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第7話

 どれだけ人間が苦しもうが死んでしまおうが、動物たちは悲しんではくれない。彼らは彼らの日常を繰り返し、人間の都合なんて知ったことかと毎日を謳歌している。ぼくらが「終末世界」と呼ぶこの地球上も、彼らからすれば久方ぶりの繁栄期にあった。人間の影響力が薄れ、かつて奪われた領土を日に日に回復しているのだ。彼らによるレコン・キスタは、人間の自滅という結果によってなされたのだった。


 人気のなくなった民家には、様々な動物が住み着いている。中でもこの地区は猫の縄張りらしく、行く先々で昼寝をしてたり喧嘩をしてたりする。かつてなら微笑ましく思えた光景も、現在は街が人の手を離れた象徴にしか映らない。


 田圃道が続いた国道が終わると、その道幅は狭まって一車線になった。乗り捨てられた廃車が邪魔でこれ以上進めなくなったので、我々は国道をそれて街中を通る順路に移った。


 肌に感じる空気に秋の訪れを思わせる冷ややかさを時折感じるようになった。早朝と夕暮れ時が一番過ごしやすい時期になっていた。


 朝早くに出発したぼくたちは、着々とナズナの所属していた集落に向かって進んでいた。


 馬車で移動していることを知ったナズナは、公爵とその夫人をとても珍しがった。彼女の世代は、世界が恐慌をきたし始めた時期に幼年期を過ごしている。ぼくらと違って、行動もかなり制限されていたはずだ。動物園にも行ったことがないらしく、本物の馬を見るのは初めてだと言う。


「よろしくね、お馬さん」


 恐る恐るたてがみをなでてあげるナズナに、公爵はまんざらでもなさそうな顔をしていた。後で婦人に小突かれても知らんぞ、とぼくは思った。


 ……馬みたいに鼻の下伸ばしちゃってさ。まあ、公爵は正真正銘の馬なんだけれど。


 キララは低燃費モードで荷馬車に引込み、その代わりにナズナが隣に座りたがった。日差しもあるから中にいた方がいいというぼくの言葉は聞いてくれなかった。何だかんだで彼女に押し切られてしまったぼくは甘ちゃんである。


 遙か前方に山が見える。そんなに高くはなく、人が入れそうだった。あそこなら、木の実や動物などの食料を調達できそうだ。


 集落は山の麓に位置するらしい。山を迂回するように川も流れているらしく、水源が近場にあるのが魅力でその場所に落ち着いたのだそうだ。


 海に出るのもそんなに難しいようでないし、位置的にはかなり優良物件だ。他の集落も、川の上流に向かって点在しているとナズナは言った。


 時折見られる田んぼは手付かずになっていて、よくわからない雑草が伸び放題になっている。その葉先にとまるトンボの数は数えきれない。彼らは華麗な空中アクロバットを決めながら、デートに狩りにと忙しそうだった。


「でも、馬車で旅する<キャラバン>なんて初めて見ました……とは言っても、わたしが知る<キャラバン>は一組だけなんて、他の人たちがどんなだか全然知らないんですけど」


 緩やかに過ぎ去っていく涼風に髪を流しながら、ナズナは言った。


「大体は自動車で移動するからね。その方が積載量もあるし速い。その代わり、ケモノには狙われやすいんだ。<キャラバン>が襲われたって話はよく聞くよ」


「そうなんですか? もしかしたら、うちに来てくれなくなったのも、前の人たちが襲われたせいかもしれませんね……」


「かもしれないね」


 情報は人づてに聞くか、自分で手に入れるしかないから、遠地にいる人間の生存情報なんてさっぱりわからない。ぼくだって、そこら辺で野垂れ死のうが誰にも気付かれないのだろう。


 水流が少ない川が流れている。その上にかけられた橋はそれなりに年季が入っていて、橋の名を示すプレートは錆びて読み取れなくなっていた。


 足を止めて見下ろす。下に降りられそうだった。出発してから3時間は休憩なしに移動しているから、そろそろお尻と腰も痛くなってきた。ちょうどいいから休憩することにしよう。


 ぼくはナズナに小休止することを告げる。彼女も苦笑して、「わたしもお尻が痛くなり始めていたんで」と上目づかいに告白した。何かしらマットレスのようなものをひいた方がいいかもしれない。


