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第44話

 視界が染まる。意味を持たない羅列が流れていく。文字なのか数字なのか、理解できない情報で満たされる。明るさ、暗さ、暑さ、寒さ。全てが情報化されて脳に直接流れ込む。五感は狂ったように情報を収集し、集積し、取捨選択していく。第六感は他の感覚にも増して作動する。全ての事象のヘッダーを感じ取り、その全体構造を予測する。


 身体の拘束が解ける。白沢リンネが驚愕して飛び退く。ぼくはケモノのように叫び声をあげる。切り裂かれた喉が修復される。<黒土>が溢れ出して傷口が塞がっていく。筋肉が、骨が、関節が黒く侵されていく。


 両腕は大量の<黒土>がまとわり付き、膨れ上がり、巨大な鉤爪を形成する。人間の身体に<黒いケモノ>が融合したような不格好な姿。


 ぼくは人間からはみ出していた。存在が上位の層に片足だけ突っ込んでいる。そのために理解できた。これまでずっとわからなかったこと、不思議だったこと、認識できなかったこと。それらが一気に氷解した。人の身で理解できるはずがなかったのだ。それは「生」や「死」、「種」や「生物」「有機物」「無機物」そういった範疇では括れないものだったのだ。


「同志」の言っていたことは正しかった。けれど間違ってもいた。


 きっと意図的にそう思わされたのだ。この結果を招くために。彼らが便宜上<大いなるもの>と呼んでいる存在が望む結果を発生させるために。


 出生率の低下に始まる生殖能力の消失、その後に起こった<審判の日>。これらが進化のために発生したことは確かだ。<黒いケモノ>が現れたのも、それを促進させるためだった。ケモノたちはいわば手足なのだ。地球上で多くの情報を集めるための。


「同志」は子供たち、つまり<巫女>がケモノを使役できると考えていたようだがそれは違う。子供たちも同じように「手足」だった。姿形は違えど、その役割と本質は<黒いケモノ>と同様だった。だから操っているように見えたのだ。実際は共同で作業していたに過ぎない。キララたち子供が超常的な力を発揮できたのは、脳にあたる<大いなるもの>の下位に位置していたからだ。


 だがそこに上下関係は存在しない。粗末にされなければ、大事にもされない。だから子供たちは<黒いケモノ>を操りつつも、同時に殺されたりもしたのだ。生や死は、そこでは意味を持たない。人間の感覚では理解することのできない構造なのだ。


 そして<大いなるもの>とは、この星、地球そのものだった。かつて提唱されたガイア理論とは異なり、環境のバランスを取ったり、地球の生物同士が関係しあっているといったものではない。この星が自らを進化させるためにだけに働く力だ。そこに意識的なものはなく、全ての現象に理由はない。「なぜ」「どうして」という問いはそもそも意味をなさないのだ。


<大いなるもの>はヒトを進化させようとしているわけではなかった。偶々ヒトの子供たちが手足に選ばれただけだった。ヒトは地球の支配者でもなければ、中心でもなかった。動物の中の一種族でしかなかった。<大いなるもの>にとっては、植物や鉱物と同じ認識だった。


 だが情報として見た場合、人間は魅力的だった。DNA情報の他に記憶や感情といった特殊な情報も持ち得ている。生物としての袋小路に入ったために、突然変異をきたしたのも情報価値があった。あらゆる情報を欲していた<大いなるもの>は人間を収拾した。手足である<黒いケモノ>を用いて。


 ケモノは別に人を喰らっていたわけではなかったのだ。人の情報を摂取するために取り込んでいただけだった。だから正確に言えば、「殺された」のではなく、「情報化」されたのだった。自らの情報を余すところなく集め、それは新たな存在になろうとしていた。


<進化>するのはヒトではない。地球そのものだった。


 かつて、何度も<進化>が行われ、失敗した。それは様々な種族の絶滅や地球の気候変動として語り継がれている出来事だ。あの<2012年人類滅亡説>の記述も同様だった。あれはマヤ文明時代に行われた<進化>が失敗した時の記録だった。教授や「同志」が主張した説は、その意味では的を射ていた。あれは予言ではなく、記録だったのだ。


 そして今、新たな<進化>が始まろうとしていた。これまでのような特定種族を中心に据えた方式ではなく、あらゆる情報をコアにした方式。物質を超越した情報体への<進化>だ。


 我々は情報構成物のひとつでしかない。莫大な記録の中の一瞬でしかない。我々の価値は、その程度だったのだ。


 ぼくは吠えた。ぼくは決して抗えぬ行動理念に支配されていた。すなわち、「情報を収拾せよ」というコマンドに。


 それが何を意味するのかわからないわけではない。ヒトを情報化することは、人間としての死を意味する。ぼくの両腕は、顎門は、人の死を求めて解放されようとしていた。そうなるように仕向けられていたのだ。


 この場所、この時に。人間の都合など全く考慮しない、全ての「父」たる存在によって。


「下がってくださいっ、『同志』」


 リンネと対峙する。異径と化したぼくに慄いている。感情が伝わってくる。これまでぼくに備わっていた<直感>、それが完全な状態となって機能していた。もはや読心とも呼べるそれは、彼女の思考が手に取るようだった。


