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第35話

「なるほど、あなたたちは争いを避けようと話し合いを試みたわけだ」


「それも無駄に終わったがね」


 結木イオリと名乗った男は深々とため息をついた。和平交渉に訪れた者を捕らえ、あまつさえ監禁してのける<絆教>の大胆さは見習わなければならないかもしれない。


 それにしても、僅か3人ばかりで敵地に乗り込むなんて無茶もいいところである。相手も相手だが、彼らも彼らである。浅慮に過ぎるのではないかとぼくが言うと、彼は「誠意を見せないと成るものも成らない」と返した。


 立派な考えだけれど共感できないな、とぼくは思った。


 知らない人間が急激に増えたせいか、キララはぼくの隣に座りたがった。なので荷馬車部分に3人とナズナが乗り合わせている。気のいいナズナのおかげで、だいぶ彼らの警戒心も緩んだようである。


 それにキララと親しいぼくを見て、<絆教>の手先でもないと確信したそうだ。彼が言うには、教団の人間は子供たちをまるで人間扱いしないらしい。しかも子供を攫っているという噂まであるそうだ。


 ……確かに、教団の連中は子供を「巫女様」とか呼んでいた気がする。


 それは人間扱いしていない証拠であるのか、はたまた崇めているゆえの非人間的扱いなのか判断できない。いずれにせよ、教団の子供たちに対するスタンスは、彼らには受け入れがたいものであったようだ。


 結木イオリはこれから向かう<街>のリーダーである。一国一城の主とも言える男が、自ら敵地に乗り込むとは恐れ入る。危うく殺されるところだったのを理解しているのかしていないのか、彼は同じ境遇だったぼくに親近感を覚えたらしく、我々は早々に下の名で呼び合うことになった。


「やつらに捕まるとは、<キャラバン>も楽じゃないようだな」とイオリは言った。「あんたも命が助かってよかった。それにお嬢さんたちも」


 彼はぼくと同年代であり娘もいた身だという。けれども、<絆教>が辺りに出没するようになって子供がいなくなる事件が頻発するようになった。彼の娘も行方不明になってしまった。教団の人間と思わしき不審者に連れて行かれるのを目撃したという証言もあり、また教団からの脅しもあって、今回の無謀な乗り込みを決行したのだそうだ。


「この子が無事で本当によかった」と彼はキララに優しげな視線を向けた。いなくなってしまった娘のことを考えているのかもしれない。自分の愛娘が誘拐されたかもしれないとあっては、冷静ではいられなかったのだろうな、とぼくは彼に同情した。娘を取り戻したい一心だったはずだ。その気持ちはぼくにも十分理解できた。


「だけど、あんたのおかげで<街>に戻ることができる。感謝するよ」


「さっきも言ったけど、あそこに居合わせたのは偶然だよ。あの『同志』という男の気まぐれがなければ、ぼくだってどうなっていたことか」


 実際のところ、「同志」は何かを意図してぼくを解放したようだけれど、この場で不審がられるような真実を言うべきではないだろう。あくまで相手の気まぐれで生き延びられた仲間なのだと思わせておいた方が懸命だ。


「このまま戻れず、危機を知らせられなかったら、我々は為すすべもなく蹂躙されていただろうな……」


 解放される彼らに、「同志」はわざわざ<街>の襲撃予定を教えたそうだ。まるで帰ってから対策をしろと言わんばかりに。あの男の考えは全然理解できない、とぼくは改めて思った。


 それから馬車に揺られること二日。彼らはぼくの抱える物資の豊富さに驚いたり、公爵夫妻に興味津々としていたりと、順調に帰路を進んでいった。


 中でも彼らにとって驚きだったのは、キララの夜の様子だったらしい。昼間よりも饒舌になり、歌まで口ずさむ姿は衝撃だったようで、その理由をしつこく訊ねられたのだった。


 理由を知るわけでもないぼくは、「自分にもわからない」と答えるしかなかった。


 彼らの<街>にも子供は少なからずいるそうで、やはり無気力で反応が殆どないようだった。「同志」の話を聞いた後であっても、子供たちは何か特別な状態に置かれているとしか理解できない。<大いなるもの>だとか<黒いケモノ>だとか、それらとの関係は実際に調べようがないのだ。「同志」がしたり顔で言っていたことをそのまま鵜呑みにするのはあまりにも危険だろう。参考程度に考えておくべきだった。


