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第37話

 ここ数日、キララの無気力症状が長引いている。普段なら翌日には回復していることが多いのに、なぜか今回は次の日になっても回復しないのだ。最近はずっと調子のいい日が続いていたので、急に調子を悪くしたキララが心配だった。


 ナズナもやっと仲良くなれた矢先のことだったのでショックのようだった。言葉に反応しなくなったキララの姿に寂しげな表情を浮かべている。


 それでもぼくたちは戦いへの準備を怠るわけにはいかなかった。


 ぼくはナズナに射術の練習をさせる傍ら、<街>の住人に混じって防衛の訓練をした。予想通りに彼らは戦い慣れていないようで、街の警備をしていた30名前後を除くと使い物になるか甚だ疑問だった。


 そこでできるだけ使い物になるよう訓練に協力を申し出たのだが、それがまずかった。住人から幹部格にその様子は伝わったようで、ぼくはミヤコたちに呼び出しをくらったのだった。


「あまり勝手なことをされると困るのよ」と結木ミヤコは苦虫を噛み潰したような顔で言った。「わたしたちにはわたしたちのやり方があるの。わたしの言ってること、わかるかしら」


「ああ、わかるよ」とぼくは言った。「でも、このままだと満足に彼らは戦えないんじゃないかな。本番になってそれは困るはずだよ」


「それこそあなたの考える問題じゃないわ。……余所者のあなたに」


 ミヤコの最後の言葉に、ぼくの傍らにいたナズナはむっとした顔をした。相手側のイオリも「言い過ぎた」と妻を窘めている。しかしながら幹部連中の大半はミヤコに同意見らしく、ぼくを見る目に好意的な色はなかった。


 まあ、仕方のないことなのかもしれない。戦い前のぴりぴりしている時期だし、途中参加のぼくたちは、ただいるだけで異物と捉えられてしまうのだろう。彼らの過剰な反応もわからないこともなかった。


 悪くなった空気を何とか緩和させようとイオリは奮闘している。彼は苦労人のようだ。ぼくは彼に通ずるものを感じた。あまり彼の負担になるような問題は起こさない方が懸命だろう。これでは戦う以前に彼が参ってしまう。


 ぼくは頭を下げた。「確かに、ぼくが口を出すことじゃなかったかもしれない。申し訳ない」


 素直にぼくが頭を下げたことが意外だったのか、一瞬ミヤコは怯んだものの、まだ矛先を収めるつもりはなさそうだった。


 想像以上に彼女は外部の人間に対して拒否反応を示している。有事だけあって気が張っているのかもしれないが、生来の性格もあるだろう。


 身内に対しては絶対的な信頼を置く反面、余所者に冷たいのは日本人気質の典型例である。別に彼女だけが特別ではなかった。これまでの集落でも、同じような人間はどこにでもいた。だからこそ、ぼくを快く受け入れてくれたゆのかわの人たちのことは驚きだったのだ。


「それに、子供たちにも戦う方法を教えているそうじゃない」


「子供たちに……?」


 言われて、ぼくは首を傾げた。この<街>に来てから、面倒を避ける意味で子供には会っていない。彼らから「お父さん」なんて呼ばれた日には、危険人物決定である。この状況下では、少しでも不安要素はなくしておきたいだろうから。


 ミヤコは腕を組んで、ずいっとぼくににじり寄った。「あの子たちは後方支援をさせるから、別に人を傷つけるような技術はいらないの。あなたは子供たちに人殺しの技術を教えていたのよ? それがどういうことなのかわかってるの?」


 ああ、彼女が言っているのはあのことか、とぼくは思った。


 この<街>で多くを占めるのは、ナズナと同じくらいの少年少女である。それは大人たちと同じくらいの人数なので、彼らを動員させない理由はないからと迎撃の方法についてレクチャーしたことがあった。ミヤコはその件についてご立腹のようだった。


 ミヤコにとって、「子供」とはナズナのような年齢の子たちも含むということなのだろう。キララのような無気力症状を示す12歳以下の子たちを「子供」と考えるぼくとは、その認識について隔たりがあるようだ。


