その手に握る剣
森を抜け、山道を駆け上っていた。
直観的な感覚など、安易に信じたくはない。それでも、嫌な予感が頭をよぎる。
ガルトーシュとともにいた二人は、シトカ警備隊のメンバーだった。状況を確認した私は、三人の中で最も若い男にベドガ騎士隊への応援要請を頼んだ。彼はすぐにベドガへ向かってくれたが、ベドガはシトカから二十キロメートルほど離れている。ガルトーシュの認識では、騎士隊がシトカへ到着するまでには、どんなに急いでも四時間はかかるらしい。それでは、遅すぎる。しかし、鬼神に対抗する戦力がシトカに無い以上、他に方法がなかった。もちろん、騎士隊の到着まで手をこまねいているわけにはいかない。ガルトーシュともう一人の警備隊とともに、テオリアの安否を確認するべく山道を走っていた。
警備隊隊長であるガルトーシュが把握している情報では、殺害された人間は、山中で果物採りをしていた夫婦らしい。夫婦が殺されたのは今日の正午過ぎで、殺された場所は鬼神のアジトの近くだった。鬼神はこれまでに殺人や略奪を行ったことはない。しかし、目的のわからない怪しげな集団のため、ベドガ騎士隊の判断によって、シトカに住む人々は鬼神のアジト周辺への立ち入りは禁止されている。殺された夫婦は、禁止された領域内に入ったらしい。殺人の場に居合わせた者はいないが、断末魔の叫びは、夫婦と同じ目的で山に入っていた人たちの耳にも届いた。その内の一人が心配して叫び声が聞こえた場所へ向かい、死体を発見したのだ。
鬼神に関する充分な情報は無かった。闇の鐘と称する盗賊団については、ガルトーシュもよく知っている。しかし、四、五年前に突如現れた鬼神に関しては詳しくなかった。ガルトーシュの隣を走っている警備隊のペルクスも同様だが、彼は若干の情報を持っていた。定期訓練の際にベドガ騎士隊から聞いた情報であり、その情報によれば鬼神は少数精鋭の戦闘集団とのことだった。
鬼神が、夫婦を襲った理由は分からない。仮に、鬼神が何らかの目的を持った武装集団であれば、夫婦が見てはいけないものを見たか、やってはいけないことをやった可能性がある。現時点で私が推測できるのは、その程度だ。
山中に入った人たちは、テオリアを除き全員が下山した。最後に下山した男は、鬼神のアジトから離れた場所で山菜を摘んでいたため、夫婦が殺された事実を知らなかった。テオリアが襲われたかもしれないという情報は、彼からもたらされた。彼は、偶然にも十人弱の武装した集団を目の当たりにし、彼らから気づかれないように逃げる途中で女性の悲鳴を聞いたのだ。もっとも、女性の悲鳴ではない可能性もあった。シトカ周辺の山には、チュルスという甲高い声でなく猿が生息している。慌てて逃げる途中で聞いた声が、女性の悲鳴だったのか、それとも悲鳴によく似たチュルスの声だったのか定かではないらしい。
息が上がっていた。手足が重い。帰途につく時点で、すでに、私の身体にはシトカを歩き周った疲労が溜まっていた。それでも、歩きたいは思わない。正直に言えば、そんな余裕はなかった。テオリアとフィリスが心配だ。ファーンは、シトカで無事が確認されていた。
ガルトーシュとペルクスは、それぞれ斧と剣を手に持っている。下山した人々から、彼らが殺害の情報を受けたのは二時間ほど前だ。私から遅れ気味なのは、午前中にベドガ騎士隊の訓練を受けたためだろう。彼らも歩こうとする気配はないが、その表情は明らかに余裕が無かった。戦士然としていない。ガルトーシュの顔は青ざめ、ペルクスは見るからに狼狽している。
走りながらガルトーシュに聞いたところ、最近の五年間で、シトカとその周辺で殺人が起こったことはなかった。しかも、五年前の殺人はシトカとベドガをつなぐ大道で夜半過ぎに起こった。シトカ警備隊が無法者と対峙したわけではなく、その時の実質的な役割は、早朝に発見された死体の存在をベドガ騎士隊へ連絡しただけだ。ガルトーシュもペルクスも警備隊としての役割を果たそうとしているが、実際のところ、今回のような事件に対する経験は無いのだろう。
見慣れた道まで戻ってきた。夕日が山の向こうに見える。ガルトーシュとペルクスは、山道を駆けることで精一杯だ。私はこれからの行動について考え始めていた。
