第8話
人は本来善良であると言った人間がいる。性善説と呼ばれるこの主張は、人間を楽観的に見た結果か、あるいは希望を持つ意味であえてこのように唱えたのかもしれない。
しかしながら、文明社会が荒廃した後に訪れたのは、彼らが想像した人間性からかけ離れた無秩序の世界だった。
<審判の日>を生き延びた人間たちは、混乱にのまれながらも立ち直ろうとする姿勢を見せていた。悪夢の夜が明け、辺りに陽光が満ちると、人々は状況を把握しようと互いに助けあい、励ましあった。
その時は、僅かなりとも秩序は保たれていたのだ。人間性を保持し、負傷している人を皆で救助する。食べ物を探し出してきて配給する。そういった助け合いが行われた。
だが夜になり、悪夢は再び生き残った人々を襲ったのだ。それから毎夜現れるようになった異型のケモノ。次々と犠牲になっていき、逃げ延びられる人間の数は僅かでしかなかった。
やがて食料が足りなくなってくると、人間同士の争いが始まった。グループを作り、極度の排他性を持ち、外の人間を激しく拒絶するようになる。そうしなければ生き残れなかったのだ。
堪えがたい飢餓に襲われている人間に倫理感など無に等しい。食料も持つ人間を襲い、あるいは盗み、必死に生き延びようとする。
昼の世界でもっとも警戒すべきなのは、ケモノでなく人間なのだ。特に集落に属さない人間は何かしら問題を抱えていることが多く、盗みや殺人を犯して追放された者が殆どだった。
ゆえに外から流れ着く人間は集落に受け入れられることはまずないと言っていい。一度放浪の民となってしまったら、自ら定住の地を造り出すか、ひとりだけで生き抜いていかねばならないのだった。
ぼくの場合は、<キャラバン>という名目があるから事情は異なる。それでも外の人間には違いなく、ましてや初めて訪れるぼくは拍手喝采で受け入れられることはなかった。
「お姉ちゃんっ」
「ナズナ! もう、本当に心配したんだからね……! あなたが、死んじゃったんじゃないかって……諦めかけてたんだから……」
「心配かけて、ごめんなさい……」
今回の場合はナズナを送り届ける大任を果たすことができたので、多少は敵愾心も少ないようだった。
ナズナとその姉と思われる女性が抱擁を交わす中、ぼくは住人たちに取り囲まれて四面楚歌となっていた。彼らはぼくが怪しい人間でないか見極めようとしていた。いくら仲間を送り届けてくれた人間だとはいえ、それが中に入り込むための策だとも限らないのだ。
ぼくは馬車から降り、右腕に赤十字の腕章があることを確認しながら名乗った。
「初めまして。ぼくは<キャラバン>をしている湯田と言います。今回は、あなた方のお仲間を救出したので、送り届けさせて貰いました」
あまり卑屈になり過ぎたり、下手に出過ぎたりすると舐められてしまう。最初はその辺のさじ加減が難しかった。今では場数も相当こなしているので、自然な塩梅が身についている。
ぼくの自己紹介に対して、周囲を囲んでいる人間たちは顔を見合わせた。この中で誰がリーダーなのだろうとぼくは思った。彼らを観察してみると、皆小奇麗とは言いがたいものの、他の集落に比べたら格段の清潔感がある。酷いところでは近寄っただけで鼻がひん曲がるくらいの悪臭を放つ不衛生な集落もあるのだ。
これは立地条件が関係している。近場に水源のある集落は、その潤沢な水を使って身体を清潔に保つこともできる。一方、水に乏しい場所だと、飲料水を確保するのに手一杯であり、他に回す余裕などない。そうなると自然、身の周りが不衛生になってしまうのだった。
この見地からすれば、ナズナの言っていたように水源は確保されており、集落内での秩序は保たれているのがわかる。人間はどういう訳か、悪事を働くことに抵抗がなくなると外見にそれは現れてくる。一目見ただけで、ソイツが碌でもない人間だと直感できるのである。
自分の身なりに気を使えなくなる程切羽詰まった時、人間はどんなことだってできてしまうのだ。それはもう、理性ある高等な動物でなく、ただの飢えた獣だった。
これはある程度の偏見が混じった考えでもあるが、ぼくが2年の旅を経て学んだ教訓である。
