男の声に震えは無く、瞳は自信の光で満ちている。精神の高ぶりもみられない。戦場に慣れている。剣を抜かずに鞘の部分を片手で握っているのは、剣の間合いを知っているからに違いない。


 どうするべきか。男は、私を場違いな男と推測し、かつ斬るべき対象と決め付けた。テオリアを攫ったのかどうか教える気はなく、前に進むことも、後ろに下がることも許してくれないだろう。


 「勘違いをしている。私が知りたいのは……」


 「くどい。さっさと剣を抜け」


 話し合いは無駄だ。決断した。目の前の男を倒す。


 男を観察し続けながら、ゆっくりと歩を進めた。相手は剣の間合いを知っている。まだ、剣を抜こうとしない。私よりも少し若く、身長は私の方が若干高い。身体の厚みは、筋肉が落ちた今の私と同じ程度だ。力任せの剣術ではないだろう。素早い動作に自信を持っている可能性が高い。


 相手を斬ると決めた瞬間から、恐怖は完全に消えた。目の前の男は知らないだろう。相手を見下したことにより、口元の笑みが僅かに緩んでいることを。男は考えもつかないだろう。瞳を光らせているのが自信ではなく、根拠のない慢心であることを。


 私の神経は研ぎ澄まされていた。靴を通して、足の裏に地面の感覚がある。男の手が緩やかに動いた。剣の柄を掴む。男の視線が私から瞬間的に離れて、己の剣に注がれた。そのタイミングを待っていた。


 地面を踏みしめ、両膝に力を溜めるように沈み込んだ。同時に、鞘を持っていた左手を上に滑らせて柄を掴み、右前腕に鞘の部分を載せて上に持ち上げた。鞘の先が、男の喉元を真っ直ぐに向く。前へ大きく一歩を踏み出しながら腰を捻り、左腕を前方へ伸ばした。


 私の動作に気が付いた男が、目と口を見開き、慌てて剣を抜こうとする。遅い。前に突き出した私の剣は、右前腕に支えられ、その上を滑りながら相手の喉元へ駆けた。男は必死の形相を浮かべ、剣を抜き様に前へ斬り出そうとする。素早い動作だ。しかし逆効果だった。剣を速く抜きたいという半ば反射的な意識が強すぎるため、防御が疎かになって急所を曝け出している。私は限界まで腰を横回転させ、上半身を前に倒しながら腕を伸ばしきった。捨て身の突きだ。次の攻撃は無い。


 隙をみせた一瞬を狙って剣の間合いの外から放った攻撃。いわば、心理の裏を突いた奇襲であり、命をコインにのせて投げたようなものだ。コインの片側には勝利が、もう片側には敗北と死が描かれている。短期決戦を迫られた状況下、咄嗟に思いついた運試しだった。ただし、私の命の上には、テオリアの命も乗っている。単なる酔狂ではない。男が過信したぶんだけ、私の方に勝機があると確信していた。


 男には少なくとも二つの選択肢があった。一つめは抜剣して斬りかかることであり、実際に男が選んだ行動だ。もう一つは、無理に剣を抜かず、左右のどちらかへ移動して突きを躱すことだ。後者を選べば、私は為す術も無く斬られていただろう。


 突き出した鞘の先が、男の喉元へ食い込んだ。鞘の先には私のほぼ全体重が乗っている。鞘の切っ先に生じた衝撃が柄を握る手に伝わった。弾力のある物体に衝突し、その先にある硬い物体を砕いて、なおも押し続ける。男は弾けるように後ろへ倒れた。私は膝をついて転倒をふせいだ。倒れた男へ目を向けたが、次の攻撃を与える必要はなかった。男は、うめき声すらあげずに絶命した。


 目の前の壁は突破した。特別な感情は湧き上がってこない。替わりに、戦場に漂う空気を思い出し始めていた。全身の感覚を研ぎ澄まし、一瞬を懸命に生きる。逆説的だが、死と背中合わせだからこそ、戦っている瞬間には濃密な生が凝縮している。右のこめかみを流れる汗を袖で拭いながら立ち上がり、大きく息を吐いた。