すでに、覚悟は決めている。テオリアは私を救ってくれた。今度は、私が彼女たちを救う。命は惜しくない。どんなに困難でも、もしくは、光が見えなくとも全力を賭して最善を尽くす。激情からの思いではなく、冷静に決心していた。剣の道は諦めたなどという個人的な思いも捨てた。目的を果たすために、今の私が持ちうる全ての手段を使う。
テオリアが家に居れば、私の心配は、最も望ましいかたちで杞憂に終わる。しかし、テオリかフィリスが家に居なかった場合、状況は厳しいものになる。鬼神に殺されたか、もしくは攫われた可能性が高く、どちらであるかを判断する情報も期待できない。その状況で私が掴むべき選択肢は一つだ。鬼神のアジトへ向かう。そこには彼女たちか、もしくは彼女たちに関する情報があるはずだ。
鬼神のアジトへ向かう場合、鬼神が本当に戦闘集団であれば、私一人では太刀打ちできないかもしれない。私は久しく剣を握っていない。また、すでに疲労が蓄積されている。本来であればベドガ騎士隊の到着を待つべきかもしれないが、やはり、時間的な余裕がなかった。行動が遅くなれば、その時間だけ彼女たちの生存確率は減る。ガルトーシュとペルクスも戦力としては期待できない。むしろ、戦闘をさせるべきではなかった。ガルトーシュが握る斧は刃が錆び付き、ペルクスが持つ剣も手入れをしているようには見えない。彼らは、騎士ではなく、ボランティアで警備隊を兼任しているだけなのだ。
大きく息を吐きながら、額の汗を拭った。戦闘は私一人で行う。アジトまでの道案内は、ガルトーシュかペルクスのどちらかに頼めばいい。勝機は少なく無策に近いが、それでも、躊躇いはない。精神も揺るがない。
家に辿り着いた。汗で濡れた手でドアを開け、飛び込むように中へ入る。
「テオリア、フィリス」
「お帰り!」
パタパタとした足音がして、フィリスが元気よく駆けてきた。少女を抱きしめる。
「お仕事見つかった? んっ? ファラッシュお兄ちゃん、いっぱい汗かいてるね。走って帰ってきたの?」
いつもの愛くるしい表情だ。よかった。彼女は無事だ。ほっとして気が緩んだ。
「あっ、ガルトーシュおじさん。遊びに来たの? お姉ちゃんは、今、いないよ」
「テオリアはどこ?」
口から言葉が飛び出た。フィリスが口元に指を当てて首を傾げる。
「まだ、帰ってきてないよ。今日は、フィリス、お留守番してたの」
いつもならば、山菜や果物を採り終えて家に戻っている時間だ。ガルトーシュの表情を見た。固まっている。不安に駆られ、身を乗り出そうとしたガルトーシュを、腕を伸ばして止めた。フィリスはテオリアの居場所を知らない。知っているとしても、少女を不安にさせるべきではない。ガルトーシュの目を見て、首を横に振った。意図は通じたらしい。彼の代わりに、私がフィリスに聞いた。
「テオリア、遅いね。どこで山菜を採っているのか知ってる?」
「知らない」
フィリスの顔に怪訝そうな表情が浮かぶ。三人の大人が、汗まみれで家へ駆け込んだのだ。ガルトーシュとペルクスは手に武器まで持っている。幼いとはいえ、違和感を覚えて当然だ。もう少し配慮すべきだった。ガルトーシュやペルクスだけでなく、私自身も冷静さを欠いていた。
「一緒にテオリアを探しに行こうか?」
「うん」
フィリスが勢いよく頷いた。横目で見るガルトーシュは、目と口を大きく開けて驚いている。もちろん、少女を危険な目に合わせるつもりは無い。
「でもやっぱり、誰かが留守番しないといけない。誰も居ないときにテオリアが帰ってきたら心配してしまう」
「そうかな?」
フィリスは腕を組んだ。テオリアがよくみせる仕草で、少女の癖にもなっている。
「フィリスが家に居ないと、テオリアは心配するよ。私とガルトーシュで探してくるから、フィリスはペルクスと家で待っていて」
「わかった」
素直な少女の頭を撫でようとしたが、それよりもはやく、少女は私に抱きついてきた。撫でる対象を失った左手で優しく背中を叩き、少女を残して私は自分の部屋に入った。フィリスはガルトーシュと話している。ドアを閉めた。
