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第28話

 廃墟の中にあって、さらに異彩を放つ光景があった。


 破壊された自動車の残骸、そこかしこに散らばる中身のない服。それらは血液で真っ赤に染まっていたはずだが、今ではドス黒い染みにしか見えない。それでも、人間の体液が放つ異臭は幻のように残留していた。


 ぼくたちは<絆教>に襲われたという集落周辺を調査中である。


 散在している遺留物を検分しているぼくの隣で、ナズナは顔を青くして口元を覆っていた。


 死体はないとはいえ、その痕跡はありありと残っている。見ていて気持ちのいいものではない。ナズナは多少耐性があるかもしれないが、こういった惨状はすぐに慣れるものでもないのだ。


 ぼくだって人のことは言えないのである。口元をタオルで覆って臨んでいるのはその証拠だ。臭いは完全にはシャットアウトできないものの、いくらか気分的には楽になる。


「ここで強がっても仕方がないよ。君はキララと向こうで休んでればいい」とぼくは窘める。


 ナズナは「いいえ」と首を振った。「平気じゃないけど、大丈夫です。これくらい、我慢できないこともありません」


 別にそこまで我慢して行うような仕事でもないのだけれどな、とぼくは思った。それを言ったところで彼女は納得しないのだろうな、とも。


 きっと成果や過程がどうこうというより、この惨状から逃げ出さずにやり切ることに意味を見出しているのだろう。ならば何も言うまい。彼女の好きなようにさせるだけだ。


 それに、こうした死体や血液への耐性は、旅をする上では必須のスキルであるのは間違いないのだ。その対象が人間や野生動物に限らず。


 ケモノに喰われたならいざ知らず、人間に殺された死体はそのまま残る。そうすれば腐乱する。当たり前のことだった。


 これは一度見ればわかることであるのだが、とにかく人間の腐乱死体というのは衝撃的なのである。ビジュアル的にも臭い的にも。


 ぼくは始めてそれを目にした時、恥ずかしげもなく嘔吐した。しばらく食べ物も喉を通らなかった。それだけショックを受けたのである。


 あれは慣れる慣れないの問題ではないと思う。だけど、少しは耐性を付けておかないと、行動に支障が出てしまう。それが敵との交戦中であったなら致命的である。


 ナズナの行動は無謀に見えるけれども、ちゃんと理に適ったものだった。本人にとっては、苦行以外の何者でもないだろうが。


 血にまみれた服は何着も散乱していた。どれが住人のもので、どれが襲撃者のものなのか判然としない。<絆教>の人間だからといって、あからさまな服装をしているわけでもないのだ。


 あの夜見た彼らは、集落の住人たちとそう変わらない格好だった。


 ゆえに、この惨状からわかることといえば、「とにかく大量の人間が喰われた」という事実のみである。


<絆教>の連中が何をしようとしていたのかは、結局わからずじまいだった。


 生き延びた者たちの話では、教団に勧誘されたらしいが……。


 それが本来の目的だとは思えなかった。拒否されたから皆殺しにするのは、狂信者集団ならあり得なくもないのだろうけれど。


 しばらく散策していると、あの晩に件の少女を見かけた場所に辿り着いた。


 ここも自動車の残骸が墓標のように立ち並んでいる。ばりばりに血が乾燥している服も一緒に残っていた。それとぼくが放った矢もある。


 死体が残っていないということは、ぼくの矢は致命傷ではなかったようだ。


 矢によって傷を負った彼らは、満足に動けないところをケモノに喰われたということになる。惨い死に方をさせてしまった。ぼくは偽善だとは理解しつつも、黙祷を捧げた。


 小一時間も調査を続けていると場の空気に順応してきたのか、ナズナはやや顔色を回復させた。積極的にぼくの見ていない場所を探し回っている。


 これ以上調査を続けても成果は挙がりそうにもなかったので、彼女に終了を告げる。


「目ぼしいものはありませんでしたね」と彼女は疲労を滲ませながら言った。


「そうだね。あの少女に関するものが残っていると思ったんだけど」とぼくも力のない調子で答える。


 あの晩、右目から泥のようなものを流していた少女。ここに何か残っているのではないかと期待したものの空振りに終わった。少女の立ち位置を念入りに観察したのだが、あの泥はどこにも残っていなかった。あれが現実だったとしたら、乾燥物くらいは残っていそうなものなのに。