 馬車が止まったことに気づいたキララは、自分から顔を出してきた。徹夜明けの漫画家みたいに忌々しそうに頭上の太陽に目をやった後、「……おやすみ?」とその力のない眉で訊いてくる。


「ちょっと休憩するよ」とぼくは言った。


 彼女は了解し、そのまま荷馬車内に降りるかと思うと、そのまま地面に降り立った。音もなく地球に着地した彼女は、月面に降り立ったアームストロング船長みたいに軽やかにステップした。


「月面と違って重力は1Gだから気をつけて」とぼくは注意した。


 彼女はぼくの言葉を訝った後、ぼくを膝立ちにさせておでこの熱を測った。平熱であるとわかると、ぼくの頭をなでて橋の端に行ってしまった。ひとりで川に降りるつもりらしい。


「気を付けて降りるんだぞ!」というぼくの言葉に、彼女は律儀に振り返って頷いた。


 ぼくらの掛け合いをナズナは面白そうに見ていた。


「仲がいいんですね」


「最近は昼間も偶に活動的になってくれるから嬉しいよ。出会ったばかりの頃は、日中は殆ど反応がなかったから」


 ぼくは荷馬車内からバケツをふたつ取り出した。それからポリタンクも用意しておく。ここで水の補給ができるとは幸運だ。ナズナの話では、集落にも水源はきちんとあるらしいけれど、できる時にやっておいて損はない。


 川に降りるための傾斜はきつくなく、ゆっくりと降りれば子供でもひとりで降りられるくらいだ。キララは先にひとりで降りてしまっていた。彼女はかなり身軽なのだ。


 問題なく降りていく若人たちに比べて、両手を塞がれたぼくはおっかなびっくりだった。足を滑らせて川にダイブなんて体張ったギャグはしたくない。


 何とか無事に川に着水する。思ったよりも冷たくて、片田舎の川らしく水は澄んでいる。そのまま飲んでも大丈夫そうだった。


 ここ20年の間に地球環境はかなり改善してきている。公害だ、汚染だ、と騒いでいたのが嘘のようだった。遥か遠い昔のような気がする。


 ぼくは川岸に水を汲んだバケツを置いた。公爵夫妻の差し入れだ。


 キララは川の真ん中でじっと水面に目をやっている。魚でもいるんだろうか?


 ぼくは彼女の隣に立って覗いてみた。魚はおらず、水草が水流によってゆらゆらと気持ち良さそうに揺れていた。彼女はその様子を飽きることなく見つめている。


「ほら、スカートの端が濡れちゃうぞ」


 しゃがみ込んで彼女のスカートを上げてやる。太ももの辺りで留めれば濡れないだろう。水に濡れた手で触ったせいか、彼女は「ん」と小さな声をもらした。いきなりだったから悪いことしてしまったかもしれない。


「ごめん、冷たかったか?」とぼくは言った。


 キララは口を僅かにへの字にしていた。もしかしなくてもびっくりしたようだった。嫁入り前のレディに何て粗相をしてしまったんだろう。ぼくは猛省した。


 彼女に謝罪するも、無表情に戻った顔からはその効果の程がうかがい知れない。ポーカーフェイスだと、こういう時に困ってしまう。


「……ううむ。ナズナ、キララのことを見てて貰えるかい。ぼくは公爵夫妻に水をあげてくるから」


「戦術的撤退ですか?」


「意地悪だな、君も」


 ぼくがげんなりして言うと、ナズナは茶化すように答えた。


「そのヘソを曲げた感じは、ふたりとも似てますよね。雰囲気的に」


「雰囲気的に」とぼくは繰り返した。そんな目に見えない概念を似ていると言われても確かめようがない。きっと長いことふたり旅しているから、いろいろ似てきたのかもしれない。それはぼくとキララとの繋がりのように思えて嬉しかった。


 ぼくはバケツを両手に抱えて斜面を登る。水が溢れないようにするのは骨が折れた。やっとのことで登り切ると腕は痺れたようにだるくなっていた。やれやれ、もう歳なのかもしれない。


 公爵夫妻の前にバケツを置くと、彼らはうまそうにごくごくと水を飲んだ。彼らは道端の草と十分な水があれば、どこでだって生きていけそうだった。綱に繋がれ馬車を引かされているというのに、少しも辛そうではない。