ベッドの下を覗き込む。探し物は、最も奥に置いてあった。手を伸ばして、鞘の部分を掴んだ。懐かしい手触りだ。引き寄せると、金属が擦れる音がした。胸に染み入るような音だ。やはり、懐かしい。忘れていた感覚が蘇ってくる。間違いない。私の剣だ。立ち上がって、少しだけ鞘から剣を抜いた。窓から入る落日の光を反射して、刃が艶を帯びた煌めきを放つ。若干の心配はあったが、海水による錆びはない。少なくとも、剣は以前と変わらずに戦える状態にある。実際に戦えるかどうかは、私次第だ。
私の剣は、祖父から譲り受けた業物だった。通常の剣よりも軽くかつ丈夫で、数多の敵を切り伏せたが刃毀れ一つしたことがなかった。また、刃に独特の艶があり、一閃するごとに僅かに煌きを放った。遠い過去だが、戦場では、私がこの剣を一閃するだけで対峙する相手は震え、味方は鼓舞されたはずだ。
窓を開け、剣を外に出して壁に立てかけた。剣を手にして部屋を出れば、フィリスをさらに不安にさせてしまう。
部屋を出て、今朝と同じようにフィリスを抱きしめた。フィリスが私を抱きしめ返す力は、今朝よりも強かった。少女なりに、何か感じたものがあるのかもしれない。ガルトーシュと一緒に外へ出た。
かなりの疲労感がある。それでも、剣を握れば身体の中心に硬い芯を感じるはずだ。戦士としての感覚は残っている。そう信じた。
「鬼神のアジトへ向かいましょう」
緊張した面持ちでガルトーシュが頷いた。フィリスの安否は確認した。テオリアは、これから救う。
夕暮れのなか、鬼神のアジトへ向かって走り出した。
走りながら、身体の状態を確かめた。下半身の筋肉に疲労が溜まっている。特に関節まわりの筋肉が深刻な状態だ。動かすことはできるが、戦闘で必要とするほど正確には動かせない。それほどに疲弊している。こんな状態では、相手の動きが見えたとしても、瞬時の動作に身体がついていかない。反射的に身体が動くことも期待できない。全力で身体を動かせば、すぐに息も上がってしまうだろう。万全とは程遠い状態だった。
本当に、テオリアは鬼神に攫われたのだろうか。まだ山菜を採っている可能性が高いのではないか? 論理的な思考ではなく、精神的な弱さが身勝手な願望を抱かせた。願望など、現実には全く作用しない。敗色が濃厚な状態で危険な場所へ向かいたくないのだ。頭を振り、嫌悪すべき妄想を振り落とした。
テオリアが鬼神に攫われていなければ、私は勇み足で命を危険に晒してしまう。それでも構わない。テオリアが安全であれば何の問題も無い。逆に、鬼神に攫われているかもしれない状況で、彼女を救おうとしない人間にはなりたくない。私は、この大陸で愚行を犯してしまった。あの時、少年たちを救おうとせずには傍観者へと成り下がってしまったのだ。もう二度と過ちは犯さない。たしかに私は、舟の上で自らの命を絶てなかった。しかし、困難を前にして立ち竦む人間ではない。
先導するガルトーシュが大量の汗をかいていた。表情は強張ったままで、顔色も悪い。当然だ。彼の本業は漁師であり、戦士ではない。まして、ペルクスの情報によれば、相手は戦闘集団だ。警備隊の隊長であるとはいえ、またテオリアを救うためとはいえ、たった二人で死地へ急ぐ理由にはならない。本心では、逃げ出したいと思っているに違いなかった。
ガルトーシュの姿を見て気がついた。今のガルトーシュは、私に似ていた。バルガルディアという慣れ親しんだ場所を離れ、見知らぬ現実に迷い込んだ私とそっくりだった。ならば、逆説的だが、剣を頼りに大切な人を救おうとする私は、あの頃の私と同じであり、夢の中に現れた私とも一致する。私は今、かつて進んでいた道の上を駆けているのだ。
「鬼神のアジトはこの山の裏側にある。もう少しだ」
息を切らしながら、ガルトーシュが声を出した。彼は、必死の形相で坂道を駆け登っているが、その速度はペルクスとともに家へ向かっていたときよりも極端に遅くなっている。私は、ガルトーシュの速度に合わせながら、自分の状態を絶えず測り、かつ、思考を続けていた。家を出てから、一時間弱ほど過ぎたはずだ。日は完全に落ちている。灯りのない山道だ。ガルトーシュに無理をさせて速度を上げるよりも、足を挫いたりしないように気をつけるべきだ。そう思った瞬間、思いとは裏腹に、地面に足を取られてよろめいた。木の根が地面を盛り上げていた。気づいてはいたが、避けることができなかった。主観的に考えても、客観的に考えても、疲労困憊だった。砂浜でテオリアの歌を聴いた日を除き、イシュハーブ大陸に辿り着いてから、今日ほど長時間の運動をしたことはない。軽い休憩を取る程度では、体力は回復しないだろう。
