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第26話

 診察室のプレートが掲げられた部屋の中で3人が待っていた。スミレと茂野さん、それから男がひとり。


「あなたは確か、朝倉さん」


 ぼくの言葉に彼は頷いた。聞き取り調査の時に協力して貰った元自衛隊員の人である。ナズナの話では、この非常事態下において中心的な役割を担っているらしい。


 よく見慣れた診察室である。脇にはベッドがあって、その反対側には診察のためのテーブルとレントゲン板がある。男ふたりは椅子に、スミレはベッドに腰掛けていた。


 テーブルにはぼくが商品として提供したウィスキーの酒瓶とグラスがいくらか。そして野菜の揚げ物らしきものが肴として置いてあった。


「なかなかいいサングラスじゃないか。どうしたんだ?」


「ナズナから貰ったんです。……貰ったんだけど、本当にいいのかな、スミレ?」


 我々はベッドに並んで腰掛けた。部屋の中に入ったので、サングラスを外す。彼女たちの父親の遺品であるサングラスは、ぼくの手の中で手持ち無沙汰にしていた。


「ええ。ナズナが前に、あなたにあげたらどうかって言ってたのよね。わたしも、あなたが貰ってくれるなら文句はないわ。あなたって結構几帳面そうだから、大事に使ってくれそうだし」


 ぼくは苦笑して礼を言った。これでは、ぼくが死ぬまで大事に扱わないといけなさそうだ。彼女たちふたりぶんの想いと、彼女たちの父親の念がこもった品なのだから。


 茂野さんは「ああ、そういや、あいつがかけてたっけな。それ」と懐かしむ目でテーブルに置かれたサングラスを見ていた。彼にとっても思い出の品なのかもしれない。


 昔の情景を堪能したらしい彼は、では改めまして、とでも言うかのように咳払いした。


「もうすぐセイジ殿が出発するという噂を小耳に挟んだんでな。最後にこうして交友を深めておこうと思ったわけだ」


 茂野さんはグラスにウィスキーを注ぎぼくに手渡してくれる。「おまえさん方はどうする?」と彼は未成年組に訊ねた。


「……わたしはお水でいいよ」


「わたしも、です」


 ナズナとみっちゃんは飲酒を遠慮するようだ。そういえば、彼女たちは初めてウィスキーを飲んだ時に盛大にむせ返っていたっけ。あれのせいで懲りたのかもしれない。


 全員が飲み物を手にする。ホストは自然と茂野さんという流れになっていたので、彼が代表して乾杯の音頭をとった。


「我らが友人に乾杯」という茂野さんに続いて「乾杯」と我々も続く。軽く一口すると、熱い滴りが胃に流れ落ちていくのを感じた。


 グラスに入っていた半分を飲み干した茂野さんは、テーブルに置かれている野菜の揚げ物を「食べてみな」とジェスチャーしつつ、「それにしても、急な話なんだな」と感想をもらした。


 ぼくはかぼちゃの揚げ物を手にとって食べてみた。衣を付けず、ただ油で揚げたものだったけれど、ほくほくとしておいしかった。


「これ、結構いけますね」


「だろう? 簡単だけどうまいんだよ、これ」


 自分で作ったわけでもないだろうに、茂野さんは自慢気に言う。


 ああでも、彼は材料の野菜を育てているのだから、その自慢顔は正解なのかもしれないな、とぼくは思った。丹精込めて作った野菜がうまければ、そりゃあ嬉しいだろう。


「敵の襲撃があるかもしれないっていう時に申し訳ないんですが、こんな時だから出発しなければならないと思いまして」


「他のところに行ってみるのか?」


「ええ。以前に<街>があるって言ってましたよね? そこを訪ねてみようかと。大きなところならば、それだけ情報も入ってきてるでしょうから」


 確か、ここからそれ程遠くないという話だった気がする。以前に手に入れた地図にもマーカーされていたし、十分次の目的地として考えられる候補だった。同じ地域区分にも属しているから、我々が一番知りたい情報も持っているかもしれない。


 特に仕入れたいのは、子供たちに関すること、それからよく出没するようになった<絆教>の連中に関する情報である。彼らの目的を知ることができれば、できる限り遭遇を避けられるかもしれないのだ。


