第46話
「にわかには信じがたい話ね」とスミレは言った。
「だろうね」とぼくは言った。
突然の来訪者に大騒ぎとなった集落だったが、その正体がぼくたちだとわかると間もなく沈静化した。しかしながらぼくたちの惨状を見て、別の意味で大騒ぎとなったのは言うまでもない。
何があったのだと詰め寄る住人たちを落ち着かせ、とにかく身体を綺麗にしたいというぼくたちの要望は聞き遂げられ、久しぶりにさっぱりすることができた。血と脂と汗にまみれていたぼくたちは酷い悪臭だったと思う。それよりも見た目のインパクトがすごかったらしいので、体臭などはスルーされていたけれど。
多くの住人たちには脚色した<街>での戦いの話を伝え、真実を話すのはごく少数にしておく。特にぼくの両目と両腕のことはスミレだけに明かした。他の人たちには、戦いで重症を負ったということにしてある。
<黒土>に侵食された両目と両腕を見たスミレは、一瞬息を呑んだものの、気丈にもそれ以上の反応を見せなかった。スミレといい、ナズナといい、この姉妹には本当にぼくは救われている。
これまでの経緯―――――<絆教>による襲撃や<街>での攻防、それから世界に起こっている異変についてあらかた話し終えると、スミレは何とも言えない表情になった。ぼくたちの隣ではリンネがぼくの異常を監視してくれている。彼女は<街>の住人だということになっている。スミレたちには、彼女の生真面目な性格は好意的に受け入れられているようだった。
「正直、突拍子もなさ過ぎて、すぐには実感できないわ」と彼女は困ったように言う。「太陽の異変とか、不気味な空はわたしたちもこの目で見ているけど、その理由はどうにもね……」
「それが普通だろうさ。ぼくだって当事者なのに、未だに現実感がないもの」
これは夢なのではないか、と今でも思うことがある。そうであればいいと願わずにはいられないからだ。視線を下げれば、そこにキララの姿があるように思えてならないのだ。
ぼくは以前に宛てがわれた自室で休んでいた。両目と両腕が使えない状態なので、スミレが看病の名目で付き添ってくれている。ナズナは疲労が限界だったらしく、自分も付き添いをすると意地を張っていたものの、すぐに寝入ってしまった。今は彼女の自室で眠っている。
「キララちゃんのこと……残念だったわね」
遠慮がちに投げかけられた言葉に、ぼくは返事を返せなかった。泣き喚いたり、怒り狂ったりするような衝動は湧いてこない。その代わりに、ぽっかりと穴が空いたような消失感があった。虚無感があった。それを自覚するたびに、ぼくは何も考えられなくなってしまう。
「大丈夫、セイジ?」
「……大丈夫じゃない、かな」
スミレはリンネの存在を気にしていたようだが、彼女の「お気になさらずに」という仕草があり、少し顔を赤らめつつぼくを抱きしめてくれた。
ぼくは彼女に抱かれながら、不思議な心地を味わっていた。彼女の中にいると、まるで自分が子供に返ったみたいだった。母親に抱かれている気分だった。この歳になってマザコンだとは笑えない話ではあるものの、きっと男に限らず、人間ならば、いくつになっても親のぬくもりを求めているのだと思う。
「あなたはよくやったわ。わたしたちを守ってくれた。あなたがいなければ、今度はここが襲われることになっていたかもしれない。ねえ、そうでしょ?」
「そうかもしれない」とぼくは言った。「でも失ったものも大きかった。ぼくは全部をいっぺんに守れる程強くはなかったんだ。そんなこと、ずっと前から気づいていたはずなのに。ぼくは愚かにも失念していた。その結果が、このざまだよ」
「……」