 息が乱れていた。緊張の連続が体力の消耗を加速させている。


 足を踏み出して、左足の負傷に気がついた。男の喉元に剣を打ち込むことに必死で、限界以上に左のアキレス腱を伸ばしてしまったようだ。動けないほどではないが、左足に体重を乗せると痛みを感じる。疲労の蓄積に、負傷が加わった。ますます、長い時間は戦えなくなった。


 絶命した男を残して、門の中へ入った。下から見上げた印象よりも、アジトの中は広い。三棟の建物が並んでいた。どれも同じような造りで、華美ではないが頑丈に見える。門から建物までの間にかなりのスペースがあり、広場のようになっていた。訓練にでも使うのだろう。


 男が二人、こちらへ向かっていた。前の男は、すでに抜き身の剣を握り、好戦的な笑みを浮かべている。後ろの男は無表情だ。まだ帯剣しているが、隙の無い視線を私に浴びせる。服装は二人とも同じだ。先ほど倒した男と同様に、動きやすそうな黒い衣類を身につけている。


 私も鞘から剣を抜き、鞘を後ろへ放った。


 「やるじゃないか。バジクを一瞬で弾くとは。不意打ちだが、やられる方が悪い」


 前の男が声を出した。私と同じくらいの身長だ。身体に厚みがあり、腕も太い。力で剣を振るタイプか。いや、決めてかかるのは危険だ。大股で無造作に近寄ってくるが、親指の付け根で地面を踏み締めている。瞳。感情に支配されていない光がある。粗野にみせているだけかもしれない。


 「ベドガ騎士隊じゃないな。ウィザーブでもない。最近、鬼神にちょっかいを出しているのはお前か?」


 話している内容は理解できない。しかし、答える必要も無かった。もはや、話し合いで解決できることは何もない。道を切り開くために打ち倒すだけだ。深く息を吐き、腹を意識して空気を吸い込んだ。全身に力を入れるのではなく、逆に力を抜く。柔らかく、かつ俊敏に動くためだ。力みは邪魔にしかならない。


 男は、測ったように、剣の間合いに入る直前で止まった。やはり、力任せに剣を振るタイプではない。笑顔を浮かべているが、殺し合いを楽しんでいるのではない。油断を誘おうとしているのだ。


 「兵隊がいないときを狙ったか。いや、計画的な陽動で、邪魔な兵隊を別の場所へ向かわせたか。鬼神に牙を剥く理由は何だ?」


 「サイガ、しゃべりすぎだ」


 後ろの男が、低い声を出した。顔に表情がのっていない。鬼神という組織における力関係では、後ろの男の方が同等か上だろう。中肉中背、身体的な特徴はみえない。サイガと呼ばれた男の三歩ほど後ろで立ち止っている。微妙な距離だ。二人で連係するつもりだろうか。判断できない。どちらにしても、軽率な行動を取ってはならない。前後に挟まれてしまえば、その時点で私の敗北が決定的になる。


 「しゃべりすぎなのは、いつも通りだ。やるべきことはやる。やり方は任せてくれ」


 緊張感のない声だが、不意打ちできるほどの隙は無い。二人の会話に付き合わず、剣を構えた。サイガも構える。


 「気が早いな。最後の機会だぞ。何かしゃべり残したことはないのか? せっかくだから、何でも聞いてやる」


 言葉を無視した。やはり、隙がない。油断すれば先手を取られる。相手の呼吸を読みながら、ゆっくりと息を吸った。


 二人の男以外に、ここへやってくる人間はいない。二人に集中できそうだが、遅れてやってくる可能性もある。体力の消耗度、左アキレス腱の負傷から考えても、やはり、短期決戦だ。息を吐いた。他に選択肢はない。しかし、どのように戦うべきか。最善の戦い方がみつからない。向かい合っているのは、間違いなく手練だ。一人でも厄介な相手を、二人も相手にしなければならない。また、サイガは先ほどの闘いを見ている。奇をてらった攻撃は通じない。


