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第43話

「ああっ、これはとても痛そうですね。彼はすでに死んでしまったのでしょうか?」


「いえ、お父様はまだ辛うじて生きています」


「それはよかった。まだお話することがありますからね。中途半端なお別れはわたしの望むところではありません」


 声がする。水中に沈んでいるみたいに聞き取りづらい。身体は動かなかった。力を入れてみても、うんともすんとも言わない。地面にうつ伏せているのはわかった。土の匂いがする。小さい頃に囲まれていた懐かしい匂いだ。


「先生っ!? しっかりしてください、先生ッ」


「身体を揺すってはいけませんよ。お父様が死んでしまいます」


「あ、あなたが先生をこんな目にあわせたんでしょ!?」


 ナズナの声だ。彼女はどうしてそんなに怒っているのだろう。泣き声でもあるような気がする。何か悲しいことでもあったのだろうか。それはいけない。彼女に涙は似合わない。彼女の姉にも申し訳が立たない。


 もうたくさん悲しんで、たくさん泣きはらしたのだ、彼女は。


 だから、これから先に流す涙は嬉し涙であって欲しい。ぼくはそう思うのだ。


「泣くんじゃないよ……お嬢さん」


「先生っ」


「ごめん、ゆっくり動かしてくれないか。このままじゃ、息苦しい」


 身体中が不良品になったみたいだった。呼吸をするたびに肺が痛む。腹部は引きつったように鋭い痛みが走るし、何か致命的な冷たさを感じている。そこから生命力がどぼどぼ流れ出ている感覚がする。


 ぼくはナズナの手を借りて仰向けになった。最初に目に入ったのは、糞ったれな空だった。鉄さびみたいに赤茶けていて、見ているだけで死にたくなってくる色だ。そこに空いた真っ黒な口は、御行儀よく水平線に沈もうとしている。あんな姿になっても、まだ長年の習慣をこなしている。そのことは評価しなければならないだろう。


 視線をずらすと、顔をいろいろな液体でぐしゃぐしゃにしたナズナが目に入った。血まみれなので心配したけれど、それは彼女のものではなく返り血のようだった。大きな怪我はないようだった。


「先生、先生ッ」とナズナはわんわん泣いた。慰めてやろうにも腕が全く動かなかった。瞬きするのさえ億劫だった。そのまま眠りに落ちそうだった。だが気力で堪える。このまま眠り込んだら、きっとぼくはそのまま死ぬに違いなかった。


「本当に、先生、死んじゃったと思ったんだから……!」


「ぼくも、そう思ったよ」


 というか、なぜぼくはまだ生きているんだ? 生かされているんだ?


「同志」はぼくを「回帰」させるつもりで戦いを仕掛けてきたのだろう。だったら、ぼくはあの時リンネに殺されているはずだった。それなのにこうして生きているのは、彼らがぼくを殺さずにいるからだ。


 見ると、ナズナの他にも大勢が一箇所に集められていた。地面の感触からしてグラウンドの一画であるようだった。立ち上がって確認できないから詳細はわからないが、我々は捕虜よろしく集められ、<絆教>の支配下に置かれたのだろう。


 口の中が鉄臭い。ぼくは咳き込んだ拍子に吐血した。結構な量の血を吐いたのでびっくりした。そのまま咳き込んでいると、真っ青な顔をしたナズナが介抱してくれた。


「お願い、先生を助けて!」


「それはできません」と男の声が言った。丁寧な口調で優しげである。「彼はわたしたちとの競争に敗れたのです。競争に負けたものは淘汰されるのが自然の法則でしょう」と言っていることは少しも優しくないけれど。


「同志」は続けた。「彼を連れてきたのはお話があったからです。彼も、このまま全ての結果がわからずに退場するのは口惜しいでしょう。ですから、最後の仕上げをご一緒しようと思いまして」


「こ、このままじゃ先生が死んじゃうよ……」


「そうなれば仕方ありません。運がなかったのでしょう」


 眼の前に死に体の人間がいるのに、そういう話は本当やめて欲しい。死にかけの爺さんの前で遺産の話をするようなものだ。何だかこちらが居たたまれなくなってくる。


 少しずつ手足の感覚が戻ってきた気がする。ぼくは懸命に力を入れてみた。右腕が僅かに反応した。左腕は感覚すらなかった。一応くっ付いてはいるものの、そういえばリンネに切断されかかった左腕である。そこにあるだけでもよしとしよう。