 ぼくがキララをこの姿にしたのではないとわかると、イオリはあからさまに意気消沈した。彼の娘も同じく無気力な状態だったのかもしれない。娘がいなくなった今でも回復のすべを探しているに違いなかった。親は強いのだな、とぼくは胸の中が暖かくなるのを感じた。


 尾行されていないか後ろを気にしながら<街>を目指す。彼らのガイドに従い、偶に国道を逸れて近道をする。住宅街を抜け、使われなくなった線路を越え、高架橋の下をくぐる。この付近は彼らの裏庭であるらしく、淀みないガイドのおかげでそれなりの距離をショートカットできた。


 予定よりずっと早く目的地に辿り着くことになりそうだった。<絆教>が襲撃の準備を整えていた以上、時間との勝負になる。イオリたちはなるべく早くホームに帰還し、対策を練らなければならないのだ。


 順調に行程を消化したぼくたちは、<絆教>から解放されて3日目に目的地に到達した。


 その<街>は人気のなくなった市街地の西にあった。周囲の建物が姿を消し、青空と先の風景が広がっている。そこだけ周りから切り取られたかのような錯覚に陥る。


 とても大きな球場だった。ぼくも何度かプロ野球の中継でそのスタジアムの名前を聞いたことがある。


 球場の周囲の広大な駐車場には掘っ立て小屋やテントが散在していて、住人たちはそこで生活しているようだった。ぼくたちの存在に気づいた面々がわらわらと集まってくる。


 イオリたちは馬車から降り、住人との再会を喜んでいた。


 彼らの歓声を聞きながら、ぼくはさり気なく球場の立地を観察していた。


 崖のようにそり立つ壁が球場を取り囲み、まるで城壁である。よじ登るのは不可能だろう。籠城するにはうってつけの物件であることは間違いない。だが孤立してしまう危険性も同時に孕んでいることを忘れてはならない。


 有事の際には周囲の住人たちは球場内に逃げ込み、防衛に専念するのだろう。無秩序に乱立しているようにも見える住居も、球場から離れ過ぎないよう考慮されているのが見て取れる。


 球場には入り口がいくつあるのだろうか、とぼくは思った。すぐにわかるのは正面入口である。もちろん、その要所は重点的に守備を固めるだろうから、問題なのは他の入り口である。住人の数はどれ程なのか知らないけれど、戦力はなるべく分散させない方がいいに決まっている。


 この球場は天井がないタイプのようだから、空からの攻撃には無防備であるものの、現在の状況で航空戦力を考慮する必要はないはずだった。


 しばらくすると、<街>側も事態に気づいたようで慌ただしさが増してくる。その集まってくる人間に目をやり、ぼくはぽかんと口を半開きにした。




  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■




 ひとつ、昔話をしよう。


 世空野アカリ。ぼくの元妻で、再会した当時は姓を変えており、世空野タクミと再婚をしていた。7歳になる娘がいて、その子の名前はキララといった。


 命からがら<審判の日>を生き延び、ぼくは毎晩続くケモノの襲撃を何とか躱し続けていた。都市部は特にケモノの襲撃が苛烈で、このままではジリ貧だと悟った面々は昼の間にできるだけ都市部中心から離れようとしたのだった。


 ぼくもその中のひとりであり、刑務所仲間がひとり、またひとりと数を減らす中、死に物狂いで避難を続けたのだった。


 ケモノに喰われるかもしれない恐怖と、極度の空腹に耐えながらの道程はまさに地獄だった。昼は人間同志で食料を奪い合い、夜はケモノ相手に隠れんぼや鬼ごっこを連日行った。