 彼女の主張を聞く限り、子供たちにはできるだけ殺しをさせないようにするらしい。後方支援に専念させ、「大人」が前面に立って敵の迎撃にあたる。それが子供を守る大人の役目なのだと彼女は言った。


「でもそうなると、戦力が手薄になるのでは? 住人の3分の1を占める彼らを全て後方に回すってこと? 女性だけでなく男性も?」


「そうよ。それくらい、わたしたちがカバーしてみせるわ」


 他の幹部たちを見回すと、誰もが力強い表情で頷いている。どうやらこの<街>は、かなり「子供」の保護意識が高いようだった。人数が多いせいかもしれない。


 人出が足りない集落では、無気力を示す12歳以下の子供を除く全ての住人が総出で事にあたるのが当たり前だ。大人も子供も、女も男も、等しく労働をするのだ。確かに、中には適材適所で振り分けられることもあるが、子供は危険なことをしなくていいというわけでもない。それなりに責任のある仕事にも就かせる。


 ゆのかわの集落では、防衛にあたって大人と子供の区別はなかった。そんな余裕はなかったからだ。全員が武器を持って迎撃にあたる役割を負っていた。


 しかしながら、この<街>は人数が多いので余裕が出てくる。その余裕が本当に「余裕」なのか知れないけれど、それによって人権派とも呼べる集団ができあがったのだろう。結木夫妻の持つ傾向が反映されてもいるはずだ。


 ここではぼくの方が異端なのだ。それを弁えておかなければならない。背後からぶっすり刺されるのは勘弁願いたいから。


「……了解。いろいろと迷惑をかけてしまったみたいだ。これからは大人しくしてるよ」


 しゅんとしてみせると、イオリは慌てて「そこまで落ち込む必要はないよ」と慰めてくれた。相変わらず人のいい男だ。苛烈な性格の妻に人好きのする夫。結構よくできたコンビなのかもしれない。


 ……アカリに似たミヤコに嫌われるとは、何とも皮肉なことではあるが。


 彼らを見ていると以前の<街>を思い出す。タクミやアカリたちと造り上げた<街>だ。そのせいで余計なことをしてしまった。ここは思い出の場所とは違うのだ。ぼくはここでは余所者に過ぎず、ただの要注意人物である。


 ミヤコはぼくの傍らに目をやって、


「ナズナさんにも危ないことを教えているみたいじゃない。あまり感心しないわね。彼女はまだ子供なのよ? それなのに人殺しをさせるような真似を……あなたの品性を疑うわ」


「ッ!?」


 跳び出そうとするナズナをぼくは押し留めた。「どうして!」という顔をしてくる彼女の腕を掴んだまま、「いいから」とぼくは小さく囁く。ここで揉め事を起こしても一銭の得にもならない。むしろ関係が悪化するだけだ。


 それに彼女の言いぶんは全くの正論なのだ。殺しを容認しているぼくが邪道なのであって、殺しを禁忌するミヤコたちの方が正道である。


 そんな理想論など通用しないのだとナズナは思っているのかもしれない。確かに現実主義は時代に沿った考えではあるけれど、それが全面的に肯定されるわけではない。ナズナのように「現実」を知った少女には、ミヤコたちの主張は甘っちょろく聞こえるかもしれない。けれども、真実だからといって、それがコミュニティーにそのまま適用されてはならないのだ。


「殺される前に殺す」これは現在の荒廃した社会では、確かに仕方のないことだ。だからといって推奨されるわけではない。


「子供であっても、自分の力で生きていかなければならない」確かにその通りだ。だからといって大人の保護を受けてはならないというわけではない。


 ナズナはぼくの影響を多分に受けてしまっているので、好戦的とも言える性格をしている。これは旅を行う上ではプラスに働くものであったとしても、ここの<街>のような環境下では、マイナスにもなるのだということを教えておくべきだった。


 ぼくとしても、こんな前時代の倫理が通用する場所が残っているとは思いもしなかった。もしかしたら、彼らは今まで至極順風満帆にここまでやってこれたのかもしれなかった。だから危機に対して鈍感なのだ。


