最終話
映像が暗転する。周囲の情報が乱流し、人の脳構造では理解できない速度で流れていく。ぼくは情報の奔流にただ耐えるしかなかった。少しでも気を抜くわけにはいかなかった。吹雪の中でじっと耐えるようにぼくは存在を集め、身を固めた。
ぼくという因子に引き寄せられた情報が傍らを流れ去っていく。それは意味をなさないものであったり、誰かの記録であったりした。ぼくはその存在を感じながらも顔を上げることはしなかった。
それでも、情報の海は望むと望まざるとに関わらずぼくに影響を与える。耳を塞ぐことも目をつむることもできないぼくは、一方的に与えられる情報を辛うじて処理をする。これも綱渡りであった。ほんの少ししくじっただけで、ぼくの構成情報もろとも彼方へ持って行かれる可能性があった。
そこでは、スミレとナズナが両親と笑い合っていた。
そこでは、「同志」と神野教授が研究に没頭していた。
そこでは、みっちゃんが兄と仲良く遊んでいた。
そこでは、リンネが祖母と日向ぼっこをしていた。
そこには、今までに知り合ったたくさんの人の記憶があった。そのどれもが明るく彩られていた。きっと人生は楽しいことばかりではない。苦しいことの方が多いはずだ。けれども、人はほんの少しの幸福を大切にして生きていける。光を胸に歩んでいける。
闇は大きい。人の世界は暗闇に覆われ、長きに渡って過ちが繰り返されてきた。だからといってその全てが否定されていいわけがないのだ。ある一面をもって全てを語られるはずがないのだ。
人は間違えながらもやり直すことができた。そうやって歩んできたのだ。
この世界に記録されている情報が全てを物語っている。よかったこと、悪かったこと、取るに足らないこと。その全てに意味はあるのだ。ヒトを形作るのは物質だけではない。記憶、感情、関係、歴史。その者の歩んできた道筋には、途方もない物語が詰まっている。
ぼくの意識はひとりの女性の前にあった。
彼女の名を、本守アカリ。
ぼくの元妻であり、再会した時には世空野アカリとして再婚をし、娘をもうけていた。いや、もうけていたと思っていた。
ぼくは自分だけが特殊だと思っていたがそうではなかったのだ。ぼくのように表面上に現れるものばかりでなく、アカリのように内面に影響が出るケースもあった。ぼくは彼女の変調に気づいてやれなかった。自分ばかりに気を取られて、同様に大きなうねりに飲み込まれていたアカリを救ってやることができなかった。
ぼくに現れた特異点は、鋭い直感と<審判の日>以前の不可解な行動だった。ぼくはこのために刑務所に入る羽目になったのだ。
一方、アカリの場合は「子供をつくる」というただ一点が彼女を支配していた。それは強迫観念に近いものだった。ぼくは彼女がたびたび口にするのを、ただの子供好きだと楽観視していた。だけど違ったのだ。彼女は自分でも理解できない、制御できない力に突き動かされ、ぼくと同じように無意識に行動を支配されていた。
ぼくと別れてからも、彼女の衝動は収まる様子を見せなかった。
その当時、出生率の激減から法律が改正されていて、人工授精についてはかなりの裁量が個人に認められていた。もはや問題は取り返せないところまできており、日本だけでなく世界中でなりふり構っているどころではなかった。
一夫一妻制は形骸化して久しかったし、子供ができた夫婦がいた場合、夫と妻の両方は精子と卵子の提供を求められた。もちろん、それは少しでも受精の可能性が高い組み合わせを見つけるためだった。
ここまでしても出生率が回復することはなかった。「受精工場」と揶揄されていた政府機関は一向に成果を上げられず、いつしか惰性で作業は行われるようになっていた。
そうなれば人々の価値観も様変わりしていた。人工授精はとっくに当然のこととなっていたし、子供さえ生まれれば、誰の子といった血統は気にしなかった。
子供が殆ど生まれないという異常事態は、それ程までに社会を混乱させていたのだ。
そんな中で世空野アカリの卵子は無事に受精した。その相手は夫の世空野タクミ……とぼくはずっとそう思っていた。
その頃はすでにアカリとは離婚していたし、彼女が子供をつくる相手は彼しかいなかった。人工授精で他人の精子か卵子を用いていたならば雰囲気で何となくわかる。けれども彼らはそんな素振りは微塵も見せなかった。少なくともぼくの目からはそう見えた。
キララを心配するアカリとタクミは真剣であり、まさに親子としての絆があった。
ぼくは一抹の寂しさを覚えつつも、彼らを祝福した。アカリはぼくとの関係を隠したがっていたけれど、それでもいいと思った。ぼくは彼らの友人として、外から力になろうと誓ったのだ。
その時見せたアカリの表情―――――それはぼくとの関係を知られるのでは、という恐れからだと思っていた。しかしながら、それ以上の隠し事があったのだ。
彼女は夫婦間の性行為によってキララを授かっていたのではなかったのだ。彼女は人工授精によって受精していた。それも世空野タクミの精子ではなく、湯田セイジの精子によって。
どうして彼女が何年も前に別れた元夫の精子を所持していたのかは知れない。当時は精子バンクが一大産業となっていたから、そこにぼくの精子をストックしていたのかもしれない。彼女に言われて、検査のために提供したこともあった。もしかしたら、その時のものかもしれなかった。
いずれにせよ、彼女はぼくとの間に新たな生命を宿らせた。それは冷たい試験管の中での誕生であったけれど、生命には違いなかった。
彼女はその知らせを受け、大いに歓喜した。ようやく念願叶ったのだと感無量だった。外部の、あるいは内部の得体の知れない力のことには彼女は全く気付けなかった。
人工授精の成功が知らされた時、ぼくとの関係はとっくに終わっていたので、彼女はタクミとの間に奇跡的に子をもうけたとすることにした。人工授精は必要悪だったとはいえ、彼女が理想とするのは愛のある性行為と、それによって宿る生命だった。
罪悪感を覚えないこともなかったが、その方がタクミも喜んでくれると無理やり納得した。誰が困るわけでもないのだから、それで構わないではないかとも彼女は思った。生まれてくる子供の血液型も、ぼくとタクミの型は同じであったために問題となることはなかった。
やがて受精卵はアカリの子宮内に戻され、すくすくと成長していった。
アカリがお腹を痛め生んだ子は、キララと名付けられた。タクミは妻の言葉を疑いもせず、キララは自分と妻との愛の結晶だと信じていた。
ずっと待ち望んでいたものがようやく手に入ったのだ、とアカリは思った。いつからか強制力をもって彼女を動かしていた衝動は煙のように消え去った。だがしかし、視界を覆っていたモヤが晴れ、本当の正気を取り戻した時、彼女が得たのは理想としていた家族像ではなかったことを思い知らされた。
娘のキララは人間味のない少女だった。これは彼女だけに限らず、近年生まれてくる子供に共通した症状だった。
赤ん坊の頃から殆ど泣かないのを賢い子だと夫婦は勘違いしていた。けれども娘が成長し、世間でも子供の異常症状が報告され知れ渡るにつれて、彼らも自分たちの娘が例外ではないことを知った。
笑いもせず、泣きもしない人形のような娘。いくら言葉を教えても、父とも母とも呼んでくれない娘。
アカリは理想としていた家族像の崩れる音を聞いた。寝こむくらいのショックだった。夫はそんな妻を痛ましくも甲斐甲斐しく看病した。それが彼女の良心を余計に責め立てた。
何が間違っていたのだろう、と彼女は思った。自分はただ子供が欲しかっただけなのに、とも。
湯田セイジと離婚したのがいけなかったのか、世空野タクミと再婚したのがいけなかったのか。それともキララの父親を偽ったのがいけなかったのか。とめどなく後悔は溢れ出し、脳内をぐるぐると回った。
あれ程までに欲していた家族は味気ないものに思えた。献身的な夫だけが救いだった。それゆえに彼女の良心は血を流し続けていたけれど、彼女にはもう夫と娘しか残されていなかったのだ。
タクミの優しさに心苦しさを覚え、キララの光のない瞳は己を責めているようだった。
