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第47話

 ぼくは頭に巻いていた包帯を取った。屋上へ続く扉を開ける。おどろおどろしい闇夜が視界いっぱいに広がった。全天がケモノに支配された世界。今にもケモノが襲いかかってきそうな光景。あまりにも現実離れした地獄のような風景。


 彼女は―――――世空野キララは、そんな空の下で歌っていた。


 暗闇の中にぽつんと彼女の小さな背中が見えた。彼女のお気に入りの黒いワンピース。彼女が両手を広げてゆっくりと回るのに合わせて、黒いスカートは翼のように広がった。


 ぼくは彼女に魅入られたように立ち尽くした。予感はした。確信さえあった。けれども、目の前の光景が信じられなかった。死んでしまったと思っていた少女がいる。以前のように元気な姿で生きている。ぼくは様々な感情が入れ乱れ、溢れ出し、自分の心情が理解できなかった。


「お父様」と傍らのリンネが言った。「もうとっくにお気づきでしょうけれど、彼女は―――――」


「わかっているさ、リンネ」ぼくは彼女の言葉を遮った。ぼくもキララも一度死んだ。そしてぼくは生き返り、彼女もまた命を得た。だが以前と全く同じというわけではない。このぼくがそうであるように。


 目の前でキララが殺されるのをぼくと見たナズナは言葉もないようだった。スミレばかりが、「よかった、無事だったのね」と正直な感想をもらした。それはある意味間違っていて、ある意味で当たっていた。


 ぼくは導かれるように足を踏み出した。キララへの距離が果てしなく感じた。暗闇の中でさえ、彼女の白い肌は際立って見えた。闇に浮かび上がる表情は、晴天の空の下にいるかのように晴れやかだった。


 ぼくは彼女の名を呼んだ。ついこの間までずっと一緒だったのに、もう何十年とその名を口にしていなかった錯覚に囚われた。自分の声が自分のものではないようにも思えた。


 彼女は歌を口ずさむのをやめ、ゆっくりとまぶたを開いた。ぼくのように<黒土>に汚染された目ではなかった。彼女の小さな瞳はしっかりとぼくを見据えていた。そして淑やかに微笑んだ。


「セージ」


「キララ、君なのか……?」


 確かに彼女の声だった。確かに彼女の姿をしていた。だけど何かが違っていた。ぼくの記憶にある彼女と寸分違わないというのに、ぼくの直感とも呼べるものが違和感を覚えている。


 ぼくは彼女の頬に手を伸ばしかけ、自分の惨状を思い出して躊躇した。包帯に巻かれているとはいえ、こんな手で彼女に触れてもいいのだろうか。


 そうしている間に、彼女は自分からぼくの手を重ね、頬に寄せた。じんわりと彼女の体温が感じられた。少しでも強く触れたら、壊れてしまいそうな気がした。ぼくは雷に打たれたように硬直していた。まるで現実感がなかった。


 いつしか自分が泣いていることに気づいた。彼女の頬にぼくの雫が落ちることで気づいた。鼻の奥がつんとした。目頭は熱を帯びていて、次から次へと涙はこぼれた。自分でも訳がわからない衝動だった。ぼくはしゃくりを上げて女々しく泣いた。少しも恥ずかしいとは思わなかった。


 キララは何も言わずにぼくを慰めてくれた。これではどちらが子供なのだかわからなかった。


 堪えきれなくなり、ぼくは彼女の細い身体をひしと抱きしめた。


 ……ちゃんと、そこにある。体温を感じる。夢なんかじゃない。彼女は生きている。


 ぼくは彼女を喪い、生きる目的を奪われたようだった。自分が死ぬよりもずっと苦しかった。彼女がぼくにとって、どれだけ大切な存在だったのか思い知らされた。でもその後悔はあまりに遅過ぎて、意味のないものだった。


 だが、彼女はここにいる! こんなにも嬉しいことはなかった。どれ程の幸福があったとしても、今目の前に広がっている光景よりも素晴らしいものはなかった。


「ないてるの、セージ?」


「うん。泣いてる。君が生きていてくれて、すごく嬉しいから」


 ぼくの腕の中で、キララは心地よさそうに目を細めた。それは、二度と取り戻せないと思っていた姿だった。諦めていた光景だった。ぼくは夢ではないことを確かめるように、二度と彼女が離れていってしまわないように、しっかりと彼女を抱きすくめる。


