第27話
出発の準備を整えながら住人たちに弓矢の作成方法、それから簡単な射法をレクチャーしているうちに時間はあっという間に過ぎていった。
近場に竹林があるということだったので、材料には困らなかった。結構な数の弓矢を作成することができた。これをメインウェポンにするのは無理そうだが、威嚇には十分使える。誰だって自分に矢を向けられれば怯みもするのだ。
それに、戦闘の素人が相手の場合は、回避運動など埒外の特攻を仕掛けてくる可能性が高い。そうした場合はまっすぐ向かってくるので、適当に複数で射掛ければ命中することが多いのだ。矢玉の雨は敵の戦意を奪う効果も期待できる。
並行してナズナにも護身術を教えておく。とはいっても、戦闘を想定したものではなく、あくまで文字通り最低限自分の身を護るための技術だ。これだけでも、身につけてないのとあるのとでは雲泥の差が出ることもある。覚えておいて損はないだろう。
ぼくの出発、それからナズナの同行という情報は瞬く間に集落中に広がり、連日お別れ会と称して様々なグループの集会にお呼ばれされた。
特に大変だったのがナズナの友人一同によるものだった。彼女たちの年代は熱情を持て余しているというか、とにかくスキンシップが激しいのだ。やたらベタベタとくっついてくるから堪らない。
数少ない同志である少年たちは、まるで飼い慣らされた犬みたいに少女たちの付属物となっていた。女所帯に放り込まれた少年の哀れな末路だった。女性恐怖症にかからなければいいのだが。
ナズナとみっちゃんという貴重な友軍も、圧倒的多数の敵の前には力及ばず、送別会なのにナズナは囚われの身という何とも奇天烈な事態になっていた。
キララも少女たちの魔の手からぼくを救い出そうと孤軍奮闘するものの、かえって可愛がられてもみくちゃにされ、挙句の果てには四方八方からの抱きつき攻撃で目を回してしまった。
酒を入れてもないのに、雰囲気酔いというか、集団催眠にかかったような危ない状況になった頃、あまりの騒々しさに苦情を受けたスミレが鎮圧にやってきたのだった。
おかげでぼくの貞操は守られ、下着姿や生まれたばかりの姿で散乱していた少女たちは厳重注意となったのであった。
そういうことで、朝は改装の手伝い、昼はみっちゃんとナズナ、夕方はスミレ、夜はキララというローテーションがいつの間にかできあがり、ぼくは出発の日まで彼女たちと別れを惜しみつつ交流を重ねたのだった。
そしてようやく準備は整い、出発の日はやってきたのである。
■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■
住人総出と見紛うくらいの見送り人である。病院入り口前には今日まで世話になった人たちが集まってくれていた。
とても気持ちのいい陽気だった。暦の上では9月に入っているはずである。夏の蒸し暑さはすっかりと鳴りを潜め、代わりに流れてくる風には秋の匂いが感じられるようになった。
ぼくが最初に属していた<街>以外では、こんなにも長期に渡って滞在したことはなかった。そのせいか、ぼくはまるで故郷を旅立つかのような哀愁に駆られていた。振り返ると視界に入る人々との別れが惜しかった。
それぞれと別れの挨拶を済ます。馬車を引く公爵夫妻は、滞在期間中にいつの間にか人気者になっていたらしく、ぼくたちの中で一番別れを惜しまれているかもしれなかった。
姉や友人と言葉を交わし合ったナズナがぼくの元にやってくる。視界の先では、食事の際にいろいろと便宜をはかってくれたみっちゃんがぼくに向かって頭を下げた。しばしの別れだ、みっちゃん。お別れ会の時に、裸にひん剥かれた君の姿は忘れられないよ。
ぼくと集落の男衆との別れの挨拶は簡潔なものだった。男という生き物は別れを特別嫌うものである。このくらいがちょうどいいのかもしれない。
対面するようにぼくたちは向かい合っていた。この集落の一員であるナズナを預かるのだ。ぼくは責任の重大さを改めて感じていた。それは彼女の姉であるスミレに対しての約束でもあるからだ。
今日までの日を、ぼくとスミレはこれまでと変わりなく過ごした。そうでもしないと、決心が揺らいでしまいそうだと共に感じていたからかもしれない。ただ毎日を大切に生きる。そうすることで、お互いの忘れられぬ日々として記憶に残そうとしたのだ。