「そろそろ引き上げよう。ずっとここにいると気が滅入るから」


「そうですね。わたしも、何だか気疲れしちゃいました」


 馬車の傍で待っていたキララと合流してその場を離れる。気分的にも、あの場所に居続けるのは遠慮したかったのだ。馬車をしばらく走らせ、その場所から離れると大分気分がよくなった。


「しんどい作業だったのに、よく頑張ったね」


 荷馬車内でぐでっと伸びているナズナを褒めてあげると、彼女は嬉しそうに「このくらい何てことないですよ」と謙遜する。だがその尻尾は高速で振られているような感じだ。


 目的のひとつである調査が終わったので、このまま補給へ向かうことにする。


 基地までの行程は特に険しい道ということもないので、のんびり山登り程度に思っていても構わないだろう。


 ややあって、荷馬車の中から寝息が聞こえてきた。


 ぼくは馬車を止めて中を覗き見てみる。ナズナとキララは寄りかかるようにして眠っていた。何だかんだ言いつつも、やはり疲れていたようだ。ここは寝かしておいてあげよう。


 実のところ、ぼくも心地良い陽気おかげで、眠りの国の妖精にまとわりつかれているところなのだが、ぼくまでお昼寝してしまっては公爵夫妻に面目が立たない。彼らは文句も言わずに走り続けてくれているのだから。


 あくびを噛み殺しつつ、ぼくは手綱の感触を確かめる。


 居眠り運転などもってのほかである。ぼくは家族で帰郷する途中のパパさんドライバーみたいに、皆が眠りこける中、ひとり眠気との闘いを始めたのだった。




   ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■




 山道を登っていく行程がしばらく続いた。


 ところどころに点在する民家は、まるで幽霊屋敷のように取り残されており、訪れる者を拒絶するかのような肌寒い雰囲気を醸し出していた。


 もしかしたら誰か残っているかもしれないので、ランダムに選んだ民家を捜索したものの成果は芳しくなかった。どの家も状態はいいだけに、ある時を境に住人が神隠しにでもあったかのような不自然さがあった。


 街から離れているこの山間は、人数条件からすると理想的である。ただ、少数で生き残った面々は協力し合うために徒党を組むので、そのせいで大人数になり、それがかえってケモノを呼び寄せることになってしまうというパターンが多い。この辺の住人たちも、同じような末路を辿ったに違いなかった。


 両手には青々とした木々を抱える小高い山が見える。


 季節は秋へと移り変わり始めたところである。まだ色鮮やかな紅葉は見られなかった。ただそれでも、夏の時とは違った葉の質感を感じさせていた。ある種の変化を予感させるとでも言おうか。


 傾斜はそれ程でもなかったので、公爵夫妻は荷馬車の重量を物ともせず、軽快に坂道を登っていった。


 途中何度も荷馬車から降り、山の清涼な空気を楽しんだナズナとキララは機嫌がよさそうだった。


 自然というのは、特に山というのは、人の精神を癒してくれると同時に引き締めてもくれるとぼくは思う。


 ぼくのお気に入りの場所が山の頂の社であるのは、そういった理由もある。


 あの社は心の拠り所なのだ。だから危機的な状態に陥った時、自然と思い出されるのだろう。ケモノに襲われた晩にも、ぼくは何度もあの光景を幻視し、また救われてもいる。


 また行ってみたいな、とぼくは思った。だがそれも叶わないだろう。あの社に行くには、ぼくは遠く離れ過ぎてしまった。かの地に戻ることがいつになるのか、いまだ南下途中の身には想像もつかなかった。