「……おお、これは」その男は両目から<黒土>を流しながら、感極まったように言う。「やはり、選ばれたのはあなたでしたか。わたしではなかった。ああっ、でも構いません。それでも、わたしの願いは叶えられる!」


 あんたは勘違いしている。そう教えてやりたかった。だがぼくの口は人間的な動きをすることができなかった。野蛮な唸り声を発するだけで言葉を紡げない。


 この男もぼくと同じだった。ぼくが訳もわからずに動かされたかつてのように。ぼくが捕まる原因となった横領事件も、その後の一連の行動も、ぼくをこの場に存在させる下準備だったのだ。それは意識に介入して施された。当人の意志など無関係に。


 あんたも、ぼくも、<大いなるもの>にうまく使われただけだ。


 それを伝えたいのに、どうしようもなかった。彼らは「回帰」を望んでおり、ぼくは彼らを「回帰」させようとしていた。まるで出来レースだった。操り人形だった。「同志」は自らの意志だと思い込んでいる。それさえも誘導されたものだった。


 無力感に苛まれる。ぎちぎちと奥歯がなる。一対の鉤爪は獲物を求めて蠢いた。


 突貫する。リンネはぼくの体当たりを受けて吹き飛ばされた。まるで砲弾のようにグラウンドの端まで突き進み、そのまま壁に激突した。


 着弾音と共に砂埃が舞う。少しずつ晴れる視界の先には、黒い刀身でぼくの爪を受け止めているリンネの姿があった。その表情は苦悶に歪んでいた。背中から強かに打ち付けたので当然だった。右目から滲み出る<黒土>の量が増した。ぼくと彼女のどちらが死んでも構わないとでも言うように、<黒土>は両者に力を与える。より価値のある情報を得るために。


 リンネは押さえこまれた姿勢のまま、ぼくの腹を蹴り抜いた。不自然な姿勢でなされた蹴りは威力のあるものではなかったが、ぼくを引き離すには十分だった。


 彼女はその隙に起き上がり、ぼく目掛けて距離を詰めた。


 ぼくの鉤爪も、彼女のナイフも、通常の物質ならば何であろうと情報化させる。つまりは物質としての形を分解するのだ。だから同じような存在でしか打ち合えない。ぼくと彼女も、肉体部分に攻撃が当たれば、それだけで致命傷になる。


 目にも留まらぬ彼女の斬撃を、ぼくは体術を駆使して回避する。四肢を地面について、ケモノのように疾駆する。以前のように力負けしないし、スピードでも劣ってはいなかった。それどころか、彼女の攻撃の意図を先読みすることができた。


 彼女は攻めづらさに困惑していた。タイミングを図って切りつけようとした瞬間、ぼくは攻撃よりも先にその軌道上からいなくなる。彼女は時間をずらされているような違和感を覚えているはずだった。


 グラウンドを縦横無尽に走り、互いに致命傷を避け、あるいは狙いながら攻撃をしかける。息をつく暇もない攻防。


 リーチとパワーに劣るリンネは、スピードを活かした戦法を重視している。だがぼくも人外の機動で追い縋る。壁にぶち当たりながらも、そのまま障害物を切り裂き追撃する。


 彼女は広場から球場内へ侵入した。ぼくも続いて建物内へと踏み入れる。その瞬間、攻撃の意志が感じられ、ぼくは上体を逸らした。穂先に<黒土>を付加した槍が投げ込まれたのだった。槍は壁をやすやすと突き抜けて飛来してきた。完全な死角からの攻撃だった。


 回避行動に続き、ぼくは一気に回り込んでリンネの姿を捉える。彼女は先程の一撃が躱されて驚愕していた。建物内に踏み入れた直後を狙った攻撃だ。普通ならば避けられるはずがなかった。


 建物内であるため、直線的な機動はできない。それでも壁面を疾駆し、最短距離で接近したぼくは、天井を蹴って鉤爪を振り下ろした。咄嗟に避けたリンネの肩をかする。大した抵抗もなく彼女の肩は切り裂かれ、血飛沫が舞った。


 彼女は顔を歪めつつも体勢を崩さなかった。腕を振り下ろしているぼくの右腕にナイフを走らせた。生身の部分を狙った攻撃は筋肉を突き抜け、骨に当たって止まる。


 彼女は瞠目していた。鉤爪よりもずっと上部の生身部分を狙ったのに、なぜナイフが止まったのか理解できないのだろう。


 何とも嫌な話であるが、ぼくは身体構造が内部から変質をきたしているようだった。特に腕はじわじわと進行が進んでいる。表面上はともかく、骨はすでに異質なものに取って代わられていた。いずれ全身が人外になってしまうだろう。ぞっとしない話だった。


 ぼくはナイフを刺されたまま、右手を大きく振り抜いた。リンネの軽い身体はボールのように飛んでいく。そのままガラス戸に激突して奥の部屋に転がっていった。


 ぐるる、と低い唸り声を上げる。朦朧とした意識であっても、怪我は怪我と認識できるようだった。ぼくがまだ人間らしさを残しているとしたら、自滅覚悟でリンネを襲わない点にあるのだろう。狂ったケモノは自分の身などお構いなしに敵に襲いかかるのだ。