 それに東京に近づいてきただけあって、様々な問題の核心が発見できるかもしれない。東北からの南下に伴って変化したキララの様子や、ぼく自身の身体のこともある。


「出発したとしても、またここに寄らせて貰うことになると思いますけどね。野菜の種の件や、ツケの回収もありますから」


「やれやれ。しっかりと覚えていなさったか。気の許せない御仁だぜ」


「これでも、<キャラバン>をして飯を食ってるわけでしてね」


 本質的には有名無実化しているのだが、ここで暴露するようなことでもないだろう。実際に、この肩書きによって様々な集落を回ることができているのは事実でもあるのだし。


 ぼくと茂野さんは肴と酒を口にしつつ、取り留めもない話題に花を咲かせた。時折スミレやナズナたちが乱入してくることもあった。皿に盛られていた揚げ物があらかた姿を消す頃には、ぼくは大分酔いが回っていた。


 それに対して茂野さんは平気そうな顔色をしている。スミレもまだ余裕がありそうだった。この面子の中では、ぼくが一番下戸であるらしい。ちょっと悔しい事実だった。


「<絆教>の件を探るつもりなんでしょう?」とスミレは言った。


「そうだね」とぼくは答えた。「考えたくないことだけど、先の集落が襲われた以上、別のところが被害にあってないとも限らないんだ。その辺の被害状況も見ておきたいし、南の方にあるっていう<街>にもやつらはちょっかいを出してる可能性が高い。<街>ならば人数が多いだろうから、やつらもそう簡単に手は出せないだろうけど……」


 混乱に便乗するのは気が進まない話だけれど、こうなってしまっては四の五の言っていられない。早めに調査に向かわないと、貴重な情報源が消滅してしまう危険性があった。


 それに、偽善的な面での心配だってしている。


 ……ぼくが加勢したところで、何が変わるということもないのは確かだろうが。


「いつ出発するんだ?」グラスを傾けつつ茂野さんは言った。


「2、3日中には」とぼくは言った。


 あまりだらだらと未練がましく残っていると、いつまで経っても出発できない。ただでさえスミレたちと離れたくない願望を自覚しているのだから。


 遠くないうちに出発するとは言っていたものの、こう具体的に示したのは今日が初めてである。


 久保田姉妹は息を詰まらせたような表情をしていた。ぼくは胸の底が痛むのを感じた。別れが辛くて、彼女たちには具体的予定を話さなかったようなものだ。もっと早くに伝えるべきだったかもしれなかった。


「何ともな。今日あんたを誘っておいて正解だったみたいだ。別れも満足に言えない事態になりかねなかったわけだからな」


「……お別れは苦手なんですよ。だから望ましいのは、『またね』とでもいうような重くない別れ方ですね」


 ここの住人に情が湧くとのっぴきならないことになる。そう理解していたはずなのに。


 ぼくは自らドツボに嵌ったのだった。けれども後悔はしてなかった。こうなってよかったとさえ思っている。今の状況のおかげで、ぼくはこの集落の人たちの優しさに触れられたのだし、スミレ、ナズナ、みっちゃんとも仲良くなれたのだ。


 それを否定することなど考えるはずがなかった。


「決意は堅いみたいだな。いいさ。男の門出を邪魔する輩は、馬に蹴られて三途の川だ。万歳三唱で送り出してやるさ」


「……それはそれで玉砕して二度と帰ってこなさそうだからやめてくださいね」


 まるでこれから特攻でもする人みたいじゃないか!


 別に死ににいくわけでもないのだ。……まあ、死ぬような目には会うかもしれないけれど。


「それはそうと、出発する前に、セイジ殿に手伝って欲しいことがあってな」と茂野さん。彼の言葉をスミレが引き継いだ。


「ここの防衛のために改装中なのは知ってるわね? 今は朝倉さんにアドバイスして貰ってるんだけど―――――」


 我々の視線に、彼はぺこりと頭を下げた。肉体派というよりは頭脳派に見える。作戦室でコンピュータでもいじってそうな役回りである。


「ナズナに聞いたんだけど、あなた、結構強いらしいじゃない? こういった防衛のことにも詳しいんじゃないかって話になったのよ」


「詳しいってわけじゃないよ。戦闘に関しては朝倉さんの方が適任だろう? 本業だったんだから」


 ぼくの言葉に、朝倉さんは肩を竦めた。


「装備が揃っていた頃ならいざ知らず、こうも家庭用品ばかりで備えなければならないとなると、勝手がわからないんだよ。まさか箒を持って射撃訓練するわけにもいかないだろう?」


 ……さもありなん。


 確かに、装備が充実していたからこその戦術はあるだろうが、メインウェポンが手作りの槍という事態は、さすがに通常の自衛隊では考えられないだろうし、訓練もしていないだろう。特殊部隊だってもうちょっと恵まれた環境を想定して訓練するはずだ。