ぼくを囲んでいる住人は、明らかに女性が多数であった。ざっと見ただけで、男2人に女が10人。皆がさりげなく手製の槍を携えている。さすがにぼくの方へ穂先は向いていないものの、相手が武装していることには変わりない。
この男女比からも集落の現状が読み取れる。
男はいきおい、狩りや探索に赴くことが多い。男たちが足を踏み出す集落の外は危険がごろごろしており、決してピクニックやハンティング気分で外に出ることはできない。大げさに言えば、外の世界は死と隣り合わせなのである。
敵となるのは言うまでもなく人間、それから野犬、山に近い場所では動物たちの勢力圏拡大に伴うイノシシや熊の出没もあり得る。
そして昼の内に集落に戻れない状況に陥ると、<黒いケモノ>が絶対的な死として立ち塞がるのだ。
犠牲になるのはもっぱら男たちからであり、ここのように女性に偏った男女比になる。ぼくが見てきた場所の殆どで見られる傾向だった。
さりげなく取り囲む人々を観察していると、その中からナズナを伴って女性が近寄ってきた。
GパンにTシャツというラフな格好であるものの、その手には槍がしっかりと握られている。箒の柄の先に包丁が括り付けられている簡易なものだ。だが武器としては十二分に機能する代物である。
確かにナズナと血が繋がっているのが見て取れる。目元は姉の方が鋭利ではあるが、鼻の形や口元は瓜ふたつだ。
彼女は後ろ髪を一纏めにしていて、見るからに男勝りの様子だった。
「妹を助けていただいて感謝しています。わたしはここのリーダーをしている久保田スミレです」
「よろしく」とぼくは手を差し出した。彼女は快く握手に応じてくれた。しかしながら、手を繋ぎながらも、我々はお互いに警戒しあっているのを自然と悟った。彼女も若い身の上で集落のリーダーを務めている以上、こうした腹の探り合いの経験はあるはずだった。
それからぼくは傍らのキララを紹介する。
「こちらは世空野キララ。ぼくが面倒見ている子です」
「子供……? あなたのお子さんではないのですよね? 名字が違いますし」
久保田スミレにじっと見つめれたキララは、一度だけ彼女と視線を合わせるも、すぐに興味をなくして虚空観察に戻った。
「ええ、知り合いの遺児です。彼女の両親は亡くなってしまったので、代わりにぼくが」
「そうなんですか……」
スミレのぼくを見る目が幾分か和らいだ。キララを懐柔の道具のように扱ってしまって申し訳ないけれど、子供を連れていると相手は必然警戒を緩める。
子供たちは数を減らしており、それと同時に酷く扱いにくい存在である。だが自我が全くないということもなく、自らを害する人間には決して自分から近寄らないのだ。
その子供が自発的に付いて行く人間が悪人であるはずがない。そんな無意識下の判断がなされるのだった。
「今回は妹さんを送り届けるついでに、あなた方の集落にも寄らせて貰おうと思いまして」
「……ええ、それはありがたいことです。以前の<キャラバン>が来なくなってしまって久しいですから、湯田さんの来訪はわたしたちにとって喜ばしいことです」彼女は周囲に同意を求めるように、「ねえ、みんな?」
その問いかけに「そうだね」とか「まあね」という消極的返答が返ってくる。ぼくはほっとした。少なくとも、向こうから問答無用で襲われることはなさそうだ。ナズナの言葉を疑っていたわけではないが、それでも実際に自分で確かめない限り不安は拭えない。
「さあ、こんな所にずっといるのも何ですから、休める場所に行きましょう」とスミレは言った。
「そうですね」とぼくは答えた。
彼女たちの先導に従って馬車を移動させる。その間、住人たちは馬車を物珍しそうに眺めていた。ぼくは彼らに衝突しないように注意しながら馬車を走らせなければならなかった。
「それにしても馬車とは珍しいな」と隣を歩く壮年の男性が言った。
背はあまり高くないが身体つきはがっしりしている。都会のサラリーマンというよりは、田舎で農業やら魚業に携わっていそうな風貌である。
「ああ、おれの名は茂野モリアキだ。よろしくな、兄ちゃん」
「こちらこそよろしく」