 今思い出しても、よく精神がもったなあ、と自分を感心せざるを得ない状況だった。あの時は無我夢中で、とにかく「死にたくない」という一心だった。相手がわけのわからない化物だとか、そういうのはどうでもよかった。自分を殺しにくるモノが人間であろうと人間でなかろうと、ぼくはただ生き延びるためだけに必死になって逃げ回った。その過程で人殺しも経験した。差し迫った状況下では、人はいくらでも冷酷になれるのだと思い知らされた。ぼくだけではなく、殆どの人間が、人間の命は食事一食ぶんよりも軽いのだと悟ったに違いなかった。


 誰も信用ならない。しかしながら、ひとり孤独に闘い続けるにはぼくは弱過ぎた。孤独に耐え切れなかったのだ。いつケモノに襲われるかと、か細いロウソクの火の前で過ごす夜が何日も続くと、次第に精神は擦り切れていった。


 生き残った者が集団になり、<集落>や<街>を形成していったのも当然の帰結だった。


 ここまで至る前に、生き残るため殺人を犯していたぼくは、今さら他人を頼れるかと単身で頑張るつもりだった。だけどそれは無理だったのだ。人間はひとりで生きるようにはできていない。誰かがいるからこその自分なのだ。


 ついに孤独に耐えかねたぼくは、人づてに自分を受け入れて貰える場所を探した。けれども、どこの集落も現状の住人を養うだけで手一杯であり、見ず知らずのぼくを受け入れてくれる場所はなかった。その時期、どこのグループにも属せなかった人々は厄介者扱いされていた。


 それでも幸運なことに、近くの<街>ならばあるいは、という助言を受けることができたぼくはその<街>を訪ね、ようやく受け入れて貰えることになった。


 その<街>のリーダーをしていたのが世空野タクミ、アカリの再婚相手であり、キララの父親だった。


 新入りとして紹介されたぼくは、その紹介の場で元妻のアカリとも再会することになったのだ。離婚と再婚の報告に、刑務所内で一度会ったきりであった彼女だったが、ひと目でお互いに気づいた。


 ぼくたちは呆然と言葉を失い、その様子を怪訝に思った彼女の夫が何事かと訊ねる。夫に問われた彼女の顔は今でも忘れられない。


 彼女は「迷惑そうにしていた」のだ。相手はぼくを彼女の元夫だとは気づいていないようだった。彼らにとってぼくは異物でしかなく、しかも面倒事にほかならなかった。決して口には出さなかったけれど、短くない期間夫婦として過ごしたぼくには自然と理解できた。


 彼女にとって、ぼくはもう邪魔者でしかないのだな、とその時思った。仕方のないことだった。元はといえばぼくが悪かったのだ。ぼくと彼女は子供を作れず、ぼくは刑務所にまで放り込まれた。これで愛想を尽かしても薄情とは言えないだろう。


 そう悟ったぼくは、「彼女とは大学時代の知人でして」と嘘をすらすらと口にしていた。自分でも会心の出来だったと思う。アカリは見るからにほっとした様子だった。それが余計に悲しかった。


 世空野タクミは実に人格者だった。それ程余裕のない状況下で、できるだけ多くの人を救おうと試みた。ぼくも救われた人間のひとりだった。彼を恨めるはずがなかった。その男は、ぼくなんかよりもずっと頼り甲斐があって素晴らしい人物だったのだ。


 初めは彼と話すのに抵抗があった。だが彼のひととなりに触れているうちに、次第に打ち解けることができた。相変わらずアカリとはギクシャクしていたけれど、事務的な話くらいはできるようになっていた。


 ぼくは精力的に協力を申し出て、<街>の発展に尽力した。逮捕される原因となった「補給地点」のひとつも無償で提供した。さすがに真実を告げるのは都合が悪かったので、仕事柄の例外だと断っておくのも忘れなかった。


 その<街>では、防衛に関しても力を入れていた。その当時は特に混乱が酷く、目に付くものを片っ端から略奪する輩が後を絶たなかったのだ。それにケモノに対しても有効な対策が見つかっていなかったから、とにかく密集して身を護るしかなかった。


