第38話
子供たちは「皆」安らかな寝息を立てている。ぐずる者は誰もいないし、寝返りをうつ者もいない。身動ぎひとつしないでこんこんと眠る様は、ともすれば死体のようにも見えた。
子供の世話役と幹部の面々は暗い表情で眠りの園を見つめている。この子供たちの親も中にはいるはずだ。彼らはどんな思いを抱えているのだろう、とぼくは思った。元々子供らしい反応はなかったのだから変わりはないと考えるか、それとも目を覚まさなくなってしまったことを悲しむか。
ぼくは最後のひとりのまぶたを開けた。黒く淀んだ影が眼球の表面を滑っていく。ペンライトで光を当てると、瞳孔の収縮が見られた。
この子も他の子たちと同じだった。眠りは覚めず、両眼には<黒土>が見られる。反射は正常に行われる。どうして目覚めないのかは全くの不明。
ぼくは首を振って駄目だったことを伝えた。住人たちは肩を寄せ合って「どういうことだ?」「何が起きてるんだ?」と困惑を隠しきれない。<街>の子供たちが一斉に異常をきたしたのだから、ただごとではないのはわかる。だが悲しいかな、それ以上のことは誰にもわからなかった。
キララが熱を出したのが昨日のこと。そして一日経った今朝方に熱は引いた。しかしながら目覚める気配は一向になく、眼球部には<黒土>が確認された。
異常を確認したぼくはすぐさまイオリたちに報告した。その存在は口伝てに知っていたものの、実際に<黒土>を見た彼らは酷く衝撃を受けていた。どうしてキララにそれが現れているのかと話し合っているうちに、子供の世話役の女性が異常を知らせにきた。
普段なら身体を揺り動かせば目覚める子供たちが、今日に限って一向に目を覚まさないのだ。それも全員がそうだった。
急いで駆けつけた我々は、寝ている子供のひとりのまぶたを恐る恐る開けてみた。そこにはキララと同じ症状の瞳があった。順々に確認して回った全ての子供が同様の症状を発症していた。
外見上は何も悪いところはないのに、彼らはまるで死んだように眠り続けていた。その身のうちに<黒土>を宿らせて。
あまりに衝撃的なことだったので、緘口令がしかれた。事情をよく知らない人間があることないこと吹聴する危険性があったからだ。「伝染病が発生した」などと流言が広がったら、防衛に悪影響をきたすこと間違いなしだった。
「これが、やつらが言っていたものか……」
ミヤコの隣で険しい表情を浮かべているイオリが言った。彼らの娘は行方不明になってこの場にはいないものの、子供に対する愛情は人一倍熱い夫婦である。とても気が気でないのだろう。
「身体に悪影響はないのね?」
「取りあえずは」とぼくは言った。「『同志』という男は<黒土>の操作を行えたようだったけど、子供たちの中にあるものを操作しているのかはわからない。直接本人に聞くくらいしか確かめようがないと思う」
あまり有益でないぼくの言葉に、皆は重い空気に包まれた。とどのつまり、為すすべはないということなのだ。
「どうして一斉に発症したのかしら。そもそも、<黒土>とやらは人に伝染るものなの?」
「ぼくはその説明はされてないな。イオリはどうだい?」
彼は腕を組んで記憶を探っているようだった。「目の前でペラペラと喋られてたのを思い出してるんだが、あいつらの説明はいまいち要領を得てなかったからな。<大いなるもの>の末端だとか、『巫女』がどうとか、おれには理解しがたいことばかりだった」
「そこら辺はぼくと同じだね」とぼくは言った。
「同志」こと大河内ダイチは、元は学者である。それなのに宗教色が強く出ているのが疑問だった。学者は総じて無神論者だと言うつもりはないけれど、論理的思考をするのが職業である彼がどうしてその正反対をいっているのか甚だ不可解だった。
「そういや、誘拐された子供を返せって文句を言った時、やけに反発されたっけ。『巫女様たちを返すわけにはいかない』ってさ」
ぼくも「同志」から、子供の重要性を聞かされている。<黒いケモノ>の力を扱えるのが、その上位に立つ子供―――――つまりは「巫女」なのだと。
それは<黒土>を扱えると言っているに等しい。しかしながら、今まで子供たちが<黒土>を扱った場面を見たことがなかった。
いや、もしかしたら、それは目に見えるようなものではなかったのかもしれない。