威勢が良いし、周囲の人間も彼に付き従うように布陣している。きっと頼りにされているのだろう。だがだったらなぜ、彼がリーダーでないのだろう? 年齢的にも彼の方が適任だと思うのだけれど。その辺も後で探った方が良さそうだ。
ぼくは彼を見下ろす形になりながらも、手綱に神経を集中させて会話を続ける。
「馬車は自動車と違って燃料を必要としませんからね。彼らに水をやっておけば、後はそこら辺の草を勝手に食べてくれますから」
移動能力は自動車に大きく劣るものの、それを上回る利点が馬車にはあるのだ。ケモノ対策にもなるし、馬車から離した上で単独移動にも使える。それに話し相手としても悪くない。公爵夫妻は上流階級らしく、お上品で無駄なことを喋らない。人間よりもずっと好ましい。
「それにしても、ただの馬車じゃなさそうだな」
茂野さんは馬車の側部に目をやって感嘆の声をもらした。半ば呆れているような響きも感じられる。彼はこの馬車に施された改造に勘づいたようだ。
外装は強化プラスチック、内部からでも矢を射られるように覗き穴が各部に備え付けられている。見ただけではわからないが、馬車内の底を開ければ、脱出口にもなる。普通の馬車とはひと味もふた味も違う特注製である。
気が狂ったように横領・貯蔵の日々に明け暮れていた時の産物だった。警察による没収を免れたのは幸いだった。
彼は他にも、いろいろとぼくに話しかけてきた。それに正面から答えを返す。集落に着くまでの短いやり取りで、ぼくの性格を掴んでおこうという腹積もりなのだろう。
彼らに案内された先に見えてきたのは老朽化した3階建ての建物だった。前面には駐車場スペースがあり、背後には小高い山が控えている。入り口に続く道は廃車を連ねて造られており、大人数での侵攻を防ぐ効果が見込まれた。
建物の窓を見ると数人が顔を覗かせており、こちらの様子をうかがっている。<キャラバン>の印だけで無条件に信用しないのは褒められるべき行為だ。この世界では、いくら用心したって足りないくらいなのだから。
玄関口に続く直前は広いスペースが作られていた。ここで料理をしたり集会をしたりするのだろうとぼくは思った。
地面に降り立ったぼくは彼らの集落を仰ぎ見た。立地的にも悪くない。何より背後に森があるのがいい。食料調達もできるし、もしも人間の集団に襲われた時は逃げ込むことができる。
逆に背後から攻められる心配はないから、見張りは前方だけに気を配っていればいい。この造りなら、ならず者が忍び込むこともなさそうだった。
それにここは郊外に位置するから、人目につきにくい。略奪して生きているような人間たちは、まず街中を物色するし、そこにある学校や病院などの施設を襲うことが多い。この建物も病院らしいが、町外れにある上、昔の建物だから病院らしい造りをしていない。どちらかと言えば市庁舎のように見える。
「さて、ようこそわたしたちの集落へ。歓迎します」と久保田スミレは歓迎していなさそうな顔で言った。
「短い間ですかよろしくお願いします」とぼくは愛想笑いを浮かべて言った。
まあ、悪くもなく良くもない第一次接触だ。どうにかなるだろうさ。
■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■
赤十字マークの張られた馬車を駐車場の隅に置かせて貰い、公爵夫妻を青草のしげるポイントに移動させる。彼らは馬面ながらも嬉しそうに草を食み始めた。
切り離された荷馬車の方は、前面の扉を閉鎖してある。この扉は鍵付きだから、簡易の倉庫のようなものに早変わりだ。誰かに物資を盗まれることもあるまい。もしも無理やり盗もうとするなら、かなりの手間と人数が必要になる。
ぼくは顔なじみの人間と抱擁を交わすナズナを気にしながら、彼女の姉に声をかけた。
「……後で、妹さんの精神状態のことで話があるんですけど」
「―――――」
一瞬表情を凍りつかせるも、すぐに気を取り直したスミレは頷いた。この一言だけで、おおよその事情は察したのだろう。正確な時間はわからないものの、彼女が行方不明になっている間に何も起きなかったと考えられる程ぼくらは脳天気でいられない。
病院の待合室にあたる一画に、多くの面々が集まっていた。馬車から降りて、武装もしていないぼくをやっと受け入れ始めたようだった。