『どうして嘘をつくの?』と無言のうちに非難されているようだった。それが自分の被害妄想でしかないのだとわかっていても、彼女はその考えを払拭することはできなかった。
やがて<審判の日>が訪れ、世空野一家もまた激動に巻き込まれることになる。
その果てに彼女の夫は<街>を造り、元夫の湯田セイジと再会する。
何てことだろう、と彼女は動揺した。タクミには再婚だと告げてあるが、元夫が服役していたことは教えていない。そのことで仲がこじれるとは思っていないものの、今までひた隠しにしてきたせいで言い出しづらかった。
それに、「本当の」父親である人物が現れたことがアカリを怯えさせた。何かの拍子に自分の嘘がばれてしまうのではないかと危惧したのだ。
けれども、それは杞憂に終わった。元夫は彼女の事情を察して、自分から真実を言い出さなかったのだ。キララのことも、アカリとタクミの娘だと信じ込んでいた。
最初に彼を「お父さん」と呼んだ時は肝が冷えたが、訂正すると彼の名前で呼ぶようになった。
ショックだったのは、娘はまるで全てを知っているように彼のことを父と呼んだことだ。タクミは愚か、自分さえ母と呼んで貰ったことはないのに、ひと目見て直感したと言わんばかりだったのだ。
タクミも傷ついていた様子であったものの、その後に全ての子供から同じく父親呼ばわりされることを知ると、一応の納得はしたようだった。
セイジは子供とある程度の意思疎通が可能だったので、タクミは子供たちの世話役として彼を招き入れると決めた。反対する理由もなかったアカリはそれを受け入れた。一番の懸念事項だったことは、その後も頑なに元夫が守ってくれたので、彼女としても異論はなかった。
湯田セイジの真面目な働きはタクミに好評だった。ふたりの仲はうまくいっているようだった。時折セイジが寂しそうな表情をするのをアカリは気づいていた。彼女は胸が針で刺される痛みを感じつつもそこから目を逸らした。何がきっかけで嘘が露見するかわからないのだ。彼とは距離を保つべきだった。
以前の平和な世界とは比べるべくもないものの、穏やかな日々が続いた。セイジの仲介によってキララともコミュニケーションを取れるようになった。諦めかけていた理想の「家族」を造り上げられるのではないかと期待が高まった。
だがそれは<黒いケモノ>の襲撃によって叶わぬ夢となった。
<街>が襲われ、住人たちは着の身着のままで逃げ出した。夫であるタクミとはぐれ、彼女はキララの手を引いて懸命に逃げた。周囲の人間がケモノに喰い殺されていく中、彼女たちは何とか生きながらえていた。
だがその幸運も長くは続かなかった。彼女は他の人間を狙ったケモノの攻撃に巻き込まれ重症を負ってしまった。怪我で動けない彼女を、そして逃げ出そうともしないキララを、不思議とケモノは見逃した。
殺されはしなかった。それでも、もうすぐ死ぬことには違いなかった。彼女は自分の死期を自然と悟っていた。
掠れていく視界の中に、元夫である男の姿が映った。自分の死を看取るのが、タクミではなく彼であることが全ての答えである気がした。
彼女は最後の力を振り絞って真実を告げようとした。だができなかった。言葉は声にならず、口元は虚しく血の泡を吐いた。
自分は最後まで嘘つきで終わるのだ、と彼女は絶望した。元夫と騙し、今の夫さえ騙して手に入れようとした家庭はついに手に入らなかった。娘も最後まで母とは呼んではくれなかった。これは報いなのだろうか、と彼女は自嘲した。
自然と涙が溢れ、声にならない言葉は謝罪を繰り返していた。吐血して何度もむせ返り、それでも彼女は謝るのをやめなかった。せめて彼に届けばいいと、それだけを想って最後の言葉を紡ごうとした。
そして、彼女は見てしまった。
倒れ伏す自分の手を握って懸命に励まそうとしている彼の向こう側―――――。
こちらを覗き込むようにして見下ろす娘の顔。
彼女の口元が、アカリの謝罪に応えるようにはっきりと動いた。
心臓が鷲掴みにされたようだった。それはずっと嘘をつき続けてきた彼女への断罪だった。鼓動が停止するその瞬間まで、彼女は娘の口元を凝視していた。ゆっくりと形作られる5文字の言葉。音にならずとも、視界が霞んでいようとも、彼女にはしっかりと見えていた。
娘だけが最初から全てを知っていたのだと、その時ようやく彼女は理解した。
それがアカリの見た最後の光景だった。
■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■
「……ジッ! セイジッ」
意識が戻ったのは一瞬の出来事だった。それまで存在していた空間から引き戻されたぼくは、最初自分がどこにいるのかわからなかった。頭の中に綿でも詰まっているかのように思考が鈍い。ようやく視界がはっきりした時、ぼくは自分の両腕が<黒土>に飲み込まれているのを見た。
それはすぐさま鉤爪の形を取った。ぼくは最悪の記憶が蘇り、咄嗟にリンネに呼びかけようとした。
だがそこで気づく。
<黒土>に飲まれているのはぼくだけではないことに。
ぼくの手を、鉤爪に触れているキララの身体も全身の殆どが<黒土>に覆われ、すでに顔の半分のみを残すのみだった。<黒いケモノ>と同化しているキララは、硬直するぼくを見て微笑んだ。
普通、人間が<黒いケモノ>に触れると情報化されて物質ではいられなくなる。するとそこだけ消失するから切断されたように見えるのだ。しかしながら、キララはそのようなこともなく、まるで自身の身体のように違和感なく<黒いケモノ>を受け入れていた。
いや、それは当たり前なのだ、とぼくは思った。そうでなければおかしいのだ、とも。
「先生ッ」
ナズナの叫び声に驚いて振り返ると、ぼくの背後にいた3人も身体を半ばまで<黒土>に侵食されていた。恐怖に顔を引きつらせて、足元からせり上がってくる影のようなものを引き剥がそうとしている。
建物中から悲鳴が聞こえた。この集落だけではない。恐らく、地球上のあらゆる場所で同様の現象が起きているに違いなかった。
ぼくの足元からも<黒土>は伸びており、がっちりと絡め取られていて身動きできない。じわじわと脚部を伝ってせり上がってくる感覚は、筆舌に尽くしがたい嫌悪感があった。
「これは……?」とぼくは呻いた。どこかこれまでと違うような気がするが、間違いなく<黒いケモノ>だ。だが、触れても情報化されないのはどういう了見だろう。物質に触れれば、例外なく情報化してしまうはずなのに。
ぼくの化物じみた鉤爪を、キララはその黒色の手のひらで優しく包んだ。彼女のお気に入りだった黒いワンピースはもう覆い隠されてしまっている。ぼくとキララの足元からは<黒土>がこんこんと湧き上がり、さらに上空で蠢いていた巨大な<黒いケモノ>は一斉に地上を目指して急降下してきている。それはまるで滝のようだった。
「先生っ、これ、どうなって!?」
「いや……身体が、動かない……」
ナズナとスミレは胸元まで<黒土>が這い上がってきており、このままでは全て覆われてしまうのも時間の問題だった。
「リンネッ、君は動けないか!?」
一縷の望みをかけてリンネに呼びかけるも、彼女からも「すいません……わたしも、もう、駄目そうです……」という絶望的な返事が返ってきた。足元から湧き上がっている<黒土>は特別なものであるらしく、リンネのナイフでも切り裂けないようだった。
「だいじょうぶ」とキララは言った。「こわくないよ。だってこれは、わたしたち、じしんだから」
「わたしたち自身……?」ぼくは繰り返した。
そうだ。<黒いケモノ>は最初から人間に対して害意を持っていたわけではなかった。情報を収拾するという役割をただ遂行していただけだった。彼らには善も悪も存在しなかったのだ。
そして今、<進化>の時が始まろうとしていた。
これは核となる情報が十分に集められたことを意味している。今さら人間を情報化してまで得るものはないはずだ。何も全人類を殺す必要などないのだから。<大いなるもの>は意味のない行為はしないのだ。
……ならばこれは人間の情報化が目的ではない?