 右手を動かし腹に手をやると、嬉しくない感触がした。そのまま腹部内まで手が入っていきそうだったので、ぼくはげんなりして手を引っ込めた。一番の重症部分が痛まないなんて、もう手遅れ状態だった。


 ぼくは俗に言うところの瀕死だった。三途の川辺で準備体操しているところだった。


 たいへん眠たい。あくびをしようにも腹に力が入らないので不可能だった。おかげで間抜け面を晒さずに済んだので幸いだった。ぼくはシリアスに関してはちょっとした権威なのである。


「それで」とぼくから切り出した。「もうすぐ死ぬって男に何の用なんだ? ぼくは諦めが悪いことで有名なんだよ。だからさくっと殺してくれないと、ずるずると生き続けるんだ。もしかしたらあんたたちに食らい付くかもしれないよ? 『窮鼠猫を噛む』って言うだろ?」


「それはそれでよいものです」


 しれっと肯定してみせる「同志」にぼくは気が抜けてしまった。最後の力を振り絞って相打ちにでも持ち込もうとしたのだけれど、彼を見ていると、そんなのは馬鹿馬鹿しく思えてくる。とても卑怯な男だった。


 彼は「最後にお話をしましょう」と言って、リンネに何事かを指示した。その間、我々は居心地の悪い雰囲気の中で待たされた。刻一刻と死に向かっているぼくとしては、この待ち時間を無駄にするわけにもいかなかったので、ナズナに声をかけ続ける。


 ぼくの死を前にして泣き止まないナズナ。どうにかして慰めてやりたかった。しかしながら、慰めるのが死にかけの当人では如何ともしがたい。適当なことを喋るだけで遺言になりそうだった。


「一緒に帰るって約束したじゃないですか……」


 ぼくは力なく笑った。「済まないね。嘘をつくつもりはなかったんだけど、とてもその約束は守れそうにもない。君を守るっていう約束も」


「わたしのことはいいんですっ。今は、先生が……先生が……」


 言葉に詰まってナズナは黙ってしまった。これ以上彼女を悲しませるのは忍びなかった。最後までぼくは女の子に泣かれている。己のどうしようもなさに反吐が出そうだった。


 ぼくは掠れ声で「イオリは生きてる……?」と呼びかけた。


 視界の端にイオリはひょこり顔を出した。狭い範囲でなら自由に動くのを許されているようだった。彼も酷い格好だったが、ぼくよりは軽傷だった。


 彼はぼくの容態を見て、かける言葉がないようだった。唇を噛み締めて何かを堪えていた。ふと思い出したように口を開き、そのまま無言で口を閉じた。見ようによってはぼくよりも苦しげだった。


「奥さんは無事?」


「ああ、無事だよ。あれから制圧されて、その後はまとめて一箇所に集められたんだ。その間に殺された者はいない」


 彼の隣にミヤコの姿が現れ、ぼくはほっとした。どうやら、今度は守れたようだ。


 ……いや、この安全は一時的なものでしかないのだった。


 このままでは、アカリとタクミの時と同じように、この夫婦は殺されてしまう。そんなのは許せるわけがない。だけどどうしろというのだ? ぼくはすでに死んでいるのも同然だし、奮起して立ち上がれば、それだけで昇天しそうな気がする。すでに詰んだ状態だった。


 できることは全てやったのだ。<街>を防衛し、白沢リンネにも立ち向かった。これ以上やれることはあるのだろうか。死にかけの人間がしてあげられることは何なのだろうか。


 取りあえず、とぼくは思った。生き残れる可能性が残っているうちは、全てを放り出すわけにはいかなかった。ただの一回しか我々は死ねないのだ。ならば、その死を悔いのないものにするために、できるだけのことをするべきだった。


「さあさあ、こちらですよ、皆さん」


「同志」の声に目を向けると、信者たちがぐったりとした子供を抱えているのが目に入った。<街>の子供を連れてきたのか、とぼくは思ったがどうやら事情は異なるようだ。抱えられている子供の中には、見知った双子の少女の姿があった。