集落の人物が一同に会すると、久しぶりの人ごみの気配がぼくを覆った。<審判の日>以来、かつてのような溢れるばかりの人ごみというのは、もう見られなくなってしまった。
あの騒々しさが嫌いだったぼくも、もうそれが味わえないのだと思うと寂しくもある。ぼくは孤独も好きだが大人数で集まってわいわいするのも嫌いじゃない。
待ち合い室の椅子に腰を下ろしたぼくとスミレを囲むように住人たちは集まっている。皆綺麗なものだ。身だしなみに気を使える余裕がある証拠だった。
「改めまして、わたしたちの集落へようこそ、湯田セイジさん。皆も久しぶりに<キャラバン>の方が来てくださって喜んでいますよ。それに何より、妹を助けてくださって、本当にありがとうございました」
「いや……そんな」
ぼくはナズナに視線をずらすと、目が合った彼女はにっこりと微笑んだ。ホームに戻って来られて肩の荷も降りたのかもしれない。表情から時折現れていた険しさが抜けているように思われた。
「ぼくの方も、皆さんの期待に応えられる取り引きができれば幸いだと思っています」
<キャラバン>は無償で物資を提供するボランティアではない。基本的に物々交換でやり取りをする行商だ。だから、状況によっては交換する物資がないという集落もある。そういう切羽詰まった所はひと目でわかるものだ。
その点、ここの住人たちの健康状態はまずまずのようで、交換物資も全くないという状況はないようだ。こちらとしても、<キャラバン>は本業ではないものの、食い繋ぐためには妥協は許されないのだ。
「野菜の種子類、医薬品、調味料、それに酒もあります。保存が効くウイスキーに限られますが」
ぼくの言葉に数名が歓声をあげた。現在、娯楽品は底をついているので貴重品として取り引きされている。酒なんかがその筆頭だ。
自慢ではないが、ぼくの取り扱う物資はレパートリーもあるし<キャラバン>でも上質な部類に入る。散々苦労して溜め込んだ横領品だとは口が裂けても言えないが、こうして旅をする上で役立っているのだから、あの時の苦労は無駄ではなかったのだろう。
「はいはい、みんな落ち着いて。まだ取り引きする前なんだから、手に入るって決まったわけじゃないのよ?」
さりげなくぼくへの牽制が含まれた台詞だった。この皆の喜びようである。もしも取り引きが破談に終わったら、彼らの落ち込みようも半端ではないに違いない。もしかしたら怒り狂った彼らに襲い掛かられる可能性だってある。
実際、現実になるかはとにかく、そう臭わせることで取り引きを有利に進めようとしているのだろう。強かなお嬢さんだ。伊達にリーダーを務めているわけでもなさそうだ。
まだ日は沈んでいない。だが後少しすればケモノたちの支配する時間帯となる。薄暗くなってきた室内で、スミレはおもむろに立ち上がった。
「自己紹介はこの辺にして、湯田さんも今日は到着したばかりでお疲れでしょう。取り引きの詳細は明日から始めませんか?」
「それで構いませんよ」
彼女は満足気に一息つく。勝気な性格の彼女も、見知らぬ男相手に舌戦を繰り広げるのは疲れるのだろう。少しでもつけ込まれることを喋ってしまえば、あくどい<キャラバン>なら容赦なく穴をついてくるのだ。
その双肩にかかる重圧は、ぼくの想像より遙かに重いのかもしれなかった。
話が途切れたのを見計らって、もういいと判断したのかキララがぼくの膝の上に上がってきた。ここが定位置だと言わんばかりの顔である。
その様子を周囲の人間たちは呆気に取られた様子で見ている。キララは四方から降ってくる視線に嫌気がさしたようで、ぼくの胸に顔を埋めて動かなくなった。彼女の吐息で胸元がくすぐったい。
「嘘……何で?」とスミレが掠れる声で言う。
キララの反応は子供にしては珍しいが、そこまで驚くようなものだろうか。彼女といつも一緒にいるぼくからすれば、他の子供たちと比べて少しばかり異なる程度の認識しかない。
そもそもが、子供たち自体が想像の及ばぬ存在になりつつあるから、もう何があっても驚くこともないだろうに。いきなり変形合体したとしても驚かな……なくもないな。