 大きな危機に見舞われたことがないのはいいことなのだろう。しかしながら、今回みたいな状況に追い込まれてまでも、その危機を認識できないのは大問題だった。


 イオリたちがのこのこと敵陣まで向かったことも、この経験の浅さが関係しているに違いなかった。


「その辺にしておきな、ミヤコ」


「……イオリ?」


「彼の言うことも間違ってないと思うんだ。子供たちはともかく、他の皆でカバーするにしても、何だか士気が低いような感じがするんだよ。あまり深刻じゃないというか……」


「それは……」


 思い当たる節があるのだろう、ミヤコはバツが悪そうにしている。


 深刻に捉え過ぎて行動不能に陥るのは論外だが、危機感がないのもまた問題だ。住人たちを見ていると、危険だ危険だと言いながらも、あまり切羽詰まっていない感じがする。どこか他人事なのだ。


 それは今まで一度も襲われたことがないゆえのことかもしれないし、実際に<絆教>の所業を目にしていないせいかもしれない。いずれにせよ、彼らは敵を知らないために想像力不足に陥っている。オカルトチックな変人集団がちょっかいを出してきている、くらいにしか考えていないのかもしれなかった。


「おれたちが適度に敵の情報を皆に知らせてみるってのはどうだ? セイジは実際にやつらとやりあったこともあるらしいし」


 驚愕の表情を浮かべたミヤコがぼくに「本当なの?」と訊いてくる。ぼくは肯首した。


 イオリの提案は名案だった。ぼくは<絆教>との因縁はそれなりにあるから、わかったつもりになっていたけれど、他の人間たちはそうもいかない。敵の正体を満足に知らないのに、危機感を持てと言われても困るはずだ。ぼくたちの実体験を聞かせるのは、結構いい方法かもしれないな、とぼくは思った。


「わたしたちもイオリからあらかたは聞いたけど、ちゃんとした話はまだなのよね。だからいい機会かもしれない」とミヤコは幹部たちに確認を取りながら、「あなたの話も聞かせて貰えるかしら?」


「それはもちろん」とぼくは答えた。「結構残酷な話になってしまうけど、<絆教>が何をしたのかは知っておいた方がいいと思う。そうすれば、危機意識も持ちやすいんじゃないかな」


「なら、決まりね」


 その後、ぼくたちは住人を集めて<絆教>に関する情報公開を行った。イオリたちが和平交渉行ったのに捕らえられたこと。もう少しで殺されるところだったこと。


 そしてぼくからは以前に襲われた集落の話をした。無抵抗の住人の足を切り付けて逃げ出せないようにしたこと。その後にケモノの餌にしようとしたこと。ぼくが実際に経験したことだったから、結構真に迫っていたと思う。住人たちもぼくの話を真剣に聞いてくれていた。


 これで少しは状況が改善してくれればいいのだけれど。ぼくは彼らと心中するつもりは毛頭ないのである。


 きっと彼らは、ぼくたちよりも住人の安全を優先するだろう。だからぼくたちも彼らより自分たちを優先するつもりで戦いに臨む。


 ぼくたちの目標はできるだけ<絆教>の人間を減らすこと。ゆのかわの集落のためにできるだけのことをしておかなければならないのだ。


 ……あなたの懸念は正しいよ、ミヤコさん。


 ぼくたちは所詮余所者なのだ。




   ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■




「キララちゃん、食事してくれませんね……」


 ぼくは深刻に頷いて返すことしかできなかった。キララの症状は回復せず、食事もまともに摂ってくれない。常人ならばとっくに栄養失調になっていても不思議ではない。だがキララの外見上は至って健康そのものだった。


 聞くと、他の子供たちも同じように症状が悪化しているらしい。全く食事をしない子も中にはいるそうだ。なのに彼らは少しも辛そうではない。極限まで活動を抑制したように、身動ぎひとつせず空を見上げている。


 キララもその例にもれず、ぐずついた空模様を飽きることもなく眺め続けていた。


 子供たちの変化に戸惑っているのはぼくだけではなく、結木夫妻や他の親たちも同様である。お互いに情報交換をしたものの、あまり状況は芳しくない。これまで小康状態を保っていた症状がなぜ急に悪化したのか、誰にも理由はわからなかった。