住人たちの輪から一歩踏み出した彼女は、ぼくの前に進み出た。
「あなたが最初ここを訪れた時は、まさかこんなことになるとは思ってもみなかったわ」とスミレは言った。
「それはぼくも同じさ」とぼくは言った。
「大切な人を見送らなきゃならない気持ちが、あなたにはわかる?」
彼女は苦労して、目尻に溜まった涙を堪えようとしていた。声はまるで泣き声だった。
「わかるかもしれない」とぼくは答えた。「君は、大切な人を残して旅立たなきゃならない気持ちがわかるかな?」
「わかるわけないでしょ……ばか」と泣き笑いの表情で彼女は答えた。ぐしぐしと涙を拭く。
最後まで強がってみせる姿はとても愛しかった。慰めようとした手を引き戻す。ここで一度でも抱きしめたら、もう二度と離れられなくなりそうだった。
鼻の奥につんとした鈍痛を感じた。彼女の前で泣くわけにはいかなかった。ぼくは男で、彼女は女だった。そして彼女は愛しい人だった。格好悪い姿を最後に見せるのは嫌だった。そんなの、とてもではないが許容できなかった。
「ナズナのこと、なるべく守ってあげて」
「絶対に」と言わないあたり、彼女は頑固者だとぼくは思った。それが彼女らしいな、とも。
「わかってる。ナズナはぼくが守るよ」とぼくは言った。
ゆっくりと頷いた彼女は手を差し出した。ぼくは苦笑して握手する。握りしめた彼女の手は小さかった。その小ささと、あたたかさをぼくは忘れまいと思った。きっと忘れることはないのだと確信した。
「ねえ、みんな。申し訳ないけど、少しの間目をつむっていてくれる?」
突然のスミレの言葉に顔を見合わせる住人たち。その中で彼女の意図に気づいたらしい茂野さんは、偉く楽しげな調子で住人たちの尻を叩く。
「ほら、リーダーのお達しだ! さっさと目を閉じる閉じる!」
彼と同様に、にやにやとした表情の数人がスミレに向かってエールを飛ばす。彼女はその人たちに向かって「うっさい!」と顔を赤くしてがなり立てた。
「さあ、あなたもだからね、セイジ。ここは男らしく目をつむりなさい」
「やれやれ。どうしてこんな―――――いえ、何でもありません。早急に目をつむらせていただきます」
彼女の恐ろしい表情から逃げるように目をつむる。薄目で確認すると、少女のように落ち着きない様子で顔を近づけてくる彼女が目に入った。まあ、ここで彼女に任せるのもやぶさかではなかったけれど、男、湯田セイジとしては、何もせずに女性に任せるのは問屋が卸さない。
突如目をぱっちり開けたぼくと目が会った彼女は、呆気に取られたような表情で固まった。そしてそのまま手を引き寄せて、目の前で呆ける彼女の唇に、ぼくは別れの挨拶をしたのだった。
■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■
「セイジさんも大人気ないことしますよね」と荷馬車から顔を出したナズナは言った。
集落を出発したぼくたちは国道を通り、訪れる時に通った道を遡っていた。行きとは違って、帰りの道は秋の色に彩られている。黄金色の草花が目立つようになり、青々としていた木々の葉はその役目を終えようとしていた。
忘れ去られたように残されている街路樹は、手入れがされていないせいで無秩序に枝を広げている。それはどこか物哀しげだった。森の中の木々には感じない感想だ。
人の住処にある樹木に訪れた自由。彼らにとって喜ぶべきものだというのに、人の手を忘れられないとばかりの沈黙を続けるのだった。
幾らか控え目になった太陽は今日も燦々と輝いている。けれども、貰ったサングラスのおかげで視界は好調だった。強い日差しをしっかりとガードしてくれている。ぼくの弱った目の心強い味方だった。
ぼくは後ろを振り返った。荷馬車の中ではキララが虚空と睨めっこしている。当初は何かとキララに話しかけていたナズナだったが、さすがにひとりで喋り続けるのは疲れたようだ。移動中のキララは大抵無口になる。それはぼくとふたりっきりだった頃から変わらない。