「彼女は他の子たちとちょっと違いましてね」と何度繰り返したかわからない台詞を述べる。もう反射的にすらすら言えるくらいだ。
スミレはキララに興味を持ったようだった。隠すこともなく、遠慮無い視線を向けてくる。
「あの、あまりじろじろ見ないでやって貰えますか。この子は人見知りなもんで」
「あ、ご、ごめんなさい。確かに失礼だったわ。ごめんね、えっと……」
「キララです」と再度スミレに教えてあげる。彼女は顔を隠したままのキララに向かって「ごめんなさいね、キララちゃん」と謝罪した。当然ながら、キララはそれに答えない。
元から反応を望んだわけでもないだろうに、それでも無反応であることに落ち込んだ様子をスミレは見せた。ぼくはその様子を頭の隅に留めておく。スミレは過去に子供がいたか、今もいるのかもしれない。こうした反応を見せる女性は子持ちである場合が多いのだ。
周囲の人間たちも興味深げにぼくらのやり取りを観察している。ぼくはキララの負担にならないよう、彼女をあやしながら気になっていたことを訊ねた。
「ナズナさんの話では、ここにも子供がいるそうですね」
「はい、ふたりいます」とスミレは答えた。「キララちゃんと違って、わたしたちの言葉に殆ど反応してくれませんけれど……」
憂いを帯びた様子に、彼女の子供たちを想う気持ちが見て取れる。大人たちの中には、薄気味悪い子供を禁忌する者も少なくない。彼女の妹であるナズナにも当初その傾向は見られたのだ。
そんな中、彼女は真剣に子供の心配をしていた。思いやりがあって元来子供好きなのかもしれなかった。
いくら子供が想像の及ばない存在になりつつあるとしても、彼らを見捨てるような人間にグループのリーダーは務まらない。自分たちの仲間を見捨てるリーダーには誰もついていこうとはしないのだ。
「キララちゃんみたいな子は、他のところでも見られましたか?」とスミレは切実な表情で訊いてきた。
ぼくはその問いにすぐには答えず、難しい顔を作って沈黙した。他の集落の情報というのは、それだけで価値を持つのだ。おいそれと提供してあげるわけにはいかなかった。少なくとも、情報の交換を行う場でされるべきだろう。
ぼくの固い表情に気づいた彼女は、自分の犯した失態に動揺を表した。視線を忙しなく動かして突破口を探している。
子供の話になったら急に無策で話しかけてきた彼女に好感を覚えつつも、ぼくは手加減するつもりはないので助け舟は出さない。彼女の態度が罠である可能性もなきにしもあらずなのだ。
ぼくが推移を見守っていると、予想通り救いの手は茂野さんから差し出された。
「その手の話も含めて、ちゃんとした話し合いの場でしてはどうだ? 彼も我々に訊きたいことはあるだろうし」と茂野さんは屈強な身体をぼくの方へ向けながら、「兄ちゃんもそれでいいか?」
「構いませんよ」と少々気圧されながらぼくは答えた。
なるほど、彼らの力関係がわかってきた。彼らのリーダーの位置にいるのは久保田スミレであるが、彼女はまだ若いし経験不足だ。その彼女の後見人をしているのが茂野モリアキなのだろう。
彼らの関係はまだ詳細がわからないものの、フォローされたスミレの目には茂野さんへの信頼があった。親子程に歳が離れている彼らだが、うまいこと協力してやっているようだ。
「もうすぐしたら日が沈む。完全に暗くなる前に諸所の作業を始めなければならないから、我々はこれで失礼させて貰うよ。続きは夕食の席で」
「ええ、後ほど」
茂野さんは立ち上がり、数人を伴って席を離れていった。それをきっかけにして住人たちも解散していく。彼らと短い挨拶を交わしながら、ひとりひとりの顔を目に焼き付ける。
一見して異常そうな人間は見当たらなかった。本当に「ヤバい」人間というのは、雰囲気からして異常なのですぐにわかる。いわゆるサイコパスと呼ばれる連中である。
彼らは普段何気ない装いで日常に溶け込んでいて、ある日突然本性を表す。一般人は、隣人や知り合いがそんな危険人物だとは思いもしてないので、異口同音に「普段は大人しい人でした」などと見当違いの感想を持っていることが多い。