 後ろの男を見た。先ほどと同じ無表情で、私を観察している。思考を相手に読ませない。つまり、私と同じで、感覚よりも論理を重視するタイプだろう。たとえ、サイガが一人で戦う気であったとしても、サイガの攻撃を受けて私に隙ができれば、この男は見逃さないはずだ。


 細く長く、息を吐いた。首筋を汗が流れる。やはり二対一では、圧倒的に無理だ。ならば、一撃でサイガを斬り伏せる。


 上段の構えを崩し、腰を少し落として下段に剣を構えた。目を細め、眺めるようにサイガを見る。視線がぶつかった。私は口元に笑みを浮かべた。意図は伝わったはずだ。明らかな誘い。すでに、フェイントは放っている。先ほどの男を倒した出鱈目な突き。サイガが、私を我流で剣を学んだ人間とみなせば、喰らいついてくる。


 「ほう。口数が少なくてつまらん男かと思ったが、面白い剣をつかう」


 多分に余裕を含んだ話し方。しかし、話し終える前に、最小限の予備動作で踏み込んで来た。つま先だけを剣の間合いに入れ、剣を横に薙ぐ。鋭く、かつ正確な軌道だ。切っ先は私の喉を狙っていた。私は、下半身と剣を動かさず、上半身のみを仰け反らせた。


 迫り来る刃を待つことなく、即座に視線をサイガの顔へ移動させて表情を読んだ。瞳に驚きの色はない。踏み込みが浅かったのではなく、浅く踏み込んだのだ。刃が目の前を過ぎ去ると同時に、私は斜め前に踏み出した。サイガは、薙いだ剣を上段に振り上げる。初撃はおとりで、次の攻撃で決めるつもりだ。


 思考だけではなく、身体も問題なく反応した。剣を下から上へと跳ね上げる。狙いはサイガの顎だ。サイガが剣を振り下ろすよりも先に撥ねる。


 左足のアキレス腱に刃物を突き刺したような痛みが走り、おもわず剣速が鈍った。痛恨のミスだ。あろうことか、相手の観察に集中したあまり、負傷した左足への注意が疎かになってしまった。戦場の勝機は一瞬で消える。焦りを感じたが、腰の捻りと腕の力で剣を振り上げた。サイガは、当然のごとく速度が鈍った斬撃に反応した。後ろへ跳び下がりながら、剣を振り下ろす。驚くべき反射神経だが、過剰な反応でもあった。擦るように後ろへ下がれば、完全に躱せたはずだ。しかし高く跳んだために、体勢が大きく崩れている。剣を振る者の自由は、地面の上にしかない。私は剣の軌道を修正した。


 剣が交差し、咆哮と悲鳴が混ざったような叫び声があがった。サイガの剣は空を切り、私の剣は彼の左手首を半ばまで切断した。剣はまだサイガの手から落ちていない。サイガは血走った目で私を睨みつけながら、さらに後ろへ下がった。私は追わずに待った。反動をつけて前に向かってくれば、この位置から動かずに斬る。痛みに意識を蹂躙され、隙ができるようであれば、踏み込んで斬る。


 どちらの選択肢も選べなかった。斬撃。咄嗟の判断で、サイガを無力化させることを諦めて、襲ってきた刃を弾き返した。一歩、後ろへ下がる。負傷したサイガが下がると同時に、サイガの横へ回り込みながら、後ろの男が剣を振り下ろしていた。いつのまにか、剣を抜いている。鋭い攻撃だ。


 息を整える時間は無かった。サイガが雄叫びを上げ、斬りかかって来た。切断されかけた手は、まだ剣を握っている。鬼気迫る表情。精神は萎えていない。いや、殺意と怒りを燃料として猛々しく燃えている。戦士としての純度は間違いなく高い。しかし、それだけだ。戦闘能力は先ほどよりも確実に低下した。突進による圧力はあるが、剣速自体は遅い。