 もしかしたら、心の中では「やってられるか」なんて毒づいているかもしれないが、一見したところで何かがわかるわけでもなかった。彼らには表情を作る筋肉がないのだから仕方のない話だ。


 人間には余分な機能が多すぎるとぼくは思った。多くの動物たちみたいにもっとスマートでシンプルであったなら、人間は幸福でいられたかもしれないのに。


 でもまあ、動物界にも動物界なりの気苦労があるのかもしれない。公爵夫妻だって、仲が良さそうに見えて案外倦怠期かもしれないし、離婚の危機に瀕しているのかもしれない。他人の芝は青く見えるものなのだ。動物たちだって弱肉強食の世界に生きているのだ、気苦労も絶えないのだろうさ。


 ぼくは橋の手すりに持たれながら、水と戯れる少女たちを眺めていた。こうしていると、忙しい合間を縫って訪れた行楽地でのヒトコマに見えなくもない。だが実際は住人たちがいなくなった廃村における光景なのだ。


 もう何が正しくて、何が狂っているのかも曖昧になってきた。ぼくは彼女たちの姿に安息を見出していいのだろうか。それとも憐憫の情を抱くべきなのだろうか。考えれば考える程思考はぐるぐると錯綜を続け、答えは出そうにもなかった。


 眼下ではナズナがこちらに向かって手を振っていた。彼女は自ら進んで空回りしようとしているように見えた。そうあることによって立ち直ろうとしているのかもしれない。ぼくにできるのは、彼女が転びそうになったら支えてあげることくらいだ。後は彼女自身が乗り越えなければならないのだ。


 もうすぐ彼女の集落に到着する。そうすれば、彼女もやっと心の底から落ち着ける場所に戻ることができるのだろう。


 ぼくはナズナに手を振り返した。それに気を良くしたらしく、彼女はあまり乗り気でないキララに向かって手に付いた水の雫を飛ばし始めた。いやいやして逃げようとするキララの前方に回り込んで追撃を加えるナズナ。


 ……とてもえげつない。


 このままでは一方的にキララが殲滅されてしまう恐れがあったので、ぼくは急いで救援に向かった。斜面を駆け下り、川の中に足をつける。


「来たな、セイジさん! ちょっとくらい意地悪しただけでお冠の過保護親めっ」


「なにおうっ、キララに冷水を浴びせかける非道をしておいてどの口が言うか! おっさんを舐めんなよ!?」


 じりじりと間合いをはかる我々。キララは目の前で起きている喜劇に圧倒されているのか口を半開きにしている。


 ナズナは「隙ありっ」と水を飛ばしてくる。ぼくは「させんっ」とキララの壁になる。そのおかげで彼女は濡れなかったが、ぼくの背中はびしょ濡れになってしまった。


「ぐうっ、冷たい……だが、まだここで倒れるわけにはいかない。ぼくには守るべき大切な人がいるんだ……!」


 キララの肩を抱き寄せてぼくはそう豪語した。


「ふふっ、美しき親子愛よ。だが、それもここまでだ! まとめて濡れ鼠となってしまえ!」


 ナズナは助走をつけ、水面を足で薙ぎ払おうと画策したらしい。だがそれは失敗に終わり、派手に足を滑らせて水しぶきを上げた。それに巻き添えになる形でぼくとキララも水を被った。一応、当初の目的は果たしたと言えなくもない。


「ううっ、膝擦りむいた……」


 涙目になってそうこぼすナズナを引っ張り上げる。確かに彼女の膝小僧は赤くなっていた。血は出ていないから心配する怪我でもない。


「調子に乗るからだ」とぼくは言って、彼女のあられもない姿に気がついた。


 ナズナはTシャツを一枚着ているだけだったから、水に濡れたために上半身が完全に浮き出ていた。ぴったりと肌にくっついた姿は、水も滴るいい女と表現しても過言ではない。


「ナズナ、服透けてるぞ」とぼくは指摘した。


 彼女は顔を赤くして胸元を隠した。彼女の手当てをする際に全裸を見ているぼくだったが、あれは非常時なのでノーカウントである。あの痛々しい姿には、羞恥も何もあったものではない。