 どのくらいそうしていただろう。ぼくは彼女の脇に手を入れて、一息に抱っこした。「わあ」と顔を輝かす彼女がいれば、こんなけったいな空でもましに思えてくるから不思議だった。


 ぼくは、彼女は、一体どうしてしまったのだとか、そんな理由はどうでもよかった。ただここにふたりでいられることに感謝した。誰かの気まぐれがこの奇跡を呼び起こしてくれたのなら、それでよかったのだ。


「わたしがいなくて、さびしかった?」とキララは言った。


「とっても寂しかった。死んじゃいそうになるくらい寂しかった」とぼくは言った。


 彼女は嬉しそうにして、それから悲しげになった。ぼくはその喜怒哀楽の移り変わりがおかしかった。だがそれを自重して、「どうしたの?」と彼女に訊ねる。何にせよ、彼女が悲しそうにしているのは嫌だった。慰めてあげたかった。


「セージは、わたしがいないと、しんじゃうの?」


「そうかもしれない」とぼくは言った。「ぼくは君がいないと駄目なんだよ。君がいないと、ぼくは胸が空っぽで、ひゅうひゅうと風が吹くんだ。とてもとても冷たい風なんだ。そうしているとぼくは悲しくなって、何も考えられなくなってしまう」


「わたしも、セージがいないと、さびしい」しょんぼりと彼女は呟いた。「でも、わたしも、セージも、さびしく、ならなきゃいけない」


「え?」


 ぼくはキララの言っている意味がわからず呆けた。ぽかんと口を半開きにして、彼女の言葉を咀嚼しようと試みた。けれどもそれは無理だった。いや、理解するのをぼく自身が拒否していた。


 キララはぼくの胸をとんと押して身体を離す。それは月面上での出来事みたいだった。黒いスカートがひらひらとたゆたう。彼女の髪が静かに流れる。ぼくは馬鹿みたいに腕を突き出した格好のまま動けない。とてもゆっくりと彼女は地面に降り立った。


「いっしょにいないと、さびしいよ。でも、それは、しかたのないことなの」


「な、何を言っているんだ、キララ」


「それが、おとなになるって、ことなの」


 彼女は冗談を言っているようには見えなかった。その瞳には決意の色があった。か弱くもなく、か細くもない。しっかりと芯の通ったものだった。ぼくは彼女の言葉が胸の奥にすとんと収まる音を聞いた。耳を塞いでいてもそれは聞こえたに違いなかった。ぼくがずっと感じていた予感の当たる音だった。認めたくなくとも、認めざるを得ない真実の鐘の音色だった。


「さびしいけど、きっとだいじょうぶだよ。わたしはもう、おとなだから」


「―――――」


 彼女は再びぼくの前に立ち、呆然としているぼくの顔を引き寄せた。目の前に広がる彼女の表情。潤んだ瞳。ずっと昔に見た「彼女」の、何かを思い詰めた表情。


『わたしがおとなになったら、すきなひととしていいの?』


 ふと、かつての記憶が蘇った。ぼくは彼女に何と返しただろう。それはもう、大昔のことのように思えた。ぼくとキララはずっと一緒だった。始めからふたりでひとつであるかのように。生まれた時から一緒だったかのように。


 思い出される「同志」の言葉。彼はキララのことを、ぼくに何と言っただろう。


『キララが本当に好きで、その相手も君を好きでいてくれたなら、きっと大丈夫だと思うよ』


 ああ、彼の言っていたことは正しかったのだ。ぼくは彼女の隣にいながら、そのことに気付けなかった。ずっと違うのだと思い込んでいた。それはぼくのトラウマのためであったし、幸せそうな世空野夫妻を見ていたせいでもあった。そこには幸福があったのだ。ぼくには得られなかった、家族という完成形があったのだ。それをどうして偽物だと考えようか。


 なあ、アカリ。君はどうして嘘を付いていたのだろう。それとも、君さえも気づいていなかったのだろうか。


 ぼくは金縛りにあったように動けなかった。キララの唇が重なるのを呆然と受け入れていた。それはついばむよう口付けだった。神聖な儀式のようだった。親愛を表す行為でもあった。