ぼくは一瞬前までキララに見せられていた映像を思い出す。そこには何か重要な意味がなかったか?
そして何より、世空野キララ。彼女は―――――。
「……長いこと、寂しい想いをさせてしまったみたいだね、キララ」
ぼくの言葉に、キララはこくりと頷いた。彼女が真実を黙っていたのは、ぼくを傷付けないためでもあったのだ。ぼくはずっとキララを世空野夫妻の娘だと思い込んでいた。それは出会った時からそうであったし、<審判の日>以降も変わらなかった。
アカリとタクミを助けられなかったぼくは、当時は結構荒んでいたものだ。今ではこうして苦い思い出として語ることができているけれど、それは時間のおかげだった。まだ傷も癒えてない頃に、もしもキララから真実を打ち明けられていたとしたら、きっとぼくは受け入れられなかったに違いなかった。
……アカリを恨む気持ちはなかった。ただ、言い様のない物哀しさがあった。
キララに見せられた世界で、ぼくはアカリの心の一端に触れた。頑なに「家族」というものを求め続けた彼女。そこには自分の意識以外の力が働いていた。このぼくと同じように。
ぼくとアカリが出会ったのも、その力が関係していたからだと思いたくはない。ぼくは彼女を愛していた。それは違えようのない真実だった。それでいいではないか。
幸いにもぼくの鉤爪がキララを傷付けることはなかった。ぼくは彼女を抱き寄せ、「向き合っているのは、他でもない、自分自身なんだね?」と訊ねた。
「そうだよ」と彼女は答えた。
その答えで十分だった。後は皆を落ち着かせなければならない。そうしないと、助かるものも助からない。今一番してならないことが「否定」することなのだ。
ぼくは殆ど全てのものが<黒土>に覆われていることを利用することにした。今ならば、ぼくの言葉を世界中の人々に届けられるはずだった。<黒土>は我々の中から溢れ出したものでありながら、<大いなるもの>の元でひとつにもなっている。この瞬間ならば、人々の間に横たわる距離も人種も、言葉の違いも障壁とならないはずだった。
ぼくの声が聞こえる者は心して聞いて、とぼくは切り出した。離れた位置にいるスミレ、ナズナ、リンネが驚いたようにこちらを見る。だがぼくは口を開いているわけではなかった。心中で思った言葉を全ての人に伝えているのだった。
「せり上がってくる泥のようなものを怖がってはいけない。ケモノのように形作られるけれど、それを拒絶してはいけない。なぜならそれは、あなたたち自身だからだ」
足元だけに留まらず、天上からも<黒いケモノ>は落下してくる。あまりに巨大過ぎて、その落ちてくる速度はゆったりとしていた。視界を覆い尽くすような黒い奔流。逃げ場はなく、誰もが恐慌に駆られていた。
「なぜケモノの形となる? それは恐怖の象徴だからだ。人が無意識に恐れる、嫌悪するものの姿だからだ。人間が何よりも見たくないものの姿なんだ。ぼくたちが見たくないもの。それは一体なんだと思う?」
すでに<黒土>は喉元まできている。それでもぼくは辛抱強く言葉を続けた。キララを抱きしめる。もう彼女がどうなっているのか見ることもできない。ただ傍にある熱だけを頼りに、ぼくは彼女の存在を確かめる。
天から落下するケモノが目前まで迫る。突風が吹き荒れ、ぼくは堪らずに目を閉じた。頭上から迫る巨大なプレッシャー。ともすれば大声で喚き出したくなってくる。ぼくはその衝動をぐっと抑え込む。
「それは自分自身だ。最も汚らわしく思えて、恐ろしくて見たくないものは自分自身なんだ。他人なんかじゃない。自分に一番近い存在が、何よりも汚らわしく見えるものなんだ。だけど、だからといって拒絶してはいけない。それは自己否定だからだ。ぼくたちはケモノによって殺されるんじゃない。自分を否定することによって、自分に殺されるんだ」
この<黒土>が特別なのはそのせいだ。リンネが切り裂けなかったのも頷ける。
自分で言っておいて何だが、ぼくだって信じられないくらいだ。けれども信じるしかない。それしか道は残されていない。できる限りのアドバイスはしたのだ。後は各個人に任せるしかなかった。ここから先は誰の手によるのでもなく、自分との闘いだった。
瞬間、ぼくは頭の上から衝撃を受けた。天から落ちてきた<黒いケモノ>が地上に到達したのだ。身体が潰されるような衝撃だった。ぼくは上下が逆さまになったようにもみくちゃにされた。それは現実の出来事なのか、ただそう錯覚しているだけなのか判別つかなかった。真っ暗になった視界の中で、ぼくは自我を強く保つことだけを考えた。
身体にまとわりつく気色悪い感覚。耳元に感じる野蛮な獣の唸り声。臭ってくる鼻の曲がる獣臭。
周囲には顔のないヒトガタが次々に現れ、ぼくを覗き込む。その表面に意地の悪そうな男の顔が映った。それはぼくの顔だった。見苦しく情けなかった。見ていて死にたくなる表情をしていた。だけれども、それは間違いなくぼく自身だった。
やがてのっぺらぼうは姿を変え、ケモノの姿になった。ぼくの数倍はあるかという巨大なケモノだ。ぼくは見下ろされ、それから首元に牙を突き立てられた。ぼくは目を逸らさずにケモノを見返した。
どんなに汚らわしくても、どんなに恐ろしくても、ぼく自身を否定してはならないのだ。
ぼくはここにいるのだと認識せよ。そうすることによって、ぼくはぼくでいることができるのだ―――――。
■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■
大樹があった。樹齢500年を越える杉の木だ。御神木として祀られているその大樹は、人気のない森閑とした山上の神社から、500年もの長きに渡って人々の生活を見守ってきた。ぼくはその御神木の前に立つと心が安らいだ。それと同時に畏敬の念にもとらわれた。自分とは比べ物にならないくらい大きな存在を前にしているという実感があった。
ぼくは子供の頃、初めて祖父にこの場へ連れられてきた時、その厳粛な雰囲気に驚いたものだった。決して山深い人里離れた場所ではない。確かに山道は険しかったものの、20分ばかり登れば登頂することができるくらいだった。
普段の生活圏からそれ程離れていない場所に、こんな異界のような場所があるとは子供心ながらに新鮮だったわけだ。小学生がやたら冒険心に盛んなのも、秘密基地造りに没頭するのも、お手軽な非日常を楽しみたいからだと思う。その意味では、この山上の神社はうってつけだった。
祖父が亡くなってからも足しげくこの場に通ったのは、他の誰にも邪魔をされない自分だけの秘密の場所であったからだ。ぼくは小、中、高、そして大学に入ってからも、地元に帰ってきた時は必ずここを訪れた。
清閑な空気と野生の動物たちの息遣い、大樹から後光のように差し込まれる陽光は、ぼくの魂の原風景と言っても過言ではなかった。
「いいところ、だよね」とキララが言った。「わたしも、ここはだいすき」
境内の石段に腰を下ろした彼女は、老朽化して朽ちていくだけの社殿を見上げた。殆ど人の手が入らなくなった社は、急速にその身を風化させていく。人の住まなくなった住居が瞬く間に寂れるように、参拝客が皆無となった古びた神社は、自然に還るように色褪せていた。
知っているはずの場所だった。けれども、ここがどこであるかぼくにはわからなかった。
懐かしい木々の匂い、草の、土の咽返るような香り。小鳥の囀り、虫の鳴き声、爽やかな風音、木々の葉が擦れる音色。その全てが記憶にあるままだった。ぼくは境内の真ん中で、社殿の傍に屹立する御神木を前にしている。