 バリケードや窓からの投石はすでに考えているようなので、ぼくが提案できることはあまりなかった。


「この病院は立地的に恵まれてるようだからね。背後からの襲撃は考えなくてもいいんじゃないだろうか」


 背後は斜面になっている上、すぐ隣には川が流れている。攻めようと思うなら、わざわざこの難所を選ぶ必要性はない。不意を付くという少ないメリットも、斜面を登り切るまでの狙われやすさというデメリットに相殺されてしまっている。防衛側だって背後の監視に誰も人数を配置しないわけでもないのだ。


 かつ一方で、味方が逃げる時のメリットがある。斜面となっているので、上方からは滑り降りるようにして一気に下ることができる上、付近の山林に逃げ込むことだって可能だ。ここら辺の地理に関しては、襲撃側よりも集落の住人たちの方が明るいに決まっている。


「そういうことになる。正面を固めて、出入り口を絞れば、そこに群がる連中を一網打尽にできるからな。投石する場合も、場所が限られてる方が命中しやすい。幸い、目に付く出入り口は正面入口だけで、緊急搬入口は脇の目につきにくい場所にある。そこはすでにがっちりと閉鎖する準備を整えてある」


 朝倉さんは抜かりなく準備を進めているみたいだった。ぼくの出番などないではないか。


「ただ、問題なのは武器なんだ。槍だけじゃ不安だから見様見真似で弓矢もつくろうと思ったんだが、なかなかうまくいかなくてね」


 試作品はまるで使い物にならないと朝倉さんは両手をあげた。


 確かに、弓矢は簡単な造りのようで、しっかりと造り上げないと使いものにならない。矢は遠くまで飛ばせないし、ちょっと強く引いただけで破損するだろう。作成に関してはコツがいるのだった。


「それに、おれは銃の取り扱いは訓練していても、弓矢は扱ったことがないんだよ」


 ここでは、農作業がもっぱらだったそうなので、狩猟に関する技術はないも同然だった。必要のない技術は伸びないものだ。確実に食料を調達できる手段があるのだから、それは当然の帰結だった。


「なるほど、ぼくには弓矢のレクチャーをして欲しいってわけだ」


「そうなる」と彼は頷いた。


「でも、勘違いして欲しくないんだけど、別にぼくは弓矢のエキスパートって程でもないからね。学生時代は弓道をしていたこともないし、人の頭の上のリンゴを遠くから射られることもないんだ」


 ぼくはあの波乱万丈だった夜に破損した弓を思い浮かべた。自分用のものも造り直さなければならないからちょうどいいかもしれない。


「教えられるのは、造り方と簡単な射法だけだ」


「それで十分さ」


 朝倉さんは満足気に言った。そういうことなら断る理由もない。ぼくは快く協力することを約束した。


 話が一段落したので、我々は再びリラックスムードに移行した。ぼくはキララを抱えながら、酒の代わりに水をちびちびと飲んだ。これ以上飲酒したら前後不覚に陥りそうだったからだ。


 スミレたちと雑談していると、やけに思い詰めたようなナズナと目が合った。彼女は両手を膝の上でぎゅっと握り締めていた。ぼくのことを見ているようで、彼女は別の何かを見据えているみたいだった。


 スミレとみっちゃんも口に出さないまでも心配しているようだった。しきりに気遣う様子を見せるのだが、当の本人はまるで気づかない。しまいには、ぼくがふたりから懇願の目を向けられる始末だった。


 少し前、彼女が言った言葉を思い出す。


『目的なら、わたしにもありますよ、セイジさん』


 軽い気持ちで手伝うなんて言わなければよかった、とぼくは後悔した。少し考えれば、彼女のやりたいことは想像がつくではないか。彼女が抱える心中は、ぼくと出会った時から変わらないままあり続けているのだ。


 全てを忘れて生きろ、なんて彼女に諭せる資格はぼくにはなかった。ぼく自身、かつての因縁を引きずって旅を続けているようなものだ。


 幼い頃からの不可解な現象、アカリのこと、子供のこと、志半ばで行方不明になった友人。これらの過去はぼくを縛り付けていると言っても過言ではない。人は誰だって過去に囚われて生き続けなければならないのだ。ナズナの場合、それはあまりに大き過ぎてどうしようもないのだろう。


 実際に事態は動き続けているのに、黙って過ごすことなどできやしないのだ。このぼくがそうであるように。


「ねえ、セイジさん。お願いがあるんですけど」とナズナは唐突に切り出した。「セイジさんの旅に、わたしも一緒に連れてってくれませんか」


「ナ、ナズナ、あなたね……」


「最後まで聞いてよ、お姉ちゃん。わたしが一緒に付いて行けば、この集落にだってメリットはあるんだから」


 ナズナも姉を説得するために考えているみたいだな、とぼくは思った。感情論でやり込まないあたり、彼女は成長してきていると言えなくもない。


 茂野さんは「やれやれ」といった体だが、一応ナズナの弁を聞くつもりはあるようだった。彼を味方に付ければ、スミレの説得もしやすくなるだろう。


 ぼくはといえば、ナズナにはここで静かに暮らしていて欲しかった。しかしながら、状況がそれを許さない事態になりつつある。


 ケモノに通じているような様子を見せた<絆教>のこと、それに襲われた付近の集落のこと。ここに留まっていたからといって、世の中から切り離されているわけでもないのだ。だからこそ、スミレだって不測の事態に対する準備に余念がないのだ。


