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第45話

 公爵夫妻と馬車は無事だった。特に害はないとして放置されていたようだ。外界は世界の終わりのような有り様であるのに、夫妻はいつもと変わらぬ様子で草を食んでいた。ぼくたちの姿を認めると、古い悪友に再会したみたいな顔になる。


 馬は臆病な生き物である。空がこんなにもおどろおどろしい中で、少しも動揺を見せないのは不思議だった。他の動物たちもそうである。不気味な空気の割には、小鳥が呑気に囀っている。


 まるで人間だけが怯え、慌てているようだった。ぼくにはそれが愉快だった。きっと人間は下手に知恵を付けているから、この異変に恐怖しているのだろう。それに対して、他の動物たちは知っているのだ。これから始まる<進化>は自分たちを傷付けるものではないのだと。


 ナズナとリンネに付き添われて、ぼくは荷馬車部分に乗り込んだ。御者はナズナが引き受けるようだ。以前に手ほどきをしてあるので、公爵夫妻も彼女の言うことなら聞くだろう。


「彼らも用心深いことですね」とリンネはぼくの隣に乗り込みながら言った。


 ぼくたちが出ていくのを監視する住人の姿がある。彼らは武器を携えたまま、硬い表情で見張っていた。きちんとぼくたちがいなくなるのを確認しないと安心できないのだろうな、とぼくは思った。


 仕方のないこととはいえ、ずきりとした胸の痛みを覚えた。何とも言えない後味の悪さがあった。考えまいとするも、脳裏には彼らの恐怖と嫌悪に支配された表情が蘇る。


 いつか、それと似たような表情を見た覚えがある。


<審判の日>を生き延び、元妻のアカリと再会した時の彼女の顔だ。その時は今とは違う状況であったけれど、ぼくを拒絶する色は同じだった。まさか再び目にする時がこようとは、何とも皮肉な話だった。


 ぼくたちは無言のうちに<街>を後にした。住人たちはぼくらの姿が見えなくなるまで、ずっと監視を続けていた。彼らは悪くなかった。全ての元凶はぼく自身だった。


 考えてもみろ。いきなり化物になって、人間を数百人も虐殺した者を恐れないはずがないだろう? 彼らの反応は当然と言えた。それを責めるのはお門違いだった。きっとぼくだって、これが己の身に起こったことでなかったならば、彼らと同じ対応をしたに違いない。


 辺りは暗く、視界は最悪のために、馬車は歩くようなスピードである。空の赤茶けた色にも見慣れてきた。まるで水面に垂らした絵の具のように歪み、常に形を変える空のケモノ。苦しんでいるようにも、気持ち良く遊んでいるようにも見える。


 ぼくはリンネに水を飲ませて貰い、ようやくまともな会話ができるようになった。それでも以前のようには喋れない。声帯をおかしくしたのかもしれない、とぼくは思った。半分とはいえ、身体が<黒いケモノ>になったのだ。これくらいの後遺症で済んだのは僥倖だった。


 のろのろと両腕を持ち上げて観察する。二の腕から下は全て黒ずんでおり、ところどころに真っ黒な血管が浮き出ていた。人の腕の形をしているぶん、余計に気持ち悪い。これで、あの鉤爪からずっと戻らなければ、ぼくはきっぱりと諦められたのだろうが。


