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第5話

 幼い頃から勘のよい子供だとよく言われて育った。子供時代のぼくは、大人が怒りそうになると姿を消したり、嫌いな歯医者に行く時なども見計らったように遊びに出かけたらしい。


 ぼく自身は幼少時のことなんて覚えていない。せいぜい幼稚園の年長になった頃からの記憶しかない。ぼんやりとしたツギハギの記憶は、どれもセピア色に褪せていて細部は読み取れなくなっている。


 小学校に上がり、自我が確立してくると、周囲の大人たちが言う「勘のよさ」が自覚できるようになった。


 物が落ちてきそうになっていたり、突然ドアが開いてぶつかりそうになったり。そんな一瞬にやってくる危険をごく偶に察知できたのだ。肝心なのは、常に必ず察知できるわけではないことだろう。


 そのために大人たちは「勘のよい」で済ませられたのだろうし、ぼく自身もあまり異常だとは思わなかった。「勘のよい」と「運のよい」は、殆どイコールで結ぶことができるのだ。


 だが中学に上がって剣道を始めてから、その「勘のよさ」は、相手の攻撃を読む「直感」として開花してしまった。元々危険察知能力に優れていたのだろうと思う。ぼくは戦いの中において、相手の攻めるタイミングや狙いを浅くだが読み取れるようになった。


 そのため剣道の実力はみるみる上達し、剣道有力校からも誘いが来た。だがぼくは高校進学を機に剣を捨てた。気味が悪かったからだ。直感は年々精度を増し、身体に馴染んでいた。


 試合に勝つたびに気味の悪さと罪悪感を覚えた。ぼくは実力で勝っているわけではなかった。ズルをしているも同然だった。普通の人は、こんな超能力じみた直感など持っていない。皆苦労して相手の呼吸を読むタイミングを掴めるように練習する。ぼくのやっていることは、ドーピングも甚だしい。邪道だった。


 剣道を辞めたぼくは、高校でオカルト研究会に入った。自身のおかしな力がどんなものなのか知りたかったのだ。


 世界中で報告されている様々な事例を読み漁った。あの時のぼくは、まるで何かに取り憑かれたようにオカルト知識を貪り食った。世界にはこんな不思議が満ちている。そうわかると安心したのだ。自分の力なんて、それらに比べたら大したことないではないかと。


 心の安寧を得た代わりに、ぼくはオカルトマニアの烙印を押されてしまった。けれどもそんな風評は気にならなかった。自身の得体の知れなさというしこりがやっと融けたのだ。その代償としては悪くないものだった。


 それに、世界に満ちる様々な不可思議はぼくを魅了した。科学が蔓延する現代においても、いまだ解明されていないことはたくさんある。それはオカルトと呼ばれるもの以外にも、宇宙の成り立ちや身近なものまで、探せばいくらでも見つけられた。


 何も知らないことはないと我が物顔で地球を闊歩する人間には、実は知らない事実・真実が両手で抱えきれないくらいにあったのだ。ぼくは心が踊った。とても刺激的だった。


 剣道を辞め、戦いから遠ざかると、ぼくの中の直感力も牙を失くしたように大人しくなっていた。妙な感覚も姿を消した。ぼくは自分が人間であることを久しぶりに思い出した気分だった。


 そして大学に進学し、ぼくはアカリに出会った。新入生が一同に会して行われた歓迎会で彼女は対面の席に座っていた。あまり乗り気ではなかったぼくが何気なしに顔を上げると、そこには見惚れるくらいの美人がいた。


 大学に入ると皆ハメを外したように髪を染める中、彼女は珍しく黒髪のままだった。艶やかで健康的な黒だった。ぼくは呆けたように彼女を見つめた。きっと馬鹿みたいな顔をしていたと思う。


 あまりに見つめ過ぎたせいか、彼女の方から声をかけてきた。その時のぼくは熱に浮かされていて、それでいて自身のやるべきことはわかっている節があった。そうでなければ自動的に口説き文句なんか言うものか。