 服の裾を引っ張られるので視線を落とすと、キララも髪から水を滴らせた状態で何か訴えかけている。寒いということだろうか。


「このままだと風邪引いちゃうかもな。ほら、ふたりともあがって。渇いている服に着替えるんだ」


「調子に乗り過ぎちゃいました……ごめんさない」


 しゅんとしてナズナは謝罪する。ぼくは口端に笑みを浮かべて「いいさ」と答えた。このくらい元気があった方がいい。特に彼女の場合は。それにぼくもキララも別に嫌がっているわけではないのだから。


「ぼくもキララもあまりはしゃぐ方じゃないからね。ナズナがいてくれると賑やかで楽しいよ」


「……本当ですか?」


「本当さ。ぼくは口が悪いし嘘も言うけれど、真実だって頻繁に口にするんだ」


 わざと難解な答え方をする。ナズナは頭上に疑問符を浮かべてしばらくぼくの言ったことを解釈しようとしていた。


「それって結局、嘘も言うってことじゃないですか!」


「そりゃそうだよ。ぼくだって人間だからね」


「何かはぐらかされている気がします……」


 肩を落として脱力するナズナを小突く。「ほら、代わりのシャツ渡すから着替えちゃって」


 ぼくがキララの手を引いて先導する。川から上がって、荷馬車内の衣装類から替えの着替えで目ぼしいものを物色し、ふたりに手渡す。


 ナズナのぶんは男物の上下だが我慢して貰うしかない。ぼくが取り扱う物資は主に食料品や医薬品だから、積んであるのは自分とキララの着替えだけだった。食料・医薬品に比べて、衣料品類はまだ手に入りやすい。どこかの廃墟を探せば、何かしら手に入るのだ。


 ナズナのぶんも探そうと思えば探せないこともない。けれども本人がぼくのお下がりでいいのだと言う。まあ、シャツに七分のワークパンツなんて、男物も女物も大差ないのかもしれない。


「じゃ、じゃあ、わたし裏で着替えてきますねっ」


「了解。一応、警戒は怠らないようにね」


「セイジさんに覗かれないように?」


「はいはい」


 ぞんざいに返答したため、ナズナは口を尖らせて馬車の裏に消えていった。彼女の軽口も自然になってきた。いい傾向だ。川遊びのおかげで少しはリラックスできたのだろう。


 ぼくは自分のぶんを後回しにして、キララを先に着替えさせることにした。替えの着替えは白のワンピースだった。彼女の服の好みは母親と共通しているようだった。アカリも同じような服装を好んでよく着ていたのを思い出す。


「ほら、万歳して」


 彼女は両手を上げて空に飛び立たんとする格好になった。


「シュワッチ!」とぼくは言った。当然ながら、キララは飛び立たなかった。彼女は初めてインディアンと出会ったコロンブスみたいな顔でぼくを見た。


 彼女には少々わかりづらいネタだったかもしれない。選択を誤ったのだ。痛恨の極みだった。


 ぼくは大人しく着替えを続行する。濡れそぼったワンピースを脱がし、タオルで身体を拭いてあげる。


「……」


 両手を天に掲げたままの彼女と目が合った。何か言いたそうである。そんな両手を宙に掲げたまま何をしようというのだろう。地球上のみんなから元気でも集めているのだろうか。


「……ああ、もう手を下ろしていいよ」とぼくの言葉を律儀に守っていたのだと気づいて言う。彼女はぼくの言葉をまるで勅令みたいに墨守するから不思議だった。ぼくが知る限り、彼女は両親の言葉にさえ稀にしか反応しなかったのだ。


 下着まで濡れてしまっていたので取り替えさせる。最初は抵抗があったこういう行為も、今ではすっかり慣れた。赤ん坊のおしめ替えと心境が似ているかもしれない。あれだって、何度も回数を重ねるうちに子供の排泄物に対する抵抗感が薄れるらしいし。


「はい、着替え完了」


 白のワンピースはキララに似合っていた。いつも暗色系を好んで着るから、こうした姿は新鮮だった。バックに流れる小川との相性も完璧だ。


「とても似合ってるよ」とぼくは言った。


 キララはスカートの端を引っ張って身体に服を馴染ませた後、「白も悪くないかな」とでもいう満足顔になった。この子は案外褒められるのが好きなのだ。ぼく以外にはその反応がわかりづらいらしいけれど。


