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第39話

 一斉に襲いかかってくるかと思われた<絆教>は、なかなかどうして用心深かった。暗闇に紛れて放たれた斥候は、<街>の外周部から距離をとりつつ、ハイエナみたいに辺りを嗅ぎ回った。


 正面に最も戦力が集中していることは、先程のやり取りでばれてしまっているだろう。油断なく情報収集に務めていたのは白沢リンネである。彼女がただ護衛として付き添っていたわけではあるまい。


 暗闇の向こうから向けられる視線は粘着質で、住人たちが心安まることはない。嫌な静寂だった。我々の身動ぎする音に混じって聞こえてくるやつらの足音。ぼんやりとした人影が暗闇の中で動き回っている。ぼくはその姿に亡霊を連想した。


「どうする? ライトを点けるか?」


 無線機からイオリの声が聞こえた。こちらからも相手を視認できない状態は多大なストレスである。できることなら全てが見える状態で対応したいのだろう。


 だがライトを点けることによってこちらの配置も丸見えになる。前面で防衛している人数も推測されてしまうだろう。


 少し待って、とぼくはイオリに連絡した。無用心にも距離を詰めてくる人影がある。もしかしたら、ここからでも射られるかもしれない。


 ぼくは相手に気取られないよう、静かに弓を構えた。周囲の住人たちは固唾を呑んで見守っている。いつもよりも弦が緩く感じる。全力を出すまでもなく、極限まで引き絞れてしまった。


 集中する。相手はこちらに気づいていない。なぜだかそれがわかる。いつもよりも夜目が効く。相手の表情まで読み取れるようだ。


 矢を放った。弧を描いて標的に飛んでいき、風切り音と共に肉に突き刺さる。短い悲鳴がして、相手は崩れ落ちた。胴体の側面に命中したようだった。もし即死ではなくとも、まともには動けないはずだ。


 住人たちから「おお」という歓声が小さくもれた。まさか第一射目から当たるとは思ってなかったのだろう。ぼくもまぐれ当たりを狙ったわけではあるが、あろうことか命中させてしまった。


「すごいじゃないですか、先生! あんな遠くの相手に当てるなんて」


 人を射たことにショックを受けていないのは歓迎されることなのだろうけれど、ぼくは少しだけ悲しく思った。命の奪い合いを当然のことだとは思って欲しくはなかった。この感情は偽善でしかないのだろうけれど。


「……何だか、前より腕力が上がってる気がする」とぼくはナズナの耳元で小さく言った。「それに、やけに夜目が効く。暗視ゴーグルでも付けてる気分だ」


 彼女はやや警戒した面持ちになった。「それって、身体に異常が出てるってことですか?」


「そうかもしれない」とぼくは言った。「これからのことを考えれば歓迎されることなんだろうけど、やっぱり気持ち悪いな」


 いつの間にか身体が改造された心地である。きっと仮面ライダーの方々も同じような気分を味わったに違いなかった。この間までと身体の感覚が違うので、何だか自分の身体ではないみたいだった。


「残りも当てられるか?」とイオリが訊ねてきた。


「少し待ってくれ。弦を張り直すから」


 ぼくは身体の変化に合わせて、弦の張りを強くした。以前ではとても扱えない強さである。だが今ならばちょうどいい塩梅だ。ぼくは試しに構えてみて、十分実用に耐えると判断した。


 相手は仲間が射られたことに気づいていないようだった。各人が無線機を持っているわけでもないみたいだ。動き回っていたひとりが倒れている仲間を見つけて歩み寄る。ぼくは屈んで仲間を介抱している相手に向かって第二射を放った。


 屈み込んでいたので的が小さかった。ぼくの放った矢は急所を外れ、太ももに命中した。もうこの段階になると、静止している相手ならば高確率で当てられると確信していた。矢を放つ前から命中しているイメージがあるのだ。妙な感覚だった。