だが注意して観察していればわかるのだ。危険な人間というのは、時折異常な「臭い」を漂わせる。それは一瞬のことであるのが普通だ。だから一般人は気づかない。
この集落にそんな危険人物がいるとは思いたくもないが、こんな荒廃した世界だ。かつては抑えられていた異常性を発達させた人間が紛れ込んでいても不思議ではない。
事実、ぼくは今までにそういった「異常人」を見たことがある。平気で殺人をしたり、人肉を食う連中だ。彼らには禁忌というものがないのだ。
自分が死にそうだから仕方がないという理論で全て片付けてしまうか、あるいは元より行動に理論を伴わない。殺人を悪いことだと認識すらしていないである。そうした輩には、何を言っても無駄だ。殺すか殺されるかの二者択一しかないのだった。
待ち合い室に残ったのは4人だった。ぼくとキララ、ナズナにスミレである。太陽は西に傾き、目に痛いくらいのオレンジ色に周囲が染まっていく。せり立った影は少しずつ角度を深くして、太陽が沈むのを我々に刻一刻と示していた。
「もしよければ、建物の周囲と内部を見学させて貰えませんか?」とぼくは言った。
スミレは訪れたばかりの<キャラバン>の男に建物の配置を教えてしまっていいものか考えている。正しい判断だ。
彼女にとって想定外だったのは、隣にナズナがいたことだろう。
「じゃあじゃあ、わたしがセイジさんを案内してあげるよ! それでいいでしょ、お姉ちゃん?」
「ちょ、ちょっと勝手に決めないでよ、ナズナ」
「……? 何を決めるの? セイジさんを案内するだけでしょ」
妹からの純粋な疑問に対して姉がたじろく。「目の前の男をまだ信用していないから」なんてぼくの前で言えるわけがない。伏兵は思わぬ所から現れたのだった。ちょっとばかし彼女に同情してしまう。
スミレは髪の毛をいじりながら言葉に窮している。彼女はこうした突発的な問題に対して弱いようだった。
「仕方がないよ。ぼくは余所者だからね。警戒されてしまっても無理はないんだ」
ナズナに説明する言葉は、スミレに対してはこの上ない皮肉になっている。
「お姉ちゃんっ、セイジさんはわたしを助けてくれた人なんだよ!? 怪しい人じゃないんだから!」
「わかってるわよ、でもね……」
ぼくをほったらかしにして始まる姉妹げんかにぼくは少々引き気味だった。ナズナが勝気な性格であるのは知っていたけれど、姉のスミレも負けず劣らず頑固な性格だった。この姉にして妹ありというべきか。
ぼくはグラディエーターの戦いを観戦するローマ市民みたいな心境で喧嘩が鎮静化されるのを待った。対岸の火事を見るのが面白いのは、古今東西共通のことだった。
結局のところ、根負けしたスミレが同伴する形で建物の見学は許された。まあ、妥当な決定だろう。集落のリーダーが伴っていれば、住人たちも安心するに違いない。
「将来有望な妹さんだね」とぼくは正直な感想を言った。
ナズナは褒められたのだと思って照れ笑いをし、姉の方はその真意に気づいているらしく不機嫌な様子を隠そうともしなかった。
「いい性格をしていますね、湯田さんは」
せめてもの仕返しとばかりに鼻を鳴らしてスミレは毒づく。その様子は年齢よりもずっと幼い反応で可愛らしい。彼女はぼくが嫌いらしいが、ぼくは彼女に好感を持った。可愛らしく怒れる女の子は嫌いではない。
「ぼくのことは名前で呼んで欲しいな。久保田スミレさん」
「……」
彼女はジト目でぼくをねめつけた後、やれやれと肩を竦めて答えた。
「あなたがそう言うのなら、そうしましょう。湯田セイジさん」
見えない火花を飛ばしてくるスミレ。だが妹はそんな姉の心境を全く知らぬ様子で、「ふたりも打ち解けてきたみたいで嬉しいよ」と見当違いの感想を述べた。
顔を見合わせた我々は意味のない争いを続けるのが馬鹿らしくなって苦笑した。ぼくの方と違って、スミレは妹の純粋さへの呆れも含まれているようだった。
「明かりも点いたようだし、行きましょうか」とスミレは言った。
「そうしよう」とぼくは言った。
ぼくは先に進んでいく姉妹を追って歩き出した。キララと手を繋いで仲のいい背中を追いかける。
こんな優しい風景がまだこの世界には残されているのだ。旅をするのはいいものだな、と思える瞬間だった。