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第9話

 外の様子から見ていきたいと言ったぼくを、スミレは怪訝げに流し見た。振り返った彼女はぼくの言葉からその真意を探ろうとしている。少しの間逡巡し、やがてぶっきら棒に了解の意を示した。


 正面玄関から外に出ると、辺りには夜の帳が降ろされており、病院の窓からもれる僅かな光だけが闇に浮かび上がる。


 病院の背後は山である。そちらは完全に闇に包まれ、ぽっかりと空洞が口を開けているようだった。闇に慣らした目で注意深く山の方角を確認する。動く気配、小さな光も見逃さえないように時間をかけて調べ上げた。


 それから反対側の街へと続く道の方角に転じる。そちらも目立った光はない。病院が位置するのは高台というわけでもないので、ここからでは街の一部分しか見渡せない。僅かに見える街の一画には、明かりが点っている様子はなかった。


「街には誰も残ってないのかい?」


「ここら辺で生き残った人たちは、みんなこの集落に属してるわ。初めのうちは街中で固まっていたんだけど、ケモノの襲撃にあって離散してしまったの。逃げていった人たちがどうなったかはわからないわ……」


 スミレの言ったように、どこの街であっても同じようなプロセスを辿る。まずは街中の主要な公共施設などに大勢が避難してくる。落ち着いた頃にケモノに襲撃される。町外れに生き残った人々が集まる。こんな感じだ。


 当初のケモノの襲撃には共通性が見られたが、現在の散発的な襲撃にはそれが見られない。大きな<街>を襲う時もあるし、ここのような小規模な集落を襲うこともある。


 次に襲われそうな場所がわかれば警告もできるのだが。そう都合よくケモノは動いてくれないのだった。


 ぼくは再度建物からもれる明かりの量を確認して、この程度なら大丈夫だろうと見当をつける。あまりに過剰な明かりは逆にケモノを呼び寄せることになるとぼくは信じている。そのような危険な場所に寝泊まりしたくはないのだ。


「ねえ、早く中に戻らない? 夜中の外は危険だわ」


 ぼくからすれば、明かりを灯した建物内の方がよっぽど危険に思えるのだが、それを彼女に言ったところで信じて貰えるとは思えなかった。こうして彼らが明かりを点けて自衛している以上、ぽっと出のぼくが逆のことを言ったら危険視されるのは明白だった。


 もしも明かりに対する危険性を教えるのだとしても、それはもっと親しくなってからでないとならない。


「中に戻ろうか」とぼくは言った。


「ねえ、セイジさん。満足した?」とナズナが言った。


「うん、満足した」とぼくは答えた。


 そのやり取りを珍妙なものでも見るかのような表情でスミレはうかがっている。


「結局、彼は何をしたかったの?」とスミレはナズナに訊ねた。問われた妹は、姉にどう説明すべきか視線を彷徨わせた後、


「セイジさんは、危ない人なの」


「その説明はおかしいっ」とぼくは間髪入れずに言った。「まず抽象的過ぎるし、そこに至る過程が省かれているから、ぼくが人間的にも道徳的にも変態であるようなニュアンスになっている」


「そうかなあ」


「ナズナさん、日本語はきちんと使用しないといけないよ。相手を勘違いさせてしまうからね」


「以後気をつけます」


「よろしい」


 ナズナはうんうんとうなって適切な言葉を探していた。いまいち納得できない表情であるものの、一応の妥協を見出したようで、


「セイジさんは闇に魅入られた人なの」


「何だか中学生の頃に戻った気がする説明だ。すっごく自分が恥ずかしい気がする。恥ずかしさのあまり惜しげもなく長ったらしい非常用漢字使用の必殺技を叫んでしまいそうだ」


 ぼくとナズナがわいわいやっていると、スミレは呆れ返った声で提案した。


「どうでもいいから、中に戻りましょう。おふたりさん」




   ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■




 建物内の至る場所に明かりが灯されており、そのおかげで無手でも何ら支障はない。陽が落ちる直前に住人総出で点灯するのが決まりらしく、自分の持ち場から戻ってきた彼らは思い思いの場所でお喋りに興じていた。