「わたしはもう、おとなだからへいきだよ。ねえ、セージ―――――だいすきな、わたしのおとーさん」


 ああ、確かに君は最初、ぼくのことをそう呼んだのだった。今でもはっきりと覚えている。ぼくはあの時から間違っていたのか。もしかしたら、ずっとずっと君を悲しませていたのだろうか。


 瞬間、途方もない大きな力に巻き込まれ、ぼくの意識は反転した。




   ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■




 それは、ぼくの身体が乗っ取られた時に垣間見た光景だった。ぼくは再びこの上も下も、右も左もない空間に存在していた。


 そこにはありとあらゆる情報が集積されていた。時間も場所も超越した情報が集まり、台風のように渦巻いていた。連続しない文字の羅列や音声、人の脳では捉えられないものまで入り乱れて一緒くたになっていた。乱雑に放り出された情報群は、時折ぶつかり合って片々に散らばっていく。


 ぼくはそこにいた。しかし身体はどこにもなかった。自分がそこにいるという意識だけがあった。だから視界は全天に広がっていた。360度を見渡せるのは不思議な感じだった。あまりに広い視野角のせいで、かえってどこを見ればいいのかわからない。


 意味のない映像がモニタの中で流れている。これはぼくが理解できるように便宜的に認識しているものだと自然と納得できた。チャンネルが移り変わり、モニタ自体が増えたり減ったりしながら、膨大な数の映像が流される。


 その連なりがどこまでも続いていた。とりあえずの真下は、どこまでも落ちこんでいて、その底が全く見えなかった。ぼくの周囲だけが薄ぼんやりとした淡い光があった。


 これが<大いなるもの>なのか、とぼくは理解した。


 志向性も区別もない、ありとあらゆる情報の集合体。地球の「全て」。その始まりから現在を記録した地球のクロニクル。


 それは純粋な力でもあった。より高度な存在へと昇華するという無色の力。


 自らの全てをもって、ひとつ上の存在になろうとする地球の現象だ。そこには人の意思など介在する余地はない。地球の歴史に比べれば、人の歴史はどれだけ短いことか。地球上の生物においては、人はマイノリティでしかないのだ。


 その膨大な情報に流されそうだった。意識を強く持たないと瞬く間に自分を見失ってしまう。そうなれば、ぼくはこの場に存在する情報のひとつとして飲み込まれるに違いなかった。


 身体は見えず、目をつむっても全天が見えるというのはぼくを混乱させた。本当に自分はここにいるのかと不安になった。もしかしたらすでに「ぼく」は存在せず、その記憶の残滓だけがこの空間に漂っているのではないかと思えてくる。


 ぼくはぼくであろうと努めた。自分の名前を何度も呼んだ。これ程まで自分の名を連呼し、意識したのは生まれて初めてだった。これまで何とも思わなかった己の名が、自己を定義しているのだと改めて理解した。そこには多くの情報が込められている。親の期待、愛情、それからその字自体に込められている意味。ひとつにしか思えない事柄にも、膨大な情報が刻み込まれているのだ。


 様々な時代、様々な人種の人々の営みがあった。人間だけに留まらず、あらゆる動物たちの進化の過程が記録されていた。生物だけに限られず、無機物の変化の様相もまたそこには書き綴られていた。地球の誕生、地球の成長。そこに生きる、存在する物質のあらゆる記録が網羅されていた。


 これまでに失敗に終わった<進化>の記録も残されていた。一度目の失敗は爬虫類族を核とした<進化>、二度目の失敗はヒト族を核とした<進化>。いずれも核の成長が不十分だったために失敗に終わっていた。それを踏まえ、今回はヒトの成長を十二分に促した上での発動となった。出生率の激減、異能を持つ者の出現はその兆しだったのだ。ぼくは自分だけがおかしな力を持っていたと思っていたけれど、そうではなかったのだ。世には現れなかっただけで、ぼくのように自らの異能を隠して生活していた者が大勢いたのだった。