 ぼくは予め用意していた地図に従って馬車を進める。


 この地図は東北に3箇所存在する補給基地を記したものである。いわばぼくの生命線だ。


 今向かっているのは、最も南にある基地である。ここから先は自前で用意した補給地点がなくなるので、非常に行動が制限されることになる。補給が確実でない場合、無闇矢鱈に進むことはできなくなるのだ。


 人に見つかりにくいよう、補給基地は人里離れた場所にある。そう何度も訪れることはできないだけに、そこまで便利だとは言いがたい。それに物資の使える期限だって限られている。


 缶詰類はそこそこ長い時間を見込めるものの、すでに3年目となった現在、残っている物資の使用期限も刻々と迫ってきている。有効に用いないとならないのだ。


 刑務所にまで入って溜め込んだせっかくの物資を無駄にすることはしたくない。


 残された物資を効率的に用いて、なるべく調査を進めなければならないのだ。


「やっと着いたみたいだ。ここだよ」とぼくは荷馬車に向かって声をかける。


 中から顔を覗かせたナズナは「どれどれ」とばかりに辺りを見回した。


 眼前には山の頂上へと向かう斜面がそり立っている。そこを突き進むように大小ふたつのトンネルがあった。


 片方は現役で使われていたもので、もう片方は老朽化に伴い放棄された古いトンネルだった。その古い方のトンネル口は大きな板で塞がれており、ぱっと見では、トンネルがもうひとつあることには気付けないだろう。


 ぼくは苦労して入り口の板を外した。


 古びたトンネルからは古びた大昔の臭いがした。まるでそのトンネルの先には過去があるみたいだ。ぽっかりと空いた入口からティラノサウルス・レックスが顔を出してきそうだった。


 ぼくはサングラスを外し、目を細めて内部を見やった。だが黒々とした口の他には何も見えなかった。


「よくもまあ、こんな所を見つけましたね」と感心した様子のナズナは、首を伸ばしてトンネルの暗闇の向こうを捉えようとするのだが、どうにもうまくいかないようだった。


「世の中、悲しいことに、金さえあれば大抵のことはできるんだよね」とぼくは腹の底からため息をついた。


 この補給基地は、ぼくが捕まる前に設えたものである。


 こんな山奥に大量の物資を運び入れるのだから、怪しまれない方がどうかしていると言っていい。けれども、そこは金を握らせることによって一応の解決を見た。


 輸送の詳細は知らせていないのが大半であるし、偽名を使って様々な業者を間に挟んである。警察が全てを知ることができなかったのも無理はなかった。元より、そういった追求を予定して作業は進められたのだから。


 最後に行程を受け持った業者もさぞかし不思議に思ったに違いない。こんな辺鄙な山のトンネルに木箱を運び入れる仕事である。担当した人間が気味悪げにしている様がありありと目に浮かんだ。


「さて、洞窟探検だ」とぼくは言った。インディー・ジョーンズのテーマを口ずさみながら松明の準備をする。まだ昼間ではあるが、トンネル内に明かりはない。手ぶらで入れるような場所ではなかった。


「楽しそうですね」とナズナは苦笑しつつ、「先生も男の子だってことなのかな」


 否定はしないさ、と彼女に答えておく。本物の探検家からすれば、お遊びみたいなものなのだろうけれど、ぼくにとっては心躍る作業である。


 ちょっとした息抜きなのだ。サバイバルという意味で言えば、この世界は毎日がサバイバルである。しかしながら、こういった「冒険」はなかなか経験することはできない。


 外の世界で行われるのは、食べ物や住処を巡っての醜い生存競争である。そこに楽しみは見つけられないし、娯楽として割り切れる程ぼくは悪人に成り切れない。


 その中で、こういった小規模な「探検」は、この荒涼な世界において唯一残された楽しみなのであった。


 元々、こうした山の中にある社や寺を巡るのが好きだったせいもある。日帰りで行けるような穴場は、近場には意外とごろごろしているのだ。


「まあそれでも、油断は禁物だけどね」


「というと?」


「この時期はちょうど野生動物たちが活発に動き回っているんだ。食べ物も豊富だから、お食事中の熊や猪と鉢合わせしかねないのさ」


 特にこの二者は危険度が高い。熊は言うに及ばず、猪も猪突猛進の熟語の通り、ものすごい勢いで突っ込んでくることがある。体重とスピードが乗った牙による一撃をくらえば、大人だって命が危ない。気づいた時には体当たりされていた、なんてこともあり得るのだ。


