第36話
住人たちへの説明はイオリが全て行なってくれた。彼の人徳は絶大のようで、おかげでぼくは労せずして受け入れて貰えることになった。
しかしながらいつの間にか、<キャラバン>として滞在する傍ら、この<街>が直面している問題にも協力することになっていた。ぼくは一言も協力を申し出ていないのに、一蓮托生みたいな空気になっている。まあ、実質その通りなのかもしれなかったけれど。
いきなり顔をじろじろと見てしまったせいか、結木ミヤコのぼくへの第一印象はよろしくないようだった。サングラスをかけたままのぼくも悪かったかもしれない。それに元々の性格もあるのかもしれないが、彼女の態度は硬いように思える。
初対面の相手に顔を凝視されては気分も害すだろう。ぼくはデリカシーのない行動を反省した。後で謝罪しておいた方がいいかもしれない。
自動車2台ぶんの幅はある正面入口から中に入る。入り口に反して室内はあまり広くない。大勢が押しかけたらすぐにすし詰め状態になってしまうだろう。コンクリート造りで冷たい空気が漂っている。灰色の壁に四方を囲まれていると、気のせいか息が詰まってくる。
そのまままっすぐに突っ切ると、いきなり視界が広けた。グラウンドに出たのである。
閉所から大海原にでも投げ出された感覚だった。360度を観客席に囲まれており、そこには簡易のテントが張ってあったり、物資が積み上げられていたりする。住人たちは忙しく動き回っている。見たところ、<絆教>の襲撃に備えた防備体制を造り上げているようだった。
「指示通り、準備はしてくれてたみたいだな」とイオリは言った。
「あなたが帰ってこなくて、みんな真っ青になってたけどね」と非難するようにミヤコは言った。「でも、ちゃんと生きて帰ってきてくれたからよしとしましょうか」
うんうん、と周囲の住人も頷く。交渉に出かけた自分たちのリーダーが帰らないとなれば、最悪の事態も想像するだろう。彼の出発を許した彼らにも非がないわけでもないだろうが、さぞかし心休まらぬ数日だったに違いなかった。
「夫を連れて帰ってきてくれて感謝するわ、<キャラバン>の方」
「別に助け出したわけではないですよ」とぼくは答えた。「たまたまそこに居合わせた、というより、一緒に捕まっていただけですから」
彼女は苦笑して、ぼくの隣にいるキララとナズナに「よろしくね」と挨拶した。元気に返事するナズナ。キララは初めて外人を見たみたいな目で彼女を仰ぎ見る。それからぺこりとお辞儀した。
その反応に目を丸くしたミヤコは、ぼくの肩を揺さぶりながら「どういうこと!?」と驚愕の表情を隠しきれない。その隣ではすでに数日前、同様のリアクションをしたイオリたちが「わかるわかる」と頷きあっていた。
現在、この<街>にいる子供の数は26人。全体で400人前後が暮らしているそうだから、子供の割合はかなり高い方だ。だがこれでも以前より少なくなっているそうだ。
話を聞くと、その理由があるらしい。
「……子供たちが消えた? 誘拐されたのではなく?」
事前にイオリたちから聞いた話では、<絆教>が子供の誘拐を行うこともあり、話し合いに向かったということだったはず。だがミヤコが主張するのは、子供たちが自発的に消えたというものだ。
「そうとしか考えられないわ。確かに、中には誘拐されてしまった子もいるかもしれない。でも、わたしたちの子供は違うわ。僅かだけど、受け答えができる子たちだったもの。いなくなったのは、わたしのすぐ傍にいた時だった。そんな距離で無理やり誘拐されれば、物音で気づくはずよ」
「……『子たち』というと?」
「わたしたちの子供は双子の女の子なの」
双子。その言葉を聞いて真っ先に思い出すのは例の少女たちだ。ぼくの前にふらりと現れては、意味深な言葉を残して消える少女たち。しかも最後に会った時は、他の子供まで引き連れていた。
ぼくとナズナは顔を見合わせた。きっと同じことを思っているに違いなかった。
「いなくなってどのくらい経つんですか?」とぼくは訊ねた。
「今月で4ヶ月になる」とイオリは暗い表情で答えた。普通に考えて、その期間を幼い少女ふたりが生き延びられるわけがない。<街>の外には、野犬やらゴロツキがうじゃうじゃしている。食料の問題だってある。