 ぼくはそこで守備部隊のひとつを任されていた。剣道経験があったし、すでに殺人の経験があったぼくは他の住人たちよりも頭ひとつ抜きん出ていたのだ。自衛隊の生き残りにナイフ術を、そしてアウトドアに詳しい人間から様々な技術を習った。そこでは技術こそが生き残りのための必須ツールだった。ぼくは必死にその力を吸収していった。


 半ば逃避のために<街>へと奉仕していたぼくは、いつの間にか幹部として周囲に認められていた。誰よりも仕事をこなし、誰よりも妥協しなかった結果だった。タクミの右腕と称されたぼくに対して、アカリは複雑そうだった。


 彼女の顔を曇らせたもうひとつの理由として、世空野夫妻の愛娘の存在があった。彼らのひとり娘、キララがあろうことか、母親でも父親でもなく、ぼくに懐いてしまったのだ。


 子供たちは例外なく無気力であったけれど、なぜだかぼくに対してはきちんと反応をした。しかも皆一様にぼくを「お父さん」と呼ぶのである。これには誰もが驚いた。もちろん、ぼくも気味が悪いと思うくらい驚愕した。


 実の父親を差し置いてぼくのことを「お父さん」と呼んだ時は大いに焦った。粘り強く説得することによって「セージ」という呼称に落ち着いたのだけれど、世空野夫妻の落ち込みようは見ていられないくらいだった。


 子供の世話役まで押し付けられたぼくは気が気でなかった。子供のいないぼくがどうして他人の子の面倒を見なければならないのかと抗議するも、「セイジの言うことしか聞かないから」という至極単純な理由で却下された。


 こうしてぼくは、アカリの元夫という立場を隠しながら、タクミの<街>づくりに貢献を重ねていった。どこか歯車が噛み合っていない感覚を無視しつつぼくは尽力した。タクミの力になることは悪くないものだった。アカリと彼が仲良さげにしているのを遠くから見ていることしかできない。それでも十分だった。


 彼らの娘が実の両親には懐かず、ぼくだけに気を許してくれたのもぼくの自尊心を満足させる結果となった。幸せそうな彼らが娘のことで悲しみ、彼らが一番望んでいるものをぼくが持っている事実に暗い喜びを覚えた。


 それを自覚したぼくは自己への嫌悪感でいっぱいだった。これは許されぬ感情だと理解しつつも消し去ることはできなかった。だからそれを払拭するために、以前にも増してぼくは精力的に働いた。湿っぽくうじうじと悩むよりは、少しでも彼らのためになろうと決心したのだった。


 ぼくは酷く矮小な人間だ。それでいいではないか。小さい人間には、小さい人間なりの尽くし方というものがある。ぼくはそれを実践した。何よりも唾棄すべきなのは、あれは駄目だ、これは無理だと言い訳をして何もしない人間である。ぼくはそのような人間にはなりたくなかったのだ。


 昼間は<街>の仕事をして、夜になるとキララの話し相手をした。彼女と両親との間で伝達役みたいなこともこなした。君のお父さんはとても素晴らしい人なんだよと、お母さんはとても優しくて思いやりのある人なんだよと、彼女に何度だって言い聞かせた。


 そのかいがあったのか、最初は少しも人間らしいところがなかったキララは、歌を口ずさんだり、夜間ならば受け答えもしっかりしてきたりと、少しずつ変化を見せるようになった。両親の言葉にも反応するようになった。ぼくが毎日辛抱強く彼女の親の願いを聞かせた成果だった。


 この娘の変化に一番喜んだのは父親のタクミだった。彼は「セイジのおかげだ」と、ぼくが困ってしまうくらい感謝した。「ぼくにできることをしてるだけだよ」と返すと、彼は涙まで流した。


 こんなにも娘思いで誠実な親がいるなんて、ちょっとしたカルチャーショックだった。ぼくの親はどちらかと言えば放任主義だったし、ぼくも物心つく頃には、それなりに自立していたと思う。親から猫っ可愛がりされた記憶は全くなかった。