「嫌な天気ですね」と灰色一色の曇り空に目をやったナズナが言う。「風も何だか生温い気がする……」


 彼女の言う通りだった。夏はとっくに過ぎ去り、秋の色が濃くなる時期である。風の匂いも変わってくる時分に、このような生温い風が吹いている。空模様と相まって不気味な様相を醸し出していた。


 日差しが弱いのがせめてもの救いではあったが、そんなことではこの憂鬱な気分が晴れることはない。


 ぼくたちは、まるで通夜みたいに消沈したまま仕事を続けた。準備はいくらやっても足りないくらいだ。機械類が使えない現在、全て手作業で行わなければならない。自然、進行速度もゆっくりとしたものになる。


 特に入口のバリケード化作業が手間取っているようだった。敵が来る前に完全に塞いでしまうわけにもいかないので、正面入口は可動式にする必要がある。他の入り口はがっちりと閉じてしまっても構わないものの、それだって簡単には行えない。


 400人全員が力作業を行えるわけでもないのだ。実際に現場で動く人数は、100人程度だった。他は物資の運び込みや偵察などの雑務をこなしている。


 グラウンドにはテントや掘っ立て小屋が所狭しと立てられ、物置兼居住区になっている。物資の置き場には困らないとしても、一度入り口を破られればそれでお終いである。グラウンド部分の防衛能力はゼロに等しい。


 入り口が破られた場合のプランも一応考えられているようだった。イオリの話では、男たちが侵攻を食い止めている間、非戦闘員は電光掲示板の下にある整備室から外に逃げ出す算段だそうだ。地下通路になっているそうなので、敵に見つからずに脱出することができる。


 とは言っても、一度に大量の人間が通ることはできないので、その逃走のための時間を稼ぐ必要があった。


 まあ、この逃走プランは最後の手段であるらしいけれど。


 ここを追い出されれば、他に行くあてのない者が大半である。<街>の外は<絆教>のテリトリーになってしまっている今、そこから逃れるのも難しいはずだ。脱出と安全はイコールではないのだ。


 入り口が破られれば、後はないとぼくは考えている。イオリやミヤコたちも、口には出さないまでも共通の認識をしているはずである。


 すでに我々が解放されてから2週間近くが経とうとしている。その間、何事もないのがかえって不気味だった。




   ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■




 その夜、キララが熱を出した。辛そうな顔を全くしないものだから、気が付くのに時間がかかってしまった。それに夜間ということもあって、顔色の判別が付かなかったせいもある。その上、こんなことは初めてのことだったのだ。


 キララが倒れて初めて異変に気づくとは保護者失格である。ミヤコたち母親連合に責められるのも当然だった。


 布団に寝かせ、頭に濡れタオルを乗せる。幸い、熱冷ましはぼくの在庫にあったので、それを飲ませた。市販の薬なのでそこまで強力ではないが、風邪からくる熱程度ならば効くはずである。


 看病が一段落しほっとしたのも束の間、今度は他の子供が熱に倒れた。それも一斉にである。昼間まで風邪の症状など全然見せていなかったのもキララと一緒だった。


 何らかの伝染病を疑ったものの、他に症状を発症している人間はいない。風邪気味の人は多少いたものの、喉が痛いとか鼻水が出るといった軽い症状だ。彼らは関係がなさそうだった。


 子供だけに発症する病ではないかという意見も出た。我々はロウソクの炎の下、家庭医学辞典を囲んで病名を探してみた。けれども子供たちに表れている症状は、高熱のただ一点である。発疹や腫れは見当たらない。腹痛や下痢もなさそうだ。


 よしんば自覚症状があったとしても、無気力状態の子供たちは、自ら苦しみを訴えてはくれないだろう。


 僅かに看護師経験のある女性がひとりいたが、彼女もお手上げのようだった。安静に寝かせて汗を拭きとってあげるしかない。


 ぼくは横たわる子供たちを見て、不謹慎にも今まで一番人間らしい様子を見せているな、と思った。食べ物を殆ど食べずに平気な顔をしていた彼らと比べれば、熱にうなされる様は実に人間味に溢れていた。もっとも、それを口にしたら、親たちからなぶり殺しにされそうだったが。