目前にある藪の中で、何者かが動き回る音がした。小動物のようで、大型のそれであるような気もした。得体の知れないもの。少しばかり人の住居空間を離れただけで、世界には人知の及ばない聖域がまだたくさん残っているのだ。
草むらの中から狐くらいの生き物が顔を覗かせた。それは<黒いケモノ>だった。
人間を襲うような大型サイズではなく、害のなさそうな姿形をしている。けれども、それも間違いなく<黒いケモノ>だ。それはぼくの顔を落ち窪んだ瞳でねめつけた。どうやら、彼はぼくのことをあまりお気に召さないらしい。
短い四足でとことこキララの下へ歩いて行き、その膝の上に収まった。彼女は猫でもなでるようにケモノを慈しんだ。
ぼくは言葉もなくその光景を目に焼き付けていた。身体はふわふわと実態がなくて、絹のベールにでも包まれているかのようだった。
ここは天国だろうか、とぼくは思った。
天国じゃないよ、とキララは答えた。ここはぼくの深層世界だと彼女は言った。確かに浮世離れしている空気だった。現実の神社も似たような色をしているけれど、この場所はさらにそれが際立っているようだった。
「さいごに、おわかれを、したかったの」
「……」
小さな少女はまつ毛を伏せ、この時ばかりは大人びた表情を見せた。ぼくは彼女の言っている意味を理解したくはなかった。だけど自然と悟ってしまった。彼女はぼくの下から飛び立とうとしているのだと。
<進化>とは、あらゆる存在が大人になることだと彼女は言った。親の下を離れ、自分ひとりで生きていくことだと彼女は続けた。独りよがりな存在ではならない。より完成された、地球の子供を名乗るに相応しい存在になるのだと。
それは、大人でありながらも子供でもある。地球の全てを内包した存在だった。
「君は、人間じゃなくなるってことなのか?」
そうとも言えるし、違うとも言えると彼女は答えた。世空野キララは人間であったけれど、<大いなるもの>の一部分としても定義される。それは全ての存在に当てはまるのだそうだ。
「ぼくにはわからない。君がいなくなる必要なんてないんだ。そうだろ?」
キララは首を振った。「ひつようとか、そういうのじゃ、ないもの。きまったことだから」
「キララ、君がぼくから離れたい、一緒にいたくないと言うのなら、ぼくは黙って君を送り出そう。でも違うんだろ? それは君が決めたことじゃないんだろ? そうせざるを得ないんだろ? だったらぼくは頷けない。絶対に許せない」
ぼくはゆっくりと歩みを進め、腰を下ろす彼女の前で立ち止まった。
「なぜかって、君は、ぼくのたったひとりの娘なんだから」
やっと出会えたのだ。やっと気付けたのだ。それなのに、こんなにもすぐにお別れだなんてあんまりだった。ぼくは彼女をわかってやれていなかったのだ。まだ少しも父親らしいことをしてやれていないのだ。
子供が巣立っていく日は、いつかはやってくる。けれども、彼女にはまだ早過ぎる。
「わたしはもう、おとなだよ」と彼女は言った。「おとーさんに、きすもした」
「そうかもしれない」とぼくは言った。「君は、『君たち』は、ぼくなんかよりもずっと論理的で客観的で理想的な存在なんだろう。いつも喧嘩ばかりして傷つけあっている人間のことを馬鹿らしく思えるかもしれない。愚かに見えるかもしれない。ぼく自身だって、自分のことをよくできた大人だなんて思ったことは一度だってないんだ。図体ばかりがでかくなって、中身はわがままな子供のままだと思う」
誰かのため、何かのため、そうやって他の存在を傷付けることでしか人間は生きられない。正義も信念も、愛も友情も、ただそこにあるだけで、他の誰かを傷付けているのだ。ただ気付かないだけで、無意識的に。それがきっと、人に科せられた原罪なのだと思う。
ぼくたちは他人を裁ける程、偉い存在ではない。他者を傷付けたからといって、断罪できる権利など誰にもない。報復としての断罪だって同じだ。そうして復讐を果たした時から、被害者は加害者に転嫁する。先にやった、原因があった。そんな事実は意味をなさない。因果は辿ればどこまででも遡られるのだ。場当たり的に人を裁く時、「取りあえず」その者を断罪するのは、どういった理由があるのだろう。人は皆一様に愚かしいのに、間違っている者に対して、どうして同じく間違っている者を裁く権利が与えられるというのだ?
「ぼくたちは間違った存在なんだと思う。いつも過ちばかり犯す子供なんだと思う。けれども、ぼくたちは子供であるなりに、間違ったことを認めていけるんだと思うんだ。悪いことは悪いと認めて、謝って、ちょっとずつ大人になっていくんだと思うんだ」
「……でも、だめだったよ? もう、ヒトはやりなおせないもの。もう、みんな、こどものまま、しんじゃうんだ」
「ぼくはそれでいいんだと思う。大人になれなかった人類は、子供のままで最後まで生きるべきなんだと思う。ぼくらはそうして生きてきたんだ。なら、ぼくらはそうして死ぬべきでもあるんだよ」
受け入れがたいこと、認めがたい真実。人間は、そういったものを「後ろ向きだから」「未来を見据えるべきだから」といって捨て去ってきた。けれども、今そのツケが回ってきたのだ。ぼくたちは拾い上げるべきだった。今まで捨ててきたものを、見ないようにしてきたものを。
人生の終わりには、これまで見つけられなかったいろいろなものを発見することができる。それは、これまでと違った新鮮さと驚きをもって受け入れられるはずだ。
学校の窓から見える桜と、病室の窓から見える桜とは、まるで違う姿に見えるように。
「……昔のぼくなら、こんなことはわがままでしかないとか、君の迷惑にしかならないからとか、そういう風に考えて諦めていたんだと思う」
だけどさ、とぼくは続けた。
「旅の中で出会った人々。毎日を必死に生きてた人々。助けあって日々を楽しみ、過ごしてた人々。もう目的も意味も見失っていても、『死んだ方がましだ』なんてうそぶく人間よりずっと活き活きとしていた人々。そんな彼らに出会って、ぼくも思ったんだよ。客観さや論理性は確かに必要だ。だけど、それは持ちつ持たれつであるべきなんじゃないかってさ。ぼくらはどうやっても子供でしかないんだ。生命を終えるその瞬間までわがままなんだよ。それを否定してはいけないんだとぼくは思うんだ。それは人間性なんだ。人間性の否定は、何より自己否定になっちゃうんだよ。生きる者として、存在してる者として、自己否定だけはやっちゃいけないんだ。どんなに受け入れがたくても、自分だけは自分を認めてやらなくちゃいけないんだ」
「そうすることで、だれかを、きずつけても?」
「そうさ」とぼくは答えた。「他者を傷付けるのはヒトの宿命だもの。それを否定したら生きていけない。山の中で誰にも会わずに、ひっそりと一生を終えるしかない。けれど、そんな人生を強制できないだろ? 我々はひとりじゃ生きていけないんだ。誰かと一緒に生きていくしかないんだ。誰かを傷付け、誰かに傷付けられながら生きていくしかないんだよ」
ぼくはそっと手を出しだした。パーティー会場で、大好きな子をダンスに誘うみたいに。
「君が大人になろうとしてることはわかる。だけど、ぼくは君を行かせたくはないんだ。ぼくと一緒に生きて欲しいんだ。君は、ぼくの大切な娘だから」
「……おとーさん」
ぼくの言葉は彼女に届いただろうか。人間の愚かさを知った彼女が、また人間として生きてくれるだろうか。娘だから気持ちがわかるとか、そういう夢想じみたことを言うつもりはなかった。我々はどうやっても心を通じ合えない。互いに傷を負いながら、それでも歩み寄るしかないのだ。