普通なら、すでに亡くなっていると考えるのが妥当だろう。
そう、「普通」なら。
「間違っていたら申し訳ないけど、その双子の名前は『ソラ』と『クウ』だったりしますか?」
「どうしてそれを!?」
夫妻の驚愕の声が重なる。娘の名前を言ってもいないのにぼくが知っているのだ。それは驚くだろう。
どう説明すべきかぼくは迷った。ありのまま伝えるべきだろうか。それにしたって、ぼくの乏しい語彙力では、彼女たちをありのままに語ることはできそうにない。
なるべく当たり障りなく答えようと決めて、
「そう名乗る双子に出会ったことがありまして。ここからそう遠くない場所です」
ぼくの言葉に夫妻は抱き合って声をあげた。「ああ、よかった! 生きていたんだ!」と喜んでいる。その喜びように水を差すわけにもいかないから、ぼくは双子の異常な言動は伏せておくことにした。
事の詳細を聞きたがるふたりは、このまま立ち話を続けるわけにもいかない、と応接間に通してくれた。といっても、そこはグラウンド脇にある選手の控えスペースだった。よくテレビでも監督や控えの選手が陣取っている場所である。
剣道部だったぼくだが、これでも野球は好きな方だった。だからこの場所には少し憧れていたのである。実際座ってみると、ベンチは硬いし、地面よりも低く造られているから風景はいまいちだった。2階建て新幹線の1階部分に乗った時と似たようながっかり感だった。
ぼくは結木夫妻にできるだけ詳細に双子との出会いを聞かせた。交わされた会話は省き、彼女たちの健康状態は悪そうではなかったと、両親ならば知りたがるであろうことを中心に話した。
すぐにでも探しに出かけそうなふたりだったが、<街>のリーダーとして無責任なことはできないと自戒していた。探したところで、彼女たちはそう簡単には見つからないだろうな、とぼくは思った。
もしも彼女たちが自ら親元を離れたのならば、自発的に戻ってくるのを待つしかない。彼女たちはキララよりも上位の力を匂わせていたから、一端逃走を始めたら追いつくのは不可能だった。
「今すぐにも探しに行きたい……だけど当面の問題は<絆教>だ。こいつらをどうにかしなきゃ何も始まらない」苦々しくイオリは言う。「話し合いのできない連中だということは身を持って思い知った。実力で追い返すしかない」
軍人でもない彼らにとって、いくら自衛のためだとはいえ暴力に頼るのは気が進まないのだろう。それは加害側にも被害側にも悪影響を及ぼすからだ。人間は襲われても傷付くが、やり返してもまた傷付くのだ。肉体的にも精神的にも。
まっとうに生きてきた人間ならば暴力を禁忌する。まっとうから程遠いぼくだって、無闇に暴力を振るう人間は大嫌いだ。理由があっても好きにはなれない。自分がその好きになれない人間そのものだから、余計にそう感じるのかもしれない。
「あいつら、訳のわからないことを延々と喋ってたんだ。殆ど意味不明だったけど、こちらを襲おうとしていることは掴めた。儀式だか何だか知らないが、結局やつらは人殺しの狂信者だってことだ」
吐き捨てるようにイオリは言った。嫌悪感の中にも恐怖の色が見え隠れしていた。彼自身の言う通りの狂信者が、どれ程恐ろしいことを仕出かすか。この世界に生きる者ならば誰だって知っているはずだ。
彼らの不安は正しい。恐らく<街>の防衛は阿鼻叫喚の地獄絵図になるはずだ。味方の被害だけを言っているわけではない。敵方のことを思うと、そう考えずにはいられないのだ。
宗教団体というだけでもまずいのに、信者を率いるのは「同志」と呼ばれる男である。彼は人智を超えた力である<黒土>を扱う。彼自身は直接的な攻撃力はないようであったものの、<黒土>を信者に植えつけることによって感情を制御していた。
恐怖を取り去った兵士程厄介なものはない。退却はしない、死を恐れない。死ぬまで戦い続ける。そんな化物じみた信者を前にして、果たしてここの住人は平静でいられるだろうか。
それに一番憂慮すべきなのは白沢リンネだ。一度彼女と殺し合っただけで、その並外れた戦闘能力を嫌という程味わわされたのだ。彼女の身体能力ならば、この周囲を覆う壁だってどうにかしてしまうのではないかという危惧がある。