こんな状態で、剣を振れるのだろうか。戦場から遠ざかった私には、戦闘時に考え付く良質な選択肢も、瞬時の判断も期待できない。否定的な考えをやめた。どれほど考えたところで、状況は好転しない。ならば、気休めでも、自分に有利な材料を探すべきだ。
視点を変えて思考を続けた。たしかに、疲労は溜まっている。しかし、精神的な不安定さはなく、体調自体も悪くない。また、無駄な脂肪もほとんどついていない。たっぷりと汗をかき、体幹から指先まで、自分の身体としての感覚はある。身体の軸。呼吸。力を入れるべき筋肉。力を抜くべき筋肉。意識すべきタイミングも忘れていないはずだ。私は最低限の戦える状態にある。
獣道に入り、勾配がさらにきつくなった。道は、山の頂上を周り込むように続いている。ガルトーシュが腕をだらりと垂らして、歩き出した。息は喘ぐようなものに変わっている。私も余裕はなかった。同じように息をしながら、ガルトーシュのあとを追った。やがて、勾配が緩やかになり、ガルトーシュが止まった。
「あそこを曲がった先が、鬼神のアジトだ」
しゃべりながら座り込んだガルトーシュが道の先を指差した。厚い雲によって月の光は遮られている。微かな星明りでは、彼の表情は見えなかった。周りを見回したが、目印となるような何かも見えない。こんな状況で、よく道を間違えなかったものだ。私一人では間違いなく辿りつけなかった。ガルトーシュがいてくれた幸運に感謝した。彼の役目は、ここで終わりだ。
「お願いがあります。今すぐにテオリアの無事を確認したい気持ちは分かりますが、二人でアジトへ向かっても、戦闘になれば無駄死にするだけです。私はここに残り、アジトの様子を窺い続けます。人の出入りや、中の様子も可能な限り把握しておきます。ここまで案内してもらって申し訳ないですが、あなたは、一旦シトカへ戻り、ベドガ騎士隊をここまで連れて来てください」
とってつけたような理由かもしれないが、話した内容は間違いではない。私がこれから取るべき行動を除けば、嘘も言っていない。とにかく、ガルトーシュはここから離れるべきだ。もし彼がアジトへの強行を主張するようであれば、力を持って従わせるつもりだった。気のいい漁師を死なせることはできない。ここから先は、私のフィールドなのだ。
「兄ちゃん、いいのかい? ここは危険だぜ」
顔は見えないが、荒い息とともに吐いた声が安堵していた。
「はい。大丈夫です」
「そうかい。わかった。じゃあ、できるだけ早くベドガ騎士隊を連れてくるから、それまでアジトを見張っていてくれ」
ガルトーシュは私の手を強く握って立ち上がると、踵を返した。ふらつきながら、シトカへ、いや彼の日常へと帰っていく。これでいいのだ。
ガルトーシュの足音が消え、やがて、静寂が訪れた。夜空を見上げる。空一面に雲が広がっていた。後悔はない。極度の緊張もなかった。
目を閉じ、体の力を抜いて深呼吸を繰り返した。疲労を回復させる時間的余裕はないが、せめて呼吸だけは整えてアジトへ向かいたい。ゆっくりと息を吐きながら、これからの行動について考えた。状況が許せば、戦闘になってもこちらからは斬りかかろうとせず、戦場の雰囲気を思い出すまで慎重に行動したい。しかし、長時間の戦闘は体力的に無理だ。戦場で培った駆け引きも、今の私には期待できない。斬ると決めたら、その瞬間から短期決戦だ。相手が複数人で囲まれるような状況に陥れば、その時は、己の不運を受け入れるしかない。
目を開けた。
迷いや後悔はない。しかし、やはり完全に割り切ることはできない。僅かだが、腹の底にこびり付いたような不安もある。私は、この大陸に辿り着いてから一度も剣を握っていないのだ。いや、それでも、私はこの場所にいる。道は前にしかない。自らの判断で足を踏み出したこの意志は間違っていない。
道の先にある曲がり角を見た。向こう側から淡い光が漏れている。松明を焚いているのだろう。