「うちのキララには、千里眼みたいな特殊な力があったんだ。もしかしたら、その力の源は<黒土>だったのかもしれない。初めからずっと体内にあったんだ。それが何かの拍子に暴走しだしたのかも」
「それが他の子供に伝染ったっていうの!?」
「いいや、力を扱えるのはキララだけじゃなかった。キララの探索が妨害された時、決まって他の子供の姿があったんだ。きっと、子供たちに等しく備わっていた能力なんだと思う」
「それってつまり……」と顔色を悪くしたミヤコは呟く。「この子たちにも、初めからアレが入り込んでいたってこと?」
ぼくは肯首した。そうとしか考えられなかった。普通とは違う子供たち。無気力症状を見せる子供たち。その原因が<黒土>にあるのだとしたら、説明のつくことが多い。脳の周辺に居着いたせいで様々な症状が引き起こされていたのだろう。
それが昨日を境に宿主を昏睡させる程の影響を持つに至った。
ぼくの場合は腕に異常が現れているものの、脳に影響がないとは限らない。これからは用心しなければならないだろう。いつおかしな症状が出るかわかったものではないのだ。
「<黒土>が宿主を殺すことがないよう祈るしかないな」とぼくは言った。
「どうにかならないの……?」ミヤコや他の母親たちは何もできないことに憤りを感じているようだった。その点、男親たちはどこか達観している。もちろん、心配していないわけではないのだ。それが表面に出ていないだけで。
「それが原因かどうかわからないけど、ひとつ気になることがある」
ぼくは今朝方発見した太陽の黒点の話をした。「それがどんな関係があるっていうのよ」と突っかかってくる女性たちを宥め、ぼくはサングラスを貸して実際に見て貰った。
あれがただの自然現象ではないことはすぐに理解できたようだった。何せ怪しく蠢いているのだ。もしも太陽の黒点が移動するものであったとしても、地上から見えるものではないはずだ。我々が目にしているのは明らかに異常だった。
「あれ、本当に太陽にあるんだろうか」とイオリは言った。
「どういうこと?」とぼくは訊ねた。
右手で太陽光を遮りながら彼は言った。「太陽と直線上の空間にあるだけじゃないかってことさ。地球と太陽の直線上の宇宙空間にあれが漂ってるんだ。だからここからでもはっきりと見えるんだよ」
なるほど、とぼくは思った。太陽に重なるようにしてそれはあったから、勝手に黒点だと思い込んでいた。けれども、太陽とは何も関係がなく、ただ「重なって見えている」だけだとしたら、あれは太陽の自然現象とは関係のない代物ということになる。
「あの不気味な物体が現れてから、子供たちの様子がおかしくなった。きっと何か関係があるに違いない」
「でも、確かめるすべは何もないのよね……」ミヤコは疲労感にまみれた声を出した。異常な事態が立て続けに起こって、参っているようだった。ぼくは少し休んではどうかと提案した。ここにいてもできることは何もないのだ。
最初は休息することに抵抗があったようだが、仲間たちの説得もあって結木夫妻は休憩を取ることになった。リーダーである彼らが動けなくなってしまっては元も子もない。休める時に休んでおく必要がある。
幸い、彼らの他にも幹部格は複数いるので、作業に支障が出る程でもなかった。連日の激務もあって、計画されていた行程はほぼ消化している。物資の運び込みは終了し、入り口の壁の完成も間近だった。
ぼくはキララの傍についていてやりたい想いに駆られたけれど、他にもできることはあるはずだった。世話役の女性たちに後のことをよろしく頼み、ぼくはナズナを伴って正面入口へと向かった。
すでにそこはがっちりと口を閉ざしており、鉄の壁がそり立っている。数日前に男たちが総出で立ち上げた鉄壁である。5メートルくらいの高さがあり、鉄骨と鉄板で造られた重量級の壁だった。
この球場には自家発電装置が残っていたこと、それから工作に詳しい人間がいたことから、このような頑丈な壁が実現したのだった。結構前からこつこつと造り上げていたらしく、急ごしらえにはない重厚さを醸し出している。
その壁の後ろには重量物を置いて容易に突破されないようにしてある。これならば、ちょっとやそっとの攻撃にはびくともしない。<街>の出入りは緊急時用の小さな防火扉を用いており、外側からは見つかりにくく、簡単に塞ぐこともできる。時が来れば、この出入り口も堅く封鎖される予定だった。