内部に侵入されればそれで一巻の終わりである。内側から崩されて崩壊する。そうなれば、いいように蹂躙される道しか残っていないだろう。周囲を壁に囲まれているゆえに、今度はその壁は住人たちを閉じ込める檻になる。逃げ場を失い、なぶり殺しである。ああ、教団の連中からすれば「回帰」か。
とにかく、侵入をされないことを第一に考える必要がある。それはイオリも弁えているようで、急ピッチで出入り口の改装をしている最中だそうだ。
住人全員を収容しても有り余る広さを持つ球場である。籠城するにはもってこいの優良物件だった。
ここで敵の侵攻をいなし、数を減らす。向こうの人数が減り、疲労が溜まってきたところでこちらから打って出る。そういう魂胆であるとイオリは説明した。
住人の生活をまかなう備蓄は順調に行われているらしく、切り詰めれば2週間は持たせることも可能だという。
それでも不安は残る。籠城とは援軍があって成立する戦術である。この<街>の場合は援軍が望めない。とするならば、ずっと亀のようにこもるのではなく、初めからカウンターを狙うことになる。
一番良いのは防衛と同時に相手の数を減らしていく戦法だろう。しかしながら敵も馬鹿ではないから、被害が大きくなればひとつ覚えの突撃はしなくなる。そこからどうやって相手の人数を削るかが鍵だった。
「ところで、あなたはどうするの?」
すでにぼくを仲間内に数えている夫とは違って、ミヤコはあくまで現実的だった。見ず知らずの人間を引き入れる危険を承知しているようだし、元々ぼくに対して好感を持っているわけでもない。不安要素はなるべく少ない方がいいのだろう。
「彼も<絆教>に狙われてる身だ。一緒に戦うに決まってるだろう」と彼女の夫は言った。
その解釈は当たらずも遠からずといったものである。ぼくは確かに教団にロックオンされていると感じている。だけど逃げられないわけでもないと考えてもいる。向こうには探知能力に優れた子供がいるようだったけれど、逃げに徹すればその追撃を躱せないこともないと思うのだ。
別に信者がぼくひとりに対し、大挙して押し寄せてくるわけでもない。ただでさえ彼らは<街>攻めを控えている。片手で足りる程度の相手だったら、地形を利用すれば別個に撃破することも不可能ではないし、一網打尽にすることだってできる。
ただし、相手に白沢リンネが含まれているとなれば話は別だった。簡単な罠くらいなら、彼女は片手間に乗り越えてやって来る。正面からぶつかれば敗北は必至だった。彼女の力は未知数なので、どうすれば打ち勝てるのか見当が付かない。
「同志」はぼくとの衝突を望んでいるような口振りだった。そうである以上、彼女はぼくの命を狙う。それは逃げ出したところでどうこうなるものではなかった。きっと地の果てまででも彼女は追ってくる。ぼくはそう思った。
「イオリの言う通り、ぼくも狙われてる身だ。一緒に戦わせて欲しい」
「……そういうことなら構わないわ。その代わり、途中で裏切ったりしないでね」
「了解。絶対に裏切らないよ」
はっきりと言い切るぼくに、イオリは満足そうな顔をした。ここまで帰ってくるまでに培った信頼は無駄ではなかったようだ。
それに対して、ミヤコは終始懐疑的な視線のままだった。彼女の一貫したスタンスは好ましいものだった。このくらい用心深くないと集団のリーダーは務まらない。夫の補佐としては上出来だった。
せいぜい後ろから刺されないよう、ぼくは尽力するしかなかった。ナズナとキララの安全を第一に、次点で<街>の防衛。そのくらいは許されるはずだ。彼らだって、身内が最優先であるのは変わりないだろうし。
「改めて、よろしくお願いします」と我々は頭を下げ合った。
■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■
日が落ちてからも、住人たちは僅かな灯りを頼りに仕事を続けた。いつ<絆教>が襲ってくるとも知れないのだ。できるだけ準備を整えておきたいのだろう。
ぼくは彼らの姿を眺めながら、スミレの待つゆのかわの集落を思い浮かべた。