「でも、わたしたちは、いかなきゃならないの……おとなに、ならなきゃいけないの……」
「君がそれを望んでいるのかい? それとも、そうせざるを得ないのかい?」
「……」
「『わたしたちは』と君は言った。でもさ、他人の意見を尊重するだけが大人になることじゃないとぼくは思うんだ。他の人のことを慮った上で、自分の信念も貫くべきなんだ」
ぼくは膝を付き、キララの目を正面から見据える。彼女は差し出された手を見て、それからぼく視線を困惑げに見返した。彼女の瞳の光が揺れていた。今、彼女は選択をしようとしているのだ。ひとりの人間として。ひとりの娘として。そしてひとつの存在として。
「『わたし』は―――――」キララはぼくの手に触れかけ、怯えたように引っ込めた。「わたしは、どうすればいいのか、わからない。わたしはもう、おとななのに。どっちがいいのか、えらべない。まるでわたしと、もうひとりのわたしが、けんかしてるみたい」
「わかるよ」とぼくは言った。「それが選択するってことなんだ。迷いもなく即決できればいいさ。でも大抵、そう簡単にはいかなないものなんだよ。誰かのため、何かのため。誰かの言葉、自分がなしたいこと。そういうものが、一緒になって訳がわからなくなる。答えはどこにも見当たらなくて、選ぶのが苦しくなる。それでも、選ばなきゃならないんだ。自分自身で。たったひとりで。それが大人になるってことなんだ」
ぼくはまだ大人になりきれていない。この先もなれるかどうかわからない。でも、こんなぼくであっても、ちょっとずつ成長していくのだと思う。一歩進んだら二歩下がる、そんな遅々として進まない成長なのだろうけれど。
この思い出の原風景。空まで伸びる大樹の下で、ぼくは心からの言葉を紡ぐ。
「ぼくは君が大好きなんだ。だから一緒にいたい。一緒に生きたい。最後まで、ずっと」
キララの瞳は強く輝いていた。もう揺れ動いてはいなかった。しっかりとぼくを見据えていた。彼女はぼくの手を取った。小さな手のひらだった。温かい手のひらだった。しっかり包み込んでいないと、融けてなくなっていきそうだった。ぼくは確かめるようにそっと包み込む。
キララの傍にいた小さなケモノが彼女から離れていく。そしてぼくたちを流し見して、一度小さく鳴いた。別れの挨拶のようだった。離れていく小さな背中には風格があった。大きな、とても大きな意思が感じられた。
その瞬間、景色が移り変わった。
神社は消え去り、病院の屋上になった。森は無数の<黒土>となって霧散した。天に屹立する大樹は、視界に収まりきらないくらいの黒い柱となった。それは真っ黒な天界へ向かって上昇していた。地上の全ての情報を吸い上げ、<大いなるもの>の元へと届けるために。
キララの身体が浮いた。<黒土>の海から引き剥がされる小さな身体。ぼくは必死に手を伸ばした。鉤爪の先が僅かに引っかかった。だがそれも長く持ちそうになかった。ぼくも吹き飛ばされないよう、地上に片手で固定していなければならない。暴風に当てられ、ぼくは呼吸もままならなかった。
ここまできて、とぼくは歯噛みした。こんなところでキララを連れていかれてたまるか!
彼女はぼくの娘なのだ。ぼくの手を取ってくれたのだ。ぼくと生きることを選んでくれたのだ! ならばぼくが手を離すわけにはいかない。彼女を諦めるわけにはいかない。
親ってものは、何があっても子供の手を離しちゃいけないんだ!
「キララ!」
「おとーさん!」
ぼくの身体が地面から離れる。それでもキララの手だけは離さなかった。ぼくは彼女の身体を引き寄せて抱きしめる。ぼくたちはきりもみしながら上空へ巻き上げられていく。上下が逆さまになる。巨大な黒い柱だけが視界に映る。地球上のあらゆる地点に突き立てられた天への神柱。地球の存在する全ての情報を吸い上げ、新しい存在として生まれ変わろうとしている。
目は見えない。耳も聞こえない。手のひらの体温だけが頼りだった。
ここはどこだかわからない。空に打ち上げられたのか。それとも地上に落下しているのか。あるいはもう、墜落して死んでしまったのか。
ぼくは叫んだ。彼女の名を。力の限りに呼んだ。娘の名を。
一緒に歩んでいくと誓ったのだ。絶対に手を離してたまるものか!
『嫉妬しちゃうくらいお熱いことね、お父さん』
『ええ、清々しいくらいだわ、お父さん』
声がした。どこかで聞いたことのある声だった。ぼくは声にならぬ声で呼びかけた。助けを求めて張り上げた。助けを求めることに躊躇などなかった。恥ずかしくもなかった。自分だけでは駄目だった。ならば誰かを頼るのだ。迷惑かもしれなかった。負担にもなるかもしれなかった。それを知った上で、ぼくは頼むのだ。「助けて欲しい」と。
『本当は、こんな絶体絶命のピンチに陥らせるつもりはなかったんだけど。ごめんなさいね、<わたしたち>って少し大雑把なところがあるものだから』
『結構適当なのよね』
『でも安心して。わたしたちが助けてあげる。お父さんには今までたくさんお世話になったしね。ねえ、お姉ちゃん?』
『ええ、妹さん。彼女を通して、たくさんの愛情を貰ったし、楽しいこともあったし、歌も唄ったし。感謝してもしきれないわよね』
『ねえ、お父さん。わたしたちは大人になるのだけど、それでもお父さんのことは、ずっとお父さんだって思ってもいいかしら? ……いいの? ありがとう、お父さん』
『嬉しいわ、お父さん』
『さて、じゃあ、わたしたちは最後に姉らしいことをしましょうか、お姉ちゃん』
『ええ、お姉ちゃん。わたしたちはその子のお姉ちゃんだものね。妹のわがままのひとつくらい、聞いてあげられなくちゃお姉ちゃん失格よね』
『ヒトの中では一番ヒトから外れていたお父さん。<わたしたち>の中では一番ヒトに近かったわたしたちの末妹。何だかんだいって最高のパートナー、最高の親子だったみたいね』
『妬けちゃうわよ、<わたしたち>の妹さん』
『やれやれだわ、わたしたちのお父さん』
『でも、これは弁えておいてね、おふたりさん。何かをなすためには代償が必要なの。あなたたちもまた同じこと』
『お父さんがヒトとして生きていくにも。妹さんがヒトに戻るためにも。代償を払わなければならない』
『わたしたちにできるのは、その手助けなの』
『大丈夫だって? 平気だって? ……その自信はどこからくるのかしら、ねえ妹さん』
『本当にねえ』
『ありがとう? いいえ、それを言うのはこちらの台詞よ、お父さん。わたしたちは最後に夢を見ることができた。ヒトとして生きる最後の夢を』
『とても暖かくて、優しくて、悲しくなるくらい幸せな夢だったわ』
『本当にありがとう』
『それから、さようなら、お父さん。妹さん』
『また同時に、これからもよろしくね、おふたりさん。あなたたちはここでさよならだけど、これからもずっと<わたしたち>に存在しているあなたたちもいるのだから』
『こんにちは、おふたりさん』
『さようなら、おふたりさん』
『―――――そして、よい終末を。おふたりさん』
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わたしが目を覚ました時には、全てが終わっていた。地上に溢れていたケモノたちは姿を消し、天上から襲いかかってきたものもいなくなっていた。空いっぱいに蠢いていたケモノは、初めからいなかったかのように消え去っていた。