「だから周囲の警戒を怠らないように。蛇とかにも気をつけてね」


「ううっ、危ない動物がたくさんいるんですね、山って」


「それが本来の自然ってものなんだろうけど」


 人間に追いやられていた動物たちが息を吹き返した山中では、もはやその主は取って代わられていると考えて相違ない。それを無視して我が物顔で歩き回っているような不届き者は、きっと痛い目を見ることになるのだ。


 ぼくの後方にキララとナズナは陣取った。ふたりはぼくのシャツの裾をしっかりと掴んでいる。


 トンネル内に足を踏み入れた瞬間、その空気の質が全く変化した。湿っぽく、それでいて肌を刺すようである。


 後方ではナズナが身震いするのが感じられた。心なしかぼくの背中に張り付き過ぎている気がする。


「そんなにくっ付かなくても大丈夫だよ。別に岩場を登ったり下ったりするわけでもないんだ」


 元は普通に使われていたトンネルなので、足場はしっかりしている。劣化は激しいものの、アスファルトの道路である。


 それに、後ろを振り向けば出口も見える。迷うようなことは万が一にもあり得ない。


 もしもこのトンネルで迷子になれたとしたら、日本中のどこに居たって遭難できるだろう。


「だから安心しなよ」とぼくはナズナを安心させるように言った。


 彼女は落ち着きない様子でぼくの目を見返す。その隣ではキララが平然とした顔でトンネル内を観察していた。


 真っ暗闇だというのに何を見ているのだろう、とぼくは思った。まるで何か見えているようにキララは視線を動かす。その様子は、家猫がしきりに何もない場所を凝視している姿に似ていた。


 ……幽霊でも見えるとか? 