ぼくとナズナは、正面入口上部の迎撃地点に上がった。足場は広い。見下ろすと地面までの高さが強調される感じがした。そこまでの高さではないはずなのに、少し足が竦んでしまった。何度も訪れて高さに慣れる必要があった。
そこにはぼくたちと同じく、迎撃担当になっている面々が落ち着きない表情でチェックを行なっていた。自分の持ち場は自分で何度も確認する。それができない者は、本番でどんなアクシデントがあったとしても自分の責任だった。
誰もがそわそわとしていた。戦いの時は近いと肌が感じ取っていたのだ。
子供たちの件は伏せられていたものの、太陽の異常については皆にも知らされていた。時間と共に影は広がっているようだった。知らされなくとも気づく者が出始めてもおかしくはない。それならば先に知らせておき、無用な混乱を避けた方がいいという判断だった。
果たしてその太陽の異常は、目に見える形で進行した。時間と共に影の大きさは増し、太陽光を遮り、辺りは薄暗くなるまでになった。
ここまでくれば、誰もが状況の変化を認めざるを得なかった。<絆教>が沈黙を保っていたのはこの異変を待っていたのではないか―――――。そんな噂がまことしやかに広がった。
その予想は正しかった。次の日は、まるで皆既日食のような有り様だった。太陽の大部分を覆い尽くした影は、地球に降り注ぐ陽光を遮断し不気味に蠢いていた。地上から見える大きさを考慮すると、その巨大さは地球をすっぽり覆い尽くしてしまう程ある。
きっと科学技術が進んでいない時代だったら、「この世の終わりだ」と大騒ぎになっていたことだろう。しかしながら、我々はすでに一度「世界の終わり」を経験している世代だ。多少はこのような異変にも耐性があった。
周囲は薄暗闇に支配されていた。ぼくはサングラスと外して裸眼になった。ぼくの目にも優しい光量だった。代わりに常人の視界は僅かながらも制限される。敵への攻撃の障害になることが予想された。
そしてその日の夕方。ついにその時はやってきた。
敵の襲来を告げるサイレンが大音量で響き渡ったのだ。
■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■
偵察に出ている人間が無線機を用いて敵の襲来を知らせると、<街>はサイレンを発して防衛体制に移る。各自が泡を食って持ち場へと急ぎ、最終確認がなされる。非常口から偵察要員を全て回収し終わると、最後に残った入り口も堅く閉ざされる。
すでに覚悟を決めていたぼくたちの行動は早かった。戦闘員も非戦闘員もそれぞれの持場へ一直線に向かう。普段は閑散としている連絡通路も、この時ばかりは大渋滞になった。移動中に転倒する者が続出して、敵との交戦前に早くも負傷者が発生した。
この<街>は装備も充実しているらしく、格部のリーダーには無線機が配布されていた。球場警備員の置土産だそうだ。それを用いて我々は連絡を取り合うことになっていた。
とはいっても、メインの戦場は正面入口に限定されるだろうから、無線機が使われるのは側部や背後が攻撃された時になる。そちらは元々の壁もあり、入り口も狭いので突破されにくい。敵が狙う可能性は低かった。
ぼくは入り口右側の担当だった。正面はイオリ、左側はミヤコが指揮をとる。戦闘員の大部分が正面に集中しており、他部分は見張りと僅かな人数だけが残っている。もしも予想に反してそこに攻撃が集中されたら、すみやかに我々も部隊を分けなければならない。各部分は援軍が来るまで単独で防衛することになるが、そのくらいの時間を防ぎきることは可能なはずだった。
正面入り口上部で待ち構える我々の殆どは投擲で迎撃する手はずになっていた。弓を用いているのはぼくとナズナ、それから学生時代の弓道経験者数名である。他の者に教えている暇はなかったし、この距離ならば投擲の方がずっと効率的だった。
背後には大小様々な石や木材、手製の火炎瓶が用意されている。壁は鉄製であり、周囲もコンクリートで囲まれているので、多少の火を扱っても問題ないはずだった。