「とても綺麗な髪ですね」とぼくは言った。


「ありがとう」と彼女は答えた。「自分でも自慢なの。だから染めないのよ」


 賢明ですね、とぼくはわかったような口をきいた。女性のお洒落に少しも精通していないくせに、それが宇宙の真理だと断言していた。初めから完成されているものを別の色で汚すなんて愚行にも程があると思った。


 ぼくは彼女を褒めちぎり、彼女も満更でもなさそうだった。ぼくはその時、ジュリエットが庭園で言った台詞の意味がよくわかった。「ああ、どうして君は君なんだろう」


 何度もデートに誘っての猪突猛進アピールは功を奏し、ぼくらは付き合うことになった。あれ程入れ込んでいたオカルトの熱も引き、真っ当なカップルとして付き合えたと思う。


 ぼくらはまだ若く、情熱を持て余していた。世の中の全てが明るく見えた。これから先は薔薇色の道が続いているのだと信じて疑わなかった。ちょっとしたデートや食事でも、会えるだけで幸せだった。


 彼女は子供がとても好きだった。合唱サークルに所属する傍ら、ボランティアサークルも掛け持ちして子供たちと歌を唄ったりした。その時の彼女は慈母ように美しかった。子供をあやす姿は神聖ささえ感じられる程だった。


 彼女は幼い時に父親を亡くしていた。それ以来、働き詰めだった母親に甘えられなくて寂しかったのだと彼女は告白した。だから家庭に向ける憧れもひとしおだったのだ。


 だからだろうか、彼女はぼくに甘える時、まるで子供のように振舞った。幼い頃甘えられなかったぶん、存分に甘えたかったのだと思う。普段は大人の立場に立って子供の世話をする彼女が、こうして甘えた姿を見せてくれるのは悪い気がしなかった。


 ぼくだけが彼女の幼い一面を知っているのだと、彼氏として誇らしく思えたのだった。


 大学を卒業したら子供をつくろうと彼女は言った。ぼくも賛成だった。彼女の子はとても可愛らしいに違いない。優しい人間になるに違いない。何たって彼女の子なのだ。


 だが世界はぼくらの知らないうちに様変わりし、終わりの日に向かって少しずつ坂道を転がっていた。それに気付かないまま、ぼくらは愛し合い、結婚した。


 子供は、なかなかできなかった。


 彼女は目に見えて落ち込み、ぼくも自身の不甲斐なさを嘆いた。もしかしたら、自分は子供を作れない身体なのではないかと両方が感じていたため、揃って不妊検査を受けた。


 結果は白だった。不妊の原因はわからなかった。彼女は絶望し、日に日に元気をなくしていった。


 不妊の事実はぼくら夫婦だけにおさまらなかった。子供ができないのを友人に相談した彼女は、その友人たちも同じ悩みを抱えているのを知った。


 それを聞いたぼくは、知り合いに幅を広げ、いろいろな人に聞いて回ってみた。驚くべきことに、子供ができたという新婚の知り合いはほぼいなかった。友達の友達、そこまで広げてもこの有様だった。


 明らかな異常だった。顔を青ざめさせる彼女は、情緒不安定のまま宛もなく不妊治療を受け続けた。意味のない行為だとわかっていても、そうするしかなかったのだ。


 やがて世界は出生数の激減を告知されることになる。身近において実感できる事態に悪化するまで、その事実は隠蔽されていた。


 子供がいなくなる―――――それはすぐにわかりそうなことであったけれど、平成になって外で遊ぶ子供たちの姿が減ってからは、みんな室内で遊んでいるのだと大人たちは勝手に思っていたのだ。