 傷を負った相手は大声で仲間に知らせた。


「ばれた!」とイオリが言った。


「仕方ないよ。ここから全員を暗殺できる程ぼくの腕はいいわけじゃないから」


 ふたりぶん減らせただけでも上出来だった。けれども、もう相手も警戒して容易には当てられないだろう。


 相手は地面を這ってこちらから遠ざかっていた。地面と一体化してしまってぼくでも見分けづらい。さらに射かけるのはやめておいた。


 矢弾は余るくらい残っている。元々弓を扱う人数は微々たるものだから、全員がばかすか射ったとしても平気なはずだ。もちろん、だからといって無駄遣いするつもりはなかったが。


 斥候は撤退していった。住人たちはほっと一息ついた。直接的な攻撃はなかったとしても、プレッシャーはひしひしと感じていたのだ。緊張から解放されて、皆は肩の力を抜いていた。


 ずっと気を張り詰め通しでは最後までもたないだろう。油断は禁物だが、こうしてリラックスするのも大事な仕事だった。


 いつの間にか夜になっていた。太陽の異常のせいで昼と夜の区別が付かなくなってきている。時間で判断するしかなかった。


 時刻は午後9時になっていた。緊張を強いられているから時間が経つのが早い。昼間から何も口にしていないことを思い出したが、空腹感はなかった。ぼくは事前に用意していた水筒から水を一口だけ飲んだ。


 できることなら休憩を取りたいところだった。だがそれも無理だろう。まだ交戦して間もなかった。今は様子見とはいえ、いつ大挙して襲いかかってくるか知れたものではない。


 時間は刻々と過ぎ、緊張の糸が緩みかけた矢先、相手に動きがあった。


 隊列を組んだ信者たちが前進を始めた。ぼくは夜目を活かして状況をつぶさにイオリへ伝えた。


<絆教>の信者たちは鎧を着込んでいるわけでもなく、いつもと変わらぬ装いでやってきたという風だった。


 ナイフを持っている者もいれば手製の槍を構えている者もいた。雑多な装備はいずれも軽装備で、こちらと大して変わりはなかった。


 いよいよ攻撃が始まるのか、と身構えるこちらと違って、相手は不気味なくらい無表情だった。興奮していることもないし、恐怖していることもない。式典の行列みたいにきびきびと歩みを進める。


 お互いの姿は暗闇のために確認しづらいが、自動車がバックについているので、そこだけぼんやりと浮かび上がって見える。ぼくは双方の間の距離を50メートル程だと見積もってイオリに伝えた。


 その時、1台の自動車が集団を飛び出すのに気づいた。我々はそれを認識しつつも、何を意味するのか理解するのに時間がかかった。また誰かが話し合いにくるのだろうか、と誰もが思った。


 だがアクセルをフルスロットルにした自動車は速度を緩めなかった。暗闇を疾走する姿に目を奪われていたぼくは、そこにきてようやく相手の思惑に気づいた。


「体当たりする気だ!」怪訝にぼくを見る住人たちに向かって、「壁から離れるんだ!」


 警告は遅すぎた。ぼくが言い終わる前に全速力の自動車は正面の扉に激突した。暗闇の中をすさまじい激突音が響いた。爆弾が爆発したみたいだった。ナズナを抱えて後ろに飛び退いていたぼくは無事だった。しかしながら、逃げ遅れた数名が衝撃で落下してしまった。


「ライト! 早く点けろ!」と難を逃れたイオリが怒鳴る。混乱のせいですぐには点灯しない。ややあって強烈な明かりが点灯されると、眼下の惨状が浮かび上がった。


 自動車は大破して煙を上げていた。フロントガラスには血がべったりと付いていた。運転手は即死だろう。その周囲に落下した住人の姿があった。地面はコンクリートなので、落下した者はほぼ死んでいた。首をおかしな方向へ曲げている。