 ぼくのじっと見ている視線の先に、見覚えのある人たちがいた。球場を利用した<街>で、一緒に<絆教>と戦った住人たちだった。結木イオリとミヤコの夫妻もいた。ぼくは仲違いして別れた彼らのことを想った。彼らは今、どうなっているのだろう。帰ってきた子供たちが目を覚まし、また親子としてあれればいいのに、と切に願った。


 その想いに反応したのか、目の前の画面は大きさを増し、視界いっぱいに広がった。ぼくはそれに飲み込まれてしまった。一瞬の出来事だった。逃げる隙もなかった。もしあったとしても、何もできなかっただろうけれど。












 気が付くとぼくは<街>の付近に立っていた。見覚えのある風景だった。防衛準備を整える際に見回ったことがあったのでしっかり覚えている。


 そこには<街>から避難してきた住人の姿があった。本当に目の前にいるみたいに鮮明だ。触れられそうだったけれど、ぼくは自分の身体がないことを思い出して諦めた。


 彼らは死体だらけである<街>を放棄し、取りあえず近場の建物に仮設の避難所を造っていた。僅かに残っていた食料などを運び込み、ようやく落ち着いてきたところだった。


 不思議なことに、ぼくには彼らの感情がありありとわかった。疲れや虚無感、また絶望感がひしひしと伝わってくる。自分のことではないのに、まるで彼らの心が読めるみたいに理解できた。


『ようやく一段落ついたな』とイオリは言った。


『ええ、そうね。しばらくはこれでもつでしょうし』とミヤコは答えた。


 彼らは負傷者の移動も済ませ、彼らの回復を待って新たな新天地を目指すつもりだった。さすがに虐殺があった<街>を利用しようとは思わなかった。あそこはいろいろな意味で危険だったからだ。


『……なあ。あれで、本当によかったのかな』


 夫の言わんとしていたことを理解したミヤコは、『他にどうすればよかったのよ』と苛立たしげに言った。


『彼をここに置いておくのはあまりにも危険だったわ。ここには動けない人たちや、子供たちでだっているのよ? ……わたしたちの娘たちも』


『そう、だよな。仕方がなかったんだよな。だって彼は―――――』


 イオリが言いかけた時、傍らで眠っていた双子が身動ぎした。「う……ん」と小さく呻くと、ふたりの少女は殆ど同時に目を覚ました。


 それに気づいた結木夫妻は大喜びした。周囲からは、同じように子供が目を覚ました親の歓喜の声が聞こえてくる。行方不明になって、もう会えないかと思っていた子供が帰ってきた。その上、謎の昏睡から目覚めてもくれたのだ。これ以上の奇跡があるだろうか。


 目を擦って眠たげにしている双子に、夫妻は声を震わせて話しかける。けれども双子は返事をしなかった。目を瞬かせて、懸命に声をかけてくる両親を無感動に眺めた。それから髪を自らとかし、双子は互いに『酷い顔ねえ』と笑いあった。


 最初は混乱していて自分たちに返事をしないだけかと思っていた夫妻も、まるで自分たちを無視して話続ける双子にいよいよ心配になった。埒があかないと肩を掴んで揺する。そこでようやく双子は目の前の存在に気がついたのだった。


『わたしたちがわかる!? ママとパパよ!』


『ええ。ちゃんと見えているから、そんなに身体を揺すらないでくれるかしら? 寝起きで頭がぼうっとしているのよ。ねえ、お姉ちゃん』


『ええ、妹さん。まるで二日酔いみたいだわ。お酒は飲んだことないけど』


 双子の奇妙な話し方に、夫妻は困惑していた。以前はもっと口数が少なかったが、今みたいな喋り方ではなかったのだ。少なくとも、普通に受け答えをしていた。だが今はどうだ。互いに姉と呼び、妹とも呼ぶ。どちらがどちらなのか全くわからない。両親であるイオリとミヤコでさえも双子の区別がつかなかった。


『あ、あなたたち。服装も髪型も同じだから見分けが付かないわ。あなたがソラ?』


『いいえ、わたしはクウよ』と右側の少女が答えた。


『じゃあ、あなたがソラね』と左側の少女にミヤコが訊ねると、その少女は『いいえ、わたしはクウよ』と笑みを浮かべて否定した。ミヤコは頭がこんがらがっていた。自分が間違えたわけではない。双子が嘘をついたのだ。