前面に戦闘員が配置され、その後ろに補助要員が待機している。彼らは物資の運搬や怪我人の輸送を行う人々だ。まだ成人していない少年少女で構成されている。前面に立って戦うのは、結木夫妻以下の「大人」たちである。ナズナはぼくの直属ということで、特別に加わっていた。
皆緊張しているようだった。ぼくも脈拍が上昇するのを感じていた。小規模な対人戦は幾度もこなしてきたぼくだったけれど、こんな昔の籠城戦みたいな戦闘は初めてだった。これまでとまるで勝手が異なる事態に不安を感じずにはいられない。だがそれを胸の奥に封じ込め、ぼくは飄々とした態度を崩さなかった。
ミヤコに「余裕そうね」と皮肉られるくらいだから、ぼくのハリボテはうまく機能しているようだった。
太陽はまだ沈みきっていない。それなのに近くの人間の顔が確認しづらい暗さになっていた。イオリたちはライトを点けるか迷っているようだった。近場を照らせば状況確認も容易にはなるが、それは相手にとっても同じことだった。わざわざ敵の足元を照らしてやる必要があるのだろうか。
意見を求められたぼくは、点灯に反対をした。確かに視界は悪くなるものの、この暗闇は敵の侵攻の足枷にもなってくれる。守備側と攻撃側では、暗闇のデメリットは攻撃側の方が大きいのだ。
我々は正面入口を突破しようとする敵を倒せばいいのであって、わざわざ精密な狙いをする必要はない。それに、強力なライトは敵の目眩ましにもなる。目が暗闇に慣れている時に強い光を向ければ、しばらくの間、視界を奪うことだってできるのだ。
結局ぼくの意見が採用され、ライトは正面に向けたまま無点灯を保った。これは使われるべき時に点灯されるだろう。
やがて、闇の向こうから集団が現れた。彼らは自動車を先頭にして隊列を組んでいた。何の変哲もない規則正しい並び方だった。別に足並みを揃えているわけでもないのに、それ自体がひとつの生き物のように見えた。
球場を利用した<街>は、周囲を広い駐車場に囲まれている。かつてそこには住人たちの住居があったのだが、敵の盾や隠れ家として利用される恐れがあるとして解体されていた。おかげでだだっ広い空間が横たわっていた。
悠然と前進してきた集団は、200メートルは離れた地点で停止した。軽く見積もっても<街>の総数と同等かそれ以上の規模だった。想像以上の戦力に味方側から呻き声がもれた。これだけの人間が集まることなど殆どない。その上、あの大勢の敵は自分たちを殺そうとしているのだ。実際にこの極限状態に置かれてみると、覚悟していたよりずっとストレスがかかることに気づいた。
すでに戦意を喪失している者もいた。幸いだったのは、この戦いが籠城戦だったことだろう。逃げ出そうにも逃走経路がないのだ。もしもこれが平野戦だったなら、きっとこの時点で脱兎のごとく逃げ出す者が続出したはずだ。
先に見える集団に動きがあった。
一台の自動車がゆっくりと前進を始めた。その前をふたりの人間が歩いている。ぼくはその顔がはっきりと見えた。この薄暗闇だというのに、ぼくの目は遠くの人間の表情まで読み取れる。五感が今までになく研ぎ澄まされているのを感じた。
ふたりの人間は「同志」と白沢リンネだった。
後ろに続く自動車には運転手がひとりであり、他には護衛もないようだった。残りの人間は動かずに沈黙を保っている。
何かの罠か、と我々は顔を見合わせた。イオリは無線で攻撃を控えるように指示を出していた。下手に相手を刺激すればどうなるかわかったものではない。それに、傍らにはリンネがいるので、矢を射かけたところで撃ち落とされるだろう。だから、彼の判断は間違っていない。
居心地の悪い沈黙が続いていた。我々はとてもゆっくりとやってくる相手に焦らされていた。あまりにも堂々としているので、気圧されている者もいた。
段々と近づいてくる相手に緊張は高まった。隣の人間の生唾を呑み込む音がやけに大きく聞こえた。
リンネを伴った「同志」は、背筋をぴんと伸ばした姿勢で歩く。服装は最後に会った時と変わらず、フォーマルな装いだった。上下が白で統一され、その清潔な感じは彼の雰囲気にとても合っていた。
敵の姿を目にした味方側は戸惑いを禁じ得ないようだった。自分たちを殺しにくる狂信者たち―――――もっと禍々しくて恐ろしい相手を想像していたに違いない。それなのに、目の前にいるのは、虫も殺せなさそうな人好きのする男性である。住人たちの困惑も無理はなかった。