 片手でもう片方を触れてみる。硬い感触だった。両手の指は満足に動かせない。せいぜい、まとめて閉じたり開いたりする程度だ。握力もないに等しかった。


 ぼくは隣のリンネを見やった。彼女は右腕を完全に失っていた。空っぽになった裾が馬車の振動に合わせて小さく揺れる。


 異常な腕が残っているぼくと、片腕を失った彼女。果たしてどちらがましなのだろうか。


 じっと見ていたことに気づいた彼女が「どうしました?」とぼくに訊ねる。


「いや、どうして君はぼくたちを助けてくれたんだろうと思って。ぼくは君の右腕を奪ったし、『同志』や仲間たちを殺した張本人なのに」


「腕のことは、お父様に責任はありません。これは戦いに臨んだ者自身の負う責任なのですから」


 ぼくが少しずつしか話せないので、会話は酷くゆっくりとしたものになった。だが彼女は面倒な顔ひとつせず、ぼくが喋り終わるのを待ってくれた。


 ふたりで話していると、ナズナも話を聞きたいらしく、馬車を一度止めて休憩することにした。もう<街>から結構離れたので、変に勘違いされるおそれもなかった。


 荷馬車内で顔を付き合わせたぼくたちは、お互い酷く薄汚れていることに気づいた。これまで怒涛の出来事だったから、身なりには全く注意を払っていなかった。けれども、こうして落ち着いてみると、それはもう、どこの原始人だよという汚れ具合だった。


 さすがに水浴びはできないので、ボロ布を使い捨てるつもりで身体を拭いていく。拭き取る傍から血がべったりとこびり付き、渇き始めていた血はばりばりと音を立てた。


 軽く食事を取り、疲れ切った身体に栄養を補充する。すぐにでも眠りたいところだったけれど、残された時間はそう多くない。できるだけ早くゆのかわの集落に戻るべきだった。


「先程の話ですけれど」とリンネは言った。「お父様は『同志』を殺したと仰りましたが、それは間違いです。あれは彼が自ら望んだことでした。それに、何度も申し上げたように、あれは<大いなるもの>の元に還る儀式でした。ですからお父様が殺人について責任を感じるのは筋違いですし、わたしが恨む道理もありません」


「……だけど、ぼくにとっては、あれは殺人以外の何者でもなかった」


「わたしたちにとっては、<回帰>以外の何者でもありませんでした」


 リンネが冷静に返す。ぼくは彼女の顔をじっと見つめた。彼女は嘘を付いているようには見えなかった。少し悲しげな色はある。だけど、それは長年連れ添った夫を亡くしたような感じだった。


「君たちは、勝手過ぎるよ」


「……」


 ぼくはリンネから視線を外し、薄気味悪い両腕を眺めた。「ぼくは訳もわからず、人の命を奪う行為を強制された。こんな化物みたいな身体になった。……キララも死んでしまった」


 自然と責める口調になった。彼女に鬱憤をぶつけたとしても、何の意味もないことを理解している。だけど一度口にしたら止めることができなかった。ぼくは誰かを恨むつもりはなかった。あの虐殺は、ぼくにも責任の一端はあるのだ。ぼくの弱い心が、あの惨劇を阻止できず、こうして白沢リンネを責め立てている。


 湯田セイジという人間がもっと強かったら、きっと違う結末になっていたはずなのだ。それは、「たら、れば」の夢物語でしかなかったとしても、ぼくはそう考えずにはいられないのだ。


 後悔しても過去は変わらない。アカリを助けられなかったこと。彼女の夫を救えなかったこと。キララを死なせてしまったこと。


「―――――でも、守りきれなかったのは、他でもないぼく自身のせいか」


 確かめるようにぼくは呟いた。降りかかった不幸の原因を他に求めるのは間違っているとぼくは思う。他人のせい、環境のせい。そうやって自分以外のせいにしていれば楽になれる。けれども、苦しみから逃れるだけの方法は間違いであることが多い。その場はよくとも、後々にその弊害が現れる。その時になって「ああしたのは仕方がなかった」とうそぶく人間にぼくはなりたくなかった。


「君たちがよくても、ぼく自身が自分を許せそうにない。ぼくはきっと、死ぬべきなんだと思う」


「先生はっ」ナズナはぼくの襟元を掴んで引き寄せる。彼女は今にも泣き出しそうだった。


「先生は……まだ、そんなことを思ってるんですか。まだ、死にたいって思ってるんですか」


 ぼくはナズナの瞳をまっすぐ見返した。


「死にたいとか、悪いとか、そういう話じゃないんだ。うまく説明できないけど、そうしなきゃならない気がするんだ。ずっとずっと前から決まっていたことのような気がするんだ。……ぼくのやるべきことは全て終わったんだよ」