 それに比べて、キララの変化について素直に喜んでいないように思われたのがアカリだった。きっと娘の症状を改善したのが元夫だということが気になるのだろう。彼女からすれば、いつ真実が露見するのかと気が気でないのだろうから。


 その頃には、ぼくはある程度、心の整理をつけることができていた。アカリとタクミ、キララの家族に対して嫉妬することもなかったし、その仲睦まじさを羨ましくも微笑ましくも思うことはあっても、邪魔をする気は毛頭なかった。


 だから浮かない顔のアカリに対して、自分は君たち家族の邪魔をすることは絶対ないと話したことがあった。それでも精彩を欠いたままの彼女を慮って、以前よりは少し距離を取ることにした。


 あからさまではなく、少しずつ隙間を広げていくことによって、彼らの負担にならないよう心がけた。自分でもお人良しだという自覚はあったが、一時期の暗い気持ちの負い目もあって、それ程苦ではなかった。むしろ罪滅しの度合いが強かったと思う。


 それからは、仕事の時以外はあまり顔を合わせないようにした。タクミには、ぼくにも恋人ができたというもっともらしい言い訳をした。事実、そこそこ仲の良かった女性と実際に付き合ったから、事実無根の嘘ではなかった。その付き合いが本気になることはなかったけれど。


 時折、彼らに気付かれないようにこっそりと世空野一家を盗み見ることがあった。仲間の話ではうまくやっているということだったが、ぼくが見た限りではそうでもなさそうだった。アカリは辛抱強くキララに話しかけているものの、その娘はまるで母親に興味を示していなかった。無反応だった以前の状態に戻っているように思われた。


 そこで子供たちの世話をするついでに、それとなくキララに言い聞かせようと試みるも、彼女はぼくの言葉を素直に聞いてはくれなかった。その反抗自体が自我の回復を意味しているから、完全に最初の状態に戻ったわけでもない。


 彼女は意図的に母親を無視しているようだった。それには首を傾げざるを得なかった。彼女はまだ思春期には程遠い年齢である。母親を煩わしく思う年頃ではないはずだ。むしろ甘えたいざかりであるはずなのに。


 ぼくがいくら理由を訊ねても彼女は理由を口にしなかった。だからといってへそを曲げているわけでもないようだった。以前と変わらず、お伽話を聞きたがったし、一緒に歌も唄いたがった。


 ぼくは釈然としないものを感じながらも彼女に付き合った。タクミは「おまえも恋人と過ごしたいだろうに、世話をかけるな」と申し訳ない顔だった。


 偶にやってくる人間の襲撃をいなしつつ、暦はひと巡りした。タクミの<街>は順調に拡大を続け、この界隈では名の知れた男となった彼の下でぼくは仕事を続けていた。


 相変わらず他の<街>では<黒いケモノ>による襲撃があったそうだが、ここまで大きくなった<街>ならばそう簡単に襲われることもないだろうと誰もが思っていた。


 ―――――それはどうしようもなく、幻想でしかなかったのだが。


 襲撃はこれまでと何も変わらなかった。突然襲われ、突然喰い殺される。ただそれだけのことだった。我々がどれだけ苦労して、どれだけ時間をかけて造り上げたとしても、ケモノにとっては何の障害でもなく価値もなかったのだ。


 次々と喰い殺されていく仲間たちを助けることはできなかった。がむしゃらに逃げることだけしか頭にはなかった。<審判の日>の繰り返しみたいだった。酸素不足にあえぐ心臓や、恐怖のあまりの失禁や嘔吐や、襲われている人間を見捨てることへ何の禁忌も抱かないことも、全てがあの2012年の世界の終わりと違わなかった。


 ぼくは一面に広がる血の海で転げながら、散乱する空っぽの衣服に足を取られながら走った。げらげら哂いながら走った。体中から液体をまき散らしながら死にたくないと叫んだ。死んじゃうぞ死んじゃうぞと大声で喚き散らした。もはや自分が人間なのか野獣なのかわからなかった。