 子供たちの親に混じってぼくはキララの看病を続けた。結木夫妻は襲撃にも備えなければならないので周囲の人たちが無理矢理に休ませた。懸命な判断である。


 ぼくも深夜を過ぎた頃、他の母親に看病を代わって貰った。寝不足で力を出せず、大事な人を守れないなんて結果は馬鹿らしい。ぼくは自分のやるべきことをやるべきだった。


 あっという間に夜は明けた。うつらうつらしているうちに太陽は昇っていた。昨日とは打って変わった晴天だった。目に痛いくらいの青空が広がり、美しいコントラストを描いている。


 ぼくはサングラスをかけ、キララの様子を見に行った。昨夜よりもずっと落ち着いているようだった。看病してくれた人の話では、夜が明けるのと同時に子供たちの熱が下がったらしい。


 ……なぜ症状の変化が揃うんだ?


 熱を出したのも、引いたのも同じタイミングであるなんておかしいではないか。もしかしたら病気ではないのかもしれない。<絆教>の襲撃が迫る中、とても不吉な出来事だった。


 ぼくは看病してくれた女性に礼を言って、キララの看病を代わった。といっても、もうやることは殆どない。キララの寝息は安らかだった。顔色も悪くない。


 凝り固まった身体をほぐそうと立ち上がる。キララを起こさないよう離れた位置でぼくはストレッチをした。ずっと身体を曲げて看病していたから、筋肉を伸ばすのが心地良かった。


 身体を動かしていると、一瞬だけ太陽を直視してしまった。サングラスのおかげで事なきを得たものの、ぼくは違和感を覚えて凍り付いた。


 目を細め、手でなるべく光を遮りながら、恐る恐る太陽を見た。昔に遮光板を通して見たようなオレンジ色の太陽だった。その中心部にそれはあった。


 黒点だ。太陽の直径に対して10分の1くらいの黒点が中心部分に浮かんでいた。肉眼でもはっきり見える大きさだった。サングラス越しでようやく捉えられる。裸眼では太陽の光にやられて見えないだろう。


 その黒点は異様な様子だった。ただの球形ではない。まるでアメーバが蠢いているようだった。ゆっくりと、だが確実に動いている。ぼくはぞっとした。胸が酷くむかついた。あれと同じような感覚を覚えた時がある。


<黒いケモノ>が出現する瞬間である。初め、ケモノはヒトガタで現れた。その時のヒトガタは決まった形を取っておらず、ゆらゆらとゼリーのように揺らめいていたのを思い出す。その感覚と非常に似通っていた。


 ぼくは吐き気を我慢できず戻してしまった。空いたスペースで運動していたのが幸いだった。身体を折り曲げてぼくはえずいた。胃の中には何も入っていなかったようで、胃液ばかりが喉を迫り上がり、焼けるようだった。


 ようやく吐き気が収まると、今度は両腕が痙攣し始めた。まるで自分の思い通りにならない両腕を押さえ付ける。傍から見れば狂ったように見えるかもしれない。早朝であるせいか、人影がないのが救いだった。こんな光景を見られたら病人認定されてしまう。


 歯を食いしばって痙攣が収まるのを待つ。それは酷く苦しい時間だった。呼吸はまともにできないし、吐いたばかりなので口の中は気持ち悪い。おまけに上半身は不気味なくらい硬直していた。


 どれほどの時間が経っただろう。気が付くと腕の痙攣は収まっていた。


 ぼくはのろのろと起き上がり、服を肘までまくり上げた。両腕とも肘から下が変色していた。毛細血管が浮き出たようになっている。黒い筋が肘下から末端に向かって幾筋も浮き上がっていた。


 鈍い疼きは残滓のように取り残されていた。ぼくは自分の両腕を気味悪げに眺めた。両腕が普通ではないと気づいてはいたが、ここまでとは思いもしなかった。やはりあの晩にぼくの両腕は<黒いケモノ>によって喰い千切られていたのだろう。


 なら、この現在の両腕は何なのだ? まるで移植された腕が拒絶反応を起こしているみたいだ。考えたくないことだが、もしかしてケモノによって再び腕を据え付けられたのかもしれない。


 その理由は? わかるわけがない。やつらの考えなんて及びが付くはずがないし、その理由が明らかになったところでどうしようもない。今腕を切り落としたら、ぼくはただのお荷物になってしまう。