キララは他の子供たちと違って「特別」ではあるが、全てがそうだとは限らないのだ。こうしてひとり思案に耽るような姿も珍しくない。だからといって悲観することもない。彼女が別に変わってしまったわけでもないのだ。黙っている時も、ぼくに甘えてくる時も、そのどちらの姿も彼女自身なのだ。
「ぼくを大人気ないって言った? それは心外だな。このぼくくらい紳士的な男は、そういないと思うんだけど」
「紳士的な男の人なら、別れのシーンをぶち壊しにするようなことしないと思います」
ぼくの方からスミレの唇を奪った後、彼女は表記できない言語体系で吠えまくり、宥めるのが大変だった。往復ビンタされるわ噛み付かれるわで偉い目にあった。最後まで騒がしかったぼくたちを住人たちは生温かい目で見送ってくれた。
「あれはあれで、スミレも喜んでたんじゃないか?」とぼくは言った。
「それは、まあ……お姉ちゃんも、照れ隠しで散々暴れたんでしょうけど」とナズナも同意する。「ですけど! 女の子としては、好きな人との別れはロマンチックにしたいんですよ。わかります?」
「わかるような、わからないような」
「いいですか、愛する人との別れは胸が割けるように苦しいものなんです。それでも旅立つ彼の重荷にはなりたくない……彼女は本心を隠して彼の旅立ちを見守るんです! 感動的なシーンなんです! それはぶち壊すような真似をしちゃって……」
何だか、漫画みたいなワンシーンだな、とぼくは彼女の持論を聞きつつ思った。そういえば、彼女たちが回し読みしていたらしいくたびれた少女漫画を目にしたことがあったっけ。娯楽が少ないから擦り切れるまで読み込んだらしいその少女漫画は、きっとスミレもお世話になっていたに違いない。
「そうすると、あれなんだろうか。旅立ちのシーンでは、バックにバラとかの花が咲き乱れるんだろうか?」
「当然」
えへん、と慎ましやかな胸を張ったナズナは断言した。これはぼくの想像はあながち見当はずれでもないみたいだ。
やれやれ。良かれと思ってやったことだがしくじったか、とぼくは後悔し始めていた。
ナズナの話が真実だとすれば、ぼくはスミレの純情を裏切ってしまったことになる。一応謝罪はしてあるものの、別れの場面には相応しくなかったかもしれない。
……今から引き返してリテイクさせて貰おうか。
「でも、セイジさんの言う通り、あれはあれでよかったんでしょうけど」とぼくの耳元でナズナは囁く。「強引な感じで唇を奪われるのも、女の子としてありなんですよ」
「さ、さいですか」
耳元に吐息を吹きかけるのはやめて欲しい。この子はわざとやっているに違いない。
ぼくをからかっていたナズナは、突然「うわきゃ!?」という不思議な奇声を発してひっくり返った。見ると、キララが背後から容赦なく彼女の服を引っ張ったらしかった。おかげでナズナは荷馬車の中で盛大に尻餅を付く羽目になっていた。
荷馬車がみしみしと揺れたせいで公爵夫妻が「すわ! 何事か!」と鼻息荒くいななく。ぼくはどうどうと彼らを宥めつつ馬車を止めた。
「こら、キララ。いきなり引っ張ったら危ないだろう?」
注意されたキララは、面白くなさそうにしょんぼりとした。ぼくは盛大に慰めてやりたい気分に駆られたが、これは彼女のためなのだと心中で血涙を流しながらも耐えるのだった。
「まあまあ、そんなにキララちゃんを責めないでくださいよ」と元はといえば自分のせいなのに、ナズナはまるで人格者よろしくぼくを諭そうとする。
ぼくは無言で彼女の頬を掴み、それから無表情のまま引っ張った。
発情期の雄猫みたいな鳴き声がした。そうすることで少しは気が晴れたぼくは満足気に彼女の頬を解放してあげた。
涙目で頬を押さえるナズナ。恨めしい視線でぼくを貫く。
「な、何してくれちゃうんですか、セイジさんは……。わたしの顔はアンパンでできてるわけじゃないんですよ? そんなに引っ張ったって分離できないんですよ?」
ぼくは「何言ってるの、この子?」みたいな表情で、
「そんなの当たり前じゃないか。ぼくが頬を引っ張ったのは、君に苦痛を与えるためだよ」
「さらっと酷いこと言った! すっごく非人道的!」
「褒めるなよ。照れるだろ……」
「小指の先程も褒めてませんから!」
何やらナズナが騒がしい。頭でも打ったのだろうか?