辺りは真っ暗闇だったけれど、何も見えないという程でもなかった。近くにいる妹の姿は認められた。わたしは慌てて倒れているナズナを揺り動かした。妹は死んでいるようにも見えたのだ。だけど静かに上下する胸が妹の生存を物語っていた。わたしはほっと一安心した。リンネさんもすぐ横に倒れていた。
……みんな、助かったのだろうか。
わたしは目を覚ましたナズナと共に手探りでセイジたちを探した。
<黒いケモノ>に飲み込まれる直前、わたしもナズナも彼の声を聞いていた。その声に従ったおかげで、今こうして生きていられるのだ。あの得体の知れないケモノを、まさか自分自信だと看破できる者がどれだけいるだろう。きっとあのままであったなら、わたしたちは間違いなく「戻って」こられなかったに違いない。
無事に生きていられる今、わたしたちにも大体の事情は飲み込めていた。自身の構成情報を丸ごとスキャンされたようなものなのだ。その際に多少の情報をこちらも得ることができた。全くもってスケールの大きい話なので、その半分も理解できなかったけれど。
キララちゃんはすぐに見つけることができた。けれども、セイジは一向に見つからなかった。<進化>に至った彼女はなぜ地上に残っているのか。なぜ代わりにセイジの姿がないのか。わたしは嫌な予感がした。それはナズナも同じだったようで、とても見ていられないくらい取り乱していた。
わたしたちの他にも生き残った住人が集まってきた。中には戻ってこられなかった者もいた。中身のない衣服だけが取り残されていたそうだ。住人の3分の1が駄目だった。仲の良かった者を喪った人が泣き崩れていた。
茂野さんとナズナの友人であるみっちゃんは幸いにも無事だった。セイジがいないことを彼らに話し、探すのを手伝って貰う。気を失ったままのキララちゃんを他の者に預けた。戻ってこられた者ならば、彼女がもう<黒いケモノ>とならないのは理解している。だから大丈夫だろう。
暗闇の中でセイジを探すのは大変だった。少ない灯りを頼りに、病院中を捜し回った。
リンネさんの力を使って探せないかと尋ねたところ、「<黒土>の力は全て失われてしまいました……これは、当然のことかもしれませんね」と失った片腕を押さえながら彼女は答えた。
いくら探してもセイジは見つからなかった。わたしたちは、いよいよ嫌な想像が現実となるのを感じていた。
彼はいなくなってしまったのだ。そして、いなくなるはずだった少女が帰ってきたのだ。
その答えはひとつしかない。彼は自分を犠牲にして少女を地上に帰したのだ。我が身を犠牲に、キララちゃんをヒトに戻した。そうとしか考えられなかった。
わたしたちは意気消沈して来た道を戻った。ナズナは泣き止まないし、リンネさんも表情を強張らせたままだった。
……わたしはどうなのだろう?
胸にぽっかりと穴が開いてしまった気がする。お父さんが死んでしまった時のようだった。あの時も今と似た感じだった。身体から気力が根こそぎ奪われてしまったかのよう。口からはため息と弱音しか出てこない。
わたしはいなくなってしまった彼のことを想った。
さよならも言わないでいなくなるなんて、ずるすぎる。それが例え、キララちゃんを助けるためであったとしても。あなたを心配している人間の身にもなって欲しい。あなたを好きになってしまったわたしの身にもなって欲しい。
絶対無事に帰ってくるという約束を破って、ぼろぼろになって帰ってきた。わたしに見せたい光景があると意味ありげなことを言いながら、勝手に消えてしまった。これでは、約束を全然守れていないではないか。
彼に文句を言ってやらなければ収まりがつかない。彼に直接文句を言ってやるのだ。頬だって引っぱたいてやる。そうして……そうして……。
…………。
どうして、あなたはいないの、セイジ。どうしてよ……。
太陽も月も、星の光さえもない真っ暗闇の空。まるでわたしたちの心境を表しているみたいだった。
彼がいない世界は、こんなにも真っ暗なのだ。わたしは暗い森の中で迷子になった気分だった。とても心細くて、恐ろしくて、悲しかった。手を引いてくれる人が欲しかった。わたしは彼の名を呼んだ。わたしの声は、暗くて深い森の中に飲み込まれていった。後には何も残らなかった。
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カツカツという石を削る音がする。その音は不格好で、調子がよくない。時折止まってしまったり、長いこと作業が再開されなかったりする。それでもその音は毎日続けられていた。諦めるということをしなかった。
キララちゃんが目を覚ました時、セイジの行方が判明した。あれ程捜し回って、見つからずに絶望していたわたしたちにとって、それは朗報だった。
彼はどこにいるの、と訊ねたわたしたちに、彼女は自分の胸を優しく押さえた。それが答えだった。
食堂の片隅では今もキララちゃんが黙々と作業を続けていた。協力を申し出ても彼女は頑として受け入れなかった。「これは、わたしのしごとだから」と彼女は力強く答えた。
キララちゃんはその小さな手で懸命に石の板を刻んでいた。まだ幼い少女には辛い作業だ。ノミとハンマーを使って、自身の身長程もある石の板に文字を刻みつけ続ける。手に豆を作りながら、時折手を怪我しながら、彼女はひとりでハンマーを打ち下ろす。
記録をしているの、と彼女は言った。今回、人類が経験した<進化>、それを後世、誰が見るかも知れないけれど、記録を残すのだと彼女は語った。かつてマヤの人々がそうしたように。
子を産めなくなったわたしたち人類は、ゆっくりと絶滅に向かって進んでいく。わたしたちに未来はないのだ。残されているのは「余命」でしかないのだ。
わたしたちはそれを知っている。実感している。受け入れてもいる。
肝心なのは、残された時をどう生きるかだった。自暴自棄に生きるか、絶望して自ら命を絶つか。
わたしは死ぬつもりはなかった。妹だってそうだし、他のみんなだってそうだろう。リンネさんも最後まで見届けると言っていた。キララちゃんもヒトとして、人類の最後の子供として、その終焉を看取るのだと言っていた。
そして、彼も、セイジも彼女に最後まで付き合うのだろう。父親として、大人として、ヒトの子として。この地球に生きたわたしたち人類を看取ってくれるのだろう。
そう、セイジは生きている。キララちゃんの中で彼は生きているのだ。
時刻は午後の6時を回った。辺りは真っ暗なので、時計がないと時間の流れが掴みにくい。この時間帯を基点にして、キララちゃんとセイジが「入れ替わる」。
わたしの目の前で目をつむっていた少女が目を開けた時、それまでの雰囲気が一変していた。目付きが少々悪くなって、口元は機嫌が悪そうなへの字になる。どことなくくたびれた雰囲気もまとっている。
「おはよう、セイジ」
「……おはよう。とても気持ちのいい朝だね」と舌足らずな少女とは打って変わった快活さで答える。開口一番皮肉を言うあたり、彼の性格が存分に表されている。
彼―――――見た目は少女なのだが、中身はセイジとなっているのでそう呼ぶ―――――は、自身の豆だらけの手を見て苦々しく呻いた。少女の顔で「げえっ」とか言わないで欲しい。キララちゃんがかわいそうではないか。