 左手を傷口にかざすと、爪からこぼれた<黒土>が傷口に染み込んでいく。ぐずぐずと嫌な音を立てて黒に染まり、やがて出血が止まる。後に残ったのは黒く染み付いた上腕だった。ケモノの鉤爪はその領域を広げ、さらに身体を蝕み、身体は人からかけ離れていく。


 リンネが消えていった方向をじっと注視する。砂埃のカーテンの向こう側には、虎視眈々とチャンスをうかがう彼女の気配があった。


 ぼくの全身の筋肉は意思とは無関係に力を込める。そして右手の爪を突き出したまま全力で突進する。背後で足場が弾けた音がした。爪の先からは風切り音が鳴る。入り口の扉を突き破ってぼくは一直線に駆ける。


 前方からは膨れ上がる力の渦を感じる。彼女も賭けに出たようだ。回避を捨てて迎撃に全力を注ごうとしている。


 ぼくの喉はひとりでに歓喜の声を上げていた。人としてのぶつかり合い、化物としてのぶつかり合い。そのどちらとも取れる一戦には、ただの殺し合い以上の価値があった。<進化>の促進、情報の拡散。<黒土>がぶつかり合うごとに、またひとつ段階が進む。


 止めなければならない。そう確信しているのに、ぼくの身体はまるで言うことを聞かない。見えない糸に操られているかのようだった。それでいて、ぼく自身が戦いを望んでいるようにも感じられた。


 ……楽しいのだ。


 白沢リンネと命をかけて殺し合うのが、どうしようもなく愉快なのだ。これ以上に生きていることを実感できる行為があるだろうか。人間であることを認識できる触れ合いはあるだろうか。互いを求める接触はあるだろうか。


 最後に訪れるのが死であるとしても、この頭がおかしくなりそうな充実感には抗えない。愛や友情といった朧げで頼りないものよりもずっと確かだった。強烈だった。


 砂埃の先で膨れ上がった力が、一気に解放される。爆風と共に現れたのは<黒い槍>だった。右手を完全に<黒土>で覆ったリンネは、その漆黒の穂先を向け突進してくる。ぼくも下手な手は打たず、ただ正面から迎え撃つ。


 力の過剰行使は大きな負担となる。彼女はこの一撃に全ての力を注いだのだろう。一瞬見えた彼女の表情は必死だった。だが嬉しそうだった。心底楽しげだった。きっとぼくも同じような顔をしているのだと思う。人間はとても愚かしい。こんな、命をかけた殺し合いを通してでないと心を通じ合えないのだ。


 愛は裏切る。友情も裏切る。それなのに、馬鹿のひとつ覚えで愛や平和をうたい、その手で隣人を殺してきた。子供が無邪気に虫を殺すように。仕方がないのだと、戦争を、虐殺を正当化してきた。それゆえに人類はいつまで経っても子供のままだったのだ。互いにいがみ合い、傷付けあってきた。


 だが殺意は違う。殺意は嘘を付かない。相手に与えるのはたったひとつなのだ。愛情と親しみと、憎悪と拒絶をもって終わりをもたらす。とても純粋な感情の発露だった。


 裏切りの果ての、欲望の果ての殺戮ではない。


 自分と相手、どちらが存在すべきかを決着する儀式なのだ。その先に待つ死は結果でしかない。それが目的なのではないのだ。


 飛び散る残骸を消去しながら、ぼくの鉤爪とリンネの槍が距離を詰める。互いに向かっているはずなのに、やけにその時間が長く感じられた。いつまでもこうしていたかった。この心地良い感情に身を任せていたかった。


 ぶつかる。


 全ての物質を情報化して消し去る存在が、真正面から衝突した。圧縮された空気は破裂したような爆音を立てた。衝撃が走る。それに抗うように地面を蹴る足に力を込める。


 腕を信じられないくらいの衝撃が突き抜ける。中身がばらばらになりそうだった。筋肉が断線して骨が突き破ってくる光景が目に浮かんだ。だがぼくの腕は、鉤爪はそうはならなかった。


 リンネの黒い穂先がひしゃげる。ぼくの鉤爪に折り畳められるように潰れていく。ぶつかり合った力ゆえに、彼女は自らの加速にまでも牙をむかれた。右腕を完全に潰された彼女は、ぼくの力に押し負けて身体が流され始める。


 爪が彼女の身体を切り裂く直前だった。潰れた<黒土>は原型を失いながらも、彼女の身体をぼくの爪から保護していた。幸いにもそれは柔らかく、不定形ゆえに、容易には切り裂けなかった。


 先にはグラウンドが見える。ぼくたちは窓を突き破って空に躍り出た。


 呆然とぼくたちを見上げる人々が見える。<絆教>の信者たち、<街>の住人たち。そのいずれもが等しく地面に這いつくばって、神でも仰ぎ見るように空を見上げていた。


 ―――――その中に、ナズナの姿を見た。


 恐れや嫌悪の視線の中で、彼女だけはぼくを力強く射貫いていた。信頼があった。確信があった。


 ぼくは意識が浮上するのを感じた。すぐさま引きずり降ろされそうになるのを気力で抵抗する。二度と身体の支配権を奪われてたまるものかと巨大な力を押し留める。神経が焼け切れそうになる。目玉が飛び出しそうな圧力を頭の中に感じる。その全てを抑え込んで、ぼくは自我を取り戻そうともがいた。


 このままでは、いずれナズナまでも引き裂くことになる。そんなこと、許せるわけがない!