 住人たちは急展開についていけないようだった。皆が現実を認識できないような表情だった。仲間が死んでいる様子を理解できていないのだ。


 激突された扉は事前準備の周到さもあって無事だった。ダンプカーなどの重量級なら話は別だが、普通自動車くらいならば全速力で激突されても防ぎきれる。


 そうしている間に思考力を取り戻し始めた住人たちは騒然となった。落下した仲間の救助を叫ぶ者、特攻をしてきた相手に驚乱する者。収集がつかない。


「ひとり、まだ生きてるぞ!」


 その声につられて見やると、確かにまだ生きている者がいた。怪我をしていて出血しているものの、僅かに身動ぎしている。


 だが地面まではかなりの高さがある。助けようにも、怪我人を抱えて戻ってくるのは困難だった。


 対応に困っているうちに地鳴りが聞こえてきた。ライトが向けられた先には大勢の信者たちの姿があった。大群で一直線に向かってきていた。こちらの出鼻は完全にくじかれていた。


 予定ならば投擲で応戦するはずだった。だが指示を出すはずのイオリたちはパニックに陥っていた。「どうする!?」「救助は!」「敵が来てるんだぞっ」と言い合っている。


 敵はその隙に距離を詰め、やがて壁の下まで辿り着いた。彼らは落下した住人に群がり、生死を確認することなくめった刺しにした。猛獣が獲物に群がるようだった。落下した者の姿は、信者たちに覆い尽くされ見えなくなった。


 異様過ぎる光景がライトアップされていた。我々は仲間がばらばらに解体される様を見下ろしていた。耐え切れなくなって何人もが嘔吐した。誰もが呆然とその光景を目にしていた。


 人の山が過ぎ去ると、切り離された人体のパーツだけが残されていた。いずれもバラバラに切り刻まれており、正視に耐えるものではなかった。


 ぼくはエンジン音にはっとして顔を上げた。2台目、3台目の自動車が突っ込んでくる。信者たちはわっと飛び退く。今度は我々も壁から距離を取ることができた。

 

 衝撃。轟音。ぐらぐらと足元が揺れる。崩れることはないとわかっていても恐ろしいものだった。


 眼下には3台の自動車が壁に激突している。それを信者たちはよじ登り始めた。


「イオリ! 応戦しろ!」


 ぼくの怒声にようやく我を取り戻したイオリは、「石をぶつけろ! 上に上がってこさせるな!」と叫んだ。弾かれたように動き出した住人たちはそれぞれ用意されていた石を手に取った。


 だがすぐには投げつけられないようだった。相手がいくら狂信者とはいえ、この行為は人を殺傷する。ここにきても彼らは躊躇していた。


 戸惑うイオリとミヤコたちに連絡をして、一斉に投擲することを提案する。すぐに了解の返事がきた。


「タイミングを合わせる!」とぼくは大声で住人たちに言った。向こうではイオリやミヤコたちも同じ指示を出しているところだった。


「構え」とぼくは一抱えもある石を持ち上げて言う。それに倣う住人たち。ナズナもぼくの隣で狙いを定めている。「いち、に、……落とせっ」という合図と共に我々は次々に石を落下させた。


 わらわらと集っていた信者たちの頭上に石の雨が降る。頭をかち割られた者が悲鳴を上げて転げ落ちた。だが恐ろしいことに、それをものともせず第二陣がよじ登り始める。中には顔面を真っ赤に染めたままふらふらと続く者までいる。その顔には笑みが浮かんでいた。


 ―――――こいつら、<黒土>を入れてる人間か!?


 ぼくは戦慄した。脳を操作して恐怖や痛覚を抑制しているに違いなかった。だから激痛を感じているはずなのに行動不能に陥らないのだ。まるでゾンビではないか、とぼくは思った。


 住人たちにとってもショックだったらしく、大勢が混乱をきたしていた。だが今はいちいち説明している暇はない。我々は勢いに任せて、再び投擲の合図をとった。混乱していても、石を投げるくらいの仕事はできる。住人たちは恐慌しつつも、言われるがまま合図に従った。


「落とせ!」


 一発目と異なり、二発目は避ける信者がいた。合図をかけるせいで投げ落とすタイミングを読まれたのだ。


 自動車の屋根には事切れた信者が横たわっており、後続はそれさえも足場にしていた。さらなる足場を造りあげるために、協力して運んできたドラム缶を積み上げようとしている。