淡い記憶が蘇った。騎士として二度目の戦場へ行軍したときの記憶だ。一度目の戦場は、あまりにも鮮烈な印象を私に植え付けていた。戦場は幾多の死を生みだす。言葉では知っていたが、現実を目の当たりにした私は抽象的な恐怖に囚われ、それを払えずにいた。
味方であれ、敵であれ、人は誰もが命を惜しむ。思いは皆同じだ。しかし、生き残るためには、誰もが立ちはだかる敵を殺さなければならない。己の生を追い求める激しさで、相手の命を握りつぶすしかないのだ。その結果、戦場には生への欲望が蠢き、その欲望と同数の死が生産される。未熟だった私は、戦場自体を死の量産を司る死神のように感じたのだ。
苦々しい思い出だった。青臭く覚悟の無い精神が恐怖を死神という空想へ換えたのだろう。今は違う。経験が私を変えた。また、この大陸へ辿り着いて、今まで知らなかった世界も知った。大海を漂っていた時の私や、傍観者へと成り下がった時の私は死んでいたが、今は生きている。呼吸を続ける以上に、本当の意味で生きている。私には剣があり、救うべき人がいる。
全身に力を籠め、確信に満ちた一歩を踏み出した。
ふいに、親友の言葉が聞こえた。
「自己陶酔に陥った無駄死にと、勝利のための犠牲をはき違えるなよ。愚か者。お前が成すべきことを考えろ」
おせっかいな親友の声は、怒りに満ちていた。実際に、以前、彼から怒鳴り散らされた言葉だ。私が客観的な視点を捨てきれないのと同様に、親友は論理的な思考を放棄できない。彼が怒るということは、感情に流されたわけではなく、彼の視点から見て私が間違った行動をとろうとしたのだ。
もし今も彼が傍らにいれば、同じように怒るだろうか。過去へ思いを巡らせた。間違いなく、怒るだろう。いや、意味の無い考えだ。親友はもういない。別れ際の「生きろ」という約束が残っているだけだ。ならば、文句など言わせない。
今こそ、生きよう。
道を曲がった。曲がった先から道幅が少し広くなり、真っ直ぐに上へと伸びていた。三人ほどが横に並べる道幅だ。左右は木々が密集しているため、隠れる場所はない。地の利を生かしている。道の先に見えるアジトの入り口は、山中であるにも関わらず分厚い門になっていた。入り口の周りは塀で囲まれている。大勢で攻め入ることは難しい。また、門へ辿り着くまでに弓で敵を射ることも、岩や石を落とすことも出来る。守備を考えた造りだ。
開かれた門の左右では松明が焚かれている。門の中央には男が一人立っていた。腕を組み、私を見下ろしている。アジトへ忍び込むという選択肢は消えた。
神経を研ぎ澄ませながら、坂道を上った。戦闘はすでに始まっている。私は戦士としての思考を始めていた。目的は鬼神を殺すことではなく、テオリアの救出だ。好戦的になる必要は無い。まずは、話し合いが可能かどうかをさぐる。戦闘になれば、短期決戦で決める。鬼神に関する情報は少なく相手の人数も分からないが、可能な限り複数人を一度に相手にする状況は避けなければならない。
腕組みをした男は、鞘の先を地面につけて、剣を自分に立てかけていた。上も下も黒い衣類を身につけている。動きやすさを第一に考えた服なのだろう。体型に合った衣類には引き締まった身体の線が浮き出ていた。
私は道の真ん中を歩いた。一歩一歩、戦場の中心へ近づく。忘れていた緊張感が込み上げてきた。気力は充実している。呼吸が浅くならないように、意識して深く息を吐いた。
門の前に立っている男が、剣を掴んで一歩だけ踏み出した。
相好をくずすわけにはいかないが、幸運を感じていた。男が仲間を呼ぶようであれば、もしくは、弓をつかうようであれば、アジトへ近づくことさえ困難になるところだった。
男は、表情にも瞳にも、戸惑いや恐怖の色をみせない。口元には笑みさえ浮かべている。血煙を吸い、修羅場をくぐった人間がまとう雰囲気だ。容易い相手ではないだろう。
男との距離が十メートルをきった。不意に、右手に持つ私の愛剣が光った。鞘に施された意匠が松明の光を反射したのだ。鞘には大きな髑髏が彫ってあり、目立つように銀色の塗装が施されている。祖父から受け継いだ剣の特徴、ではない。親友からの贈り物だった。人生で最悪の贈り物だったが、今は役に立った。必要以上に膨張し続けていた緊張がしぼんでいく。
門の前に立つ男とは、剣を交えることになるだろう。確信めいた予感があった。