 地面に転がり落ち、ぼくとリンネはもみくちゃになりながらグラウンドを縦断する。柔らかい地面であったのが幸いして、即死するような事態は避けられた。だがリンネの方は右腕を潰され、重症だった。意識は残っているが朦朧としているようだった。


 鉤爪は自然と彼女の喉元に突き付けられていた。ぼくは必死で押し留めようとする。小刻みに痙攣する鉤爪。歯を食いしばって殺人の衝動に抵抗する。いいようにされてたまるか、とぼくは思った。何もかもが思い通りにいくとは思うなよ、とも。


 彼女は苦しげに呟いた。「お父様……?」と。


 ぼくはアイコンタクトで早く離れるように指示する。鉤爪は彼女の目の前で止まっている。けれども、いつざっくりといくか知れたものではなかった。いつまで気力で押し留められるかわからなかった。


「……どうしたのです? 儀式はまだ終わってはいませんよ!」


「同志」は停止された戦闘を訝って言った。リンネが殺されかけていることに何の動揺もなかった。ぼくは怒りを覚えた。それに連動して鉤爪が蠢いた。ムカデの足のような動きでリンネの首筋を切り裂こうとしている。


 もう駄目だと思われた瞬間、飛び込んできたナズナがリンネを抱えて脱出する。ぼくの爪は次の瞬間に地面にめり込んだ。深々と突き刺さった右腕を見て、ぼくはほんの少し気を抜くことができた。


 頭の中を覆っていた霧が、僅かに晴れた気がした。未だ視界は現実とはかけ離れた様態を見せてはいるが、人を人と認識できないことはなかった。情報の羅列の中にも、そこに血の通った人間がいることをぼくは思い出していた。


「あなたは……」


「き、危機一髪だったかも……」とナズナは冷や汗を垂らしながら言った。


 ぼくは腕を地面から引き抜いた。<街>の住人たちは化物でも見るかのような視線を向けてくる。無理もない。今のぼくの姿は、どこからどう見ても普通ではなかった。身体の半分がケモノになった人間など、化物以外の何者でもなかった。


 それとは対照に<絆教>の信者たちは熱に浮かされたようにぼくを見つめる。彼らの脳に根ざした<黒土>が、ぼくと共鳴現象を起こしていた。本体からこぼれ落ちたそれらは、情報を収集して帰還するというプログラムがなされている。彼らは恐怖よりも安らぎを感じているに違いなかった。


 ぼくの鉤爪もそれに反応して脈動した。情報を回収するという本来の役割を思い出したのだ。意思に反して動き出そうとする両腕を、ぼくは死に物狂いで制止する。


 不思議なことに、この鉤爪はぼくの身体を傷つけないようになっていた。その本質を考えれば、いくら宿主であろうと問答無用で傷つけそうなものであるのに。


 その不気味さと異様さに気を取られていたものの、この両腕にはどこか懐かしい雰囲気があった。ずっと傍にあったような暖かみがあった。くらくらする頭でそれは何であるか考えようとする。それは小さくて儚かった。それは健気でいじらしかった。ぼんやりとした人影が浮かび上がる。ぼくは幻影を見る心地で声をかける。その人影は振り返らない。その小さな背中には手が届かない。


 気づくと、ぼくは両腕を空に掲げていた。自分の鼓膜が破れそうになるくらいの雄叫びを上げる。びりびりと空気が震えた。地面は軋んだ音を立てた。人々は耳を押さえてうずくまる中、全天に広がった黒い影が同調するように動きを増した。


 視界の端に「同志」の姿があった。ナズナに抱えられたリンネに何やら話しかけている。ぼくはその内容をしっかりと記録していた。だがぼく自身はそれを参照するようなことはなかった。どのような判断が働いたのかはわからない。けれども、今はそれでもいいのだと思った。知らず知らずに莫大な情報を選別し、現状において必要なものだけを取り出そうとしている。脳の構造が勝手に造り変えられてきている。何とも言えない気持ちの悪さがあった。


 ぼくの前に進み出るようにして彼は言った。


「さあ、皆さん。いよいよこの時がやってきたのです! 我々がずっと夢見ていた<進化>の時が! 彼こそがわたしたちの導き手!」


 住人たちを拘束していた<絆教>信者は、その声に誘われるように立ち上がった。解放された住人たちは、逃げ出せるはずなのに凍り付いたまま動かない。異様な雰囲気に呑まれていた。


 ぼくの周りを取り囲むようにして信者が集まってくる。脅威は感じられなかった。その代わりに、途方もない欲求があった。「より優れた存在になりたい」という遺伝子レベルに刻まれた欲求だ。


 それは<黒土>の力で増幅され、もはや何よりも優先される事項となっていた。そこに善悪が入り込むことはなかった。死生観の介在する余地はなかった。ただひたむきな願いがあった。