「最近の子供は外で遊ばなくなりました」「室内でゲームばかりしていて心配です」「少子高齢化社会なので子供が少なくなっています」


 そんな政府の流す虚偽情報をぼくらは少しも違和感なく受け入れていた。子供を見なくなったのは、外で遊ぶ時代でなくなったからだと解釈していた。


 誰が本当に「子供の数自体が少なくなった」と考えるだろう。


 地方の学校の閉鎖、合併。そういった情報を大した価値もないと見逃していたのは、他でもない我々大人なのだった。


 その頃から彼女は塞ぎ込みがちになり、ぼくはおかしな夢を見るようになった。


 夢の内容はよく思い出せないことが常だった。夢を見ていたのはしっかり覚えている。だけど、目を覚ますと夢の内容は思い出せない。ただ漠然とした恐怖感と絶望感。ぼんやりとした薄気味悪さが後味として残った。


 倉庫業を営む会社に入社したぼくは、着々と出世を重ね、ある程度の地位に着くことができた。金銭面での余裕は家庭の幸福とはならなかった。


 彼女はめっきり口数も減っていた。ぼくは自身でもわからぬまま、何かに操られるように物資の横領をし始めた。別に売りさばくためではなかった。使われなくなった地下の空間を探してきては、そこに横領した物資を溜め込んだ。まるで冬眠前の小動物みたいに。


 弱りきった彼女の面倒もまともにみなくなっていた。彼女も放っておかれるのを望んでいるようだった。互いに顔を合わせるとやりきれない気持ちに襲われるのだ。彼女もぼくも、互いに名状しがたい罪悪感があった。


 結局、横領が会社に見つかり、ぼくは懲役を受けた。被害額は莫大なものだったのだ。だが横領物資をどこに隠したのかは、ぼくは決して口を割らなかった。そのせいで刑も重くなってしまったのだけれど。


 見つかった時を見越して様々な手段を講じて物資を隠したから、警察といえども簡単に見つけられなかったようだ。この隠蔽工作にぼくは私財を投じていた。家庭に入れるべき金を、こんな工作に使ってしまっていた。


 刑務所の中、面会室で彼女から離婚を申し出された時、僕は驚かなかった。むしろ当然の結果だと思った。よくも今までもったものだと感慨深くさえあった。


 子供ができないとわかった時。


 世界で出生数が激減しているのだと知った時。


 我々の関係は終わっていたのかもしれなかった。


 離婚手続きは速やかに行われた。彼女は旧姓に戻り、ぼくの下から去っていった。ぼくは刑務所の中で再びひとりぼっちになった。


 仕事柄、入所してすぐに「調達屋」として重宝されだしても、ぼくは嬉しくも何とも思わなかった。刑務所という外界から隔絶された中で、受刑者たちは一種のコミュニティを造り上げていた。ぼくは体よく、そこそこの地位を手に入れることができた。


 時間と規則に縛られていることを除けば、刑務所暮らしも悪いものではなかった。消灯は早く、考える時間は余る程あった。なぜこんなことになってしまったのだろうと延々と考え続ける毎日だった。


 あの気味の悪い夢は、捕まってからぱたりと見ることはなくなった。ぼくに横領を促すために毎晩現れていたような夢だった。


 色のない毎日の中、とある筋から彼女が再婚したのを聞いた。彼女は「湯田」でも旧姓でもなく、「世空野」アカリと名を変えていた。ぼくは堀の中から精一杯の祝福を述べた。ある意味強がりでもあった。そうしないと自殺してしまいそうだった。


 嫉妬。後悔。羨望。そういった感情がない混ぜになってぼくを襲った。どうしてぼくらに子供はできなかったのだろう。彼女は運命の人だという確信があったのに。


 彼女にもし、再婚相手との間の子供ができたとしたら、ぼくはどうなってしまうのだろうと思った。祝福できるだろうか。怒りに震えるだろうか。


 ただひとつ確かなのは、彼女の息子あるいは娘が、彼女に似てとても綺麗な黒髪をしているだろうということだった。初めて会った時のことを今でも鮮明に思い出すことができる。あの時、ぼくは一生に一度の恋に落ちたのだ。彼女がぼくの下から去っていき、他の男と結婚しても、その時のことをぼくは生涯ずっと忘れないだろう。