「各自に応戦させるんだっ」とぼくは指揮官たちに連絡した。もう躊躇する者もいないだろう。門を乗り越えられたら終わりであることは、誰の目にも明らかだ。住人も死に物狂いで抵抗するはずだ。


 倒しても倒しても後続は途切れなかった。先頭に立つ者が倒れれば、その死体を踏み台にして足場を造り上げようとする。とても正気の沙汰とは思えなかった。


 もはや半狂乱になって抵抗を続けた。相手は怪我を負っても死ぬまで動きを止めることはない。撤退という言葉を知らないように、我々に向かって手を伸ばしてくる。顔に裂傷を負った信者たちは歪んだ笑みで天を目指す。死亡した者から転げ落ち、まるでコインゲームみたいに死体が積み重なっていく。


 残酷だとは感じなかった。しばらくすると感情が麻痺してしまったようだった。まるで人間らしくない標的のせいかもしれない。住人たちは手を休めることなく、石を投げ落とし続けた。


 強力な照明でライトアップされた殺戮現場だった。信者たちがソンビだとしたら、我々は悪魔だった。無慈悲に人を殺す悪魔だった。恐怖と興奮に支配された表情は、まさに悪魔と言っても過言ではなかった。


 後方要員たちは石を補充し、背後に積まれた石を機械のように我々前衛が投げ落とす。途切れることのない殺戮の連鎖だった。すでに人を殺しているという感覚はなかった。ただ決められたプログラムに従って行動を続けていた。濃密な血液の臭いに満たされていた。血飛沫はここまで吹き上げられてきそうだった。取り入れる空気には、殺した相手の血が混じっているように感じた。そのせいか口の中は生臭く、鉄臭かった。


 鼻の奥がつんとしていた。顔面は涙だか鼻水だか涎だかわからない液体で汚れていた。誰もが泣きながら、怒りながら、相手を罵りながらも動きを止めなかった。一度停止したら二度と動き出せないと知っていた。だから無我夢中で行動を続けた。そうしている間は少なくとも生きていた。相手を殺しながらも生きていた。


 時間の感覚はなくなっていた。今が何時であるのか誰にもわからなかった。時計が反対に回り始めたとしても、きっと我々は気づかない。後にも先にも、我々は同じように殺戮をしているからだ。


 石を握る手が傷つき、血を流していても気づいていない者が大勢いた。眼下は血の海だったから多少の出血など目に入らなかった。鮮烈に飛び込んでくる映像は脳を麻痺させ、正常な判断力を奪った。


 交代も休憩も関係がなかった。我々は体力の限りに石を投げ下ろし、群がる信者たちの頭をかち割り続ける。相手は様々だった。若者から中年から老人までいた。男も女もいた。優しそうな人もいれば怖そうな人もいた。我々は彼らを平等に殺戮した。顔面を割られ、肉を覗かせて人間らしさを失っていく彼らは、我々を憎しむこともなかった。彼らの目には幸福の色が現れていた。口元は引きつった笑みの形で固まっていた。生理的に受け付けられない姿だった。まるでおぞましい虫の集団を前にしているかのようだった。囚えられたら二度と戻ってこられない予感があった。一斉に天へと両手を差し伸ばし、我々を引きずり降ろそうとしていた。


 自分が何者なのだかわからなくなっていた。敵は何者なのか忘れてしまっていた。どうしてこんなことをしているのだろう、とぼくは思った。なぜこんな酷いことをしなくてはならないのだろう、とぼくは思った。もう休みたいとふと感じた。仰向けになって寝転がりたいと切に思った。そのまま泥のように眠りたかった。そのためならば何だってできるような気がした。だから目の前の標的に向かって石を投げつけ続けた。早く終わらせたかった。もう止めたかった。とても苦しかった。