ぼくは彼女を落ち着かせるためにラマーズ法を伝授した。彼女は気を静めるために、「ヒッヒッフー」と数回繰り返す。
「どう? 赤ちゃんとか生まれそう?」
「話の繋がりが全然見えませんっ。深呼吸しただけで妊娠するとか、どんな呪いなんですか、これ!」
この世界では結構なブラックジョークである。
ぜえぜえと息を荒げるナズナを囲んでぼくたちは小休止することにした。
ナズナはツッコミに終始したせいか体力を消耗したようである。しきりに、「わたしはボケ担当なのにね、お姉ちゃん……」と独り言を呟いている。今はそっとしておこう。
ぼくはキララを抱っこして座る。荷馬車内は<キャラバン>として取り引きするために広々としている。今回はツケ払いで物資を放出した結果、当初の目的とは異なる取り引きになってしまったが、得たものも大きかった。
野菜類の補給基地としてこれから世話になれるだろうし、魚を捕る方法もいくらか伝授してあるから、徐々にでも漁が行われるようになるかもしれない。そうすれば、魚の干物類も生産されるようになるはずだ。
東京近郊でこのような場所を確保できたのは幸運だった。いざとなれば、匿って貰うことだってできるだろう。
そして何より、ぼくも住人のひとりとして認めて貰えているのが嬉しかった。
出発の際にかけられた「行ってらっしゃい」という言葉は忘れられない。その言葉を聞いたのは何年ぶりだろうか、とぼくは思った。少なくとも、こうやって旅を初めてからは、てんで聞かなくなった言葉だった。
それだけに、その「行ってらっしゃい」という言葉はぼくの胸に響いた。ここは帰る場所なのだと思い知らされた。それは悪くない心地だった。
ぼくの抱っこを堪能したキララは機嫌を回復させていた。ナズナに一矢報いたことも大きいのかもしれない。とにかく機嫌を直してくれたようで一安心である。
そんなぼくらを、ナズナはへの字口で見た。
「何だかわたしだけ除け者にされてる気がします」
「そんなことないさ。なあ、キララ」
ちょっぴり首を傾げたキララはナズナのつんとした様子を見て、何かしら思うところがあるようだった。
ぼくの正面を陣取っていた彼女は身体を横にずらし、空いたスペースを指指した。ちょうどぼくの右隣の位置である。
「え? 一緒に座らせてくれるの?」
ナズナも無言の仕草に慣れてきたみたいだ。キララの言いたいことがわかるようになってきている。キララはあまり喋らないけれど、それでも目の動きや仕草、雰囲気で大体のことはわかるのだ。
とはいっても、一日二日の付き合いではそれもかなわない。
キララのことがわかるようになったということは、ナズナもぼくたちの一員となりつつあるようだ。だからキララもナズナの同席を認めたのかもしれなかった。
「では失礼して」とナズナはぼくの右腕の中から現れるように陣取った。わざわざ身体の下から潜り込む意味はあったのだろうか、とぼくは訝り気味である。
ぼくの右腕を抱えたナズナは上機嫌だった。すぐ隣のキララと意味ありげに視線を交わし合っている。男のぼくには理解出来ない次元に彼女たちはいるようだった。
「ねえ、セイジさん。ちょうどいい機会ですから、ひとつ提案させて欲しいんですけど」とナズナは切り出した。
「提案?」
「はい。セイジさんはわたしに旅の方法とか、いろいろなことを教えてくれるって言いましたよね?」
「まあね」とぼくは言った。「ぼくに教えられることは、ちゃんと教えるつもりだよ」
「なら、これからは『先生』って呼ばせて貰いますね」
「それはまた急な話だな……」
提案っていうのはこのことか、とぼくは苦笑する。まさか自分がそう呼ばれる日が来るとは思ってもみなかった。ぼくは刑務所に入っていた人間である。「先生」と呼ばれる人種からは程遠いところに生きていたのだ。