 純粋であるがゆえに、その願いは狂気だった。常人からすれば悪夢だった。


「<大いなるもの>の元へと還る時です! 皆さん、わたしに続きなさい!」


 彼は両目からどくどくと黒い涙を流しながらぼくに駆け寄る。その足取りは少しも躊躇がなかった。目前のゴールに向かって走るランナーのように、彼は清々しい表情だった。これまでで一番輝いている笑顔だった。作り物めいたものではない、彼が本来持っていた笑顔だった。


 ―――――やめるんだ。やめてくれッ。


 ぼくの叫びは声にならなかった。ごろごろと不気味な唸りを立てるだけだった。両腕が獲物を待ち構えるみたいに振りかぶられる。それを前にしても、彼らの歩みは止まることがなかった。


 例えれば、ぼくはマグマ溜まりだった。その大口に飛び込んだら身体を原型なく溶かしてしまう。近寄れない程の熱も放っている。それなのに、信者たちは一直線に身を投げ出すのだ。


 ぼくが壊れたように金切り声を上げた。目の前が真っ赤になった。それは理不尽への怒りだった。彼らへの哀れみだった。そして、彼らから迸る血飛沫のためだった。


「同志」の身体を一撃で切り裂く。その肉体の半分以上を失い、大河内ダイチという名であった人間が、細切れのパーツになって地面に散らばる。衣服から大量の血液が噴出する。赤茶けた世界においても、ずっと鮮烈な真紅の色をしている。


 信者たちは、人間からはかけ離れた雄叫びと共にぼくに群がってくる。ある者は歓喜に咽び泣きながら、ある者は今際の際のような悟った表情で。


 ぼくは彼らを等しく切り裂いていった。身体はコマのように回転し、鉤爪は少しの容赦もなく彼らを肉片へと変えていった。


 彼らの肉体、記憶、魂が情報化され、<大いなるもの>の元へと還元される。


「同志」の大願は、彼らの夢は、ある意味では叶った。だが、こんな殺戮があっていいわけがないではないか。彼らにとって、この行為は次の段階に至るためであったとしても、ぼくにとっては自殺にしか思えない。ぼくに殺されようとしているとしか考えられない。


 彼らは救われたかもしれない。


 でも、ぼくは少しも救われない! より多くの罪を背負わされただけだ! 


「同志」が言っていたことの意味がようやくわかった。彼らにとっては、<回帰>とはひとつの意味しかなかったのだ。他人を還すことも、自分を還すことも同義だった。そこには己と他人の境界はなかった。相手を還すことは、自らをも還すことに他ならない。<街>の住人たちを還そうとしていた彼らが、突然ぼくに向かって自殺を始めたのも、彼らにとっては両者が同じ意味を持つがゆえだった。


 彼らは<進化>に至ろうとしていた。それが自分たちの手で行われようが、ぼくによって行われようが、彼らにとっては些末なことでしかなかった。


 導き手が異なったとしても、行き着く終点はたったひとつだったのだ。


 生き残っていた信者たちを片っ端から鉤爪が屠る。彼らは自ら鋭い爪に身を晒す。いつ終わるとも知れない虐殺だった。血飛沫が舞い、臓物が吹き飛び、血に濡れた衣服が地面に落ちる。


 ぼくはいつしか無感動に殺戮を続けていた。目の前で起こっている光景が信じられなかった。何も考えられなかった。どんなに拒否しても、抵抗しても身体は自由にはならない。定められたパターンを繰り返し、存在情報を収拾し続ける。


 大量の血液を浴び、気管に入ってむせ返る。その瞬間だけ身体は無意識に止まる。だがすぐに行動を再開する。自殺をはかる信者たちは待ってくれない。ぼくの両腕は止まってくれない。だからぼくは自らの思考を停止させた。これ以上は耐えられなかった。見ないふりをして、聞こえないふりをして、頭の中を真っ白にして虐殺の終わりを待ち望んだ。


 いつしか、ぼくは血の海にひとり立ち竦んでいた。


 ぼくはぼんやりと空を見上げた。髪の毛から血液が滴り落ち、前髪は額にべっとりと張り付いていた。流れてきた血液が目に入っていく。視界は真っ赤に染まっていた。あの頭痛を引き起こす情報の奔流は消え去っていた。長年見慣れた人間の視界が戻っていた。


 それもぼくにとっては救いにならなかった。己の置かれた惨状を再確認させられただけだった。


 鮮血の海。漂う空っぽの衣服。散乱する人間であったパーツ。ぼくは地獄の中央に屹立していた。まるでこの地獄の主であるかのように。


 ぼくは膝をついて嘔吐した。やっと人間らしい反応が戻ってきていた。不恰好な鉤爪はなりを潜め、身体を覆っていた<黒土>は波が引くようにどこかへ失せていた。


 身体のどこにも力が入らない。ぼくはそのまま血の海に崩れ落ちた。全ての精根が尽き果てたみたいだった。眼球を動かすのも億劫だった。時折酷使され過ぎた筋肉が痙攣を起こした。ぼくは陸に打ち上げられた魚みたいに死にかけていた。