「わたしには、そんなのわかんないです!」彼女はぼくの胸に顔を埋める。「何か大変なことに巻き込まれてることは想像できますっ。先生がとても苦しんでるってこともわかります。でも、先生が死ななきゃならない理由なんて、わたしにはわからないです! わかりたくないです!」


 ぼくは言葉に窮した。彼女に返すべき言葉が見つからなかった。心からぼくを案じてくれている少女に何と答えればいいのだろう。頭の中が真っ白になる。見えない強制力と彼女の言葉が、ぶつかり合い、入り乱れる。


 ぼくは死にたいのだろうか? それともただ現実から逃げたいだけなのだろうか?


「ぼくは……ぼくは、どうすればいいのかわからないんだ。みんな、みんな死んでしまった。守りたかった人たちは離れていってしまった。ぼくはずっとひとりぼっちなんだ」口元を歪めて嗤う。「ぼくは自分以外の誰も救えないんだ。そういう人間なんだよ」


 他人のせいにしないということは、他人に何も求めないことと同義だ。ぼくはひとりで完結してしまっているのだ。閉じてしまっているのだ。それはきっと、ぼくが臆病だからなのだと思う。他人に何も求めないのは、自分が傷付けられるのが怖いからだ。


 ぼくが人助けをする理由は、その人を助けたいからではない。ただ気分が悪いからだ。自分が許せないからだ。ぼくは常に自分を基準にして考えている。自分で決めたルールに従って、ただそれだけを至上として生きている。


 それはあまりに身勝手な生き方だと思う。ぼく自身は、他の人に何度も助けられているというのに。


「それのどこがいけないことなんですか、先生?」


「え?」


「人は誰だって、自分のために生きてるじゃないですか。人を愛することだって、自分が愛されたいからじゃないですか。自分のことを度外視して、全く考慮に入れないなんて、そっちの方がおかしいですよ」


「……ナズナ、君だって、言ってたじゃないか。困ってる人を助けたいって。自分のできる限りのことをしたいって」


「その通りですよ。確かに、わたしは言いました。でもそれは、わたしがそうしたいと思ったからです」彼女はぼくを見上げて続けた。「誰かの為に、わたしがそうあろうとしたんじゃありません。そうしないとわたしが許せなかったから。わたしがそうあるべきだと確信したからです。『誰かの為のわたし』なんて、そんなもの、気持ち悪くて見ていられません」


 隣からリンネの忍び笑いが聞こえた。ぼくは困惑していた。ナズナの告白はぼくには理解できないものだった。


 自身を救えない者は、他人を救うことをできない。確かに聞いたことがある。けれども、それはあくまで例え話だろう。人が善行を為す時、いちいち自分のためだと考えて行動する者はいない。ただ目の前の人を助けたいから、救いたいから。そういった「他人のため」の気持ちが肝要なのではないだろうか。


 だがぼくの場合、考えてしまうのだ。目の前の人を見捨てた場合と、助けた場合、どちらがぼくにとって好ましいのだろうかと。その判断の如何によっては、ぼくは見捨てる選択も厭わない。


 そうやって自分を守り、守れそうな人だけを守ろうとしてきた。それなのに、ぼくはいつも失敗してきた。大切な人を失ってきた。ぼくの選んだ道を後悔しない日はない。だけど絶対に口に出したりはしない。自己憐憫で後悔を口にするなんて、救えなかった人々への冒涜ではないか。