一番人が集まっている正面入口前で「同志」たちは立ち止まった。背後にある自動車のライトをバックにした彼は、いつか見た柔和な笑みを浮かべていた。隣のリンネは油断なく周囲に視線を走らせていた。何かあれば、身を呈してでも「同志」を庇うつもりなのだろう。
両手を広げ、一歩踏み出した「同志」は、その場にはそぐわぬ朗らかな声で言った。
「こんばんは、皆さん。突然大人数で押しかけてしまって申し訳ありません。さぞかし驚かれたことでしょう」
まるでパーティーにでもやってきたみたいな台詞を言う彼に、住人たちは言葉もないようだった。誰もが引きつった表情だ。目の前で無防備に姿を晒す彼をどう捉えればいいのか、判断が付かないといった風である。
「おや、どうしたのですか? もしもし? わたしの声が聞こえていますか?」
「……聞こえているよ」イオリは酷い創作料理を前にしたみたいな顔で言った。「何か用があるのかい? 和平の申し出ならいつでも受け付けているぞ」
「和平?」思いがけない言葉を耳にしたと彼はからから笑った。ひとしきり横隔膜を上下させた後、「それは良い言葉ですね。実に素晴らしい。わたしも暴力は好みません。ですからこうしてお願いにやって参りました」
閉じられた目で我々を仰ぎ見た彼は、大勢の人間に敵意をもって見下ろされていることを毛程も気にしていない様子だった。それは目が見えないせいなのか、気づいていて無視しているのか。いずれにせよ、彼はこちらを脅威には思っていないようだ。
「お互いに傷つけ合うことは、とても無益で野蛮な行為です。わたしたちは理性ある人間です。話し合いをもって事態の収拾をはかるのが筋というものではないでしょうか」
「その意見には同意する。こちらも争いは望んでいない」
あんなに信者を引き連れてきて何を言っているのか、と言いたいだろうに、イオリはよく我慢してくれている。半ば茶番だと理解していても、最後まで衝突の回避を諦めないつもりのようだった。
「わたしたちはあなた方を傷つけたいわけではありません。どうか門を開いていただきたい」
「それは無理だ。あんたたちがこちらを襲わないと約束してくれない限り、門を開くわけにはいかない」
「襲うだなんて、そんなことをするはずがありませんよ」
我々は顔を見合わせた。それからイオリは視線を戻し、
「なら、信者たちを連れて帰ってくれるか?」
「それはできません」
「…………」
交渉をしているようで話が噛み合っていない。ぼくはそんな感触を覚えた。のれんに腕押しの相手に、イオリも苛立っている。彼らはそれぞれ要求を主張し合っているが、まるでうまくいっていない。
口論になっているわけでも無視し合っているわけでもない。見ているこっちも気分が悪くなってくる光景だった。
「あんたは我々を傷付けるつもりはないと言った。なのに門を開けろと言う。その後に何をするつもりなんだ?」
「<大いなるもの>の御元に還っていただくのですよ。わたしたちが『回帰』をお手伝いさせていただきます」
「……だから、それはおれたちを殺すってことなんだろうが!」
大声で怒鳴り返された「同志」は悲しそうに肩を落とした。初めての告白を断られた中学生みたいにしょんぼりとしていた。この場面だけ見た人間は、きっと彼を励ますに違いなかったのだろうけれど、この場の住人たちは険しい表情を崩すことはなかった。
「同志」の肩に手を置いたリンネは、「もういいでしょう。後はわたしたちにお任せください」と彼の手を取って、来た道を戻り始めた。その振り返り際、彼女と視線が交錯した。ナズナが硬直するのを感じた。ぼくは目線を逸らさずにリンネを見返した。表情を少しも動かさなかった彼女は、来た時と同じ速度で後方の集団へ戻っていった。
ぼくは無意識に両腕を庇っていた。大丈夫、まだ自由に動く。
このまま「同志」たちが家に帰るはずはない。これは宣戦布告だったのだ。もしかしたら彼は本当に我々を説得しようとしたのかもしれないけれど、無血開城の先に待っているのは大虐殺だ。彼はそれを悪いことだと思っていないのが余計にたちが悪い。
一度は緩和した空気が、再びぴんと張り詰めていた。
今までは様子見だった。これからが本番なのだ、と誰もが確信していた。