 どれ程の時間が経っただろうか。いつの間にかぼくを<街>の住人が取り囲んでいた。


 彼らは助かったのだ。本当によかった、とぼくは思った。けれども、彼らのぼくを見る目は恐怖に駆られていた。それぞれが武器を持ち、ぼくに切っ先を向けていた。


 不思議だとは思わなかった。ああ、やっぱりな、という諦観があった。あれだけの虐殺を行ったのだ。ぼくは何よりも恐れられるべきだった。自分の意思ではなかったことなど関係がない。ぼくは化物になり、化物のように人間を殺戮した。


 ぼくは、ぼくは、何で生きているのだろう……? どうしてこんな姿になってまで生き続けているのだろう? もう嫌だった。とても疲れていた。訳もわからず身体を乗っ取られるのも、誰かを傷付けるのも。誰かに恨まれるのも、恨むのも。


 死んでもいいさ、とぼくは思った。ぼくは死ぬべき存在なのだ。いてはいけないものなのだ。


<街>の人々は当然のことをするまでだ。いつ、またぼくが暴れ出すとも限らない。こんな危険な存在は早めに駆除しておくべきだった。


 だが一向にぼくは死ななかった。目をつむって、穏やかにその時を待ち続けていたけれど、身体を切り刻む感触も、殴られる感触もこない。


 ぼくは目を開けた。


 ―――――小さな、背中が見えた。


 どこかで、見たことのある背中だった。いつであったのか、誰であったのか思い出せない。同じ思考をした気がする。深い霧に覆い尽くされていた思考の中で、ぼくは小さな背中のことを考えていたのだ。


「そこを退くんだ!」と聞き覚えのある声が言った。結木イオリだった。彼はナイフを手にして構えていた。その目には隠しきれない怯えの色があった。


「嫌ですっ」小さな背中が叫ぶ。「あなたたちこそ、武器をしまってください! 先生をどうするつもりなんですか!」


「そ、そいつは人間じゃないんだ。君だって見ただろう! ケモノなんだよ! 人間を皆殺しにするんだ!」


 イオリの声に同調するように、彼らは武器を突き付ける。だがナズナは一歩も引かなかった。ぼくを庇えば己だって疑われるのに、それでも彼女はぼくを守ろうとしていた。倒れ伏すぼくの壁となって、住人たちの敵意を一身に受けていた。


 どうしてなんだよ、とぼくは思った。君はどうしてぼくを守ってくれるのだ、とも。


 ぼくは普通ではなかった。化物だった。いつからこうなったのかわからない。でも、自分がいてはならない危険な存在であることは理解できる。死んだっていいとさえ思えている。もう死ぬべきだと確信してもいる。


 それなのに、なぜ……。


 どうして、君はぼくを助けようとする? 


 どうして、君はぼくを死なせてくれないのだ……。


「彼から離れるのよ、ナズナさん。気持ちはわかるけど、今の彼はもうあなたの知ってる彼じゃない」


「勝手なこと言わないでよッ」


 説得を試みるミヤコに、ナズナは目をむいて噛み付いた。


「先生はあなたたちを助けようとしてたんだよ!? ずっと一緒に戦ってたんだ。それなのに、それなのに……!」


「でもっ、あなたも見たでしょう! 彼は人間じゃなかった! 化物だったのよ!」


 ミヤコの叫びが、彼らの敵意がぼくを貫く。崩れ落ちようとしている心の崩壊を加速させる。裂傷をこじ開けられていく。


 渇ききった心はそれでも痛む。もう嫌だった。聞きたくなかった。……死にたかった。


 ぼくは何者なのだろう。「同志」は、彼はぼくに何を見たのだろう。どうして最後まで笑顔だったのだろう。ぼくは彼を恨む。全てをぼくに押し付けて、自分はこれ以上なく満足に逝ってしまったのだから。


 ぼくは彼女の名を呼んだ。かすれ声で、まるで不自然な抑揚だった。それでも、ぼくの喉は人の言葉を発することができた。両腕はどす黒く染まり、眼球も恐らく<黒土>に侵されているはずだった。まるで人間ではない。だけれど、僅かに残された人間性は確かに存在していた。


「先生!? 意識があるんですか!? 返事をしてよっ、先生!」


 ぼくが言葉を発したことで気色ばむ住人たち。向けられる刃を警戒しながら、ナズナは背後のぼくを気遣った。


 途切れ途切れながらもぼくは言葉を口にした。もういいのだと。ぼくは死ぬべきなのだと。だが彼女はぼくの言葉を一蹴した。少しも取り合ってくれなかった。それどころかぼくを叱りつけた。何を馬鹿なことを言っているのかと。


 ぼくはたくさんの人を殺してしまったのだと彼女に訴えた。彼女は反論した。彼らは先生を利用しただけだと。自ら自殺したのだと。


「あなたたちだってわかってるんでしょう! 先生が彼らを殺さなきゃ、ああなってたのはわたしたちの方だったんだよ!? 大勢が殺戮されてた。集団心中させられるかもしれなかった。先生はみんなを助けようとしたんだ」彼女は住人たちをきっと睨みつけた。「先生はずっと苦しそうに叫んでたじゃない!」


「……それは」


 ぼくの慟哭は、彼らにも聞こえていたようだった。だけど、だからといってぼくを認められないのだろう。ぼくの存在はそういったものだったのだ。人には生理的に受け付けられないもの。根源的に恐れられるもの。ナズナがぼくを庇おうとしていることの方が不自然だったのだ。