だが彼女にとっては決定事項らしく、「よろしくお願いしますね、先生」と乗り気である。今さら嫌だから変更してくれと言ったところで承諾してくれるはずもなかった。
それにしても。
「先生か……」とぼくはサングラスをかけ直しつつ独白する。「悪くない響きだ」
ぼくは友人だった「教授」のことを思い出した。彼は一体どうなってしまったのだろう。<審判の日>以来行方知らずの友人に思いを馳せる。彼の研究を引き継ぐ形でぼくは旅を始めたのだ。いわば、彼はぼくルーツとも言える人物なのだ。
そんな何十年も前のことではないのに、彼の顔はおぼろげにしか思い出せない。それどころか、ぼくは妻の顔も思い出せなくなってきている気がした。それがいいことなのか悪いことなのかはわからない。
人間は日々忘れることによって生きていく。過去の記憶は未来のためにある。ならばいつまでも過去に囚われているわけにはいかないなのだ。
だとしても、幸せな記憶でなかったとしても、時と共に風化していく記憶には哀愁の念を禁じ得ない。できることなら忘れたくないと思う。
アカリのことだって同じだ。彼女に関する最後の記憶は、その死の間際である。それが幸福な記憶であるはずがない。
だとしても、だ。ぼくはずっとその記憶を忘れてはならないのだと思う。それが生きている人間の務めなのだと思う。
ナズナにも辛い記憶は根を張っている。それが彼女を僕との同行に駆り立てたのであろうことも想像がつく。だが彼女は後悔しているばかりではないのだ。この旅を通じて、自分の目的を、人生を模索している。それは彼女の決意からも読み取れる。
ぼくは「先生」として、あまりに不出来ではあるけれど、彼女の旅を手助けするくらいならできるかもしれない。彼女が辿り着く旅路の果てが、どうか安らかな光景であることをぼくは願った。
「先生、質問があります」
びし、と手をまっすぐ挙手してナズナが質問する。まるで学生みたいだ。
いやいや、そういえば彼女は本来なら高校に通っていてもおかしくない年齢だった。「みたい」ではなくて本場の学生なのである。
「はい、久保田くん」とぼくは偉そうに指名する。
何だか自分が急に偉くなった気がした。そのことにいい気になっている自分を省みて、ぼくは反転して矮小な己をまざまざと見せつけられた気がした。
せ、先生ってとても疲れるかもしれない。
ナズナは「はい」と返事をして腕を組んだ。そして視線を中空に漂わせながら、
「出発する前の話では、南の方にある<街>に向かうってことでしたけど、どのくらいの日程を予定しているんですか?」
「なるほど、いい質問だ」
旅路において日程に気を配らない者は痛い目を見る。積んである食料や水、それらと相談して行き先を定めなければならないからだ。
ある程度は現地調達な可能だが、そうしているといつまでたっても目的に辿り着けない。物見遊山がその目的ならそれで構わないのだろうけれど、今回は事情が異なる。
<絆教>の件もあるので、あまりに危険な情報を手に入れた時、例えば、ゆのかわの集落を攻撃する予定を立てているとか、そういった場合には急いで戻る必要も出てくる。
とどのつまり、今回は偵察をかねた旅なのである。だからあまり悠長にはしていられない。しかしながら、急ぎ過ぎると足元をすくわれる。その辺りのさじ加減が重要だった。
「まずはこの間襲われた集落跡を調査する。人間でもケモノでも、襲われた集落は結構見てきたけど、前回のは今までにないタイプだったからね。見ておく必要がある。ここからも近いだろうし」
ふんふん、と彼女は真剣な様子でぼくの話を聞く。その緊張感は歓迎するところだった。この先は、最低限、自分の命は自分で守らなければならないことを自覚して貰わないと。
「その後に話にあった<街>へと向かう。でもその前に、補給をする必要がある」
「補給、ですか?」