 ぼくの脳裏にはライオンに喰い殺されるガゼルの姿が浮かんでいた。あの苦しそうでいて、無表情な哀れな獲物の姿がありありと蘇った。<黒いケモノ>に襲われる時、決まって現れるイメージだった。


 ぼくはもう仲間を助けようとも、彼らと逃げようとも思わなかった。彼らとは正反対の方向へ向かって走った。


 そこは灯りもなく、ヒトもいなかった。


 ただどこまでも澄み切った暗闇が広がっていた。ぼくは汚物にまみれた姿だった。ぼくの他には生き物は何もいなかった。まるで世界中でひとりぼっちだった。宇宙に取り残された迷子の気分だった。


 闇の中にはケモノが蠢いていた。目もなく、鼻もなく、唸り声もせず、足音もしなかった。そこにいるとわかるのは、落ち窪んだ闇がはっきりと周囲の光を呑み込んでいたからだった。


 逃げ場はなかった。もう駄目だとぼくは思った。喰い殺されるとぼくは思った。


 その場に腰を下ろし、ぼくは寝っ転がった。逃げなければという思いは、とうに失せていた。心地良いばかりの達成感があった。自分は力を出し切ったのだという達成感だった。


 四肢を投げ出し、ぼくは広大な夜空を見上げた。


 宇宙は広いな、とぼくは思った。それに比べて、地球は狭いな、とも。


 この母なる地球上でさえ手狭なのだ。こうして生きる死ぬと騒ぎ立てていても、少し離れた場所では快眠を貪る人間で溢れているはずなのだ。いくら自分が不幸に見舞われていても、その倍以上の人間が何事もなく生活を続けているのだ。昨日までの自分と同じように。


 ―――――ただ単に、自分の番が回ってきただけのことだ。


 人間は平等ではあり得なかったけれど、死の間際はこれ以上なく平等だった。


 金持ちも貧乏も、ハンサムもブサイクも、男も女も、健常者も病人も、この<終わり>の前では、<黒いケモノ>の前では皆等しく平等だった。


 それはまるで、神を前にしているかのようだった。


 自身にはどうにもならない、圧倒的な力、存在、概念。運命なんて名付けるのもおこがましい。矮小な人間には定義することさえかなわない<大いなるもの>。


 ぼくは山上の神社を思い出していた。これから先、何度も現れてはぼくを救うイメージだった。幼い頃、祖父に連れて行かれた山の中のうらぶれた神社。大きな御神木が屹立する境内。


 風に揺れる落葉樹。耳を澄ますと聞こえてくる大地の息吹、獣の息遣い、虫の鳴き声、自身の鼓動。


 真っ黒な泥が身体に入り込むその瞬間も、ぼくはその光景をずっと幻視していた。暗闇の中でもひっそりと在り続けるそのぼくの到達点を絶やさなかった。


 ぼくは無限に広がる闇の中でひとりぼっちだった。けれど少しも寂しくはなかった。これまで感じていた人恋しさはその時を境に二度と現れることはなくなった。確信したのだ。ぼくは数えきれないくらいの生き物の上に生きていることを。生かされていたことを。


「ぼく」という個人で定義することの愚かしさを悟ったのだ。ぼくはひとりぼっちでありながら、たったの一度も孤独であったことはなかったのだ。


 暗闇は単色ではなかった。全てが混ざり合ったゆえの混沌だった。そこには何もなく、また全てがあった。


 ぼくはその時間違いなく死んだ。そして生きていた。「死ぬ/生きる」はただの状態だった。眠っているか起きているかの違いと同じだった。だからきっと、死んだことに大した意味はないのだった。


 ぼくは目覚めた。空の彼方は薄紫色に染まっており、やがて目に染みるような緋色の空が現れるはずだった。


 幽鬼のような足取りでぼくは歩き回った。墓場を巡る魑魅魍魎の気分だった。墓標のように取り残される衣服は血の海に漂っていた。食べ残しはあり得なかった。肉片のひとつも残さずケモノに平らげられていた。