 力を籠め、剣を斜めに振り下ろした。金属音が鳴った。サイガの身体を狙ったのではない。相手の剣に、私の剣を当てたのだ。サイガの左手首が捻れ、剣が弾け跳んだ。遅れて、サイガ自身も斜め前に転がる。すれ違い様に胴を斬った。倒れる相手に目を向ける余裕は無かった。サイガが地面に倒れる音が聞こえたときには、別の斬撃を剣で受け止めていた。もう一人の男が、続け様に剣を振り下ろす。


 どうにか連続攻撃を受けきり、離れ際に、剣を振り上げた。フェイントだ。息を切らした私に、攻撃する余裕は無い。読み通りに、男は後ろへ下がった。サイガとは違い、隙を見せずに慎重な戦い方をする。男が剣を構えなおした。息は乱れているが、肩で息をするほどではない。私は酸素を求めて、空気を大きく吸い込んで吐き出した。額から汗が吹き出てくる。疲労は限界を超えていた。下半身の筋肉が痙攣を起こし始め、地面を強く踏ん張ることができない。


 男と睨みあった。無力化されたサイガは瀕死の状態にあるが、男の瞳に動揺はない。一方、私の身体的能力は、蓄積された疲労によって著しく低下している。客観的にみれば、これまでと同様か、それ以上に不利な状況だ。それでも、ようやく相手は一人になった。一対一だ。ならば、どんな相手であれ、剣術において私が遅れをとることはない。自分自身を信じた。


 先手。男が動く前に、私から踏み出した。次の攻撃はないと決めて、全身の力をふりしぼる。視線と上体の動作にフェイントを含ませ、相手の動きを見ながら剣の軌道をコントロールした。男の反応は一瞬遅れたが、私の剣を受け止めた。想定通りだ。一撃で決めるつもりはない。相手が遅れた一瞬を利用する。相手を観察しながら体勢を整え、充分に筋肉を連動させて次の攻撃を放った。


 基本に忠実であり、かつ可能な限り予備動作をなくした剣術。これが私の本領だ。癖の無い正確な剣術だからこそ、フェイントが生きる。相手の動作を読み、相手には私の動きを読ませず、逆に翻弄する。一撃一撃に大きな差は生まれない。しかし、連続して繰り返すことによって、やがて大きな差が生まれる。私は、この戦い方によって、父やガルディと同じ領域に踏み入ることができた。


 一合、二合と剣が交わる度に、男の体勢は崩れていった。表情に焦りが浮かぶ。不利な状態に陥りつつあることは分かっているはずだ。しかし、主導権は私にあり、相手はどうすることもできない。考える時間も術も与えない。六合目の斬撃で右の腹部を切り裂き、完全に失速した男の剣を躱わしながら、七度目の斬撃で、胸部を深く縦に切り裂いた。男が真下へ崩れ落ちる。


 終わった。そう感じながらも、地に伏した二人の動きに注意して剣の間合い以上に下がった。サイガは呻いているが、失血が酷い。死線の向こう側へ行ったはずだ。すでに、意識もないだろう。もう一人の男は全く動かない。骸と化していた。


 男たちから視線を離さずに、両膝をついた。酸素負債のため、強烈な脱力感とともに眩暈を感じた。倒れこんでしまいたい。しかし、斬った三人の他にも、誰かがいるかもしれない。戦える状態に無いことは分かっていたが、それでも、強烈な欲求に抗って、しばらくの間、両膝をついた姿勢で剣を握っていた。


 一分ほど経過し、ようやく、呼吸が整ってきた。三棟の建物から新手が出てくる気配はない。誰かが居れば、戦闘に気づいたはずだ。戦闘可能な敵はいないと考えていいだろう。


 立ち上がった。


 「テオリア」


 想いが口から漏れた。前に踏み出したはずの足が重い。戦闘時の張り詰めた緊張感と興奮が去り、疲労だけが残っていた。よろめくような足取りで歩き出すと、左足のアキレス腱に痛みが走った。先ほどよりも状態が悪化している。左足を引き摺るようにして最も近い建物へ向かった。