 まさかね。


 一瞬背筋が寒くなったものの、ぼくは気を取り直して歩みを進める。


 ナズナは相変わらず口を開かぬままおどおどしていた。彼女がここまで取り乱すとは予想外である。お化けとか怪奇現象系が苦手なのかもしれない。


 そのことを指摘すると、


「そそそそそそんなことないですけど!」と何ともわかりやすい答えを返してくれた。


 廃墟の街中では暗闇も平気そうだったのに、このトンネルは駄目なようだ。同じ暗闇でも種類が違うのだろうか。


 ぼう、と松明が吹き込んでくる風に揺らめいた。


 彼女は「ひいっ」とぼくの背中に顔を突っ込んでくる。そんなに押し付けられても、ぼくは変形合体できないぞ。


「いいか、ナズナ。怖いと思うからいけないんだ。怖くないと思えばへっちゃらさ」


「じゃ、じゃあ、怖くないと思えば幽霊は出ないんですね!?」


「そんなわけないだろう」


「ええ!?」


 ナズナはとてもびっくりしている。


「怖くない怖くないって思おうとすること自体が怖がってる証拠だ。魑魅魍魎の類は、そういった恐怖の感情が大好物らしいからな」


「せんせえ……助けてください……。あなたの弟子がピンチですよぉ」


 今にも泣き出しそうな声色で彼女が訴える。


 ぼくは「やれやれ」と肩を竦めてキララを指し示した。


「見てみなさい、ナズナ。君よりもずっと年下のキララが我慢してるんだぞ。年上の君がしっかりしないでどうするんだ。君はこの旅の最中、キララのお姉ちゃんなんだから」


 その言葉にはっとしたナズナは、恐怖に打ち勝とうと唇を噛み締めた。「そ、そうだ。わ、わたしはお姉ちゃんなんだから……」と己を鼓舞している。


 やがて何かを決意したような力強い表情になった彼女は、キララの肩に手を置いて宣言する。


「キララちゃん。ナズナお姉ちゃんはもう情けない姿を見せないよ。もう、お化けなんて怖くないんだから!」


 おお、とぼくが感心していると、視線の先のキララは顔の半分を闇に沈めたまま、ナズナの後方をゆっくりと指差した。


「なにか、いる」


「うぎゃああああああああああああああああッ!?」


 絶叫。


 ぼくは慌ててキララの耳を塞ぐ。


 ナズナの将来のお婿さんには、到底聞かせられない男前な叫び声だった。




   ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■





「―――――ていせい。なにか、あった」


 キララは澄ました顔で言い直す。


 ……この子、わかっててやってるんじゃなかろうか。


 可哀想に、ナズナは大絶叫した後、ぷつんと電源が切れるように失神してしまった。


 人間が白目をむいて失神する姿なんて初めて見たよ。


 口を半開きにして硬直するナズナの頬を叩いて気付けさせる。このまま放置するのはあまりに哀れだった。


「……これは酷い」


 この顔は女の子がしていい顔ではなかろうて。ナズナを好く男子が見たら、百年の恋も冷めそうだった。


 やっとのことで意識を取り戻したナズナは、それはもうびいびいと泣いた。スーパーでお菓子をせがむ子供といい勝負になりそうだった。


 松明を持っているのでうまく抱えられないところに、ナズナは抱きついてくるものだから対処に困った。無碍に振りほどくこともできないので、落ち着くまで好きにさせておくほかない。


「ああ、こらっ。服で鼻をかむな」


「だ、だってぇ……」といろいろな液体で酷い有り様になっているナズナが呻く。薄暗いせいで恐ろしい様相をきたしている。放送コードに引っかかること間違いなしである。


「仕方ないな」


 ぼくは付近に可燃物がないことを念入りに確かめてから松明を地面に横たえる。そしてナズナを抱きかかえながらひんやりとした地面に腰を下ろした。彼女はまだ復活する兆しを見せていない。今しばらくの時間を必要とするみたいだった。


 キララはというと、この混乱を作り出した張本人だという自覚はまるで感じていないようで、その原因となった木箱を興味深く眺めたりつついたりしている。


 暗闇の中であるせいか、少し活発になっているみたいだった。そのせいでナズナにイタズラを仕掛けることになったのだろう。


 活動が低下している日中の時間帯に突然真っ暗闇の環境に移行したので、一時的な昂揚状態になっているに違いなかった。表情の端々に夜間見せるような感情が表れている。


 彼女が興味を示している木箱の中に物資は入っている。それがこの空間内の一部を占領するように並んでいた。ぼくもこの補給基地に初めて訪れたのだが、思いのほか豊富に溜め込むことに成功したらしかった。


 トンネル内は一定の環境に保たれていたので、保存状態は申し分ないはずだ。物資も保存が効く物を中心に揃えてあるはずだから問題ない。ネズミ対策として木箱の中の物資はさらに包装もしてある。


 こんな山奥に物資が溜め込まれていると考える人間はいなかったようで、数えてはいないものの、盗難されることもなかったみたいだ。


 このトンネルは使えるな、とぼくは思った。


 外に比べて気温差は少ないし、いざという時の避難場所としてはうってつけかもしれない。外の板をカモフラージュ加工して塞げば、ぱっと見しても発見される可能性は低いはずだ。


 それに周囲の山はそれ程険しくもないから、食料の調達には向いていると言える。水源の問題も、探せば小川くらいはあるだろう。


 つらつらと思考を巡らせているうちにナズナも泣き止んでいた。魂の抜けた表情でぼんやりとしている。


「復活した?」とぼくは訊ねた。


「まだ完全とは言えません……七分くらいは生き返りましたけど」とナズナは答えた。


 七分って何さ。例えばゾンビとかグールとか? いずれにせよ、彼女の完全復活には至っていないそうだ。


「それにしても、君がこんなに怖がりだとは意外だったよ」


「意地悪言わないでください、先生」と彼女は情けない声で反論するも力がない。「別に暗いから怖いっていう安直なものじゃないんですよ? 何だか、このトンネルは薄気味悪くて」