「化物、化物ってあなたたちは言う。だけど、一緒に命がけで戦った仲間を殺そうとするなんて、そっちの方が、よっぽど化物じみてるじゃない!」


「ぐ……」


 睨み合いが続いた。ナズナも槍を拾って対抗していた。住人たちもナズナを傷付けることには躊躇しているようだった。だがそれがいつまで続くかわからない。住人の中には、恐慌に駆られている者もいた。あの化物を早く殺せと喚く者もいた。


 このままではナズナまで殺されてしまう。ぼくは拙い言葉でナズナに言った。もうよせと。もう十分だと。


 何が十分なのだ、と彼女は怒鳴った。何で自暴自棄になるんだ、と。


 苦しいんだ、とぼくは言った。怖いんだ、とも。もう自分が何者なのかもわからない。どうなるのかも知れない。不安で、恐ろしくて、どうしようもないんだ。ぼくは彼女に言い縋った。もう、死にたいのだと。


 彼女は答えなかった。小さな背中だけが肩を怒らせていた。悲しみと哀れみと、烈火のような怒りが渾然一体となって燻っていた。ぼくは二の句が継げなかった。気圧されたように黙り込んだ。彼女の怒りが理解できなかった。ただ困惑するしかなかった。


 そこを退くんだ、絶対に退けません、そんなやり取りが暗黒の空の下で行われる。世界はまるで終末のようであり、人々は疑心暗鬼に陥っていがみ合っていた。誰もが得体の知れない恐怖にまとわりつかれていた。


 ぼくはその理由を知っていた。その理由を彼らに教えるべきだった。でないと、彼らが危険だった。


 だが、とぼくは躊躇する。こんな状況で火に油を注ぐ発言をしてしまっていいのだろうか。ぼくは殺されたって構わない。だけどナズナは駄目だ。彼女を殺させるわけには、絶対にいかない。


 ぼくは意を決して口を開いた。だが声があまり出せず、彼らに語りかけても気づいて貰えなかった。諦めずに何度も呼びかける。ようやく、言い争っていたナズナがぼくの声に気づいた。


「先生……? 何? ……言いたいこと、ですか?」


 ぼくは初めにナズナに乱暴しないで欲しいと告げた。ぼくはどうなっても構わない。だけど彼女だけは手を出さないでくれと。それに対してナズナは躍起に反論するも、ぼくは取り合わなかった。彼女には申し訳ないけれど、どう考えてもぼくを生かしておくのは危険だった。自分でも、あの途方もなく強大な意識にいつ乗っ取られるとも知れないのだ。自分自身の危うさは誰よりも自覚しているつもりだった。


 ぼくの言葉に、住人たちは戸惑っていた。殺されようとしている人間が自分の身を顧みず、ナズナを庇う姿勢を見せたのだ。普通の人間ならば、ぼくの言葉に動揺してもおかしくない。だが今はそんなことどうでもよかった。


 何度も言葉を詰まらせながら、ぼくは生き残っている子供たちを殺した方がいいことを話した。自分でも残酷なことを言っていると理解している。しかしながら、<大いなるもの>の制御下に置かれたぼくは情報を得ていた。膨大な奔流の中でも、決して忘れることのなかったことだった。


 子供たちは<大いなるもの>の手足として存在している。本人たちの意思は関係がない。ぼくが体の自由を奪われたように、どんなに強固に抵抗しても、ヒトにはどうすることもできないのだ。


 それに、子供たちはいわば<大いなるもの>の一部だった。ヒトとしての枠に囚われていなかったのだ。今は肉体に閉じ込められている状態とでも言えばいいだろうか。ひとたび事が始まれば、もはや手の付けられない存在と化す。


 それは善でも悪でもない、生物としてひとつ上の段階に至ったものだ。


 ―――――あの「同志」がずっと恋焦がれていた、大人になった存在。


<絆教>が信仰していた人類の進化ではなかったものの、それは間違いなく存在としての<進化>とは言えた。


 ぼくは何とか真実を告げようと奮闘したのだが、うまく言葉にできず、しかも住人たちは逆上してしまって収集がつかなくなってしまった。特に今回、自分の子供が帰ってきた親たちの怒りはすさまじかった。


 ぼくは自分の考えの浅はかさを思い知った。どんなに理由付けをしたところで、己の子を殺すことをよしとする親がどこにいるだろうか。


 キララ、とぼくは失ってしまった少女のことを想った。


 自分だって、どのような理由があったとしても、彼女が殺されようとしていたら、それを防ごうとするだろう。相手にやむを得ない理由があったとしても、そうしなければ大勢が死ぬことになったとしても。


 親は、子を命がけで守る。


 誰に言われたのでもない。何の思惑があるのでもない。ただ我が子を守る。それが親という存在だ。親に課された使命だ。それを途中で投げ出す輩は親などではない。断じて違う。それは快楽のために性交して、たまたま子孫を創り出しただけの子供だ。いくら子を宿せる身体になっていても、子を育てるだけの力を持っていても。それは親でもなければ大人でもない。大人のふりをしている、自分勝手な子供だ。