 だが結局、ぼくは守りたかった一握りの人さえ死なせてしまった。それはつまり、ぼくは根本的に間違っていたのだ。ぼくの思考前提が、行動論理が誤っていたのだ。


 そうでなければ説明が付かない。納得ができない。もしもそうでなかったとしたら、救えなかった人々は運命的に死を決定付けられていたことになってしまう。それこそ認められるはずがなかった。


「ぼくはいつも、自分にできる限りのことをしてきた。その結果が、これさ」


 いつも隣にあった少女の姿を思い出す。絶対に守ってみせると誓った彼女のことを思い出す。その誰よりも大切だった少女は、もういないのだ。


「ぼくは間違っていたんだ」


「―――――それは違いますよ、先生」


 穏やかでいて、力強いナズナの声にぼくは目を瞬いた。彼女は笑みを浮かべていた。目を赤くして鼻をぐずりながらも、かつての青空を思わせる笑顔で言い切った。


「先生は間違ったわけじゃありません。失敗してしまった、それだけのことです」


「失敗、だって?」


「そうです。方法が正しいからといって、いつも成功するわけじゃありません。時には酷い失敗をしたりします。だから人は勘違いしてしまうんです。『自分は間違っていたんじゃないか』って」


「いや、でも、ぼくは……」


「先生。あなたがこれまでのことを全て間違いだったと否定する意味がわかってるんですか? 奥さんとの再会も、キララちゃんとの出会いも、わたしのお姉ちゃんとの出会いも、全て間違いだったと言うんですか?」


 彼女はぼくをきっと睨み付け、


「そして何より、わたしの命を救ってくれたのも間違いだったと言うんですか?」


「…………」


「先生……弱気にならないでくださいよ。確かに一番辛いのは先生なんだと思います。だけど、だからって逃げ出しちゃ駄目なんです。自分の選んだ道を諦めちゃ駄目なんです……先生はわたしの命を救ってくれたんですよ? なら、最後まで責任を持ってくださいよ。わたしを、どうか最後まで救ってください、先生」


 ナズナの俯いた姿は弱々しかった。彼女だって恐怖しないわけでもなければ、不安にならないわけでもない。戦いの最中はその姿に頼もしさを感じていたけれど、ずっと死の恐怖と闘っていたのだ。彼女はまだ17の少女だった。大人でもなければ子供でもない。その不安定な時期に、人を殺めざるを得なかった彼女の心労は計り知れなかった。


 本当ならば、ぼくが彼女のケアをしてあげなければならないのだった。ぼくにはその義務があった。ただ単にぼくが年上だからという理由だけではない。あの晩、彼女の命を救った者として、救ったからには最後まで見届ける必要があった。手を差し出してそれで終わりではならないのだ。肩を貸して、一緒に歩いていく。それが、人を救うということだった。


 ぼくには、まだやり残したことがあるのか、と思った。アカリもキララも死んでしまった。たくさんの人を殺してしまった。身体は化物みたいに変わってきている。


 でも、ぼくにはまだ残されているものがある。


 自分も苦しいはずなのに、ぼくを励まそうとしてくれる少女。それから、彼女の姉。


 彼女たちが残されているのに、ぼくだけが勝手に死ぬのはあまりにも無責任だった。自分の命は自分のものだと、生かすのも殺すのも自分次第だという考え方がある。けれども、ぼくたちはひとりきりで生きているのではないのだ。いくらひとりぼっちだと感じていても、見えないところでたくさんの人々に生かされている。


 権利と義務は表裏一体だった。きっと、ぼくの命にもまだ義務が残されているはずだった。


 それをやり遂げるまでは、歯を食いしばって生き抜こうとぼくは思えた。苦しんでやろうと考えることができた。簡単な道や楽な道は、いつだって逃げるための道だった。ぼくはそんな平坦な人生を望んだのか? 違うだろう、湯田セイジ。ぼくは険しい道を選んだのだ。最後まで見届けてやると、こうなってしまった世界の結末をこの目で看取ってやると、そう決意したのではないか。