 電気が通わなくなり、ラジオもテレビも何も伝えなくなった。主要な娯楽を奪われた人々に残されたのは原始的な暇つぶしだった。


 燃料の節約らしく、そこまで光量は確保されていない。ぼくも好ましいと思える範囲だった。キララも同上。


 ぼくに抱っこをせがむキララから、彼女が活動時間に入ったことがわかる。


「セージ」


「はいはい、お姫様」


 ぼくは彼女を抱き上げた。視線が高くなったことと、いつもと異なる場所だという条件もあってか、普段に比べて興奮している様子だった。


「つくづくあなたたちには驚かされるわね」とスミレは言った。「普通、夜中になると全然動かなくなっちゃうのにね。キララちゃんは違うみたい」


「わたしも最初はびっくりだったよ、お姉ちゃん」


 久保田姉妹を驚嘆させたキララは、姉妹の方には興味を示さず、病院という特殊な構造の建物に興味津々である。


ぼくらは今、スミレの案内に従って調理場に向かっている。そこならば建物内でも火を扱うことができる。ある程度の防火処理がなされているからだ。


 すれ違う住人に会釈しながら進むと、「調理室」というプレートが掲げられた一室に辿り着いた。中からはいい匂いと女性たちの楽しげな声が聞こえてくる。


 ぼくは自然と頬が緩んだ。大げさなことかもしれないけれど、こうした和気藹々とした人々の営みは、荒んだ心を癒してくれる気がするのだ。


 スミレが先頭になって入室する。


「お邪魔するわよ」と入ってくるリーダーに気づいた面々が雑談を交わす。ぼくは邪魔にならないよう入り口の傍でそのやり取りを眺めていた。


 彼らはぼくと、ぼくの腕に抱かれたキララに興味を示しているようだった。


「ここで全員の食事を作っているんですか?」


 ぼくの質問に誰が応えるべきかと目配せしあっている。調理しているのは年齢が様々な女性たちだった。彼女たちの中で最年長であろう中年の女性が代表して答えた。


「そうなるわね。わたしたちが配膳係を任されているのよ」


 なるほど、いかにも食堂のおばちゃんらしい方である。彼女は話しながらも手際良く野菜の皮を剥いている。集落全員の食をまかなう調理するのは大変そうだった。


 食事量は制限されているとは言え、その材料はかなりの量だった。ここまで多くの野菜を準備できるということは、彼らは野菜を自前で生産しているのだろう。


 農業を行えている集落は底力がある。定期的に食料を確保できる強みは大きいのだ。


 今夜の献立は野菜のスープだそうだ。ドラム缶を改造したカマドを使って煮込んでいる。煙突は室外に向かって設えられていた。うまいものだ。誰か建築に詳しい人間がいるのだろう。素人では、こうも綺麗には造れない。


「夕飯、楽しみにしていてね」という気のいいおばちゃんの言葉である。ぼくは礼を言って調理室を後にした。


「女手が多くなっているから、調理の面では困っていないわ」と複雑な表情でスミレは言った。「でもそのぶん、力仕事には弱いのよね」


 廊下を歩きながら集落の現状を思い浮かべる。最初に迎えられた時にも思ったが、やはり男の人数が少ないようだ。調理といった軽作業は女性でも十分にできるものの、農作や狩り、重い物を運ぶ力仕事はどうしても女性には辛い。


 本来ならば、こうした重労働を男が担当して役割分担をするはずである。ところがこの集落の現状では、役割分担できるほど男女比が釣り合っていない。女性の方に傾斜した配分では、男がやるような荒事・力仕事も女性の面々がやらねばならないのだ。


「集落の男女比はどうなってるの?」とぼくは訊ねた。


「……総数が50で、そのうち男性は10名よ」


「それはまた……」


 ハーレム状態などと戯言を言っている余裕はない状態だ。そのうち女性だけになってしまうのではないか? そうなったら、生活の面で様々な不都合が出てきそうだ。生きていけなくもないが、酷く困難な生活になるだろう。


 特に防衛面での影響が大きい。もしも外敵に襲われた場合、先鋒に立って戦うのは男の役割だ。それがなくなれば、彼女たちは自分で武器を持って戦わねばならなくなる。


 女は男より弱いと言うつもりもないけれど、同数の訓練されていない男女が武器を持って戦った場合、女性側が勝つ見込みは低い。


 悪辣に言ってしまえば、男は労働力であり兵力なのである。それが不足している現在の状況はあまり好ましいものではなかった。


 スミレは病室の前を通り過ぎるたびに、中にいた住人に声をかけられていた。彼女への信頼が見て取れる光景だった。


 各病室が個人の生活空間とされているようだ。病院は小規模ながらも、集落の住人を全員収めても余裕がある。建物内のスペースを贅沢に使用しているのだった。裏返せば、それだけの人数しかいないということになるが。