「そうかな?」


 確かに空気はひんやりとしていて薄ら寒いものの、そこまで怖いとは思わない。むしろ安心できる暗闇だと思う。サングラスをしなくてもいいし、目にも優しい。


 キララも結構気に入った様子である。


 ぼくたちとナズナでは、暗闇に対する趣向は異なるみたいだった。


「何だかお墓の空気に似てる気がします……」


 言われてみればそうかもしれない。どことなく静謐な感じがする空気なんかは、まさにその通りだ。胸の中に沈殿するような質量のある空気も共通している。


 ぼくは嫌いではないな、と深呼吸をしながら思う。


 新鮮でおいしいとは間違っても言えない空気ではあるけれど、排ガスまみれだったかつての空気よりはずっとマシだと確信している。


 あれは本当に最悪の空気だった。あれに勝る空気を探してこいと命ぜられたら、薬品工場とか汲み取り式便所とかを探す必要があるだろうな。


 さて、そうしている間にナズナは原隊復帰したようで、目の焦点もピントが合うようになった。


 ぼくがキララに謝罪を促すと、彼女は気のない調子で「ごめんなさい」と謝った。ナズナも聞いているのかいないのか判然としない受け答えをしていた。


 まったく、この子たちは……。


 いつまでも時間を浪費しているわけにもいかないので、物資の運び出しをナズナにも手伝って貰う。ぼくと彼女で運び出しを行い、その間、キララは松明を持って明かりの当番をして貰うことにする。


 下手すれば火傷しかねない松明をキララに任せるのは少々躊躇われたが、危なげない様子なので、その心配もないようだった。


 結構な量だから何往復もしなければならない。二度三度と往復を繰り返すうちに腕が痛くなってきた。ぼくたちは小休憩を合間に挟みながら、何とか作業を進めたのだった。


 予定の個数を外に運び出すと、次は物資の確認作業となる。


 木箱から出して、中身が無事か確かめるのである。積載量には限界があるのだ。食べられない物や使えない物を積んでいく無駄は避けなければならない。公爵夫妻にも負担となるからだ。


 そうしているうちに日が暮れ始めた。


 そわそわと落ち着きないナズナに、ここで野宿をすることを告げると、彼女はこの世の終焉が訪れたみたいな顔になった。そこまで嫌なのか。


 この時間帯では、どうやっても山を降りられないことを根気強く諭す。


 トンネル内で寝るのだけは嫌だと主張して憚らない彼女に折れる形で、野宿はその入口で行うことに決まった。


 心底安堵したという風のナズナは、「これで今夜は安らかに眠れます」と穏やかな口調で言った。


 とは言いつつも、やはり怖いものは怖いようで、彼女は寝付くまで終始ぼくにぴったりと張り付いていた。


 荷馬車内で3人すし詰め状態だったから、ぼくはナズナとキララにサンドされる役割だった。


 ナズナの刻む早鐘がぼくにも伝わっていた。彼女は気が高ぶってしまって眠れないようだった。


 ここで活躍したのがキララだった。彼女は昼間の失態を返上しようと―――――本人はまるでその気はないのだろうが―――――子守唄のように優しげな歌を唄った。


 口ずさんだのは、十八番であるベートーヴェンの「悲愴」である。そのスローテンポな曲調はリラックス効果抜群だったらしく、程なくナズナは寝息を立て始めた。


 ぼくもキララに合わせて口ずさんでいるうちに、いつの間にか寝落ちしていたのだった。


 眠っていても、ぼくの耳元にはキララの穏やかな唄声が聞こえていた。それは母親のお腹の中で聞く鼓動のような旋律であった。

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