 結木ソラ、クウの姉妹は他の子供と同じように静かな表情で眠っていた。あのミステリアスな雰囲気が鳴りを潜め、あどけない顔を見せている。あれから久しく会っていなかったけれど、どういうわけかまた再会を果たしたのだった。


 結木夫妻は、愛娘との突然の再会に呆気に取られていた。<絆教>に攫われた者の生還を望みながらも、半ば諦めていた彼らにとっては青天の霹靂であることだろう。


 他にも自分の子供を見つけたらしい親が駆け寄ろうとする。けれども、信者たちに阻まれて近寄ることは許されなかった。それでも突破を試みようとする者が顔面を殴られてひっくり返った。親たちはその暴力に我を取り戻したようで、すごすごと引き下がる。


「同志」はぼくと双子が知り合いであることを知っているのだろうか、とぼくは疑問に思った。そのためにわざわざ連れてきたのか、あるいはただの偶然か。彼の意図が読めない以上、ぼくは口を開かないつもりだった。


「わたしたちを導いてくれた<巫女>たちです。今は力を使い果たして眠っています。あなたたちの<巫女>と同じように」


 中には男の子もいるのだが、一緒くたに<巫女>と呼んでいるようだった。その呼び名からして、<大いなるもの>に仕える位置づけなのだろう。確かに、彼は以前にも子供たちの重要性を説いていた気がする。


「それで、この子たちが、どうしたんだ」とぼくは彼に訊ねた。彼はぼくの前で腰を屈めた。閉じられた目が間近まで迫る。ぼくはぼんやりと彼の顔を見返した。


 憎いとは思わなかった。彼は罪の意識などこれっぽっちも持ってはいないのだ。純粋な善意から行動しているのだ。己の行動が他者を傷つけるのを知りつつも、それは致し方ないと思っている。いけないことなのだとも思っている。しかしながら、それを悪だとは思っていない。


「この子たちを見てください。今は眠っていますが、かつてはわたしたちを導いてくれた存在です。しかしながら、如何せん適応率が低かった。そのために殆ど自律ができず、行使できる能力も限られていました」


 至るところが端折られているために、彼の話は要領を得なかったけれど、ぼくは口を挟まず聞くことにする。子供たちに関することは、ぼくにとっても重要だった。死ぬ前に聞いておくべきだ。


 ぼくがきちんと傾聴しているのを確認した彼は、満足気に続けた。


「そのためにわたしたちとしても<黒土>をぎりぎりまで制限して使用せざるを得なかった。これは苦肉の策です。中にはリンネさんのように特別に適応率が高い場合もありましたが、彼女は本当の『特別』でした。彼女に迫る者は他におらす、せいぜいが感情抑制を行える程度です。肉体的な面は少しもいじることができませんでした」


 ぼくは彼の傍らに立つ白沢リンネを仰ぎ見た。彼女はどこか気落ちした風だった。念願叶ってぼくを打ち負かしたのだから、もう少し嬉しそうにしていてもいいだろうに。もしかしたら、期待していた程ぼくが強くなかったからがっかりしているのだろうか。彼女みたいなバトルマニアには、ぼくは手応えがなさ過ぎだったのだろう。


「ですが、あなたたちは違った。あなたも、あなたの<巫女>も、わたしたちとは段違いだった。あなたは<黒土>を両腕に同化させ、あなたの<巫女>も高い適応率を見せていた。高いコミュニケーション能力、<大いなるもの>からの力の引き出し……さすがは選ばれた者たちだと感服したものです」


 やけにぼくたちを買っているな、とぼくは妙に思った。なぜか違和感がある。彼の言っていることと、ぼくが認識していることとの間には齟齬があるようだった。それが何であるのかはっきりしない。頭がうまく働かないせいかもしれなかった。