 こうして刑務所暮らしは淡々と続いていった。ぼくは死んだように生き、毎日を霧の中で過ごした。


 やがて運命の日がやってくる。


 2012年12月21日の<審判の日>を、ぼくは横領でぶち込まれた刑務所の中で迎えたのだった。




   ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■




 助け出した少女はこんこんと眠り続けた。泣きはらして腫れぼったくなった顔は、恋人を殺され強姦されたとは思えないくらい安らかで、それがかえって痛々しく思えた。


 彼女の身体は陵辱によって汚されていたので、ぼくが綺麗にしてあげなければならなかった。そのまま寝かすのはあまりにも不憫だった。


 ぼくは近くを流れる川に水を汲みに行き、濡れタオルで身体を清めてあげた。青あざの残る身体は見ていて憂鬱になった。あざが残るくらいの力で彼女は抑えつけられ、汚されていたのだ。


 かつてと状況が異なるのは、強姦によって加害者の子供を身ごもる可能性がなくなったことだろう。この世界では、合意にしろ無理やりにしろ、どうやっても子供は作れないのだ。性行為は子孫を残す崇高な目的を失い、純粋な快楽追求行為に成り下がっていた。


 その夜、隣で眠る少女をキララは興味深げに観察していた。彼女には強姦されていたことをはぐらかし、襲われていたのを助け出したとだけ教えてあった。


 キララは寝ている少女の周囲を回り、いろいろな角度からその寝顔を見ていた。時折額に手を当て、じっと何か考え込んでいた。人類学者が発掘された人骨の化石から何かを読み取ろうとしているみたいだった。


 少女に気を使ってか、いつもの歌は自重して唄わない。その代わりに彼女は今日の救出劇の話を聞きたがった。


 ぼくは面食らった。あの惨劇をそのまま10歳の少女に話すのは教育上悪影響を及ぼし過ぎる。いろいろと脚色して話すしかなかった。


 血しぶき撒き散るシーンはファンタジックに改変して、ぼくはヒーロー漫画の主人公になってつもりで物語った。<審判の日>以前に見ていたバットマンやスーパーマンからストーリーを引っ張ってきたりもした。


 女の子なのだからもっとお淑やかな物語が好みなのではという予想は見事に裏切られ、キララは「超人セージ」の活躍を目を輝かせて聞いてくれた。あまりに夢中になってくれるものだから調子に乗ってしまい、途中から物語の整合性が取れなくなるハプニングに見舞われた。


 彼女はわかっていたように、ぼくと一緒に話の続きを考えた。彼女の想像力は目を見張るものがあった。まるで実際に見てきたみたいに語るのである。彼女は創作系の才能もあるようだった。さすがはアカリの娘だ。


 その夜、明かりを消した室内で、ぼくらは遅くまで語り明かした。キララはいつもよりずっと饒舌に喋ってくれた。ぼくはそれが嬉しくて、年甲斐もなくはしゃいでしまった。これではどちらが子供だかわからない。


 もう遅いから寝ようとぼくが提案しても、キララはもっと喋りたそうにしていた。普段は必要最低限の会話しかしない彼女だ。これはとても大きな進歩だった。心なしか、以前よりずっと表情も豊かになった気がする。


 一時期、殆ど無表情・無感情になった時期があったから、彼女の回復は涙が出るくらい嬉しかった。


 今夜はふたりきりではなく、助け出した少女が加わっている。キララは少し気になる様子で、チラチラと彼女に視線を送っていた。キララにとって、その少女は異物と感じているのかもしれない。