 休憩スペースを通り過ぎ、そこでたむろしてお喋りをしている一団に出会った。まだ少女と言っても差し障りない年齢の子たちである。ナズナと同年代くらいだろう。


 彼女たちがこちらに気づき、スミレに挨拶する。それから遠慮ない視線をぼくは照射された。自重という言葉を知らない若者だけが放てる光線だ。ぼくは非常に居心地悪かった。


 こそこそと何やら話し合っている少女たちの姿は、かつての世界ではファストフード店などでよく見られたものだった。だがそれも遠い昔の情景に思える。ぼくは刑務所にも入っていたから、荒廃する前の世界をきちんと見納めることができなかった。今思うと、それはとても残念なことだった。


「あの、湯田さんっ」とひとりの女の子が言った。


 一度の自己紹介で名前を覚えられていることに、いつもぼくは驚きを覚える。ぼく自身がその能力に見放されているせいもあるだろう。初対面の人間に名字やら名前やらを呼ばれると違和感を覚えるのだ。


「なんだい?」


「あの、湯田さんって今何歳なんですか?」


「35歳だよ」とぼくは答えた。


 言ってみて、何だか無性に虚しくなってくる。どうして若い子に年齢を訊かれると、こうも悲しくなるのだろうか。不思議である。35というおじさん真っ盛りの中、いや、ぼくはまだまだ若いぞ、という自負が潜在意識を支配しているからだろうか。


 ぼくの答えに、彼女たちはきゃわきゃわと姦しく盛り上がっている。「ええ嘘!?」とか「童顔過ぎる!」とか。余計なお世話だった。ぼくだってもう少し大人っぽい顔つきで生まれたかったさ。


 むっつりと黙り込んだぼくを、スミレ・ナズナ姉妹が覗き込んできた。


「お姉ちゃん、35歳だって」


「ええ。わたし、まだ28とか29だと思っていたわ」


 感慨深く意見を述べる姉妹。お主たちもか。お主たちもぼくの童顔をあげつらうのか!


 散々いじられた過去を思い出してぼくは不機嫌だった。付き合っていられないと、キララとお話しして癒して貰おうと視線を下げる。


「……」


 キララの純粋無垢な瞳にぼくの顔が映り込む。


 ……とっても童顔だった。否定しようがない。


 この顔のせいで舐められがちだし、馬鹿にされたりとやりづらくて仕方がない。こんな世界なのだから、強面の方が余程需要があると思う。ぼくみたいな優男顔は、この弱肉強食社会では美味しくいただかれる側なのである。


「別に悪くないと思うよ。そんなに気にすることないのに」とナズナが言った。


「いいかい、お嬢さん。これは男としての沽券に関わる問題なんだ」とぼくは言った。


「コケン?」


「そう、沽券。君たち女性だって、『可愛い』と言われるよりは『綺麗』と言われる方が好ましい時期が必ずくるはずだ。ぼくが抱える問題はその手の代物なんだよ。ねえ、わかるだろ?」


 ナズナは首をかしげて、「よくわかんない」と正直な感想を述べた。後ろに控える仲間たちに参考意見を訊くも同じような返答である。


 くっ、この手の問題はまだ時期尚早なのか。ぼくの気持ちをわかってくれる仲間はいないのか……!


「スミレさんっ」


「わたしは『可愛い』って言われても嬉しいわよ」


「何だって!? 君は確か……」


 自己紹介の時に知った情報を思い出して確認しようとするも、スミレの邪気にやられてぼくは閉口せざるを得なかった。ぼくのことは好き放題言っておいて何て横暴だ。圧政だ。言論の自由に対する侵害だ。


 遙か昔から、女性陣に男は敵わないと決まっているかのような敗北感だった。きっと洞穴に住んでいた頃から、女の子の勢いに男は押されっぱなしだったに違いない。原始時代から続く伝統である。


「キララ、ぼくはもっと渋い男になりたかったな……」


 キララは儚い微笑を口元に浮かべ、ぼくの手を握った。


「……セージは、いまのままでいい」


 そのたった一言に、ぼくの心臓は撃ち抜かれて爆散した。衝撃的な感動に襲われると苦痛さえ感じるとは新発見である。息を詰まらせてぼくはキララを見つめる。


 彼女はその一言以外に言葉はいらないとばかりに口を噤んでいる。その在り方は、余計なことは喋らず、背中で、あるいは短い言葉で全てを語るハードボイルドな生き方に酷似していた。