 息はあがっていた。無我夢中の行動は体力を消耗させていた。腕を上げるのも億劫になっていた。石を掴む手が痛んだ。握力も失せ始めていた。何度も何度も取りこぼした。落ちた石を取るのも面倒だった。腰を屈めたら二度と立ち上がれなくなりそうだった。


 喉は渇きでひりひりとしていた。乱暴な呼吸のせいで喉に血が絡むようだった。唾を呑み込むたびに激痛が走った。咳き込むと余計に痛みは増した。ひゅうひゅうという風切り音は次第に大きくなっていた。やがて呼吸をすることさえ困難になっていた。


 自分が動いているのか、止まっているのか、生きているのか、死んでいるのか、全く判然としなかった。ただぼんやりとした空気に漂っていた。喧騒は遠くに過ぎ去っていた。とても寒々しかった。まるで世界の果てに置き去りにされたみたいだった。


 気が付くと、ぼくは壁にもたれかかっていた。


 音はしなかった。けれども、ぐわんぐわんという残響がまだ取り残されていた。頭痛がした。その残響は脳内を好き勝手に飛び回って、手当たり次第にニューロン細胞を破壊しているに違いなかった。


 体の節々が痛んだ。少しでも動こうとするときりで突かれたみたいな痛みが走った。冷たいコンクリートに身を預けていると、自分まで生き物ではないような気分になった。そのまま壁と一体化できたら、どんなに幸せなことだろうかとぼくは思った。壁になれれば、疲れることもないし、痛みを感じないし、殺し合わなくてもいいし、悲しまなくてもいい。とても魅力的だった。ぼくは前世に悪いことをしてしまったから、壁に生まれることができずに人間として生まれてしまったのだと思った。


 横たわることにも疲れたぼくは、亀よりもゆっくりとしたスピードで身を起こした。今ならば、きっとナマケモノといい勝負ができるはずだった。


 腕時計で確認した時刻は午前6時だった。見上げると、太陽はその外周部分をリングのように輝かせていた。中心部分はドーナツの穴のみたいだった。いつの間にか夜が明けたようだった。だが辺りは薄暗いままだ。


 照明は落とされていて、住人はひとり残らずぐったりとしていた。皆死に絶えたような光景だった。


 ナズナは地面にそのまま倒れ伏して眠っていた。ぼくと似たような酷い格好だった。彼女の無事を確かめるといくらか落ち着くことができた。頭はまだモヤがかかったままだったけれど、状況を確認できるくらいの力は戻ってきた。


 壁に張り付きながら向こう側を覗き込むと、この世の地獄のような光景が広がっていた。


 無数の死体が折り重なっていた。顔面や頭部を潰された、人であったものがそこかしこに転がっていた。ぼくは腹の底が捻れたような痛みを感じた。腹を抱えてうずくまった。積み重なった死体の瞳は、空虚に見開かれたままだった。ぼくは自分がじっと見られている気がした。目を背けても、彼らの視線は張り付き、消えてはくれなかった。


 そこにあるのは死体だけだった。ぼくは昔に見たホロコーストの映像を思い出した。白黒で映された大量虐殺のワンシーン。目の前に広がっている光景はそれと寸分も違わなかった。


 門を乗り越えようとしていた大量の信者たちは消えていた。全て死んでしまったのかと思ったけれど、ずっと離れた地点に<絆教>が集まっているのが見える。一時的に攻撃を中断したようだった。


 身体を戻し、自分の身体を抱きしめるようにして座り込む。両手は傷だらけだった。すでに血は固まっていた。黒々とした血糊を見ていると、積み重なる死体をぼくに想起させた。


 信者たちの攻撃を防ぎきったという達成感はなかった。身体の隅からせり上がってくるような吐き気があった。生き残れたことを少しも喜べなかった。無邪気に生きていることを喜ぶには、ぼくは人を殺し過ぎていた。