 ぼくの言葉に対して反感を持った彼らは、その意味では正しかった。ぼくが間違っていたのだ。だけど、殺せと言う以外にどう言えばよかったのだ? 遠ざけたところで意味はない。距離は関係ないのだ。アレにとっては、この世界、いや、この次元上の物差しなど全く意味をなさないのだ。


 ぼくの失敗のせいで、もう話を聞いて貰える雰囲気ではなくなった。ナズナを逃がすことが最優先だった。ぼくは自分の命と引き換えに、彼女の助命を願い出るべきだろう。うまくいくかわからないけれど、失敗させるわけにはいかなかった。


 いくらナズナが抵抗しても、彼女だけではこの大人数を防ぎきれない。瞬く間にリンチされてしまうだろう。恐怖のために判断力を失った人間は、何をしてもおかしくはない。


 力の限りに声を上げる。だが情けないことに、ぼくの喉は潰れたような音しか出なかった。あまりの不甲斐なさにぼくは絶句した。どうして肝心な時に、彼女を救えないのだろう。今までもずっとそうだった。アカリを救えなかった。キララも救えなかった。そして、今度はナズナまで失おうとしているのか。


 どうか、助けて欲しい。ぼくは祈った。神も<大いなるもの>も糞食らえだった。だけど今ばかりは、誰でも、どんなものでもいいから、ナズナを救ってはくれないか。


 ぼくの願いは、天には通じなかった。<大いなるもの>にも至らなかった。


 だけど、ひとりの少女には通じたのだった。


 背中があった。ナズナとそう変わりはない細い体躯だった。右腕を失い、今にも倒れそうながらも、彼女―――――白沢リンネは左手にナイフを構え、住人たちの前に立った。


「全く……空気を読めてない人たちですね」ぼくとそう違わない、弱々しい声だった。けれども、そこには強い意思が感じられた。生きようとする、人間の放つ輝きがあった。


「お父様も火に油を注ぐようなことを言うし、あなたたちも恩人であるはずのお父様を殺そうとしているし……みっともなくて見ていられないわ」彼女はぼくを一瞥し、「『同志』たちが大願を果たした今、その聖域を乱すようなことは、わたしが許しません。……それに、あの人の頼みもありますから」


 数では優っていても、リンネは右腕を失っていても、彼女には住人たちを圧倒する力が残されている。ナイフには<黒土>が蠢きながらまとわり付き、その右目は未だに漆黒の色をなしている。その人離れした戦闘力を目の当たりにした住人たちは、怖気付いたように後退った。


「別にあなたたちを害そうなどとは思っていませんよ。わたしたちはこの場にはそぐわぬ人間です。そうそうに目の前から消えて差し上げます」


「……復讐しに戻ってこないわよね?」と疑わしげに確かめるミヤコ。


 リンネは口元を歪めた。「どうしてそんなことを? 何か自分たちに具合の悪いことでもありましたか?」


 リンネは住人たちを見やった。彼女の鋭い視線に、彼らは表情を引きつらせる。相手に命を握られているようなものだ。大勢でぼくたちを取り囲んでいた時と一転、彼らは不利な状況に陥っていた。


「ご安心ください。戻ってくるつもりはありませんし、あなたたちを恨んでもいませんから。けれど、出会ったばかりのあなたちに尽くした人を簡単に切り捨てるような者に、未来はないでしょうね」


「どういう、意味よ……!」


「そのままの意味です」とリンネは答えた。「わたしたちは子供のままです。大人になろうとしている『同志』たちとは違って。でも、子供だからといって全てが許されるわけではないのですよ。子供であったとしても、犯した罪は、罪であることに変わりはありません」


 ぼくは踵を返して近寄ってきたリンネに抱き起こされる。慌ててナズナがそれを手伝った。ふたりに肩を貸されたぼくは、どうにか移動できる体になった。


「出ていくにしても足が必要ですね。何か残っていますか?」


「あっちに、馬車があると思う。壊されてなければ、だけど」


 リンネとナズナのやり取りを聞きながら、ぼくは<街>の住人たちを見ていた。彼らは一様に怯えた様子だった。ぼくの両腕を、両目を、心底怖がっていた。


 それでもいいさ、とぼくは思う。彼らのことは、何とか守りきれた。<絆教>の虐殺から救うことができた。これから先はどうなるかわからないけれど、それはぼくたちだって同じことだった。


 どうか、その最後の刻が、彼らにとって幸せな光景でありますように。


 ぼくは、そう祈った。


<絆教>と<街>の戦いは終わった。ぼくの戦いも、また終わろうとしている。


 猿からの進化に始まったヒトの歴史も、次の段階への<進化>によって終わろうとしていた。


 長かったぼくの旅路。ぼくの求めた最後の光景。


 アカリを喪い、キララを喪い、守りきれたのはほんの僅かな命だった。


 ―――――キララ。君の声が聞きたいよ。


 ぼくの目から、涙がこぼれ落ちる。それはきっと、黒く、黒く濁っていることだろう。


 黒くてもいい。透き通っていなくてもいい。


 せめて、彼女と見上げた星空のような色であったらよかったのに。ぼくはそう思った。

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