 ぼくは感動のあまり地面に突っ伏して咽び泣いた。我がことながら変なおっさんである。


「キララちゃんには驚かされてばかりね」と苦笑してスミレは言った。それもそのはずで、キララのように喋るだけでも珍しいのに、加えて他人を気遣う言葉を口にできる子供は皆無に等しいのだ。


「血が繋がってないのが嘘みたいね。どちらも普通じゃないのだから、案外いいコンビ―――――ううん、いい親子じゃないの」


「だね」


 スミレとナズナが朗らかに言った。後ろの少女たちも癒されているようだ。キララには、こうして人を癒す不思議な力があるようだった。それは超常的なものではなくて、生来備わっている雰囲気のようなものだ。彼女の母親も、そんな女性だった。


 ぼくが膝に付いた埃を払って立ち上がると、スミレは刺々しさの抜けた様子で声をかけてきた。


「さて、次はどこに行く?」


 彼女の話では残りの階も似たような造りらしく、殆ど見終わったも同然ということらしい。住人たちはそれぞれ年齢、性別でグループを形勢しており、男衆は外敵に対応しやすい一階部分で寝起きしているそうだ。


 交代で夜間も見張りを立てているそうだから感心した。彼らのような危機感を持って運営されている集落は少ない。<街>のレベルになってようやくなされる程度だ。


 太陽の加護を失っている夜間はケモノたちの時間帯―――――そんな通説に従うのが大多数の人々である。なぜなら生き残っている人々は<審判の日>を生き延びた人間であり、ケモノたちに歯が立たないのは覆しようのない真理として刻み込まれているからである。


 夜間行動を取るのは命取りである。そんな大前提が成り立っているのだ。前に述べた<三戒>にもあるように、夜という時間帯は明かりを絶やさず徒党を組んでやり過ごすものだった。


 だが人間は禁忌を犯す生き物である。それは食べてはいけないと言われていた知恵の実を食べてしまった時から続く悪い癖だった。


 危険だとわかっていても行うのが人間が人間たる特徴である。他の動物には見られない異常行動である。


 夜の街を這いまわり、仲間のうち誰かがケモノに食われても、それがどうしたと略奪のために光なき道を徘徊するネジの外れた人間。そんな人種が間違いなく存在しているのだった。


 過去何度もそういった輩に遭遇し撃退しているぼくからすれば、ネジの外れた人間はどこにでも存在し、いきなり現れる厄介な敵という認識だ。


 どこかに特別な訓練施設があって、そこで人知の及ばぬ過酷な「キチガイ育成訓練」が行われているとしか思えない。そうでなければ、撃退しても撃退しても、湧き出るように出現するヤツらの説明がつかないではないか。


 たちが悪いのは、ケモノと違ってしつこい上に朝になっても活動できる点である。ヤツらに目を付けられたら最後、ハイエナのようにどこまでも追いすがってくる。こちらから打って出て撃退するか、追跡不可能範囲に気付かれないよう逃げるしか方法はない。


 ヤツらは姑息だから、人数的に劣る場合集落などの集団を襲うことはまずない。自分たちよりも弱い存在を獲物に選ぶのだ。けれども組織だって大人数となった時、ヤツらは理性を失くしたケダモノとなって虐殺を行う。


 男は殺し、女は犯し、あらゆるモノを略奪していく。そこに慈悲などなく、助けを求めて懇願する力なき者さえ手にかける。


 だが幸いなことに、そうした大人数の組織を編成しようとすると、必ずと言っていい程ケモノに襲撃されるのだ。襲われる者たちは全滅に近い状態に陥るため、情報が伝えられず、組織編成の危険性は広がっていかない。そうして同じ轍は何度も踏まれるのだった。


 何が言いたいのかと言えば、夜であっても気は抜けないということである。ケモノに襲われれば一巻の終わりであっても、人間相手であれば対策のしようもあるのだ。撃退することも不可能ではない。