 建物の一つを探し終えた。テオリアの名を呼びながら全ての部屋を確認したが、誰もいなかった。死体も無い。戦闘時、サイガは「兵隊がいない時」と言った。サイガの言葉を信じるならば、この場所にいたのは、私が倒した三人だけかもしれない。他の人間はどこかへ出ているのだ。ただし、それが何を意味するのか分からない。人を攫ったかどうかの判断材料にもならなかった。


 休息を取らずに、残りの二つの建物も探し終えた。テオリアはいない。死体も、人質をとった形跡もなかった。確信した。鬼神は、テオリアを攫っていない。


 身体にまとわりついていた重苦しい雰囲気が消えたように感じ、大きく息を吐いた。楽観的な思いが頭の中に浮かんでくる。攫われていないのならば、今頃は家に帰っているはずだ。根拠は薄いと分かっているが、それでも、安堵して全身の力が抜けた。私は、私が果たすべき全てのことをやり遂げた。これ以上、できることはない。ならば、テオリアが生きていると信じたい。


 座り込むというよりも、寝転んでしまいたいという欲求が頭を掠めた。しかし、本能が欲求を押さえ込み、アジトを後にした。兵隊は、消えたのではない。どこかへ出ているのだ。いずれ帰ってくる。先ほど戦った三人ほどの実力者はいないとしても、今の私では勝てる要素が無い。相手が騎士見習いでも敗北するだろう。すぐにこの場所から離れるべきだ。


 門を出た。関節も筋肉も限界を超えて疲弊している。踏み出した足を地面で支えるたびに、腰が落ちるように感じた。走るどころか、左足のアキレス腱を庇いながら半歩ずつしか足を前に出せない。痛みは我慢できたが、身体はそれ以上の無理を受け入れなかった。


 坂道を少しずつ下る。不思議な感覚が私を包んでいた。疲労困憊で、負傷もしている。また、依然として危険な状況だ。しかし、焦りはなく、気分も悪くない。どちらかといえば、満足感があった。テオリアを救うという行為は、私に目的を与えた。結果としては必要の無い行為だったかもしれない。しかし、戦っている私には存在意義があった。バルガルディアで騎士だった頃、任務を成功させたあとの家路は、今と同じような精神状態だったのかもしれない。干渉できないことや、貢献できないことは数え切れないほどあった。今も同じだ。本当にテオリアを救えたのかどうか分からない。それでも、死力を尽くしてテオリアを救おうとした。


 坂道を下りきり、カーブを曲がった。松明の光が届く範囲を越え、視界が暗闇で満たされた。家までの道のりは長いが、夜空に月が出ている幸運の方を喜んだ。真っ暗闇を走れば転ぶだろうが、そもそも走れる状態にない。月明かりを頼りにゆっくりと歩けば転倒はしないだろう。


 ガルトーシュと別れた場所を通り過ぎた。彼が無事にシトカへ到着していれば、ベドガ騎士隊はこちらへ向かっているはずだ。アジトから出払っていた鬼神も、いずれ戻ってくる。出会うとすれば、どちらだろうか。悪い予感はなかったが、ツキがあるとも感じなかった。悩んだところで仕方が無い。運試しだ。




 しばらく歩くと、猛烈な眠気が襲ってきた。気を抜けば意識が遠くなる。意識を保つために上を向き、深呼吸を続けながら歩いた。空には淡い月が見える。いつのまにか、薄い雲が月の前で幕を張っていた。星は見えない。極度に疲れているからだろうか。それとも、眠気に支配されようとしているからだろうか。状況の把握や危険を回避するための思考ではなく、頭の中は素直な想いで満たされていた。