ぼくの愚痴をスミレは根気強く聞いてくれた。ぼくは彼女の厚意に気づいていたけれど、あえてそれを利用させて貰っていた。ぼくは彼女で鬱憤を晴らしていたのだ。恥ずかしい行為だと思う。だけど、ぼくはそうせずにはいられなかった。彼女の前にいると、ぼくはとても弱い自分でいられる。気張らずにありのままでいられる。ある意味、これは心の治療にも等しかった。
散々弱音を吐き尽くすと、とても気分が楽になった。ぼくの身体の中から、弱気悪魔が退治されたみたいだった。
スミレに愚痴を聞いてくれたことを感謝する。彼女は「そこがあなたの駄目なところね」と苦笑しながら指摘する。別に謝らなくてもよかったそうだ。そこはちょっと恥じて、「感謝するよ」と一言だけ告げていれば彼女にとってドンピシャだったらしい。なるほど、勉強になる。
「話を聞いていて、ひとつ気になったんだけど」と彼女はぼくの頭を抱きながら問う。「そんなに人が集まったり、明かりを付けていたりして大丈夫だったの? 以前、あなたに聞いた話じゃ、そうするとケモノが引きつけられるんでしょ?」
「うん、そうだね」とぼくは答えた。彼女の胸から身を起こすと、僅かに残る<大いなるもの>との接触の記憶を掘り起こす。<街>での攻防中はすっかり忘れていたことだったが、彼女の言う通り、<黒いケモノ>に襲われる条件がこれ以上なく揃っていたのだ。
「<黒いケモノ>が生物じゃないってことは話したよね? 何だか訳のわからない力の片鱗みたいなものだって」
「ええ。あれは人を殺すのが目的じゃなくて、ヒトの情報を集めていたに過ぎないんでしょ? ……わたしたちからしてみれば、殺されることに変わりはないけど」
「そうだね」とぼくは彼女に同意した。「だから向こうにしてみれば、情報を得ることさえできれば、それがケモノによろうが、<黒土>を用いるヒト同士の戦いによろうが、どちらでもよかったんだ」
あれは、その過程に興味などないのだ。結果さえ望み通りであれば、そこに至る過程はどうであっても構わない。今回の場合、ケモノによる方法は取られず、ぼくとリンネの戦闘によって目的が達成されたことになる。
リンネたち<絆教>が、大人数を抱えていてもケモノに襲われなかったのは、効率的に人間を<回帰>させて情報収集を行なっていたためであり、そこには子供たちも保護されていたためであろう。子供たちを通して、<絆教>は誘導されていたようだし。
「……じゃあ、ここら一帯で勢力を誇っていたふたつの集団がなくなったんだから、次は中小規模なところが危ないんじゃないかしら。もしかしたら、ここも……」
「いや、たぶんもうケモノによる襲撃はないだろうね」
「どういうこと?」とスミレはベッドから立ち上がって訊ねた。室内は薄ぼんやりとしていて、歩き回る彼女のシルエットが浮かび上がる。ここではぼくも目の包帯を外している。
ぼくはスミレが落ち着きなくしているのを眺めていた。こんな状況下で不謹慎であったけれど、彼女の仕草を見るのがぼくは好きだった。
「それについてはわたしも興味があります、お父様」と黙っていたリンネが口を挟んだ。「これから起こる事態をお父様はご存知のようでしたし」
「……ところで」とぼくとリンネに向かってスミレはジト目を向ける。剣呑な視線にリンネはややたじろいだ。この子を警戒させるスミレは只者ではない。
「どうしてリンネさんはセイジのことを『お父様』って呼ぶの? そこのところ、あなたたちには説明責任があるんじゃないかしら。違う?」
「いや、ね」ぼくはどう説明すべきか迷った。リンネがぼくを父と呼ぶのは<絆教>にいた子供たちの影響なのだが、彼女の出身を隠しているので、どう答えればいいのか微妙な問題だった。
ぼくが答えに窮していると、リンネが勝手に喋り始めた。
「お父様にはいろいろと親切にしていただきましたし、わたしが迷惑をかけてしまった時も、快く赦していただいたのです。そのご恩は忘れられません」
それに、と片腕の少女は続けた。