こんなことを考えては不謹慎かもしれないけれど、ぼくは狙われているのがこの<街>でよかったと思った。少なくとも、ここが健在のうちは規模の小さいゆのかわが狙われることはないはずだ。
「同志」が狙うのは大量の人間を「回帰」させることなので、規模の大きいところをターゲットにする。この<街>が狙われたのは、付近でも際立って大量の住人を抱えているせいだろう。
この<街>で教団を押し止めることによって、スミレとナズナたちの集落を護ることができる。ナズナと共に先程確認し合ったことだった。
ぼくは住人たちに指示を出すミヤコの後ろ姿をぼうっと見つめる。性格も喋り方も違うのに、どうしてこんなにも似ていると思うのだろうか。短い結婚生活の中で見た、キッチンに立つアカリの後ろ姿が重なって見えた。
彼女の死から立ち直ったと思っていたのは幻想だったようだ。ぼくは胸の中にあるわだかまりをはっきりと感じていた。
このままミヤコを眺め続けたらどんな噂が立つかわかったものではない。ぼくは腰を上げ、キララの相手をしてくれているナズナの元へ戻る。最近はあの子もだいぶナズナに気を許し始めたようで、ぼくから離れても大丈夫なようになった。
これも成長の証なのだろうか、とぼくは思った。喜ばしいことなのに、少しだけ寂しかった。
観客席には防衛用の物資が運び込まれ、乱雑とした様子を見せている。入り口付近の外壁には簡易の高見台が設置されており、そこから入り口に群がる敵に重量物を落下させて攻撃する。
防衛手段は限られてくるので、これはセオリー通りと言える。
住人たちは協力し合って効率的に作業を進めており、チームワークは悪くなさそうだった。しかし今までにない規模の戦闘なので不安も残る。この中の誰かが恐慌にかられて門を開けば、それで一巻の終わりだ。
「守る」「倒す」という当たり障りない言葉を使っているのも気がかりだ。果たして彼らは、その言葉の真の意味を理解しているのか。「殺す」という重圧に耐え切れるのか。
ぼくが近づいていくと、ナズナは作業をしていた手を止めてぼくの顔を見た。何か言いたげにしている。
「失礼?」とぼくは自分の顔をぺたぺた探索し、「顔に何か付いてる?」
「憂鬱感がべったりと」と彼女は言った。
どうやら心配させてしまったようだ。アカリによく似た存在のせいで、ぼくは予想以上に動揺していたらしい。これはいけない、と改める。こんな大変な時期に、過去に囚われている暇はないのだ。
「彼女が」とぼくは下の列で作業するミヤコを見やり、「どうにも昔亡くなった奥さんに似ていてね。みっともない姿を見せちゃったかな」
「そんなに似ているんですか?」
ぼくは彼女たちの隣に腰を下ろし、逡巡する。「顔がうりふたつであるとか、そういった身体的な面では、似てないね。でも、そう、何て言うのかな……物腰だとか、後ろ姿にはっとさせられることがある。全く、未練がましくて情けない」
昔の女を引きずる男は非常にみっともない。ぼく自身の話でなければ笑い飛ばしてやるところである。
気まずそうに沈黙するナズナ。こんな愚痴みたいなことを、この少女に言うべきではなかった。ぼくはそう反省し、努めて明るい声を出した。
「どれ、その弓を見せてみて」
彼女が調整していた弓を貸して貰い、しなり具合や弦の張り具合を調べる。ぼくのものとは違って弦は多少緩く張ってある。遠くの敵を狙う弓ではないし、今回は高所という条件である。連射性を突き詰めた方が無難だった。
「だいぶ使い慣れてきた?」とぼくは訊ねた。暇を見ては練習していたナズナである。まだぎこちなさは残るものの、結構様になってきている。止まっている獲物ならば矢を命中させることもできるはずだ。
「先生のようにはいきませんけど」とはにかみながら彼女は答えた。
キララを膝の上に乗せ、ぼくは開けた視界を仰ぎ見る。周囲を壁に囲まれているせいか、ぽっかりと空いた視界は際立って見えた。枠に収められたような、見事な星空だった。
じっと見上げていると、一瞬星の光が揺らいだ気がした。目を何度も瞬かせて、もう一度凝らしてみるも、先程のような揺らぎは見られない。
……気のせいだった?