 私は生きていた。そう、生きていた。自らの意思で困難へ立ち向かい、命を懸けて戦った。この充実感こそが、以前の私だったのかもしれない。テオリアは生きている。必ず、生きている。彼女に会ったら、また、唄を歌ってくれるように頼もう。彼女は笑顔をみせながら頷いてくれるはずだ。いや、私を困らせるようなことを言いながら微笑んでくれるのだろうか。


 身体は依然として重く、左足のアキレス腱も痛んだ。しかし、現実感が乏しい。まるで、酩酊したかのようだった。躊躇いを感じながらも、酔いを受け入れた。ここへ来るまで苦しむだけ苦しんだのだ。この一瞬くらい充実感に浸ってもいいだろう。


 心地よい感情が、血液に乗って全身を駆け巡る。


 これまでの私の人生は、剣と共にあった。その果てに、一度捨てた。しかし、積み重ねた日々は、私を裏切らなかった。強敵を前にしても自分自身を信じきり、自らの足で戦場を出た。バルガルディアで築き上げたものは全て失ったが、それでもバルガルディアで進んだ道のりは間違っていなかったのかもしれない。夢の中で過去の私が言ったように、前に進む過程で転んだだけなのだろうか。それならば、立ち上がって、また前に進めるはずだ。


 私は、もう一度進みたいのだろうか。昨日までの私ならば即座に否定したはずの疑問が浮かんだ。わき目も振らずに真っ直ぐ前へ向かいたいのだろうか。現実と幻覚の違いが希薄だった。誰もいない世界にいる私は、道標となる光の無い道を歩いている。聞こえるのは、私の息づかいと足音だけだ。いつのまにか厚くなった雲の向こう側に柔らかな月光を感じた。見えない光で私を照らし、祝福してくれている。


 微かな足音が聞こえた。


 酔いが頭の中から消し飛んだ。両足を肩幅に開いて身構えようとしたが、意志に反して身体は動かなかった。下半身に力が入らない。左足のアキレス腱も痺れるように痛んでいる。神経だけを尖らせた。誰かがこちらへ駆けてくる。一人だ。ガルトーシュではない。彼の足音はもっと重い。鬼神だろうか、それとも、ベドガ騎士隊だろうか。おそらく、鬼神だろう。駆ける足音が規則的だ。明らかに、山道に慣れている。


 疲労、左足の負傷、闘争心の欠如。相手に関係なく、勝機は限りなくゼロに近い。身体が毀れることを承知で戦ったとしても同じだろう。道脇の茂みに隠れて、相手が通り過ぎるのを待つべきか。もしくは、茂みで待ち伏せ、通り過ぎた相手の背中へ襲い掛かるべきか。


 別の選択肢を選んだ。真正面から斬り合った末に果てる。私は、命が途切れる瞬間まで生きていたい。誰かを守るためであれば、もしくは騎士としての任務であれば、隠れることも、後ろから襲い掛かることも厭わない。しかし、今の私には全うすべき任務はない。ならば、進むべき道を行く。剣を抜いて、重心を落とした。


 足音が近づいてくる。つづら折りになった道の先だ。


 姿は見えない。それでも、誰が駆けて来るのか分かった。考えたのではない、感じたのだ。聞き間違えるはずがなかった。私は、彼女と彼女の妹の足音ならば、雑踏の中でも聞き分けることができる。剣を鞘に戻して、光のない夜空を見上げた。やはり、雲の向こう側で、月が祝福してくれている。


 駆けて来る人影が薄っすらと見えた。声を出したのは、私が先だった。


 「テオリア」


 「ファラッシュ」


 彼女の姿がはっきりと見え、私は慌てて話しかける言葉を捜した。予め準備が必要だったと気づいたときにはテオリアの温もりが胸に飛び込んでいた。剣を地面に落とし、精一杯の力で彼女を支えた。彼女が速度を落とさなければ、後ろへ倒れてしまうところだった。


 「テオリア」


 結局、口から出たのは名前だけだった。話しかけることを諦め、テオリアの背中に両手を回した。彼女の体温を全身で感じ、途端に身体から力が抜けていった。安心したのだろう。意識が遠のいていった。


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