 ぼくはキララを招き寄せ、一緒の寝袋に包み込んだ。ひとり用の寝袋に子供とはいえ定員オーバーの状態で入ると、窮屈に感じる。それでも彼女は嬉しそうに身体を寄せてきた。


 この時期はまだ寝冷えする程寒くはない。少しくらい身体がはみ出しても風邪をひくこともないだろう。


 ぴったりと身体を寄せると、彼女の鼓動まで聞こえてくる気がした。


 その夜。


 ぼくはキララを真ん中に、アカリと川の字になって眠る夢を見た。罪深い妄想であって、赦しがたい幻想であった。ぼくの無意識の願望が形をなして夢に現れたのかもしれなかった。


 その幸せな夢の中で、ぼくらはこの世に不幸なんて存在するはずがないという表情で眠っていた。夢の中でも寝ているというのは、何だか不思議な気分だった。


 ひとつだけ不満だったのは、キララが横を向いて寝ていたために、ぼくとしか手を繋げていなかったことである。できることなら、家族みんなで手を繋いで眠りたかった。それがぼくのささやかな夢だったのだ。


 そんなささやかな夢も、叶うことは一度としてなかった。現実は嘘みたいに厳しく、容赦もなく立ち塞がる。アカリはぼくの下から去って行き、他の男と結ばれた。そしていくらぼくが努力しても得られなかったものを、彼らは手に入れていたのだ。


 ぼくの位置に相応しいのは、ぼくでなく彼女の再婚相手の男なのだ。そう気づくと同時に目が覚めた。寝覚めとしては、これ以上ないくらいに最悪なものだった。夢は夢らしく、覚醒と同時に忘れ去られればいいのに、その夢は歴然としてぼくの記憶野に焼き付いていた。


 本当に、やれやれだ。グッドモーニングなんてクソ食らえ。




   ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■




 少女はしばらくして目を覚ました。一瞬、自分がどこにいるのかわからず、錯乱しかけたが、ぼくが落ち着かせると少しずつ正気を取り戻した。そのまま現実を否定して廃人になる被害者も少なくない。彼女は受け答えすることができるので、ひとまず安心だった。


 とにもかくにも、名前を知らなければ始まらない。ぼくは自己紹介からすることにした。


「ぼくは湯田セイジ。行商<キャラバン>をやってる」


 少女は上半身だけを起こした状態で、こくりと頷いた。


「<キャラバン>の人……何回か、うちの所にも来たことがありました」


 声は相変わらずしゃがれていたけれど、しっかりとした受け答えだった。強い少女だ。あんな酷い仕打ちを受けたのに、負けずに歯を食いしばって生きている。男のぼくにはない強さだった。


「でも、ひとりきりのキャラバンなんて初めて見ました」と少女は言って、右手で髪をすいた。途中、指が引っかかってしまい、彼女は無言で手を戻す。


「うん、普通は数人だからぼくは珍しい部類かもしれない。それにひとつ訂正すれば、ぼくはひとりじゃなくてふたりで旅をしているんだ」


「ふたり?」


「ほら、あそこの隅にぼくの相棒がいる」


 指を指した先、キララは片隅で体育座りをしてこちらを見ていた。気づいた少女はびっくりして声を上げる。まるで存在感がないから、ああして隅に行かれるとぼくでも偶に見失う。


「子供……、あなたの子供ですか?」


「……残念ながらぼくの娘じゃない。うん、知り合いの娘さんだよ。彼女の母親と知り合いでね、死んでしまったからぼくが育てているんだ」


 少女はしばらくキララと視線を交わし合い、何か探り合うような沈黙が続いた。ぼくにはそれが友好的には感じられず、ちょっと焦りながら先を急かした。


「それで、君の名前を教えて欲しいんだけど」


「あ、はい」と彼女はぼくに向き直って、「わたしは久保田ナズナです。昨日は、本当にありがとうございました。わたし、あのまま殺されちゃうんだって思ってたんです。あなたが助けてくれなかったら、きっとその通りになっていたと思います。だから、ありがとうございます」


 あくまでしっかりとした受け答えをする彼女に、ぼくは驚いていた。以前にもこういった境遇の女性を助けたことがあった。その時の女性は、まるで魂が抜けたみたいになってしまっていた。それに比べて、この少女はなぜこんなにも強いのだろう。