あの時、目を覚ましたキララちゃんが語ったことは衝撃だった。わたしたちの予想通り、キララちゃんをヒトに戻すためにセイジは身体を失っていた。それが代償だったそうだ。キララちゃんも夕方から夜の時間帯になると意識を保てなくなる障害を負った。だが幸いだったのは、キララちゃんが身体を失ったセイジの身請け先になったことだった。そのおかげで彼は完全な消滅を免れ、キララちゃんも夜の間に生命を繋ぐことができた。そのどちら一方でも欠ければ、彼らは生きていけないのだ。まさに「一心同体」と言えた。
もっとも、キララちゃんはその状況をむしろ喜んで受け入れていた。「ずっと、おとーさんといっしょ」と喜色満面の笑みだった。
一方、セイジはそうでもないらしかった。彼女が助かったことは確かに嬉しいのだが、娘の身体を一時的とはいえ乗っとる真似は歓迎できないそうなのだ。まあ、今まで男として生きていた彼が、目覚めたらいきなり娘と身体を共有することになったのだから、馴染めなくても無理はないのだろうけれど。
手足や体重感覚が慣れないうちは、何もない所で転んだりして、そのたびに「キララの肌に傷が!?」とか錯乱していたものだ。今では多少は慣れたようだ。それでも肩口まである髪とか、小さな手のひらを時折居心地悪そうに眺めている。
興味深かったのは、彼らの意識共有だ。夜になるとキララちゃんの意識は眠り込んでしまうけれど、昼の時間帯はふたりとも覚醒した状態であるらしい。わたしたちからは独り言を言っているようにしか見えないのだが。
この場合、身体の主導権はキララちゃんにある。彼女には、すぐ隣にセイジの姿が見えるのだそうだ。彼女の言いわく、「幽霊っぽい」らしい。セイジも否定しないあたり自覚しているのかもしれない。
彼女にはセイジの声も聞こえるし、彼に触れることもできる。どういう仕組みなのか全然わからない。「ほらね」と彼女は何かに触れているようなパントマイムをする。脳と身体がそこにセイジがあると認識しているのだろう。
見えない彼の手でなでられている彼女はとても幸せそうな顔をする。わたしは少し羨ましかった。それはナズナやリンネさんも同じらしく、彼が表に現れる夜の時間帯にわたしたちは可愛がって貰う。見た目10歳の少女になでて貰うために列になる光景が広がるのだ。どうなのよ、これ。
セイジは「ぼくが元から女だったら、まだ救いようがあったのに……!」と血を吐くように言う。
一方のわたしたちは、結構自然と今の状況を受け入れられている。彼が消えてしまった時の絶望感に比べれば、ちゃんと話せるし触れることもできるこの状況は喜びこそすれ、嘆くようなものではなかった。
ひとつ心配事があるとすれば、このままだとわたしたちはアブノーマルな関係に突入することになるかもしれないということだった。いろんな意味でお花畑な展開になりそうである。それはそれでありかな、なんてわたしは思っている。
「今は先生ですか?」
ひょっこりと顔を出したナズナが彼に訊ねる。妹の後ろにはみっちゃんとリンネさんがいた。彼女たちはなかなか気が合うようで、よく一緒に行動しているようだ。リンネさんは、みっちゃんを特に気に入ったようで、何かと世話を焼いている。
「違うよ? わたしはキララだよ」とセイジがとてもスマートに嘘をつく。声色まで似せようとしていた。
「そんな演技しても無駄ですよ、先生。いくらキララちゃんの身体とはいえ、その滲み出るおじさんオーラは隠しようがないですから」
「嘘だろ……?」とセイジはげんなりして呟いた。それが全くの嘘でもないからフォローはできない。いくら彼がキララちゃんの真似をしたところで、見る人が見ればひと目でわかるのだ。
「何か、面白くないな」
演技をすぐに見破られた彼は口を尖らせた。それからナズナたちにガンを飛ばす。しかしながら、子猫が威嚇しているようにしか見えないからかえって可愛らしい。そんなことを言ったら彼が首を吊るかもしれないから黙っておくけれど。
「そう怒らないでくださいよ、先生」
「言いつつ頭をなでるな!」
「だって、先生。目の前にこんな可愛らしい生き物がいたら、いち女子としてなでないわけにもいかないですよ。ねえ、みんな」
ナズナの言葉に、みっちゃんとリンネさんは同意した。3人は競いあってセイジの頭をなでようとする。彼は彼女たちの魔の手から逃げようとして転び、涙目になって膝を押さえていた。
きっと3人を睨みつけた彼は、「このっ、このっ」と少女たちに蹴りを入れよう追いかけるも、体格差から逃げられてしまう。結局反撃失敗に終わった彼は、「ま、まあいいさ。大人気ない真似はよそう」と腕組みして負け惜しんでいた。
……外見に引きずられて、中身まで幼くなっているような。
わたしの視線に気づいたセイジは、おっほんと咳払いをした。わたしは苦笑して彼を抱え上げる。腕の中にすっぽりと収まった彼は、何か言いたげな顔して、わたしの笑顔に何も言い返せず、むっつりと黙り込んだ。
「……先生ってば、お姉ちゃんには甘いんだから」
「失礼、ナズナ。何か言ったかい?」
「いいえ、先生。ナズナは何も言いませんでした」
「……」
「……」
ぬぬぬ、と視線をかち合わせる師弟。これはこれで仲のいい証拠なのだろう。ふたりは旅を共にして、距離がずっと縮まったみたいだった。わたしは少し妹に嫉妬してしまった。
「それにしても」とナズナは作業台に置かれている彫りかけの石版を見て言う。「キララちゃんも頑張り屋さんですね。無理しないといいんだけど」
「この子は誰に似たのか頑固だからな。それとなく注意してるんだけど、言うこと聞きやしないんだ」
セイジは豆のできている手を見て、「見てみなよ。可愛らしい手が豆だらけだ」
「それだけ頑張ってるってことですよ……」
ナズナも心配そうだった。キララちゃんはわたしたちに手伝わせてくれないから、見守ることしかできない。とてもやきもきしてしまう。一生懸命に作業をする彼女は真剣だった。それだけに、わたしたちも強く注意できないのだった。
「セイジとキララちゃん、ふたりでやるって決めたことだしね。彼女もお父さんに初めて任された仕事だから、すごくやる気になってるみたい」
「……ぼくに責任の一端があるわけだ」セイジは嘆息すると、自分の手を労るように摩った。「まさかここまでやるとは思ってもみなかったよ」
彼としては、何気ないつもりでキララちゃんに提案したのだろう。未来がなくなってしまった人類だけれど、それでもまだ絶望したわけではない。最後までしっかりと生きていく人たちがいる。そうした人たちを記録に残すためにも、渦中にいた彼は、娘と一緒に最後の仕事を果たそうと決めたのだ。
キララちゃんにとっても、それは大きな意味を持っているのかもしれない。子供たちの中で、ただひとりヒトとして生きることを決めた彼女。空の繭で旅立つその時を待っているのは彼女の兄と姉たちだ。地球で生きて、地球で死ぬことを決めた彼女もまた、記録を残すことが使命となったのだ。自分も負けていられないという気概があるのだろう。
わたしたち人類が滅びた後で、そこに残された遺跡を目にする知的生物が現れるのかはわからない。もしかしたら、誰の目にも触れることなく朽ちていくだけかもしれない。けれども、ヒトの歴史は、その記録は、わたしたちが生きた証なのだ。墓標のように立ち尽くす石版は、わたしたちが精一杯生きたという証拠なのだ。
今では、毎日がとても新鮮に感じられる。残された日々の一日一日を大事に生きていこうと思えている。それは諦めからくる気持ちではない。ある種の希望からくる気持ちなのだ。
わたしたちは死ぬことによって消え去るわけではない。わたしたちは皆、大きな存在の一部となって生き続けるのだ。それはこの世界に生きる誰もが知ったことだった。わたしたちの子供たちがわたしたちを受け継いでいく。親から子へとバトンが渡される。そう考えると、死はただの消失を意味するのではないことを気付かされる。