『あなたたち、ふざけるのはよしなさい。ママもパパも疲れてるのよ? あなたたちが目を覚ましてくれて嬉しいけど、遊ぶのはまた後にしましょう?』


『別にふざけてなどいないわ』と片方が答え、『ええ。わたしたちは至って真面目よ』ともう片方が続けた。


『わたしはクウ』


『わたしはソラ』


『あなたはクウで』


『あなたもソラ』


 話についていけず、目を回しかけている夫妻に双子は言った。『わたしたちはソラでありクウである。わたしたちはふたりでひとりなのよ、おふたりさん』


 イオリとミヤコは顔を見合わせて困り果てていた。彼らにとって、双子の話は世迷言だった。きっと目覚めたばかりで子供たちも混乱しているのだと結論付けた。


 そんな言葉遊びはいいから今は安静にしていなさいというふたりを、双子は肩を竦めて嘆息した。『やれやれね』『ああ、妹さん。それってお父さんの真似でしょ?』『ふふん、わかっちゃったかしら、妹さん。結構似てたと思わない?』『とっても似てたわ。わたしもやってみようかしら。……やれやれだわ』『いまいちね』『ええっ、どうしてよ、お姉ちゃん』『どうにもくたびれた感じに薄いわ。わたしを見習いなさいな、お姉ちゃん』


 わいわいと話止まない双子を夫妻は叱りつける。彼女たちはそれを愉快げな表情で観察していた。まるで昆虫でも検分するかのように。


 ここにきて結木夫妻はやっと異常であることに気づいた。自分たちの娘たちが、以前と全く変わってしまっていることに気づいた。外見は変わらなくとも、その中身はまるで別物であることを理解した。


 ミヤコはその事実に戦慄して双子に訊ねる。


『あ、あなたたち、一体誰なの……あなたたちは、わたしの娘じゃ、ない』


『おい、何を言ってるんだ。この子たちはおれらの娘だろう……』


 妻とは違って、夫の方は確信が持てなかった。確かに以前とは異なってしまっているが、それは昏睡していた後遺症かもしれないと考えた。それに、自分たちの娘を見間違えるはずがないという想いもあった。


 深刻な表情で話合う結木夫妻を、双子はさもおかしそうに眺めていた。くすくすと忍び笑いをもらし、彼らが困惑しているのを面白がっている。それは子が親をからかっているのとわけが違った。そこに親愛の念はなかった。幼い瞳はギラギラと怪しく煌めき、夫妻をぞっとさせた。


『わたしたちが怖いかしら、おふたりさん』『ねえ、おふたりさん』と双子は言った。『人間というものは理解の及ばないものを恐れるものね。ずっと昔からそうだったし。小手先ばかりが達者になっても、根本では何にも変わっていない。全くもって興ざめだわ、妹さん』『ええ、お姉ちゃん』


 双子は仲良く手を繋いで立ち上がっていた。灯りが小さいせいで顔は影になっていた。その表情は隠れて見えない。ふたつの影法師が連なっているようだった。


 イオリとミヤコは無意識に後退っていた。本能が警鐘を鳴らしていた。彼らは今すぐ逃げるべきだった。だが彼らはそうしなかった。心のどこかで、まだ目の前の双子が自分たちの娘だと思っていたのだ。それが彼らの足を躊躇わせた。


『怖いものは認めない』とひとりが言った。


『好きなものしか認めない』ともうひとりが言った。


『それはあまりにも子供じみた考え。時折頭のいい子が生まれてきても、その子が死ねば、後に残るのはわがままな子ばかり。せっかくご本があるのに、それをまるで活用できない。あなたたちはそれで満足かもしれないけど、わたしたちからすれば、見るに耐えない愚かさだわ。……とても残念なことだけど』