 最後の光景は、荒涼とした荒野でなければならない。


 生温かい優しさにまみれた春野なんて、ぼくには我慢ならないのだ。


 ぼくは、大切なことを忘れていた。だけど、それを思い出させてくれたのは、胸の中の少女だった。ぼくは彼女を救った。けれども、同時に彼女に救われてもいたのだ。


「君の言うことはもっともだよ、ナズナ」とぼくは言った。「途中で自分から死ぬなんて、ただの逃避だったね。もしも力尽きることがあったとしても、それは志の半ばであるべきだ」


 君がこうして生きていこうとしているようにね、とぼくは続けた。彼女は腫れぼったい目でぼくを見返した。口をへの字にして、言葉にならない喘ぎをもらした。「ううー」と呻き、服に縋り付く。


「済まなかったね。ぼくはいつも後ろ向きなんだ。だから偶に転んじゃう」


「一緒に歩いている人間の身にもなってください……」


 ごめん、とぼくは彼女に謝った。こんな簡単な謝罪で許して貰おうとは思ってなかったけれど、ぼくは言葉にしておくべきだった。不安にさせてしまって、悲しませてしまって、本当に悪かったと。


 ぼくは彼女の肩を抱こうとして、一瞬躊躇った。両腕は人の形を取り戻しているが、こんな腕で彼女に触れて大丈夫なのだろうか。


「そんなに警戒しなくとも平気ですよ、お父様。その腕に害はありません」


 リンネの言葉を聞き、ぼくはそっとナズナの肩に触れる。感覚は遠いものであった。だけど確かに彼女のぬくもりを感じた。こんな出来損ないの腕でも、ぼくでも、ひとりの女の子を慰めることくらいはできるのだ。


 まだやれることは残っているのだ、とぼくは改めて思った。


「わたしはお父様のことを『同志』から教えて貰いました」とリンネは言った。ぼくの腕の中に包まる少女に目をやり、どこか寂しそうな目で続ける。


「あの方がお父様と二度目に出会ったのは、今はもうない<街>でのことでしたね?」


 ぼくは頷いた。


「その<街>の運営も、最初から順風満帆とはいかなかったそうではないですか。様々な問題が持ち上がって、そのたびに皆で頭を悩ませていたと聞きました」


「……そうだね。そういえば、そうだった」


「『同志』は直接運営に関わらず、ただの住人として見ているだけだったそうです。ですが、その彼から見ても、持ち上がる問題の対応に追われるあなたたちの苦労はよく理解できたそうです。特にお父様は、率先して人から嫌われる役割を買っていたのですよね? お父様を見て、『同志』は思ったそうです。彼みたいな人間もいるのだな、と」


 当時、ぼくはアカリやタクミの力になろうと思って、自分からきつい仕事を引き受けていた。中には少数の人を切り捨てなければならない時もあった。ぼくはリーダーであるタクミのことを考え、自分がその泥を被ることをよしとした。


 タクミとぼくは、時には対立する様子を見せながら、裏では協力する運営方法を選んだ。嫌われ役はどんな組織にも必要だった。みんなが仲良しこよしの集団なんてあり得なかったのだ。


 ぼくはそれでもよかった。タクミとアカリ、彼らの娘であるキララのためであるなら、人々からの敵意にも耐えられた。それに、ぼくの苦労をわかってくれる人も、少なからずいた。


「その<街>での生活を通して、『同志』は決意したそうです。人からどんなに傷付けられようと自分の信念を貫こうと。自分の信じる道を行こうと」


「…………」


 ぼくは複雑だった。ぼくの姿を見て、「同志」が<絆教>を創り上げたのならば、ぼくにも責任の一端があることになる。知らず知らずのうちに、ぼくはキララを殺す算段をつけていたことになる。


「時折、人間は驚く程、愚かになることがあります。人間はもう駄目だと、地球を汚染し、他の生物を殺戮するだけの害悪だと思うことがあります。わたしもそう思います。……ですが、お父様は違いましたよね」