 死体のように眠る住人を避けながら進むと、壁に寄りかかったまま微動だにしないイオリがいた。彼は眠たげな目を虚空に固定し、コンクリートの壁に何かを探していた。


 ぼくは視線を追ってみた。壁があって、それから壁があった。そして壁しかなかった。


「生きてる?」とぼくは訊ねた。


「生きてるよ」と彼は答えた。「それがいいことなのかわからないけどな」


 ぼくは隣に座り、現在の状況がどうなっているのか彼に訊いた。


 1時間程前に<絆教>は撤退し、それから動きはないという。向こうへの監視は後方要員が代わりに行なってくれているそうだ。食事の準備や負傷者の手当も並行して行われている。


「手際がいいね」


「ミヤコはよくやってくれてるよ」


 前衛を担っていた女性陣はさすがに体力がもたなかったようで、何回か交代して防衛にあたっていたらしい。後ろに下がった彼女たちが精力的にサポートをしてくれたおかげで戦線は崩壊を免れていた。


 そういえば、とぼくは辺りを見回した。ミヤコたち女性陣の姿がない。次の仕事に取り掛かってくれているのだろう。非常にありがたかった。


<絆教>が一端退いたとはいえ、再侵攻は時間の問題だ。それまでにできるだけ体力を回復させておかなければならない。このまま第二ラウンドに突入したら、我々はきっともたないだろう。


「正直言って、おれはやつらを甘く見てたよ。まさかこれ程までとは」


「仕方がないさ。誰だって、こんな惨事になるとは思うもんか。特攻から始まって、自殺志願者としか思えない突撃。やつらはどうかしてる」


 顔面から血を流したまま笑みを浮かべる姿を思い出して、ぼくは吐き気がぶり返してきた。すぐ下に死体がごろごろしているせいか、空気は死臭がして堪らない。ただ呼吸をしているだけで胸糞悪くなってくる。


「当初のプランは使えそうにもないな……」とイオリは小声でもらした。「やつら、どれだけ仲間が死んでも痛くも痒くもないって風だ。数を地道に減らして和平を申し出る案は無理そうだな」


 相手にどれだけの人数が残っているのか知れないが、とても和平は受け入れられないだろう。あの死をまるで恐れない信者たちは、最後のひとりになるまで忠実に「同志」に従うはずだ。


 しかも「同志」の言っていたことが本当ならば、死はむしろ尊いものであり、彼らにとっては「回帰」という名で神聖化されている。その上、恐怖感などを抑制されているのだ。どうやって止めればいい? 殺して二度と動けなくする以外に道はあるのだろうか。


「『同志』という男を殺れば、終わると思うか?」


「…………」


 ぼくは答えられなかった。確かに彼は教団の指導者ではある。けれども、彼が全体を洗脳しているわけでもないのだ。彼は言っていた。「あくまで信者の意志による」と。


 彼は信者の感情を抑制しても、まるっきり操作しているのではない。恐らく、今回の行動もある程度自主性があるはずだ。


 だとしたら、頭を潰しただけで全てが終わるのだろうか? 彼の死後も自動で信者たちは動き続けそうだし、彼以外にも白沢リンネをはじめとした幹部がいる。彼女たちは「同志」の意志を引き継ぎ、行動を継続するだろう。


「とにかく相手の数を減らすしかないんじゃないか? やつらも大損害を被れば、戦力の補充のために引き上げるはずだ。その間にこちらも連合相手を探すなりして、協力しあって相手を根絶するとか」


「いずれにせよ、この籠城がうまくいかないとおれたちはお終いってことか」


 イオリは死屍累々としている住人たちを眺め、不安そうな顔をした。最後まで戦えるのか確信できないのだろう。それ程までに戦闘は苛烈だった。


 相手が強いわけではない。その理不尽さと不気味さに、住人たちは精神を犯されている。身体は無事でも、心が戦いを拒否する可能性があった。


 ぼくとイオリは頭上を見上げた。


 皆既日食のダイヤモンドリングみたいな太陽が浮かんでいる。本物と異なるのは、それがいつまで経っても消えないことである。また、中央の黒点が目に見えるくらい揺らめいていることである。


 彼は鼻を鳴らして毒づいた。


「天も地も地獄絵図、か。世界の終わりってのは、こういうのを言うんだろうな」

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