「うん。ぼくはこうして<キャラバン>をしながら旅をしているわけだけど、この物資はどこから手に入れてきたのか不思議には思わなかった?」
ぼくの言葉に、ナズナは「そういえばそうですね」と答えた。
以前のように電話やネットからショッピングはできないのだ。大型のスーパーやデパートは初期の内に略奪され尽くしてしまったので、街中から物資を探してくることもできない。
目ぼしい所はすでに空っぽというわけである。特に地方はその傾向が顕著だった。ケモノに襲われる頻度が低かった地方では、皮肉なことに生き残りの多さのために治安が悪化していた。
それが<絆教>という得体の知れない新興宗教団体が成長した要因のひとつだろう。外敵から身を守るためには、少しくらい怪しかったとしても、多くの人間が集まる場所に属したくなるものである。
一方、ケモノの猛攻に曝された都市部では、ひと晩のうちに人間が狩り尽くされてしまったので、いまだ手付かずで物資が残っている場所も少なくない。
前述した<絆教>の連中や、集落に属さない荒れくれ者共は、そういった物資を狙って徘徊しているのである。
ゆえに、物資が残っていると知っていても、普通の人間は都市部には近寄らない。人間とケモノ、その両方の危険を思えば、地方での自給自足生活の方がずっと安全だからである。
「まだ残り物がある穴場でも知ってるんですか?」
取りあえず思いついたものを言ってみたという風にナズナは訊ねた。
「残り物には福があるとは言うけど、危険を冒してまで宝探しをするつもりはないよ」とぼくは答えた。「文字通りの『補給』さ。ここから山間部に行ったところにぼくの隠し倉庫があるんだ。たぶんまだ無事だと思う」
「隠し倉庫ですか……一体また、どうやってそんなものを? それって、<審判の日>以前に用意してたってことですよね? 以降だと、どう考えても無理がありますし」
確かに、あの日以降に大量の物資を見つけ、輸送するのは不可能だろう。ライフラインと流通が完全にストップしてしまったのだから。おかげで日本の企業は一斉に倒産してしまった。
恐らく世界中でも同じことが発生したに違いない。その日のうちに、これまで人類が創り上げてきた貨幣制度は灰燼に帰したのである。政府が消滅したのだから、信用も何もあったものではなかった。
「以前に、ぼくがこつこつと横領して創り上げた補給基地さ。おかげで刑務所暮らしをする羽目になったんだけどね」
「ええッ」
びっくり仰天のナズナは声を裏返させた。そういえば、この手の話をするのは初めてかもしれない。いつもは、相手を警戒させないために過去話はご法度だったっけ。
口が滑ったというより、ナズナにならば話してもいいと無意識に思ったのかもしれない。
「せ、先生は、全国津々浦々のお宝を目当てに日夜盗みを働く、世紀の大怪盗だったんですか?」
「いや、そこまで言ってない」
どう解釈したら、ぼくがワルサー片手に赤ジャケットを着込んで盗みをやるようになるんだ? まあ、緑ジャケットでもいいけれど。
「会社の物資を横流しして溜め込んだのさ。それがばれちゃって懲役をくらったわけだ。犯罪者としては小物だってさ」
実際、堀の中ではそう言われた。あの窮屈な世界では、出会った時の挨拶がわりに入所理由を訊かれるのである。まるで武勲のように自身の犯罪歴を自慢してくる輩もいた。非常に偏屈な世界だったのを覚えている。
「ほへえ」とナズナは摩訶不思議な相槌を打った。理科室の標本でも見るみたいな目でぼくを見る。それからしみじみとした調子で、
「先生は『ちょいワル』ってことですか?」
「え? そ、そうなるのかな……?」
用法を間違えているような気もしなくはないのだけれど、どこがどう間違っているのかわからないのでそう答えておく。
というか、横領がちょいワルだったら、殺人とか強盗はどうなるんだ?