「何が、違うんだい?」


「かつての<街>でのこと、わたしたちがぶつかった<街>でのこと。そのどちらにおいても、お父様は住人たちを恨まなかった。先程だってそうです。命がけで住人を守ろうとしたのに、手酷く拒絶された。彼女も言っていましたけれど」とリンネは一度言葉を切り、「恩を仇で返されたようなものではないですか」


「あれは仕方のないことだよ」とぼくは返した。「ぼくが彼らの立場であったら、きっと同じようにすると思うんだ」


 そこがお父様らしいのですよね、とリンネは眩しそうに呟いた。


「普通、人はそこまで相手の立場に立って考えられません。自分を中心に考えます。だから争いが起こるのだし、いつまでもいがみ合ってわかり合うことができないのです。『相手の気持ちになってみる』こんなにも簡単で当たり前の方法があるのに、多くの人がその方法を知っているのに、誰もが意図的に無視をして自己中心的に考える」


 リンネは苦虫を噛み潰したような表情で語った。彼女自身が、その被害にあったことがあるのかもしれない。あるいはその加害者であったのかもしれない。行為を後悔できるのは、その当事者であった場合だけだ。他人から説教のように語られただけでは、人は理解できても共感はできない。ただの知識としてでしか記憶できない。


「まるで子供です。わたしたちは他人の痛みを共感できない存在なのですよ、基本的に。だから大人になる必要があった。大部分の人間は、『そんな勝手なことを言うな!』と反対するでしょう。ですがその言いぶんこそが自分勝手なのです。自分の命は自分のものだと主張して他人を傷付ける。愛だ、自由だと声高に叫び、他の人の愛と自由を侵害する。その繰り返しです。気の遠くなるくらいの昔から、わたしたちはこんな、子供じみた間違いを犯してきたのです。『原罪』という言葉があるそうです。その解釈は様々ですが、この言葉はこれまでの人間社会を的確に表しているとは思いませんか? 自分では認められない罪、悪いとは考えていない罪、存在すら認識できない罪。自意識を欠いた罪は、人の手では裁くことができないのです」


「だから、君たちが断罪しようと思ったのか?」


「わたしたちではありません。わたしたちでは無理なのです。子供が子供を裁けば、それはただの私刑になります。断罪という言葉も間違っています。なぜなら、人類という子供は、罪の意識すら持っていないのですから」


「人の手には負えない罪を裁く―――――それができる存在なんて」とぼくは言い、言葉に詰まる。神、という言葉はあまりにも陳腐だった。彼女たちは教団として組織されてはいたけれど、神を崇めているわけではなかった。もっと抽象的ではっきりとしない力。彼らが<大いなるもの>と呼んでいた存在。あるのか、ないのかさえ定かではない概念。


 その一端に触れたぼくは理解できる。あれは人の意識も、無意識も包括している。だから、彼女の言う「原罪」だって裁けるはずだ。罪を償う最初の一歩は、自ら罪を認めることだ。


「その点で言えば、お父様はヒトから外れていると言えるでしょう。お父様は無意識に行われる罪をも認識していた。それを認めながらも否定しなかった。あんなにも尽くした住人たちに見捨てられながらも、お父様は彼らを恨まなかった。それどころか赦してさえいた。『同志』があなたをもうひとつの可能性と見たのは、わたしたちとは違い、ヒトを見限らなかった点なのですよ」


「そんなの、当然のことだよ。……だって、ぼくはヒトなんだから。どんなに愚かで、惨めで、どうしようもなくても、ぼくはヒトなんだ。他の何者にもなれやしない。ぼくたちは愚かななりに、その中でどうにかしなきゃならないんだ」ぼくは苦笑した。「これは進化じゃないだろう? これは袋小路だ。諦め以外の何者でもない」