 この集落が行なっている夜間の見張りは賞賛されるべきものだった。ぼくは、まだうら若きリーダーに対して改めて感心したのだった。


「最後に屋上を見たいな」


「屋上? 見張り役が詰めているのは最上階の3階部分よ?」


「こういう建物の場合、屋上は重要なポイントなんだ。もし攻められた時に最後の砦となるのが屋上だし、早い段階からでも攻撃の要所となる。高低差があるから、有利に矢を射かけることだってできるしね。弓矢でなくとも、石や重量物を投げ落とすだけでもかなりの威嚇になるんだ」


 窓からでも攻撃は行えるけれど、開口部は狭くて限られてしまう。視野角が狭いのが致命的だ。


「なるほど」とスミレは言った。「いろいろと詳しいのね。そういう戦いの経験が豊富なのかしら?」


「一番最初に所属したグループが<街>の規模だったからね。よくならず者の襲撃を受けたんだ。初期の頃はそれなりに人間も生き残っていたし、相手組織も規模の大きいものが多かった」


 屋上へと続く階段を登りながらぼくは当時を思い出していた。スミレとナズナは興味深そうにぼくの語りに耳を傾けている。彼女らはこの病院をずっとホームにしてきたから、外の情勢に疎いようだ。


 屋上へ続く階段には明かりがなく、暗闇が静かに横たわっていた。するすると登っていくぼくとキララの後ろを、姉妹は一段一段確認しつつ追いかけてくる。


「ちょ、ちょっと登るペースを落として。何でこんな暗闇でも苦もなく登れるのよ?」とスミレは余裕のない声色で言った。


「旅の途中では明かりを極力使わない生活を心掛けてきたから。夜目が強くなったんだと思う」


 夜間の点灯は、自分の位置を相手に知らせることになるから好ましくない。できるだけ光を建物外にもらさないのがぼくの鉄則である。寝床とする場所ならば尚更だ。


 屋上へと続く扉には施錠がされていなかった。晴れた日には、よく憩いの場として利用されるのだとスミレは言った。


「わたしもお気に入りの場所だよ」とナズナも嬉しそうに言う。


「ぼくも屋上は好きだよ」と彼女に同意して、「あんまり深くない森の次に好きかな」


「深くない森……?」


 ナズナは怪訝な声をもらした。深くない森とは、どのようなものなのか想像しているのだろう。彼女くらいの年齢だと、森は非日常の世界だから理解しづらいに違いない。ぼくだって変わりはないけれど、彼女よりかは森に近しい人間であると思う。


 ぼくの森好きは真性だから、語り出したらきりがない。ここで空気を読まずに森トークに移るのは、大人としてあまりにも分別のない行為だから自重しておこう。彼女にはいつか森の素晴らしさを語り聞かせてあげたいものだ。


 重い扉を開け放つと、気圧が変化して空気が流れていく感触がした。外から中へと吹き込んだのか、中から外へと吹き出したのかはわからなかった。ぼくは空気の流れに目をつむってしまったからだ。


 当然のことながら屋上には人影はなかった。光源もない。暗黒のステージが見渡すばかりに広がっているだけである。その望洋とした闇は視線の先まで続いており、やがてある一点で色彩を変えている。


 屋上の縁だった。そこから先には夜空が広がっている。ぼくは地上の黒に比べて、星空の広大な海は全くの暗闇ではないと思っている。何年も何百年も、何万年もかけて地球にやってくる星々の光が漆黒の宇宙を彩っているのだ。その光は、淡い群青のような瀟洒な色彩を黒地に加えている。


 建物の屋上だというのに、スミレは暗闇を恐れているようだった。ナズナの方は、ぼくたちと少ない時間ながらも一緒に過ごしていたため、暗闇に対する耐性を会得したようである。


 ぼくとキララは手を繋いで足を踏み出す。そこに躊躇など存在しない。恐れる必要性は皆無であると確信しているからだ。ここにはケモノはいないし、敵となる人間もいない。あるのは静寂な闇と品のいい星光だけなのだ。


 手短な縁の所まで行き、周囲を眺めてみる。階下からもれる明かりの他には光源が見当たらない。


 確認するようにキララへ視線をやると、気づいた彼女はゆっくりと頷いた。付近にはケモノも人の気配もないということだ。どの程度の範囲をカバーできているのか定かでないが、今までの経験からすると、彼女はかなりの範囲を探知できるようだから今夜は安心だろう。


 彼女の「超能力」とも呼べるこの力には随分と助けられている。ぼくがこうして<キャラバン>をやっていられるのも彼女のおかげだ。そうでなければ単独で旅などできるはずがない。