 彼女は自分の胸元に目をやって、着替えさせられていることに気づく。


「身体、洗ってくれたんですね」


「勝手に女性の身体に触れるのは悪いとは思ってけどね。あのままにするわけにはいかなかったから。服は間に合わせだから、男物だ。我慢して欲しい」


「そんなこと。世話をしてくれて感謝しています。……本当に」


 彼女は胸の前で両手をぎゅっと握りしめていた。今生きている事実をかみしめているみたいに。


 沸かしていたお湯が沸騰する音がした。ぼくは火を止めて、カップスープを作り、彼女に渡してあげた。


「失礼なことをきいてもいいかな、久保田さん」とぼくは言った。


 彼女は礼を言って受け取り、スープの匂いに目を細めた。それからスプーンでひとくちすすった。ゆっくりと嚥下されるのが喉の動きでわかった。


「……どうぞ」と彼女は言った。「それから、わたしのことは『ナズナ』で構いません。湯田さんは、命の恩人ですから」


 ぼくは苦笑して、「なら、ぼくの方も『セイジ』でいいよ」と答えた。


<審判の日>以来、名字の持つ意味が薄れてきている気がしていた。子供は生まれなくなり、家族は離散し、親戚は生死不明というのが大半である。名字は家族という集団を示す役割を持っていた。それが現在の世界で意味をなくしているのは言うまでもない。


 ぼくとキララもその典型例だ。子供を連れているからといって、親子だとは限らない。男女がペアになっているからといって、夫婦だとも限らない。


 重要なのは個体名なのだから、自然、名前で呼び合った方が機能的だった。それに集落においては皆が一蓮托生なのだから、いつまでも他人行儀に名字で呼び合うのは好ましくなかった。


「……君は昨日、あんなに酷い仕打ちを受けたのに、どうしてそんな風にしていられるんだい?」


「そんな風?」とナズナは首を傾げた。


「だから、えっと……悲しくはないのかなって」


「悲しくないはずありません」と彼女は険しい表情で答えた。「でも、思うんです。彼は、あの人は殺されちゃいましたけど、ちゃんとわたし、敵を討つことができたんです。彼の無念を晴らすことができたんです。彼、わたしを逃がすために囮になってくれたんです」


 固い、歯を軋ませる音が聞こえた。彼女は俯きながらも、はっきりとした口調で続けた。


「逃げるんだって彼は言いました。生き延びろ、とも。捕まったら、わたしは犯されて殺されちゃうのをふたりともわかっていました。外にいるのは、そんな人たちばかりだって聞かされてましたから」


 そこで彼女は言葉を止め、スープの続きに取りかかった。ぼくは横目でキララの様子をうかがうと、キララは興味なさそうに天井のシミの数を数えていた。


 ぼくは自分のぶんのスープを作り、黙って味わった。ナズナの話を聞いているうちに胃が締め付けられるように感じていた。少しでも温かいものを入れておきたかった。


 ナズナはスプーンを見つめ、続けた。


「集落の人手が少なくて、少しでも力になりたかったんです。わたしたちはもう子供じゃないって示したかった。わたしも、彼も。ここに来て2年間、外は危険だと言われながらも襲われることはなかったから、きっと油断してたんだと思います。隣の集落まで物資と情報の交換に行く簡単な仕事でしたし、半日もかからない行程でしたから、わたしたちがやるって言い出したんです」


 でも、と彼女は言って、「それが間違いでした。外に出てすぐにわたしたちは襲われたんです。彼とふたりで逃げるうちに、自分たちの居場所がわからなくなって、地図もなくしちゃって。夜が来た時は本当に恐ろしかったです。ケモノに食べられちゃうんじゃないか。あの怖い人たちが暗闇から襲いかかってくるんじゃないか。ずっと逃げ回るうちに疲れて動けなくなりました。そして、見つかってしまったんです。ヤツらに」