 リンネは静かに告げた。「お父様。それこそが進化に至る道です。生物が次の段階へと至るのは、いつだって行き詰った時なのです。様々な手を尽くし、それでも先に進めなくなった最後の瞬間。その先に、新しい光景が広がるのです」


「新しい光景、か……」ぼくはその言葉に懐かしさと親しみを覚えた。ぼくがずっと求めてきたもの。その正体が掴めてきた気がした。


 漠然とした予感。だがリンネの言葉には同意できない部分もある。彼らはぼくを<選定者>だと言っていた。だけどそれはおそらく違うのだ。ぼくは、いや、ぼくを含めた人類は次の段階には至れない。そんな確信があった。


 それをリンネに告げるのは酷であると思った。彼女はまだ信じているのだ。「同志」や仲間たちは<進化>を遂げるのだと。


 間違っていて、正しくもある。あやふやな状態であるのは、ぼくだって同じか。


「君の言う新しい光景は、きっともうすぐ見られるはずだ」


「……わかるのですか?」リンネは驚いた表情で訊き返す。


「漠然と、だけどね。半分身体を持っていかれてた時、確かに感じたんだ。その光景とやらを」


 新しい光景。<進化>の時。子供から大人になる時期。全く新しい存在の誕生。


 得てして、誕生には苦しみがつきまとう。生みの苦しみというやつだ。我々はそれを経験しなければならない運命にあった。我々人類だけに留まらず、この地球に生きる全ての生物、地球に存在する全ての存在。「我々」は、等しく生みの苦しみを味わうことになる。


 だがそれを恐れるものはいない。なぜなら、それはずっと昔から繰り返されてきた生命の営みであるからだ。動物たちがこの惨状の中でも、少しも慌てていないのはそのためだろう。


 空で蠕動するケモノは、いわば胎児だった。まだ形を成していない状態だ。それは見る者に恐れを抱かせる様態だったけれど、そう感じるのは人間くらいだ。自分とは異なる存在を恐れる我々は、姿形でもって全てを知った気になる。あれは恐ろしい形をしているから邪悪なものだと決め付ける。だがそれでは駄目なのだ。


「早くゆのかわに戻ろう。できる限りのことはしておかなきゃ」


「お姉ちゃんたち、大丈夫かな……」


 心配げなナズナに、ぼくは彼女たちなら大丈夫だと励ます。多少の混乱は起きているかもしれないけれど、スミレたちなら何とかできているはずだ。規模がそれ程大きくないから、住人たちへのケアも行き届いているようだったし。


 後は、とぼくは自分の両腕を見る。


「両目はともかく、この両腕は切り落としておいた方がいいんじゃないだろうか?」


「な、何でそうなるんですか!?」


 慌ててぼくの手を押さえるナズナ。彼女はぼくの腕を忌憚なく触れてくれる。ぼく自身でさえ持て余し気味の腕を、彼女はどう思っているのだろう。


「いつ、またこの腕がおかしくなるかわからないんだ。見た通り、何だか異常をきたしているのは明白だし。本当なら両目も繰り抜いてしまいたいところなんだけど、そうすると、さすがに死んじゃいそうだから、腕だけでもって」


「駄目ですっ、そんなの却下です!」


「……だけどね、ナズナ。集落に戻るからには、不安要素は失くしておいた方がいいだろう?」


「そんな、自分の腕を取り外し可能みたいに言わないでくださいっ。両腕を切ったら出血多量で死んじゃうかもしれないんですよ!?」


「すぐに傷口を焼けば、どうにかなるんじゃないか?」


 昔に映画で見たことがある。焼きごてを押し付けて傷口を焼くのだ。そうすることによって止血する。ものすごく痛そうではあるものの、贅沢は言っていられない。


「……それはおすすめできませんね」とリンネが困ったように言った。「切断と火傷のショックで死んでしまうかもしれませんし、うまくいったとしても、後々に火傷が悪化して死に至る可能性が高いです。特に、お父様は体力を消耗されている状態ですから」