「わたしの尊敬していた父親代わりの人に、お父様はとてもよく似ていらっしゃるのです」
「そう……その方は」
「ええ。先の戦いで亡くなりました……」
重い内容だけに、スミレは気まずい様子だった。軽々しく触れてはならない話題をつついたことを後悔しているようだった。
スミレは部屋の片隅にいたリンネの下まで行くと、その空っぽになった片腕を痛ましく見て、そっとリンネを抱きしめた。リンネは最初身体を強張らせた様子だったけれど、そのうち安心したように身を任せた。
「ごめんね、リンネさん。変に疑ってしまって」
リンネは小さく頭を振った。「いいえ。謝罪には及びません」
ぼくはリンネを優しく包み込むスミレの手腕に感心していた。そういえば白沢リンネもナズナと変わらない年頃だった。普段のしゃちほこばった姿勢に惑わされがちであるものの、彼女はまだ親の保護下にあってもおかしくはないのだ。
教団ではナンバー2の扱いであったし、ぼくは初対面の時からずっと彼女を色眼鏡で見ていたのかもしれない。価値観や思想が異なっても、彼女もまた人間には違いない。喜んだり寂しがったりもするだろう。
スミレならば彼女のいい保護者代わりになれるかもしれなかった。母親代わりと言ったら怒られそうだが。
「ところで話は変わるんだけど、ここにいた子供たちの姿が見えなくなったのは確実なんだよね?」
ぼくは集落に帰還してから、スミレたちと情報交換した際に知ったことを再び訊いてみる。彼女の話では、この異変が始まるのと同時期に子供たちが姿を消してしまったらしい。
まるで神隠しにあったように忽然と消えてしまったそうで、自ら消えたのか、誘拐されたのかも定かでないのだという。
「セイジの話を聞いた限りじゃ、誘拐の線はなさそうだけどね」とスミレは顔を曇らせ独白した。ぼくも彼女と同意見だった。異変の始まりと共にいなくなったのなら、子供たちが自発的に出ていったと考えた方が無難だろう。いくら混乱の最中とはいえ、住人たちに全く気取られず侵入して子供を誘拐できる者はいないはずだ。
「だけど、ある意味それでよかったのかもしれない」とぼくは血を吐く想いで言う。でなければ最悪の場合、子供たちを手にかけなければならない事態になっていたかもしれなかったのだ。
「それって、どういう意味なの?」ぼくの険しい表情に気づいたスミレが恐る恐る訊ねた。
「子供たちは、物質界においては<大いなるもの>の手足であって、情報化された後では<進化>の核になる存在なんだ。彼らが全ての鍵という程でもないけれど、全くの無関係というわけでもない。なんて言えばいいのかな……遺伝子情報の重要な部分、という感じかな。そこが欠損してもすぐさま消滅することもないけれど、その影響は後々に全身に及ぶんだよ」
ぼくの説明はいまいち要領を得ないので、スミレは得心いきかねるようだった。ぼくも<大いなるもの>に触れた時、漠然としたイメージを得ただけなので言葉にしづらかった。あれの思考形態はあまりにも人間離れしていて、我々の価値観ではうまく表現できないのだ。
「だから<進化>が始まった場合、一番に情報化されてしまうのが子供たちなんだ」
「情報化……つまり死んでしまうってこと!?」
ぼくは無言で肯首した。ぼくが見たイメージ。子供たちが黒い影に取り込まれる光景。空を覆っている暗黒が地上を飲み込み尽くす風景。あの赤茶けた空で蠢いている<黒いケモノ>が地上の存在全てを喰い尽くすのだ。
この地上からでは見えないものの、現在の地球は、宇宙から見るとさぞかし不気味な惑星になっていることだろう。遥か彼方にある冥王星の名が相応しい姿であるはずである。名前を交換して貰った方がいいかもしれない。
「その時に、付近の生物を巻き込む可能性がある。<進化>は地球全体で行われるんだけど、子供たちの周囲では最も強烈な影響がある気がするんだ。……曖昧な表現で申し訳ないけど」