「親子二代に渡って適応率が高かったのは、血筋のせいかもしれませんが……」


「血筋?」ぼくは訊き返した。「あんたはどうやら勘違いしてるみたいだ」


「勘違い、ですか?」


 訝って眉根を寄せる彼にぼくは続ける。


「ぼくとキララは親子じゃない。だから血筋は関係ない」


「……そんなはずはないです。わたしは<巫女>から確かに聞いたのです。あなたたちは親子だと」


「一体どの子に聞いたんだ?」


「あの、双子の<巫女>です」


 彼女たちか、とぼくは得心した。何度もぼくの前に現れた双子は、こんなところで<巫女>役をやっていたのだ。それにしてはこちらに敵対しているわけでもなさそうだったし、有益な情報も提供してくれていた。


 これはどういうことだと問い質したいところだったけれど、生憎彼女たちはお昼寝中だった。重要な時に答えを教えて貰えないというのが、何とも彼女たちらしかった。


 ぼくは力なく苦笑する。「あなたたちの<巫女>には放浪癖があったみたいだね」


「ええ、よく姿を消してくれましたよ。どうしてそれを?」


「以前に会ったことがある」とぼくが言うと、「同志」は驚いた様子だった。この男にも把握できないことがあるのだと、してやったりの気分だった。あの双子の得体の知れなさは今に始まったことではなかったものの、それは相手側にも同様であるようだ。


「彼女たちはとても口が達者だった。ぼくもあなたも、一杯食わされたのかもしれない」


「<巫女>が嘘をつくはずがありません。彼女たちは<大いなるもの>とわたしたちを仲介することを使命としているのですから」


「ねえ、教えてくれないかな」とぼくは口の中の血を吐き出してから言った。「あなたたちが自分で突き止めたこと以外に手に入れた情報―――――つまり<大いなるもの>とか<黒土>とか<進化>の情報は本当に正しいのかな?」


「…………」


 これまでの彼ならば即座に反論していただろう。けれども、今の彼は即断できずに考え込んでいた。ぼくの語った内容の真偽が掴めないのだろう。いくら彼であっても、人の心を読めるわけではないのだ。心を操ることはできても、その全てを知ることはできない。


<絆教>信者たちも、<街>の住人たちも、ぼくと「同志」のやり取りに注目していた。<絆教>にとっては、教義を揺るがす大事件である。適当にごまかすことはできないはずだ。


 うまくいけば、彼らを引き上げさせることもできるかもしれない。これがぼくの最後の仕事になりそうだった。


 粘ついた血液でうまく喋れず、何度もむせ返る。「先生はもう、安静にしていてくださいっ」と必死なナズナに、まだ大丈夫であると取り繕う。このまま座して死ぬよりもずっと価値のある死に方だ。ナズナには申し訳ないけれど。


「双子の<巫女>は、あなたの前ではどんな様子だった?」


「どんな様子とは?」


「例えば、活発だったとか、怪しげだったとか、小煩かったとか」


「わたしたちの<巫女>は適応率が低かったので、とても物静かでした。それが何か?」


「それはおかしいな。ぼくが彼女たちに会った時はかなりお喋りだった気がする。向こうから声をかけてきたくらいだし」


 彼は硬い表情のまま、「それはあなたが『特別』だったからでは?」


「双子は『あなたたちの』導き手であるのに?」


 ぼくの切り返しは彼の困惑を大きくした。その証拠に、杖を人差し指でこつこつと小突いている。確証はないものの、彼も不安を感じ始めたのかもしれない。


 あまり追い詰めすぎては会話を打ち切られる可能性があったので、ぼくは一端引くことにした。


「確かに、ぼくの方が謀られている可能性も捨てきれない。何せ言葉巧みにいろいろなことを吹きこまれたから。それに、訊きたいこともいつもはぐらかされていた気がする。彼女たちがなぜぼく父親呼ばわりするのかもわからないままだったし」


「もう一度言いますが、それはあなたが『特別』だったからでは? 全ての<巫女>たちにあなたは父親として認識されていたのですよ。彼女たちは共通意識を持っていたようですから。まだ顔も合わせたことのない子に父と呼ばれたことはあるでしょう?」


 今度はぼくが黙り込んだ。彼の言うことは辻褄が合う。彼らの意識は共有されていたから、出会う子供たち全てに「お父さん」なんて呼ばれたのか。


 だがぼくが「特別」であることと「父」であることは関係ないと思うのだが……。


「なぜぼくは父親とみなされているんだろう。子供は作れなかったのに」


「……それは確かなのですか? あなたの<巫女>は本当に血縁ではないのですか?」


 ぼくは自嘲しながら、「子供が作れなかったせいで妻と別れたんだ。キララは元妻とその再婚相手との子だよ。間違いない。ぼくが刑務所に入っている間に彼女は妊娠したんだから」