 この両腕が明らかに悪影響を及ぼすというのなら、ぼくは迷いなく切り落とすつもりだった。けれども、事態がはっきりしないうちに行動に出るのは危険だろう。身体から切り離した瞬間、ケモノが中から溢れ出ないとも限らない。それくらい不気味な腕だ。


 服を戻せば普通の腕にしか見えない。両手部分は健康的な色を保っている。……それもいつまでこのままなのか知れないけれど。


 口の中が気持ち悪いので水を貰いにいくことにする。朝も早いが、食事当番に当たっている者はすでに起床して準備を始めていた。ぼくは挨拶をして水を一杯貰った。口の中をゆすぐと多少は気分も楽になった。


 このまま帰るのもあれなので、調理を少し手伝った。といっても、野菜の皮むきなどの簡単な作業だ。


 この<街>でも付近の畑を使って農業を行なっていた。しかしながら豊作とは言いがたく、毎日食卓に野菜がのぼる程収穫できているわけでもなかった。農業の発展具合では、ゆのかわの方が進んでいるかもしれなかった。


 キララの下に戻ると、すでにナズナの姿があった。


「おはようございます、先生。キララちゃんの熱、下がったみたいですね」


「そうだね。朝方には回復してたそうだ。本当によかったよ」


 キララからぼくに視線を移したナズナは、見るなり顔色を曇らせた。


「先生、顔色がすごく悪いですよ……」彼女はぼくの額に手を当てて、「土気色そのものじゃないですか……」


「そのことで話があるんだ。顔色が悪いのは病気とかそういうものじゃない。……いや、ある意味病気よりも厄介かも」


 歯切れの悪いぼくの言葉に彼女は顔を顰めた。キララのこともある。病気がうつったのかと考えられても不思議ではない。ぼくは彼女に予めそれを断っておいて、周囲に人気がないことを確認した。


 彼女の目の前で腕をまくり上げ、黒く変色した両腕を見せる。目を見開いて息を呑む彼女に、「ぼくも見ていて気持ちのいいものじゃないけど、痛みはない。朝起きたらこうなっていたんだ」


「で、でも、調子が悪いのはこのせいなんじゃ……?」


「かもしれない。でもぼくが思うに、これは病気とか怪我の類じゃないと思うんだ。この嫌な感じ……覚えがあるだろ?」


 ナズナも白沢リンネや「同志」の<黒土>を見たことがある。だからぼくの腕にも同じ印象を受けるはずだ。


「それは……はい」ととても言いづらそうに彼女は肯首した。この毛細血管が黒ずんでいる腕からは不穏な気配がする。生理的に受け付けられない<黒土>と似通った空気だ。自分の腕ではあるけれど、できることなら遠ざけたい思いに駆られる。


「理由はわからないけど、この通りぼくの腕はまずいことになってる。今は直接的な影響はないからいいとしても、この先はどうなるかわかったもんじゃない。だからナズナには頼んでおきたいんだ」


「……」


「もしもぼくが異常な行動を取ったりし出したら、君にぼくの処分を頼みたいんだ」


「そんな、先生。処分って、そんな言い方……」


 ショックを受けたように言葉に詰まる彼女へぼくは言い聞かせた。


「もちろん、できるだけ君の手を煩わせないようにはするつもりだ。でも絶対とは限らない。だから君に頼みたいんだ」とぼくは言った。「残酷なことを頼んでいるとはわかってる。でも、君にしか頼めないんだ、ナズナ」


「わたしに、先生を殺せっていうんですか!? そんなのは絶対嫌です! できません、そんなこと……」


 ぼくはきっと酷いことを言っている。年端も行かない少女に殺人を強要している。彼女はぼくを慕ってくれている、それくらい自分でも理解している。でも他に手はないのだ。これはぼくのわがままなのだと思う。見ず知らずの他人に殺されるくらいなら、ナズナの手で送って貰いたい。


 もちろん、それは最悪の場合のことだと何度も根気強く説明した。ぼくだって死にたいわけではないのだ。けれども、この得体の知れない腕を付けているぼく自身が、この先どうなるか全く予想がつかなかった。