「その時に子供たちが近くにいた場合、わたしたちも死んでしまう可能性があったのね……?」
だからぼくは<街>の人々にも警告したのだった。だけどそれは失敗に終わった。ぼくの説明不足もあったし、戦闘直後でぼくが化物じみた身体になっている時分、子供を殺せと言われたら、反発しない方がおかしい。今さら後悔しても遅過ぎるけれど。
「もしかしたら、あの子たちはそれをわかっていたから、わたしたちに迷惑をかけないように出ていったのかしら?」
子供たちにはそんな人間を慮る思考はないと思った。けれども、スミレにわざわざそれを告げるのはあまりにも無遠慮だった。ぼくは「そうかもしれない」と相槌を打った。ぼくにも本当のところはわからないのだ。彼女の言う通りであったのならいいな、とぼくは思った。
「ねえ、セイジ。その<進化>とやらはいつ始まるの? わたしたちは何か対策をしておくことはある?」
「今すぐ始まるかもしれないし、明日かもしれない。もしかしたら明後日かもしれない。いずれにせよ、そう遠い話じゃないだろうね」
ぼくは身体の殆どを<黒土>に侵されているから、その予兆に気づくかもしれない。今だって、空を見上げているわけでもないのに、頭上で途方もない存在が脈動しているのを感じている。
しかしながら、もしもその時がやってきたのなら、ぼくに言われるまでもなく気づくはずだった。何せ地球規模で起こる異変である。どんなに鈍い者だって、足元や天上が異常をきたせば気づくだろう。
「君からみんなに話しておいて欲しい。近いうちに大規模な異変が起こるから覚悟しておくように。錯乱して被害を広げる真似は差し控えるようにって」
「……あなたから言って貰った方が説得力があると思うんだけど」
「ぼくはこんななりだしね」と彼女に両腕を見せつけて言う。あまりみんなを危険に晒したくはないんだ」
「……そう。わかったわ。わたしからみんなに言っておくわね」
スミレは説明のために部屋を出ていった。残されたのはぼくとリンネだ。何だか妙な取り合わせだった。侍がレオタードを着ているみたいなちぐはぐさだった。ぼくらはそこまで仲がいいというわけでもないので、スミレがいなくなるとぼくは心細くなった。リンネは毛程も来にしていない様子だったが。
スミレが出ていった扉を見るともなく見ていたリンネは、唐突に口を開いた。
「あの方は、お父様の奥様なのですか?」
「え!? ま、まあ、そうなってくれたらいいな、とは思っているけどさ」
きょどりながら言うぼくに向かい直り、彼女はサハラ砂漠でペンギンが日光浴をしているのを見つけたみたいな表情で続けた。
「では、わたしはあの方を『お母様』とお呼びした方がいいのでしょうか……?」
「それはやめときなさい」
ぼくは間髪置かず否定した。何だか、その被害はぼくのところにきそうだったからだ。
■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■
うとうとしていたぼくの下にスミレとナズナがやってきたのは、それからしばらくしてからのことだった。申し訳なさそうに入室してくる彼女たちを見て、ぼくは説明がうまくいかなかったんだな、と思った。
案の定、住人たちへの説明がうまくできなかったことを告白された。無理もないかもしれない。あまりにも途方もない話なので、ぼくから又聞きした程度の知識では住人たちも納得できないのだろう。
「ごめんなさい、先生。わたしも一緒に頑張ったんだけど、突っ込んだことを訊かれると答えられなくて」
姉のフォローに回ったナズナからも謝罪されてしまった。ナズナは現場にいたものの、自衛だけでも大変だったはずだ。彼女に全ての説明をさせるのは酷な話だった。