「刑務所?」と彼は驚いたように反復した。他の人たちも大なり小なり動揺していた。


 ぼくは「横領で捕まったんだ」と一応説明しておく。この話にぼくの罪状は関係ないのだ。


 彼は至極真面目な顔で、「横領はいけません。人のお金を勝手に使うのは悪いことです」と述べた。大量殺人を指示した人間とは思えない言葉である。彼の中では、殺戮よりも横領の方が罪深いのかもしれない。


「DNA検査はしたのですか?」


「まさか。キララと初めて会ったのは<審判の日>が過ぎてからだ。検査しようにも不可能だろう?」


「なら、あなたの娘ではないという確固とした証拠はないわけですね?」


「その逆もまた言えるけど」とぼくは答えた。「キララの両親は間違いなく自分たちの娘だと認識してたんだ。キララも最初はぼくを父親と呼んだけど、それは違うと教えたら、ちゃんと名前で呼ぶようになったし」


「それはあまり理由として相応しくありませんよ」と彼は言った。


「疑り深いな」とぼくは返した。そこまでぼくとキララを血縁だとしたいのだろうか。


 彼は何やら考え込んでいるようだった。会話は中断され、微妙な雰囲気が辺りに満ちる。我々は命を握られた状態なので、少しでも時間稼ぎをする必要があった。しかしながら、ぼくの体力がどこまでもつかわからない。苦痛がないので、いつ死ぬのか予想できなかった。次の瞬間死んでいても、きっとぼくは驚かない。死んでいるし。


 目を開けているのが億劫になってきた。この沈黙は身体に悪い。下手すれば、眠るように死ぬかもしれなかった。


 その時、何気なく「同志」は空を見上げた。ちょうど黒い太陽が水平線に沈む頃合いだった。本来ならば夕暮れの美しい緋色に染まっていたであろう空も、今は腐肉みたいな色をしている。


「……時間ですか。もう少しお話したかったのですが、致し方ありませんね」


 てっきり会話を再開すると思っていたぼくは虚を衝かれた。引き止める暇もなく彼は行ってしまう。まずい、と内心毒づく。何をするのか知らないが、決して歓迎されることではないのは明白だ。


 ぼくが彼らを引き留められる唯一の人間だったのに、油断したせいで逃してしまった。今さら呼び止めたところで相手にはされないだろう。彼の関心は、すでにぼくから離れてしまっていた。


<絆教>の信者たちは、連れてきた子供たちを地面に寝かすと、代わりに<街>の子供たちの下に向かった。一体何をするのかと<街>の人々が怯えたように見ている。


 隣に人の気配を感じたので目をやると、白沢リンネがいた。ナズナが彼女に跳びかかろうとするも、他の信者に押さえ付けられてしまった。そのままナイフを突き立てようとする信者に、「まだ殺さなくていいです」と言ってやめさせた。


「あんた、先生から離れてよっ」相手を射殺しそうな目付きでナズナは言った。


「申し訳ありませんが、それはできません。これから最後の儀式が始まりますので」


「ぎ、儀式って」


 ナズナが顔を青ざめさせる。ぼくは仰向けになりながら、あの<回帰>とかいう儀式が始まるのか、と納得した。彼らが<街>に攻め込んできたのも、元々はそれが目的だったのだ。街攻めはその余興に過ぎない。重要なのは<回帰>を執り行うことであって、いよいよフィナーレを迎えようとしているのだった。


 ……冗談じゃない。


 ぼくは死のうとしているのに、目の前でナズナや皆が殺されるのを見せられるのか。ならばいっそ先に殺されていた方がまだましだったかもしれない。


 そんな弱気がぼくを支配しようとした。人間、死にかけるとネガティブになるらしい。最後まで抵抗すると誓ったのは、どこの誰であったか。心臓が鼓動を止めるその瞬間まで、ぼくは足掻くことに決めたのだ。