 生温かい風が吹いた。背中を撫でられた感覚がして、夫妻は鳥肌が立った。息苦しい感じがした。胸を圧迫されている心地だった。自然と息は荒くなっていた。


 違和感は目の前の双子から放たれていた。粘着質なまでになった空気の中で夫妻は身を寄せ合った。自分たちは何者を前にしているのだろう、と彼らは思った。


『お父さんがあんなに頑張ったのに、酷いことするわよねえ』『ええ。適当な言い方をすれば、まるで人でなしだったわ、お姉ちゃん』『全く、ヒトって生き物は不思議よね。ヒトの身でありながら、どこまでも人でなしになれるんだから。とても興味深いわ。あとちょっと見苦しいかも』『だからこそ価値があるのだけどね』『わたしたちもそこから生まれることができたのだけどね』『その意味では、大きな価値があったのでしょうね』『災い転じて福となる』『言い得て妙ね』


 双子は結木夫妻の前で、ゆっくりとお辞儀をした。そしてにっこりと完璧な笑顔を彼らに贈った。まるでパーティー会場でのひとこまのようだった。


『あなたたちは確かにわたしたちの遺伝子提供者であったけど、親にはなれなかったわね』と結木ソラは言った。


『親になるには、あまりに子供過ぎたわ。生殖が可能になれば、それで親になれるわけでもないのにね』と結木クウは言った。


『最後にひとつ、わたしたちから言えることがあるとすれば』


『どんなものであれ、因果は巡るってことよ。拒絶をした者には、拒絶をもって返される。一応覚えておいてね、おふたりさん』


 背後から悲鳴が聞こえた。そこかしこから住人たちが飛び出てくる。彼らは半狂乱になって逃げ惑っていた。


 何が起こっているのだ、と夫妻は思った。<絆教>も湯田セイジもいない。もう安全ではなかったのか、とも。


 彼らの目の前で、逃げ惑う住人の上半身が消失する。足だけになった死体は、力なくその場に倒れ伏した。それを<黒いケモノ>がゆっくりとした動作で貪った。とてもとてもゆっくりと。何度も咀嚼するように味わっていた。


 ケモノは一体だけではなかった。数えきれないくらい出現している。視界に映る数が多すぎて、暗黒が目の前に横たわっているようだった。限りない悲鳴とケモノの唸り声が入り交じる。一瞬でその場は地獄となっていた。


『歌が聞こえるわ、お姉ちゃん。そろそろ始まるようね』


『ええ、妹さん。あの子は無事お父さんに出会えたようね。仕方がなかったとはいえ、寂しい思いをさせちゃったから。お冠だったわね、あの子』


 夫妻はこの惨状の中でも、少しも慌てた様子のない双子の声に振り向く。


 彼らは息を呑んだ。双子の身体に黒い粘着質な物体が付着していた。それは生き物のように脈動し、双子の身体を覆い尽くしていく。双子はまるで気にする素振りもなく、変わらぬ様子で手をつないでいた。


 両親の目の前で娘たちは異径へと姿を変えていった。完全に泥に飲み込まれた双子はもう区別が付かない塊になっている。マグマが沸き立つような音がした。塊からは腕が伸び、足が伸び、それは形を崩してまた戻っていく。人間のパーツが出現と消滅を繰り返した。


 やがて塊は寸胴なヒトの形を取った。ただのヒトガタでしかないのっぺらぼうだった。


 イオリもミヤコも、その場から動くことができなかった。足は凍り付いたように微動だにせず、身体中が逃げることを忘れ去っていた。彼らは何も考えられなかった。考えるのを拒否していた。


 それでも彼らは思わずにはいられなかった。自分たちの娘はどこにいったのだと。目の前の化物は何なのだと。こんな化物、断じて自分たちの娘ではないのだと。


 その瞬間、のっぺらぼうの顔面に何かが浮かび上がった。黒いどろどろした表面に人間の顔が現れる。それは正視に耐えない醜い顔をしていた。考えられないくらい最悪の部類だった。嫌悪感から彼らは吐き気を覚えた。


 ―――――それは、彼ら自身の顔だった。


 何だこれは、と彼らは思い。自分の顔だと気づいた彼らは、こんなもの自分のはずがないと思った。


 それが彼らの最後の思考だった。目にも留まらぬ速さで襲いかかった<黒いケモノ>は、抵抗もなく結木イオリとミヤコを飲み込んでいた。二人の上半身をひと飲みにしたケモノは、断片化した残りの情報を回収すべく、下半身に喰らいついたのだった。

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