めちゃワルとか?
「でも、それっておかしくないですか? <審判の日>以前に先生は物資の溜め込みを始めたんですよね? その日に何か起こるってわかってないとできないことじゃないですか」
「そういうわけでもないんだよね」
ぼくは自身の過去を簡単に要約してナズナに語った。幼い頃からの直感能力や、よく見た夢のことである。思えば、こうして過去話をするのもアカリ以来かもしれない。集落にいる間に、スミレにも話しておくべきだったな、とぼくは後悔した。
話を聞き終えたナズナは、いたく感心した様子で、
「やっぱり、先生はすごい人だったんですねっ」
「自分では、そうは思わないよ。ぼくには、自分があの時どうして無我夢中に行動していたのかわかってないんだし。確かに、何か大きな力のようなものが働いた気はするんだ。でもそれが何かわからないうちに、自分は特別だとか言い出したら、それこそペテンだろう?」
「わたしには、先生のその言葉こそが特別である証のように思えますよ」と彼女は意味深なことを言った。
ぼくは首を傾げた。彼女の言っていることの意味がうまく掴めなかった。彼女は何か勘違いしているのではないかとぼくは思った。
ぼくは確かに己が得体の知れない事態に巻き込まれているのではないかと疑ってはいる。けれども、それと彼女の言うところの「特別」とは、大きな隔たりがあるように感じられた。
関わっている事態はぼくの人生において大きな意味を持つものだ。だがそれが、彼女にとっても重要な意味を持つとは限らないのだ。
「よくわからないけど、あまり過剰な期待はしないでくれよ。ぼくは君にがっかりしてほしくはないんだ」
「了解です、先生。でもそのお願いはちょっと難しいかもしれないですね」と彼女は微笑する。「だって、わたしは先生に命を救われた時から、先生と命を奪った時から、これ以上ないくらいあなたに参っちゃってるんですから」
「むう……」
それはきっと、愛とか友情とか、そういった俗なものではないのだろう。それよりも一段階上部にあるような、ちょっと手の付けられない感情なのだ。ぼくが旅の果ての光景を求める圧倒的な衝動。それと趣を同じくするものだ。
そういう意味では、ぼくとナズナは似た者同士なのかもしれなかった。求めるものの差異はあるとはいえ、身を焦がすような執着と探求の想いには、共通した部分があるように思われる。
存外、「先生」っていうのも言い得て妙な呼ばれ方だった。
「それはそうと、その『補給基地』っていうのは近くにあるんですか?」
「山道を登るから、それなりに時間はかかるな。調査を終えた後に行くと、3日くらい時間をロスすると思ってくれて構わない。それでも、その時間ぶんの価値はあるはずだよ」
先が見えない以上、物資は充実させておくに越したことはない。常に備えておくことが、この世界で生き延びる秘訣なのだ。
ナズナは了解したとばかりにひとつ頷き、キララをぼくから強奪して猫っ可愛がりし始める。質問タイムは終わりのようだった。
キララはナズナの抱きつきから逃げ出そうともがくが力及ばず、その氷の表情を僅かながらも引きつらせている。その目はぼくに切実な助けを求めていた。
「ふふ。ふたりとも仲がいいな。おじさんやけちゃうな」とぼくはからかうように言った。
その後しばらくして、ぼくたちは休憩を終え移動を再開した。
キララはぼくの裏切りを腹に据えかねていたらしく、馬車を操っている間中、ぼくは頭を木魚みたいにぽかぽか叩かれたのだった。