「君がぼくを殺すのかい?」とぼくはリンネに訊ねた。


「……ええ」と彼女は答えた。どこか気乗りしない様子だった。かつて目撃した現場では、彼女は淡々と儀式を執り仕切っていた気がする。ぼくを殺すのが忍びないと思っているのだと考えてもいいのだろうか。


「やはり、あの時にお父様を殺すべきだったのかもしれません」と彼女は悔いるように言った。「そうすれば―――――いいえ、これは感傷ですね」


「君は納得がいかないんじゃないのか? 折角いい勝負ができたのに」


 彼女は戦いを楽しんでいた。だからぼくは当てずっぽうで指摘してみたのだけれど、これが意外に的を射ていたようだった。彼女はぼくが同意見を持っていたことが嬉しいらしく、頬を綻ばせて頷いた。


「これは私情だとわかっているのですが……」


「なら先生を助けてよ!」とナズナが割り込んで怒鳴る。身体を拘束されているのに威勢がいい。ぼくはすでに苦笑する力もなかったので、内心でしておいた。


 ナズナに対して、リンネはそれ程悪い感情は持っていないようで、「ごめんなさい。わたしにはどうすることもできないし、するつもりもない。わたしは『同志』の夢を叶えたいから」


「どうしてよ……それってあなたが本当にしたいことなの? あなたが選んだことなの?」


「わたしは『同志』に救われたんです。あの人がいなければ、今のわたしはなかったんです。あの人が、わたしを生かしてくれたんです」と彼女はナズナを見返して述懐する。「なら、わたしはあの人のために生きるべきでしょう? 全てを与えてくれたんです。それに報いるには、わたしも全てをもってなさなければなりません」


「きっと違うよ、それは」


 ナズナはリンネを見上げ、懸命に訴えていた。生き残るための口八丁ではなく、彼女の心からの慟哭だった。だからリンネにも衝撃を与えていた。リンネは視線に気圧されるように身体を退いた。


「わたしも先生に命を救われた。でも、だからって先生の言いなりになったりはしない。先生が悪いことをしたら止めたいと思うし、理由もなく人を虐げたら、わたしはきっと立ち向かう。それが恩知らずだなんて思わない。わたしは先生に報いたいと思う。でもそれは、先生を全肯定することじゃない!」


「……あなたとわたしとでは立場が異なります。前提が異なれば、現状も異なるんです。あなたにはわかりませんよ」


「そうね。わたしにはわからない。だからこうしてあなたに訴えてるのよ! どうして違うのかって、どうしてわたしたちはわかり合えないのかって。……あなたはどうなの。相手のことを知ろうとした? 自分は相手と比べてどうなのかって考えた? あなたたちは自分のことだけしか考えようとはしなかったんじゃないの? 最初から目を閉じて、耳を塞いで、いろいろなことを知ろうとはしなかったんじゃないの?」


 ナズナの言葉は拙かった。でも、何か胸を打つものがあった。真剣さが込められていた。相手を真正面から見据え、その瞳にはどこにも濁りはなかった。多くの欺瞞や建前にまみれた言葉とは違っていた。


 それは久保田ナズナの信念であり、答えであり、彼女が経験した苦しみの末に見つけた光景だった。


「あなたはあの人に報いた気になってる。でもそれは勘違いなんじゃないの? わたしは思うんだ。あなたは言っていた。『同志が』『あの人は』って。それはあなたが想って、考えた末の言葉じゃない。言われたことをただやっていただけでしょ?」彼女は全身を汚れにまみれたまま、涙を流してリンネに叫ぶ。「それじゃあ報いたことにならないよ……自分で生きる責任を放り出して、縋り付いているだけだよ……」


「―――――ち、違う」


 よろよろとリンネは後退り、頭を抱え込んだ。ナズナの言葉は彼女に届いたのかもしれない。きっと彼女の中で、ナズナの言葉が何度もリフレインしているに違いなかった。彼女の「同志」に報いようとする気持ちに嘘はないのだ。だからこそ、ナズナの言葉がこんなにも彼女を打ちのめす。