 ぼくはそっとナズナの手を取った。彼女は嫌がらなかった。そのことにぼくは感謝する。この子はとても強い子だ。それでいて優しい子だ。


「この手がいつおかしなことになるかわからない。今は血も通った人の手だ。だけど、リンネや『同志』の姿を見ているからわかるだろう、ナズナ? あの泥みたいなものは人の手には負えない代物だ。そのせいで君たちを危険に晒すわけにはいかないんだ」


「でも……」


「ナズナ、よく聞いて。ぼくが一番守りたいものは君やキララなんだ。これは誰に頼まれたわけでもない。君たちのことが大好きだからだ。それなのに、ぼくのせいで君たちを傷つけてしまったら、きっとぼくはもう生きていけない」


 俯き、今にも泣き出しそうなナズナは、懸命に涙を堪えていた。そうだ。彼女ならキララを任せることができる。もしもぼくが死んでしまったとしても、彼女ならばキララを守ってくれるだろう。


 無論、ぼくだって何もかも諦めているわけではないのだ。いざとなったら両腕ごと切り落としてやるつもりだ。彼女に頼むのは、それが失敗した時の保険だった。


「ぼくは君の命を助けたんだ」とぼくは彼女を見据えて言った。「だから、今度はぼくを救って欲しい」


「ずるいですよ……そんな言い方」彼女は目端に浮かんだ涙を拭って、やがて小さく頷いてくれた。


 ぼくは彼女に感謝した。とても酷いお願いだった。彼女にも、彼女の姉にも顔向けできないものだ。だけどその一方で、ぼくは安心した。肩の荷がひとつ降りたみたいだった。それはナズナの肩に厄介事を乗せたゆえの開放感だった。だからこの感覚を喜んではならない。戒めにしなければならない。もしも自分がしくじった時は、その始末を彼女に押し付けることになる。これだけは絶対避けなければならないのだ。


「簡単に死ぬつもりはないさ。ぼくには守るべきお姫様がいるからね」


「……そうですよ、先生。先生が死んじゃったら、誰がキララちゃんを守るんですか。この子を守れるのは先生しかいないんです。この子には、先生が絶対に必要なんです」


「そう、かな」とぼくは言った。


「そうです。間違いなく」とナズナは言った。


 キララは気持ちよさそうに寝息を立てていた。胸はゆっくりと上下している。苦しげだった昨日とは雲泥の差だった。


 ぼくは穏やかな気持ちでキララの髪をすいた。寝汗でじっとりとしてしまっている。体調がよくなったら髪を洗ってあげなければならないな、とぼくは思った。


 顔を近づけてよく見ると、キララのまぶたの下で眼球が動いているのが見て取れる。夢を見ているのかもしれなかった。楽しい夢であったらいいな、と思いかけ、ぼくは背筋に氷柱を突き込まれた気分になった。


 ……夢を見ている、だって?


 ぼくはかつて悪夢にうなされた朝、何ともなしにキララに訊ねたことがある。「夢は見ないのか」と。その時彼女は何と言っていた? 確か「一度も見たことがない」と言っていたのではなかったか?


 夢は目覚めと同時に忘れてしまうことがある。だから「夢を見たことがない」と思っても不思議ではないのだ。夢を覚えていないだけで。


 だからキララが夢を見ていたとしても、どこもおかしなところはないはずだ。


 ―――――ない、はずだ。


「先生? どうしたんですか?」


 ナズナの怪訝な顔。ぼくは彼女の言葉に返さず、震える手でキララのまぶたに手をやった。その腕が鼓動に合わせて脈動する。キララの中にある「何か」と同調して歓喜している。ぼくにはそれがわかった。これまでにない感覚が己の中に芽生えていることを自覚した。聴覚、視覚、嗅覚、触覚、そして長年ぼくを困らせてきた第六感とも呼べるもの。それらが一様に強化されているのを知った。


 ぼくはキララのまぶたを開いた。絶句する。ナズナは口元を押さえて瞠目した。今にも卒倒しそうだった。悲鳴を上げるのを何とか堪えた。ぼくも、ナズナも、魅入られたようにキララの瞳から目が離せなかった。


 まぶたの下のキララの眼球には、黒い影が不気味に蠢いていた。

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