人が死を恐れるのは、それがどのようなものかわからないからだ。死んだらどうなるかわからない。だから人は死を恐れる。だけど、わたしたちはその死の先に何があるのか、あの時に知り得たのだ。わたしたちは死の先を知っている。生命の結末を知っている。最後の光景を知っている。だから安心して逝くことができるのだ。
親の心境とは、こういうものだったのだろうか、とわたしは思った。
子を育て、子が独り立ちし、後は何もすることがないように思われた父親と母親。彼らには何も残されていないのではないかと勝手に思い込んでいた。けれど違うのだ。
子を育てあげた親は、ようやくそこで大人になれる。ひとりの大人として、残りの日々を楽しむ心構えができる。目の前に続いているのは、死へと続く絶望の道などではなく、巣立っていった子や、友人や知人と共に歩いて行く穏やかな道なのだ。
今ならわたしにもわかる。死んでいった父も、母も、決して絶望だけに囚われていたのではなかったのだと。
「スミレ?」
「うん? どうしたの、セイジ」
「……いや、何でもない。ぼくの気のせいだった」
彼は苦笑してそう答えた。
「さて、少し休憩したらぼくも作業に取りかかろうかな。キララに任せきりにしてはおけないから」
「無理はしないでね」
「それはもう。ぼくは適度に力を抜くのが得意なんだ」
わたしたちは作業をするセイジの周りでお喋りをしながら、時々彼の手伝いをしながら日々を過ごした。相変わらず真っ暗闇の世界だったけれど、ろうそくの灯りがひとつあれば、そこには笑顔があった。
戻ってこられなかった人たちもいたけれど、彼らは消えてなくなってしまったわけではない。今頃空の上で旅立ちの準備に余念がないはずだった。
朝になるとキララちゃんに「おはよう」と挨拶をし、夕になるとセイジにも挨拶をする。そんな日々がしばらく続いた。
そして彼ら親子の石版が段々と完成に近づいていったある日の早朝のこと。
わたしはキララちゃんに叩き起こされた。見ると、彼女らしくもなく慌てた様子だった。寝起きなのか髪がボサボサでパジャマのままだった。スリッパは片方しか履いていなかった。
彼女は「はやくいかなきゃ。もうすぐはじまっちゃう」とわたしの服を引っ張る。そして集落の住人を全て屋上に集めるようにと言った。只事ではない雰囲気だった。
わたしはキララちゃんに負けず劣らずの寝起きフォームで皆を起こして回った。なかなか起きようとしないナズナには連続チョップをして布団から引っ張り出した。
何事かと怪訝な表情で集合する住人たちに、キララちゃんは「きょうがたんじょうび」と一言告げた。それだけでわたしたちにはわかった。ついに空の上にいる子供たちの巣立ちの日がやってきたのだ。
キララちゃんが上空を見上げた。わたしたちもそれに倣って視線を上げた。
のっぺりとした暗闇が姿を変えようとしていた。一面から光が溢れ出してきた。朝焼けの緋色の光線だった。その鮮やかな光の柱は、黒い空を引き裂いて数を増やしていく。時間を追うごとに増していき、黒く淀んでいた空に久方ぶりの陽光が差し込んだ。
それは水面のようだった。蒼穹の鏡面が揺れ、そのたびに緋色の光を反射した。わたしたちは言葉もなくその光景を見つめていた。今まで見たもの中で一番美しい光景だった。どんな宝石よりも、絵画よりも素晴らしい風景だった。
暗闇に慣れきっていた目に馴染ますように、変化はゆっくりと行われた。わたしたちは光の刺激からか、あるいは違う理由からか、涙を流していた。光が目に痛いくらいだった。懐かしさにも程があった。綺麗過ぎて腹が立ってきた。ずっとお預けをくらっていたようなものだ。空との再会の感動はひとしおだった。
水平線から顔を出した太陽は、久しぶりに再会したのに、まるでいつも通りの様子だった。とてもデリカシーのないやつだった。だけど全然憎めなかった。駄目な男に惚れたような心地だった。
緋色の空は艶やかな紫色になり、紫の空は透き通った青色になった。そこには地球の色があった。とても大きな意思があった。ずっとわたしたちは気付けなかった。こんなにも美しい生命が目の前にあったのに。
青空には光のベールがかかっていた。透き通った水面が揺らぎ、幾何学模様を描く。彼らは生きている。今飛び立とうとしている。力を溜めている。身体を覆う繭から飛び出そうとしている。
一迅の風が吹き抜けた。冷たい風だった。肌を刺すような、寝起きの目を完全に覚まさせる鋭い風だった。それはわたしたちの間を吹き抜け、地上から空へと一気に舞い上がった。
光の柱がそびえていた。
蒼海の空よりもずっと明るい光の柱が、上へ上へと突き上がっていた。まるで天を目指すようだった。その直径は計り知れなかった。
それは光の大樹だった。古臭くも、真新しくもあった。厳かであるようでもあり、穏やかであるようでもあった。わたしたちはぽかんと口を開けて大樹が天へと昇る光景を眺める。
わたしはどうしてしまったのだろう、とわたしは思った。わたしはこんな光景を見てしまってもいいのだろうか、とも。
まだわたしは死んでいないつもりだ。それなのに、天国よりも美しいこの光景を見てしまってもいいのだろうか。もしかしてもう自分は死んでいるのか、とさえ思った。次の瞬間に死んでしまっても悔いはないと思った。それ程までに魂を揺さぶられる光景だった。
天上に集合した光は、いよいよ天の先へと進もうとしていた。天空のその先の、茫洋とした星々の海に。
キララちゃんは両手をまっすぐ伸ばして、その光を掴もうとしていた。背伸びをして、つま先をぴんとして、少しでも光に近づこうとしていた。
わたしは、ナズナは、リンネさんは、みっちゃっんは、茂野さんは、そして皆は、一緒になって両手を空に掲げた。
『―――――君に見せたかった光景があるんだ』
はっとしてわたしは彼女に目をやった。彼女は優しげな微笑を浮かべて、すぐに視線を空へと戻した。
……セイジ。あなたが求めていた空が、光景が、ようやく手に入ったんだね。
わたしにも見えるよ。あなたがずっと探していたものが。どんなに苦しくても、辛くても、絶対に諦めなかった最後の光景。
それは、絶望の結末ではなくて、希望の終着点。
離れていく。飛び立っていく。わたしたちの子供たちが。地球に生まれた、最後の子供たちが。
広大な宇宙では、地球の光なんて、とても見えない。星々の瞬きの前では、地球は小さな石ころでしかない。遠く離れ、旅立っていくあの子たちには、わたしたちの地球の光は届かない。
けれども、わたしたちの光は違う。最後に残された希望をもって明日へと生きる、わたしたちの光は違う。
どんなに遠く離れていても、どんなにたくさんの時間が流れても、わたしたちの光はきっと子供たちに届くのだ。
その時、宇宙に煌く星の彼方に、生まれ落ちた世界があることを思い出して欲しいとわたしは思う。
わたしたちが地球という星で、最後まで精一杯生きたのだと知ってくれている者がいる。
それだけでわたしたちは救われる。生きてきた意味を与えられるのだ。
だから最後まで頑張ろうとわたしは思った。最後まで光を絶やさずにいようと誓った。
もう大丈夫。
わたしたちヒトは、光を受け継ぎ、暗闇の中であっても終わりの時まできっと輝き続けるのだ。
それは、夜空に煌く星のように。
ふたりで生きることを決めた、彼と彼女のように。
<THE END>