 ぼくは差し込んでくる陽光の眩しさに目を細めた。とても鬱陶しかった。地面の赤をさらに鮮烈に見せる恒星の煌きを疎ましく思った。その有り余る熱のせいで、足元からはすえた臭いが立ち上ってきた。


 真っ赤な水溜まりはどこまでも続いていた。まるで地面の底から湧き出しているみたいだった。きっと血の池地獄もこんな光景であるに違いないと思った。


 さらに進むとちらほらと人影があった。あの惨劇を生き残った人々だった。逃げ足の遅い者は例外なくケモノの餌食になったようで、生き残れたのは若い人間が圧倒的に多かった。


 その中にアカリはいた。脇腹を真っ赤に染めて彼女は死にかけていた。傷はケモノに襲われたものではなかった。逃げる際に突き飛ばされ、鋭い木材に倒れ込んだことによる傷だった。


 すぐ傍にはキララがいた。彼女は苦しげにあえぐ母親を色のない目で見つめていた。以前ならばぞっとした光景だったかもしれない。でもその時のぼくは彼女の気持ちが少しだけ理解できていた。


 死ぬことは当たり前のことなのだ。数えきれないくらい繰り返されてきた営みなのだ。人間だけが特別な死に方をするわけがないのだ。自分も、君も、彼らも、全ての生き物が平等に迎えることになる「結果」なのだ。


 アカリは誰に言うのでもなく、焦点の定まらない目で謝り続けていた。声にならない声で、血の泡を吐きながらも言葉を止めることはなかった。


 タクミの姿はなかった。彼は死んだのだ、とぼくは自然に悟った。微かに喪失感を覚えた。冬の日の雨みたいな静かな痛みだった。じんわりと染み込んでくる冷たさだった。


 『―――――許して』『ごめんなさい……』


 ぱくぱくとアカリは謝罪を止めることはない。心臓が止まるその時まで。ぼくはそんなのはあんまりだ、と思った。最後くらい静かな眠りをくれてやってもいいではないか。


 生も死も等しいのだとしたら、それは静かに全うされるべきなのだ。決して苦しみながら終わるものではないのだ。例え直前まで殺される痛みがあったのだとしても、暗闇の抱かれる本当に最後の一瞬は安らかなものであるべきなのだ。


 ぼくはアカリを抱きしめた。君は悪くないよ、と言い続けた。許すよ、と訴え続けた。


 彼女が力尽きた時、その瞳にはぼくとキララの姿が映り込んでいた。彼女が最後に見たかった光景はこんなものではなかったはずだ。きっとぼくの代わりにはタクミがいるべきだったのだ。


 彼女は死んだ。少しも救われた表情ではなかった。涙の筋が幾重にも連なっていた。


 振り返ったぼくはキララも抱き寄せた。母親の死を目の前で経験した彼女はいつもと寸分も変わらなかった。それが途方もなく悲しかった。キララは両親の死を悲しむことはないのだ、とぼくは思った。それは何も不自然なことではないのだから。


 当たり前のことを悲しむのは人間が特別異常だからだ。自分たちでは当たり前だと思っている「感情」だって、進化の末に獲得した特異点でしかない。それが至上であることも唯一無二であることないのだ。感情は人間の「特徴」のひとつだった。「異常」のひとつだった。それだけの話だったのだ。




   ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■




「あの、何か?」とアカリによく似た女性は怪訝に訊ねた。ふっと我に返ったぼくは、「知り合いによく似ていたもので……」としどろもどろに答える。彼女にうりふたつというわけではない。その物腰が、遠目から見る姿が非常によく似通っていた。


「うちの妻だよ」と結木イオリは言った。


 紹介されたその女性はお辞儀して、「結木ミヤコです」と言った。


 ぼくは動揺が抜け切らないまま自己紹介して返す。「同志」の言葉がありありと蘇った。彼の全てを見通したような目はぼくを見据えていた。ぼくの先にある未来までもその目に映っているかのようだった。


 ―――――我々は岐路に立たされている。


 ぼくは、その言葉の正しさを思い知った。

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