「ん」と抱っこをせがんでくるキララ。ぼくはまだ濡れ鼠のままだったので、「着替えるまで待ってね」と彼女をなでて、自分の着替えに取りかかる。


 そこにナズナが戻ってくる。ぼくは上着を脱いだところだった。彼女と目が合ったが、別に男の着替えを見てどうこうすることもないだろうとそのまま続ける。


 ズボンを脱ぎ、さすがにパンツを脱ぐ時は後ろを向いて貰った。


「わたしは気にしませんけど」とナズナは言った。


「ぼくが気にするんだ」とぼくは言った。


 男の着替えは数十秒とかからない。乾いた服に着替え終わったぼくは、今さらに気づいて口を開いた。


「そういえば、君の下着は準備できなかったな。申し訳ない」


 下着だけはぼくのものを履かせるわけにもいくまい。


「いいえ、別になくても平気ですから。ちょっとスースーしますけど、夏ですからちょうどいいですよ」


「夏だからね」とぼくは言った。


「夏ですから」と彼女はもう一度言った。


 それから濡れてしまった服を、馬車に吊るして乾かすことにする。万国旗よろしく掲げられている服は、キララの黒いワンピース以外は見栄えがよくなかった。外国で路地裏に干されている洗濯物みたいだ。


 ちょうどいいからと、<キャラバン>を示すマークも用意しておく。前面から大きく見える赤い十字マーク。以前は「赤十字」と呼ばれていたものだ。


 現在では慈善活動をしてくれる団体が消滅し、このマークだけが「物資を扱う者」という意味として残った。<キャラバン>はこの赤十字マークを掲げることによって、集落の住人たちに訪れを告げるのだ。


 これは集落の付近に辿り着いてから掲げることになる。あまり早くから張り出すと、逆にならず者に狙われやすくなる。遠くからでも目立つ赤十字マークは格好の餌になるのだ。


 移動しているうちは、なるべく目立たないようするのが鉄則だった。ぼくらの荷馬車も目立たないよう廃墟に溶け込む迷彩を施してある。まあ、馬でパッカラパッカラやって来れば、嫌でも気づくだろうがやらないよりはマシだろう。


「さて出発だ。君の集落までもう少しっていう距離なんだよね?」


 一応、手に入れた地図を見てみると、陽が沈む前までには十分辿り着ける距離だった。それでも実際に道を知っている人間に訊いた方が所要時間も正確に知ることができる。3人と2頭ならば、明かりを点けずじっとしていればケモノに襲われることもないだろうが、明るいうちに到着できるよう用心するに越したことはなかった。


「前方に古い建物が見えますよね? あれは神社なんです。以前、お姉ちゃんたちと一緒に何か残ってないか探しにきたことがあります。確か、その時は徒歩でしたけど1時間も歩かなかった気がします」


「それなら大丈夫そうだね」


 ぼくらは休憩を終えて出発した。今度はキララも前に出張ってきたから、かなり窮屈になった。ぼくは仕方なくキララを抱き込むようにして手綱を握る。突然襲われた時に対応しづらいのであまり好ましくないのだが、キララのいつにも増して上機嫌なところに水を差す真似はしたくなかった。


 ぼくは地面を走る車輪の音に、セミの声が混じらなくなっているのに気づいた。少し前まではあんなにうるさく鳴いていたのに、まるで幕が降ろされたかのように彼らの合唱は消えていた。


 それまであったものがなくなっているということは、一抹の寂しさを感じさせる。すぐ隣にあるものは、なくなってみないとその重みに気付けない。それなのに何度も何度も同じ過ちを繰り返す。なくしてはその価値に気づき、忘れてはまたなくすのを繰り返すのだ。


 去年の今頃にも、ぼくは少なくなっていくセミの鳴き声に哀愁を感じていた気がする。来年こそは聞き納めの前に思う存分彼らのやかましい声を聞いてやるのだと決意していたのだ。今になって思い出すとは皮肉なものだ。ぼくはいつも大事なことを思い出すのが遅過ぎる。


 我々人類には後はないのだから、やりたいことは今日のうちにやっておくに限るのだ。明日が、来年がくるとは限らないからだ。無邪気に未来は続いていくと信じられた時期は終わったのだ。