時計の針を見ると、まだ就寝には早い時間帯だった。外が暗闇のために時間の感覚がおかしくなっている。太陽がないとこんなにも混乱するのだな、とぼくは実感した。
「ぼくが説明した方がよさそうな感じだね」
「先生は怪我してるから無理強いできないってみんなには言っておきましたけど」
実際にところ、疲労があるだけで怪我は回復している。どういうわけか、身体が乗っ取られた際に殆どの傷は修復されていた。怪我の程度で言えば、ぼくよりもナズナの方が酷かった。身体の至る所に切り傷がある。
「みんなも不安だろうし、ここはぼくが一肌脱ごうじゃないか」
「……悪いわね。疲れてるのに」
スミレはいかにもしょんぼりしていますという顔で言う。こんな顔をされたらベッドで寝ているわけにもいくまい。ぼくは「気にしないでよ。本当に無理だったらぼくは正面から拒否するし」と彼女を励ました。
その言葉で多少元気を取り戻しくれたので、ぼくは彼女たちに手伝って貰い包帯を巻き直した。改めて両目と両腕が覆われると、ぼくは怪我をしてもいないのに怪我人の気分になった。
ぼくは包帯がずれたりしないかチェックし、見た目も彼女たちに確認して貰う。準備を整え、まだ住人が残っているという食堂へ向かうことにした。リンネも付き添いということで同行を頼んだ。
ずっと太陽が姿を表していないために廊下は真っ暗闇だった。ぼくは視界がないのでそれ程変わりはない。だが他の人々はそうもいかない。彼らはいつ終わるとも知れない夜を乗り切るため、必要最低限の灯りのみで過ごしているそうだ。
各人がそれぞれ用いてはすぐに燃料が底をつく。なのでなるべく集団行動をして、光源を少なく済ませる方法を取っている。暗闇が長く続くと精神にも異常をきたす。仲間と共にいることでその予防もしているようだ。
「それにしても、セイジ。あなた包帯で目が見えないのに、よくそんなにうまく歩けるわね」
「そういえばそうだよね」
スミレとナズナが、手を借りずにひとりすたすた歩くぼくを見て言った。彼女たちはロウソク一本という小さい灯りなので、歩きづらそうだった。
「<黒土>に侵食された副作用かどうかわからないけど、視界に頼らなくても感覚で位置が掴めるんだよね。さすがに色彩とか細部はわからないけど」
リンネもしっかりとした足取りだった。足音でわかる。恐らくぼくたちは暗闇に対する耐性があるのだろう。ぼくの場合は、そこにもっと超常的な感覚が働いているかもしれなかった。
「わかってると思うけど、みんなの前ではきちんと怪我人らしく振る舞いなさいよ? そんな調子で現れたらきっと怪訝に思われるから」
「了解」
スミレの言う通りだった。包帯まみれのぼくが軽やかなステップを踏んでいたらおかしく思われるだろう。仮病というのは案外難しいものだった。これは嘘をついているようなものなのだ。ぼく自身もあまりいい気分ではなかった。
食堂の前で一端打ち合わせし、スミレに手を引かれる形で部屋に入る。
ぼくの姿を認めた住人たちは、改めて湯田セイジの重症っぷりに言葉がないようだった。帰還した直後に出会ったのは少数だったし、話を聞いただけではぼくの惨状も理解しがたいだろう。だがこうして実際に姿を見せれば、どれだけ過酷だったか何も言わずとも汲み取ってくれるはずだった。
「おいおい、大丈夫なのかよ? やっぱりやめておいた方がいいんじゃないか?」
茂野さんの心配げな声がする。他の住人の追従する声も聞かれた。ぼくは「重要なことだから、今言っておきたいんだ」と彼らに述べ、スミレたちでは説明しきれなかった部分の補足を行った。
「同士」こと大河内ダイチ―――――みっちゃんの兄については、ぼくとナズナの胸に収めておくと決めてある。これはリンネにも承諾を貰っている。だからわざわざみっちゃんに彼女の兄のことを言うつもりはなかった。