「よくもまあ、そんな無茶を思いつきますね」とリンネは呆れたように言い、「先生はこれだから困っちゃうんだよ」とナズナがリンネに向かって愚痴を吐いていた。いつの間にか少女連合が形成されていて、ぼくはどうにも肩身が狭かった。


「だけど、ぼくはもうあんなことは二度とごめんなんだ」


 ゆのかわの集落を、ぼくのせいで失うことになるのは絶対に許されない。ぼくの爪でスミレたちを引き裂く事態になりかければ、ぼくは躊躇なく自分の喉を掻き切る。


 ナズナはぼくの気持ちがわかるのだろう、言葉に詰まってしまった。彼女からすれば、これから戻る集落は全てなのだ。そこを大事に思うのは当然のことだった。それでいてぼくの身も案じてくれている。板挟みになって困り果てる姿は見ていられなかった。


「ならば、もしもの時はわたしが責任をもってお父様を止めて見せます」


「君が、かい?」


「お父様には借り……いいえ、恩がありますから。『同志』も、お父様の助けになるようにとわたしを残しました。ですから、わたしは全身全霊をもってお父様の助けとなりましょう」


 ぼくは互いに殺し合った少女を見た。彼女には腹を刺されて一度殺されたし、「同志」はキララを殺してもいる。今さら何だという気持ちもある。けれども、彼女がいなければ、ぼくたちはここまで逃げてこられなかっただろう。


 それに、とぼくは思う。彼女は確かに敵対してはいたけれど、ずっと一途だった。嘘はなかった。言葉の通りぼくと殺し合い、言葉の通りぼくを殺した。彼女は嘘を付く人間ではない。


「わたしは最後に選択を許されたのです。『同志』はわたし自身が選べと言いました。お父様の力となる任務を引き受けるかどうか。この場で共に還ってもいい。あるいは、お父様と最後まで見届けてもいい」


 彼女は背筋を伸ばし、その片腕のない身体でぼくに向き直る。


「そして、わたしは選びました。お父様の力になることを。わたし自身が、選んだのです」


「リンネさん……」ナズナが彼女の名を呼んだ。もしかしたら、それは初めてのことかもしれなかった。


 ナズナは以前に言っていた。リンネはただ「同志」という男に縋っていただけだと。けれども、リンネは最後に「同志」の下を離れたのだ。彼の意思を汲んで、ひとりで残ることを選んだ。それが彼女の選択だった。


「久保田ナズナ。わたしにも、あなたの先生を守らせて欲しい。わたしにはあなたのような優しい力はないけれど、荒事ならば得意なのです」


「……うん。わたしにはできないことも、あなたならできるかもしれない」とナズナは答えた。「先生、リンネさんがいればきっと大丈夫ですよ。彼女なら、先生を守ってくれます」


「もしもの時は、腕をずばっとやってくれるかい?」


 ぼくの言葉に、リンネは迷いなく頷いた。


「そっか。なら、任せてもいいかな」とぼくは言った。「よろしく頼むよ、リンネ」


「はい。お父様」


 結局、ぼくの両目と両腕は、そのままにしておくことになった。一応の処置として、目と腕には包帯をぐるぐる巻きにしておく。まるで重傷者であるが、住人たちを怯えさえないためには致し方あるまい。


 集落へ戻る途中では、混乱にかこつけて襲撃を行う輩に出会ったものの、その者たちはリンネによって撃退された。片腕であっても彼女の戦闘力は健在だった。


 こうしてぼくたちは、無事に、とまではいかなくとも、何とかゆのかわの集落に戻ることができた。


 世界が異常をきたす中、久しぶりの帰還に喜ぶスミレたちは、ナズナの無事に安堵し、見知らぬ片腕の少女に困惑し、包帯巻きのぼくに仰天したのだった。

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