いや、こういう変な予兆のようなものを気のせいと日和見するのはいけない。重要なサインというものは、大体が見落としがちな所にあるのだ。
ぼくは目を細めて辛抱強く揺らぎを探した。しかしながら、その揺らぎを再度見つけることはかなわなかった。星々は遥か彼方でずっと昔の光を放ち続けている。
「先生とキララちゃんって、星空が好きですよね」
視線を下げると、両手を突き上げているナズナの姿があった。その手には手製の弓が握られている。
「そうだね」とぼくは答えた。「昼間の世界は眩し過ぎる。ぼくはこの星明りとか、まばらな星々が気に入ってるんだ。見ていてとても落ち着くしね」
彼女は無言で頷いた。キララも一緒になって夜空を見上げている。
この地球において、ぼくたちは石ころにも満たない存在でしかない。そのぼくたちが、地球にへばり付いて宇宙を仰ぎ見ているのは、何だか不思議な心地だった。
「先生は、怖くないんですか……?」
「それは何に対して?」
「殺されそうになることとか、殺すことに対してです」とナズナは自身の手を握りしめながら、「怖気付いたわけじゃないんです。でも、わたしは不安なんです。自分ではしっかりしているつもりです。でも、その時にわたしはちゃんとやれるんだろうかって。大事な時に失敗するんじゃないだろうかって」
「誰だってそう思うことがあるはずだよ」とぼくは言った。「ぼくだってそう思ってる。いつ失敗するんじゃないかってびくびくしてる。でも口に出さないようにしてるし、虚勢を張って、絶対うまくいくと思うようにしてる」
ニヒルな笑みを浮かべてナズナにそう言うと、彼女は口元を緩めた。戦闘の前は誰だって緊張するし、嫌な未来を想像するものだ。もしかしたら、もしかしたら……。そんな不穏な空気にやられて、戦う前から戦意を喪失するのも珍しくはない。
ナズナには黙っているけれど、<街>の住人たちにもそのような症状の人がいた。それを結木夫妻以下指導する立場の人間は、深刻な問題として捉えていた。このままでは戦う以前の問題だった。下手をすれば、自分だけ助かろうとして裏切る輩が出てくるかもしれない。
古来より、防壁の扉を開けるのは裏切り者と相場が決まっている。敵の襲撃のみならず、味方に対しても神経質にならざるを得ない状況だ。彼らも苦労しているに違いなかった。
最悪の事態を考えることは重要だ。けれども、それは戦略面でのことであって、普段からあれこれと思い煩うのは自滅コースまっしぐらだ。それはそれ、これはこれ。そう割り切らないと最後まで続くはずがない。
それに、上に立つ者の不安は全体の士気を下げてしまう。ハリボテでもいいから、どんと構えているくらいの気概が必要なのだ。案外、そうすることによって思わぬ救いの手が差し伸べられることもある。
「安心しなよ、ナズナ。君は大丈夫だよ。ピンチの時は、ぼくが守ってあげる」
「根拠はないのに、頼もしい言葉です」茶化すように彼女は言う。「でも、それなのに安心しました。先生の言う通りなのかも。心配するのは、心配するべき時だけで十分ですよね。今から弱気になってちゃ、100パーセントの力も出せないですよね」
「その通りだよ」
一度後ろ向きになると、人はどんどん坂を転がり落ちていく。何もかもうまくいかないと思い込むようになる。それこそが一番危険なのだ。どつぼに嵌るとでも言おうか。そのせいで、目の前のチャンスも見落としてしまいがちになる。
諦めるのは本当の最後でいい。一回死ねば、もう死ぬことはないのだ。そう考えれば気も楽になるだろうさ……たぶん。
「その弓は君が産み出した君の相棒だ」
ぼくの言葉を聞いて、ナズナは手元の弓に目をやった。ここに来る前、ゆのかわの集落で彼女が自ら造った代物だ。調整も欠かさず行なっており、彼女の手にしっくりと馴染んだ様子を見せている。
「君が弓を引いたことをそいつはしっかり覚えてる。苦労したぶんだけ相棒は強くなってるんだ。だから不安になったら、そいつを頼るといい。ぼくなんかよりもずっと頼り甲斐があるはずだよ」
ナズナは天上に向けて弓を引いた。引き伸ばされる弦が一気に解放され、鈍い鳴き声を放った。とても頼り甲斐のある鳴き声だった。彼女は口端の笑みを浮かべる。そのまましばらく余韻を味わっていた。まるで何かを考えているみたいだった。
「相棒として、わたしはしっかりしないとですね。この子も早く故郷に帰りたいでしょうし」とナズナは大事そうに弓をなでて言った。
「これは君の故郷を守るための戦いでもあるんだ」とぼくは言った。
ナズナは正面から見据えてぼくの手を取り、「いずれ、先生の故郷にもなるんじゃないですか?」と小悪魔が囁くように訊ねた。
スミレの勝気な顔を思い出したぼくは「やれやれ」と肩を竦めた。なるべく危険は避けると約束していたのに、自ら頭を突っ込んだようなものだ。きっと彼女にどやされるに違いない。
スミレのもとへ帰る―――――そう自然と考えている自分に驚き、こういうのも悪くはないな、とぼくは思った。