最初は胡散臭げに話を聞いていた住人たちだったが、実際に証人が3人いることや、暗黒の空とそこにいるケモノのことまで話が及ぶと、信じないわけにはいかないようだった。ぼくの話は途方もなく現実離れしているけれど、その現実離れしている光景が頭上に広がっているのだから、妄想だと一蹴できるはずもなかった。
それでもやはり、彼らもぼくの言葉を鵜呑みにはできないようで、<大いなるもの>や<黒いケモノ>、子供たちに関することを何度も訊ねられた。ぼくは根気強く噛み砕いて説明した。中にはぼくにも理解不能な事柄もあった。そこのところは正直に「わからない」とだけ告げておく。下手にごまかさない方が懸命だと思ったからだ。
ぼくの説明した全てを信じたわけでもなかったが、彼らは一応の納得ができたようだった。太陽が昇らなくなり、化物が空に浮かんでいる。誰かに説明して貰わないと不安だったのだろう。ぼくの話の真偽はともかく、彼らは不安の落としどころを求めていたのだ。
「あの、セイジさん」とみっちゃんがぼくの傍らまできて言った。「わたしにできることがあったら、何だって言ってくださいね」
「うん。どうもありがとう」
彼女はぼくがキララを喪ったことを知っている。それに身体のことも心配してくれていた。ぼくは彼女の兄のことをふと考えた。その優しさや微笑には、あの男の面影があった。彼女は兄のことを尊敬していたようだった。きっと、彼女の中では優しい兄がまだ生きている。それをぶち壊しにするようなことは絶対にあってはならなかった。
ナズナも苦労して何気ない装いをしている。しばらくは気になってしまうだろうけれど、彼女ならば大丈夫だろう。友だち想いのいい子だから。
ナズナとみっちゃんが談笑しているのを片耳に、ぼくはスミレと茂野さんとこれからの方針について打ち合わせをする。いつまでこの状況が続くのかはっきりしないので、燃料の節約などを話し合う必要があった。
その時、ぼくは懐かしい声を聞いた気がした。か細くて、よく聞き取れない。ざわざわとした雑踏の中で、その間を縫うように流れてくる。
ぼくは耳を澄ませた。流れてくる旋律に集中する。
それは歌だった。幼い少女の歌声だった。ベートーヴェンのピアノソナタ「悲愴」。彼女が好んで口ずさんだ曲だった。
ぼくはすぐにでも走り出したかった。だけどそれはできない。ぐっとその衝動を堪え、急に黙り込んだぼくを怪訝に見るふたりに言った。
「……話し合うまでもなく、その時がきたみたいだ」
「セイジ?」
「スミレ、ぼくを屋上に連れて行ってくれないか。……歌が聞こえるんだ」
ただならぬぼくの雰囲気に気づいたのか、皆はしんと静まり返っていた。ぼくは小さく頷いたスミレに肩を貸してもらい、食堂の出口へと向かう。
歩きながらぼくは言った。「これから、何か起こるかもしれない」
「な、何かって?」と茂野さんは辺りをきょろきょろ見回しながら問う。ぼくはそれに「わからない。けれど、パニックにならないで。落ち着いて対応するんだ。目をしっかり開いて。耳をよく澄ませて。決して心を閉ざしちゃいけない。恐怖に囚われちゃいけない。いいね?」
有無を言わさないぼくの言葉に、気圧されたように彼らは息を呑んだ。
「始まるのですね? お父様」とリンネはぼくの隣で訊ねた。ナズナも共にいた。スミレもぼくの言葉を待っていた。ぼくは視線を上げた。屋上にいる彼女のことを思い浮かべた。死んでしまったはずの少女のことを想った。どうしてだとか、なぜだとかは考えない。他ならぬぼく自身が一度死に、こうして生きているのだ。ならば、彼女が再び姿を現したとしても不思議はあるまい。全ての理由は、彼女自身に訊けばいいのだ。
「それはきっと、あの子が教えてくれる。行こう。キララが待ってる」
ぼくは自分にも言い聞かせるようにそう告げた。