 ぼくはキララの手のひらの感触を感じながら、入り口で待っている姉妹の下へと戻る。


 その時、頭上を流れ星が煌めいた。願掛けする余裕はなかった。ぼくの間抜けな「お?」という声に反応したキララも頭上を見上げていた。彼女は光の流線が消えた後もしばらく星空を眺めていた。


 音もなく彼女は両手を祈りの形に組んだ。それから目をつむって満点の星空に祈りを捧げていた。願いを叶えるほうき星は姿を消していたけれど、彼女の真摯な様子には、見る者の口を開かせない静謐さがあった。


 やがてキララは祈りを解いた。満足そうに口元に笑みを浮かべている。お願いは済んだのだろう。


「何をしていたの?」とスミレは訊いた。


「何をしていたと思う?」とぼくは言った。


 小首を傾げた彼女は「わからないから訊いているんじゃないの」と頬を膨らませた。


「流れ星にお願いごとをしてたんだ」


「流れ星に?」と興味津々にナズナが繰り返す。「どんなお願いごとをしたんですか?」


「ぼくはタイミングを逃しちゃって駄目だったんだ。キララはちゃんとお願いできたみたいだけどね」


 流れ星が流れている間にお願いできたかは関係ないのだとぼくは思う。重要なのは、あるべき時に願いごとをすることだ。「流れ星が流れている間に」という条件は、きっと願いの集中力を高めるためにあるのだ。だから願いを真摯に祈る集中力さえあれば、昼間に願っても曇り空の夜に願っても同じなのだと思う。


 その意味で、ぼくは完全に願いのタイミングを逃していたし、キララは完全に掴んでいた。彼女の願いは完璧だった。


 この子が一生懸命に願ったことは何だったのだろう。ぼくはとても気になっていた。話を聞いた姉妹も、この風変わりな少女の願いに興味を持ったようだった。


「キララ。君は何をお願いしたんだい?」とぼくは訊ねた。


 キララはぼくの顔をじっと見据えて言葉を探していた。瞬きを3度繰り返し、ややあって口を開いた。


「えっとね」と胸の前で手を握り締めながら、「ないしょ」と言った。


 ぼくはううむ、と感嘆しつつ、


「内緒なのか」と言った。


「内緒みたいね」とスミレも苦笑して、「みたいだね」とナズナもキララの頭をなでながら言った。


「叶うといいな」


 ぼくは心底思った。この両親を亡くした少女の願いをどうか叶えてやってくださいと。いるかもどうかも知れない神様仏様。きっとあなたたちはいないのでしょうけれど、宇宙を支配する何か大きな力があれば、どうかキララのささやかな願いを叶えてやって欲しい。


 我々は途方もないくらい広い夜空を仰いだ。この無限の大海原に浮かぶ地球は、あまりにも小さくて頼りない。その小さな星の上で我々は生きているのだ。何だか不思議な気分だった。周りには空気がなくて、地球から少し離れれば生きていくことができないなんて、嘘みたいな真実だった。


「世界」とは地球のことではなかった。地球は世界の一部分でしかなかった。片隅のまた片隅。中心からはずっと離れた郊外に我々の生きる惑星はあるのだった。銀河にとってはさして重要でもないパーツのひとつだった。


 ぼくたち人間の営みなんて、あってもなくても同じようなものだ。それなのに、人間は自分たちこそが宇宙の中心であって、自分たちが滅べば地球が終わるとか世界が終わるとか思っている。とても滑稽な話だった。思春期真っ盛りの恥ずかしい妄想みたいだった。


 だがこれが現実だ。ぼくたちは自分のことだけを考えてしか生きられない。それが限界なのだ。こうして目の届く範囲、手の届く範囲について悩んで苦しんで喜ぶことしかできないのだ。それが我々人類の最果てだった。


 でもそれは幸いであったと思う。地球を散々喰い尽くそうとした人類が、他の星まで出はって行って破壊活動をするのは悪夢ではないか。せいぜいが地球と月をいじくり回して満足していればいいのだ。それが分相応だと思う。


 ぼくは不自由な幸せを感じていた。きっと、以前の世界では感じることのできなかった感覚だ。その幸福を与えてくる一端には、キララの存在がある。彼女がいなければ、ぼくはずっと前に命を絶っていたに違いないのだ。


 その恩人たる少女は、見飽きることもなく星をずっと見上げていた。


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