「どうしたのですか、リンネさん。こちらは準備が整いましたよ」


「『同志』……」


「酷く困惑されているようですね。それも無理はありません。あなたにはいろいろと大変な仕事を任せてしまいましたからね」


 労るような彼の声に、リンネが落ち着きを取り戻した。だが迷いは残っているようだった。顔色は良くない。話を途中で遮られたナズナは悔しげに歯を噛み締めている。もう少しで、後少しで何かが変わったかもしれなかったのに、と。


 グラウンドには、<街>の子供たちが集められていた。信者たちはそれぞれ子供を抱えており、その中にはキララの姿があった。


 ぼくは彼女の名前を呼ぼうとして咳き込んだ。それはなかなか収まらず、続けて大量に吐血する。自分の吐いた血で溺死するかと思ったくらいだった。


 血を吐き出すごとに身体から力が抜けていく気がした。視界はぐるぐると回転した。天と地が逆さまになったみたいだった。


「あなたが言っていたことは大変興味深いものでした」と「同志」は言った。「もう少し検証したいのは山々なのですが、如何せんもう時間がありません。皆さん、空をご覧になってください」


 その言葉に従って視界を上げると、そこには信じられない光景が広がっていた。地平線に沈み込もうとする黒い太陽は、地面にぶつかって弾けるように形を崩していた。地平線に沿って波打ち、180度の視界を覆おうとしている。


 赤茶けた空は、黒く脈打っていた。一定間隔で鼓動する様は、空に血管が張り巡らされたようだった。


「ついにその時が始まろうとしているのです! そう、<進化>の時が!」


 歓喜に震える声。それに応える<絆教>信者たちの雄叫び。彼らが待ち望んでいた時が訪れようとしていた。人類が次のステップに進む儀式。死をもって新たな生となす行程。彼らが言う<回帰>の時。


 空気がざわざわと蠢いていた。グラウンド中が異様な力に満たされている。赤黒い空には異径の影が踊っている。あれはケモノだ。もしくはヒトだ。様々な生き物を模した影が苦しげに出現と消失を繰り返していた。


 まるで子宮の中で化物が育っていくみたいだった。成長し、腹を食い破って生まれ落ちる化物。それが頭上に広がっているのだ。恐らく全世界でパニックが起きているに違いなかった。


 地面に子供たちが押さえ付けられている。彼らは自分がどのような状況かわからない。ずっと眠り続けているのだ。それが幸運なのか、不幸なのか、ぼくにはわからなかった。


 子供の親たちが必死に制止しようとしている。けれども信者に抑えこまれてどうしようもない。


「恐れるなとは言いません。死は得体が知れず、恐ろしいものです。ですがそれは今日で終わるのです。死に支配され、踊らされ続けてきた人類は、やっと大人になることができるのです!」


 視界の先には、キララが横たわっていた。「同志」は片手で彼女の位置を確かめ、もう片手にはナイフが握られていた。


 ……ああ、何なのだ、これは。


 ぼくは仰向けになって顔を横に向けている。もう動くこともできない。キララも動かない。ふたりで一緒に寝袋に包まったことを思い出す。それはずっと昔のことのように思えた。


 ナズナが必死にもがいている。何かを喚いている。何も聞こえない。瞼が重い。酷く眠い。耳鳴りがする。遠くで誰かの声がする。もうそれが誰なのか思い出せない。不思議な感覚。地面に沈み込む感触。どこまでも落ち込んでいく錯覚。


「さようなら、お父様。後ほど、お会いしましょう……」


 喉元に冷たくて硬い感触がした。それはナイフの刃だった。ひんやりとして気持ちが良かった。雑音ばかりの世界で、そのナイフの冷たさだけが確かだった。ぼくは凝視する。彼女を見続ける。ずっと見守り続ける。


 ナイフが喉の上を滑る。皮膚が、肉が切り裂かれる。


 ―――――やめろ。


 ぼくはいいんだ。でも、彼女は。彼女だけは。


 やめろ、やめろ、やめろ……!


 届かない声。出せない声。言葉を紡げない。ぼくはただ見ていた。見ていることしかできなかった。


 幼いキララの喉が切り裂かれ、真っ赤な血が吹き出すのを。


 ぼくの喉が切り裂かれ、真っ黒な<泥>が吹き出すのを―――――。

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