 これからは、常に我々は「終わり」の時を意識して過ごさざるを得ない。絶滅にひた走る人類の生き残りとして、やれるだけのことはやっておきたい。


 我々の身に起きたこと、これから向かおうとしている終点。それらを知りたいがためにぼくは旅をしているのだから。


 道を進んでいくにつれて、ナズナは喜び勇んで声をあげるようになった。


「この道知ってます! 水を汲みに行く時に横切る所です!」


 自分の知っている場所に戻ってくると落ち着くのはなぜだろう。人間の帰巣本能に根ざした特別な作用によるものだろうか。見知ったホームに戻ると気分はほっとする。それは生まれた土地でなくてもいいのだ。見知った、自分の帰りを待っていてくれる人がいる場所。その人がいれば、どこだって自分の変えるべきホームたりうるのだ。


 根無し草となって各地を放浪するぼくには帰るべき場所はなかった。ホームになりえた場所は、アカリと一緒に殺されてしまった。彼女が死んだあの場所に戻る気はない。


 帰りを待っていてくれる人がいるナズナを羨ましく思った。ぼくにはそんな人は誰もいなかった。だから少し、胸の内が疼くような感覚がした。羨望だろうか。あるいは嫉妬かもしれない。


 筋違いとわかっていても、ぼくが失ったものを持つ人々を羨ましく思う。それと同時に、その大事なものは、いつかは失われてしまうのだと冷笑する自分がいる。君たちもいつかはぼくと同じ思いを味わうことになるのだ、と。


 ……何て嫌なヤツだろう。ぼくは心底そういう自分が嫌になる。どうしようもないことなのだと理解している風を気取る湯田セイジは唾棄すべき存在だった。自覚しているのに改めないのは特にたちが悪かった。


 失った経験のある者は、持っている者を呪うようになる。


 持っている者は、それを奪われないだろうかと失った者を恐れるようになる。


 胸糞悪くなる負の連鎖だった。それは想像上でなく、実際に起きていることだから本当に嫌になる。その連鎖に自分が組み込まれていることも、その現場を実際に目にしてきたことも、どれもが鎖の増強に一役買っている。


 やれやれだ。


 ぼくが教育者に向いていないことなどとっくの昔にわかっていたことじゃないか。それを今さら嘆いたところで何も変わらない。ぼくはぼくなりにキララと向きあわなければならないのだ。


 彼女と共にいると、自分は彼女に誇れる人間なのだろうかといつも考えの深みにはまり込む。その美しい瞳に吸い込まれるように自身の内面と向き合わされるのだ。


 そしていつも、自己嫌悪に陥る毎度のパターンだ。さすがに飽きてきたよ。


 キララは、旅を続ける間に少しずつ、だが確実に変わってきている。ナズナと出会って明るさを思い出してきたように、ぼく以外の人間と触れ合うことはきっといいことなのだ。


 これから向かう集落の人たちが悪い人でないことを願う。ぼくは「良い人」とは言えない人間になってしまっているから、キララを導いてくれる親のような存在が必要だった。


 アカリのような優しい人が。


 ぼくは思い出す。彼女の最後の言葉を。


 誰かへの謝罪。ぼくに対する拒絶。何かへの恐怖。彼女の言葉の意味は未だによくわからない。きっと彼女にしか知り得ないことなのだ。死んでしまった人の気持ちは、遺されたぼくらが想像するしかない。それはあまりに不確かで頼りないものだった。


 隣でナズナの歓声があがった。彼女は全身を使って喜びを表している。大きく手を振って自身の存在を誇示している。


 事前の彼女の話に聞いた通り、古ぼけた病院が見えてきた。その入口付近に人が集まっている。きっと彼女の帰還を待ちわびていた人々だろう。


 ぼくはさっきまで感じていた黒い気持ちがどこかに吹き飛んでいく気分だった。彼女の喜びようを改めて観察すると、淀んでいた気持ちなど何てことない気がしてくるのだ。不思議なものだった。


 もしかしたら、ぼくもまだ捨てたものでもないかもしれないという気になる。ぼくの行動で、ひとりの少女の笑顔を取り戻すことができたのだから。


 ナズナは大きく息を吸って、帰りをずっと待っていた人の下へと言葉を飛ばしたのだった。

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