 ヤツらもしつこい輩だったのだな、とぼくは思った。普通、夜になればケモノに襲われる可能性があるから荒れくれ者でも撤退する。その日のうちに捕まえられなければ諦めるのが大半だろう。それなのに、ヤツらは3日も追い回したというのか。おぞましいまでの執念を感じた。アイツらは普通じゃない気がしたし、実際、彼女の話を聞いてそれは確信となった。


「悲しいのは間違いありません。でも、あの時。彼を殺した男たちが、因果応報みたいに殺されるのを見て思ったんです。わたしたちは愚かだったんだなって。それは悲しみよりも大きなものでした。今までに感じたことのないくらいの大きなものだったんです」


 彼女の独白は続く。きっとこれは儀式なんだろうな、とぼくは思った。誰かに話すことで、告白することで自身を断罪しようとしている。救済しようとしている。外に吐き出すということは、そういうものだ。


 身体の中に溜まったどろどろとした感情を吐き出し、何て汚らわしいものなのだろうと自己嫌悪する。そうすることによって内部を浄化するのだ。改めて認識し、自己の内面と向かい合い改善する。それをひとりで行うのは難しい。誰かが聞き手になってあげなくてはならない。


 セラピーやカウンセリングでは、とにかく患者に語らせるのが肝心だ。自己の内面を吐露させるのが全ての行程の始まりと言える。


 ぼくは精神科医でもカウンセラーでもないけれど、傷ついた彼女の話を聞いてあげることくらいはできる。


 彼女を受け止め、回復のために少しでも手を貸すのが、年長者としての義務であり、男としての役割でもあるのだ。


「彼と一緒なら大丈夫だって無条件に信じてたんです。でも、そんなことはなかった。わたしたちは全然特別でも何でもなかった。ただの無力な人間だった。わたしたちに口うるさく注意してくれていた大人の人たちと何ひとつ違わなかったんです」


「仕方のないことだよ。若さっていうのはそういうことなんだ。ぼくも十代の頃は同じようなものだったさ」とぼくは言った。「テレビのニュースなんて異世界の出来事と大して変わらなかった。自分とは縁のない遠い世界の出来事なんだって思ってた。自分の周りでは飲酒運転で車に突っ込まれることもないし、殺人事件なんて起こるはずがないと思ってた。実際のところ、それは偶々起こらなかっただけで、少し状況が異なれば、『偶々』起こっていても不思議じゃなかったんだ」


 世界は完全ではないし、いつ壊れてもおかしくはなかったのだ。十代の頃は、その真理に少しも気づいていなかった。


ぼくは勘の鋭い剣道少年に過ぎなかった。少しくらいの特殊体質に振り回され、世界ではそれと比べ物にならないくらいの事件が毎日のように起きているとは思いもしなかった。


 湯田セイジにとって、「世界」とは自分の身の周りのごく狭い範囲のことをいったのだ。そこでは自分が神であったし王でもあった。誰も自身を害す存在などないのだと盲信していた。


だから少年は、少女は、ちょっとした悪意にすぐに傷つき、重症を負う。そうして真白い世界から突き落とされた彼らは、光のない暗黒の世界しかないのだと錯覚するのだ。


「わたしたちの生きる世界は、こんなにも厳しくて冷たいものだったんだって思い知ったんです」


「それは少し極論過ぎるかな。確かにこの世界は暴力的で退廃的だ。しかも救いがない」と軽い口調で、「でも、安らぎに満ちている。静けさが溢れている。それはきっと<審判の日>以前にはなかったことだよ」


「この世界は絶望だけでないって言いたいんですか? こうなる前の世界でも、同じ悲惨な目に会う可能性はあったんだって、そう言いたいんですか? わたしがこんな目にあったのは、どうしようもないことだって」


 一気にまくし立てて、彼女はお皿を置いた。力なく項垂れた彼女は、自己嫌悪と憐憫にまみれていた。自分を救おうと泥を吐き、それに溺れかけてしまっていた。


 ぼくはそんな彼女にそっと手を差し伸ばした。


「そうかもしれないし、違うかもしれない。ぼくはこの世界は糞ったれだと思ってる。だけど嫌いじゃない。以前の世界も目に見えないだけで、十分最悪な代物だったからね。日々を謳歌していたのは、世界でも恵まれた人間たちだった。その裏で搾取され、すり潰されていた人間もいたんだ。彼らからすれば、この終末世界は、そう捨てたもんじゃないかもしれないよ」


 ぼくは眼前のナズナに言い聞かせるように言った。


「彼が死んでしまったのは、世界のせいでも運命のせいでもない。―――――ましてや、君のせいでもないんだよ、ナズナ」


 それを聞いた彼女の頬を、涙は音もなく滑り落ちた。声も出さず、しゃくりも上げず、早朝に降る粉雪みたいに静かな嘆きだった。


「自分たちが甘かったからだとか、世界のせいだからとか、そんな無理矢理に解釈しなくてもいいんだ。彼の死に、自分の悲劇に理由を求めるのは止めるんだ。悪いのはアイツらだ。君たちじゃない」


 彼女は顔を歪めながら、「でも」と震える声で言う。


「言い出したのは、わたしなんですっ。彼を連れ出したのも、大人たちを見返してやろうと思ったのも、全部わたしだったんです!」


 自業自得とは、何て残酷な言葉なんだろう。善意で行ったことが正しくなかった場合、返ってきた悪意は果たして因果応報と言えるのだろうか。


 因果応報という言葉は「自己責任」という聞こえのいい言葉と対を成すから、怪我をした人間にはメフィストフェレスのように思えるだろう。都合のいい言葉で惑わす、悪魔みたいな言葉だ。


 彼女はぼくの腰に縋り付き、堰を切ったように泣き出した。何度も何度も謝罪の言葉を口にする。それはきっと、ここにはいない人物に向けられた言葉なのだ。


「善」だとか「悪」だとか、そういった言葉がぼくは嫌いだった。世界は、人間は、そんな抽象的で不確かな言葉で一括りにされていい存在ではないのだ。人間は罪深い生き物だ。だからといって人類すべてが悪であるはずがないだろう?


 ぼくはナズナを受け止めながら、死んでしまった彼のことを思った。この強くて、弱い少女を守るために勇敢に戦い抜いた男のことを思った。


「君のせいじゃない。君は悪くない。君だけ生きているからって、何も気にする必要はない。だってそうだろ? 君を命がけで守りぬいた彼ならば、そう言うに違いないだろうから」


「彼は、わたしを恨んでいるかもしれない」


「まさか。それどころか、すごく安堵していると思うよ。君が生きていてくれたから。力に屈しないで、最後まで戦ったから。きっとこう思ってる―――――生きていてくれて、ありがとうってさ」


 泣き崩れた彼女は、もう会えない人の名を繰り返し叫んだ。ぼくにはその名の持つ重さの一部だって理解できない。愛する人の名の持つ重みを知るのは、その片割れだけなのだ。


 この少女のように、ぼくもいつか喉が枯れるくらいに愛しい人の名を叫んだことがある。済まないと、ごめんなさいと、意味のない謝罪を繰り返した。


 その時の辛さを、僕以外の誰にもわからないと思うし、わかったような口をきかれたくもない。感じた苦しみ、痛み、嘆き、喪失感はその人だけのものなのだ。


 救いのない世界だ。この神様に見捨てられた世界では、ナズナみたいな、ぼくみたいな人間が後を絶たないのだ。ぼくらはいつまでたっても大人になれず、同じ過ちを繰り返している。


 どうしてぼくらは、人類は、大人になることができないのだろう。


 ぼくは天を仰ぎ、そこにいるかも知れない女性の名を呼んだ。本当に、本当に久しぶりのことだった。


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