「まずひとつ目として、わたしが同行することによって、またここにセイジさんが戻ってこなきゃならなくなる。それはちょくちょく取り引きができるってことでしょ」


 一応、ぼくはこの集落を拠点にするつもりではあるが、そう頻繁に訪れるかと訊かれれば返答に困る。目的のルートによって決定される事柄だろう。……ナズナが同行しなければ。


「ふたつ目に、わたしがいろいろな場所を回ることによって、他の集落との間にパイプを作れる。集落間はつながりが希薄だけど、今回みたいに、いざという時のための備えを用意しておくのは大切でしょ?」


 ぼくは感心してナズナを見た。彼女は彼女なりに状況を鑑みて、自分の有利に働く事柄を選び出している。視野が広がっているのだ。子供扱いされたくないという理由から集落の外に飛び出していったかつてに比べて、彼女は確実に成長していた。


 人は失敗を経験することによって成長する。けれども、ここから外に出て死ぬような目にあった彼女が、再び外へ向かおうとしている点については褒められない。かなり大きな私情が絡んでいることは明白だった。


「みっつ目に、同行を許して貰うことによって、わたしがセイジさんの弟子みたいな立場になれる」


「む……」


 本人が目の前にいるというのに、憚らない彼女の言葉に苦笑せずにはいられない。


 ぼくの弟子扱い、つまりは身内扱いになることによって、ぼくの抱える在庫の恩恵を受けることができるかもしれないと暗に示唆しているのだ。その対象の目の前で言ってのけるのだから、彼女はなかなかに豪胆だった。


「よっつ目に、わたしという足枷があることによって、セイジさんは慎重に行動しなきゃならなくなる。……セイジさん、キララちゃんがいるっていうのに、危ないことばっかりするんだから」


 ナズナの言葉には、決まり悪い表情を浮かべるしかなかった。それは重々承知していることだった。キララを遺して死ねないと思いつつも、いざとなれば向こう見ずに走ってしまうのが悪癖だった。これは自覚があっても直せないという厄介な代物だ。


 そこに、さらにストッパー役のナズナが加わればどうなるだろうか。


 基本、キララはぼくの行動指針に反対することはしない。むしろ進んで協力してくれる。それが危険を伴うことだったとしてもだ。彼女はぼくの全肯定者としてあった。


 キララがぼくを心配していないわけではない。優先順位の問題だった。


 彼女は、自分の心配よりもぼくの意見を優先する。だから常にぼくの味方なのだ。注意や忠告はしてくれても止めはしない。


 そのおかげで、ぼくは今まで悪く言えば好き勝手にやれてこれたのだ。当然、その報いを受ける時だってある。<絆教>の少女に半殺しにされたあの晩がいい例である。


 ……ナズナの提案は、ぼくにとってもメリットがあるのか。


 自分で「足枷」というくらいだ。足手まといの自覚はあるのだろう。それを押してまで付いてこようとしている決意には感服せざるを得ない。それは蛮勇ではあるが無謀ではなかった。


「セイジさんにとっても、キララちゃんをひとりにする時間を減らせるという利点がありますよ? それにキララちゃんだって女の子です。同性なら、いろいろな問題のアドバイスもできますよ」


「なるほどね。一理ある」とぼくは答えた。


 キララも10歳になる。思春期を迎えるにあたって、男のぼくでは対応しづらい場面に突き当たる時期だ。幸い、彼女はぼくを毛虫のごとく嫌う傾向は見せないものの、言い出しづらいことだってあるだろう。そんな時、女性が傍にいてくれるのは心強い。


 ナズナは意外な程に説得力のあることを並べ立ててくれた。おかげで姉のスミレは苦渋の面持ちである。「駄目なものは駄目」と言ったところで、妹が翻意するとは思ってもないのだろう。他ならぬ姉妹の問題である。お互いの頑固さは誰よりも承知しているはずだった。


「もういいわ」とスミレは言った。「あなたの言うことは筋が通ってる。ちゃんとここの人たちのことも考えてることもわかってるわ。でもわたしが知りたいのは名目上の理由じゃないのよ。あなたの本音を知りたいの」


「お姉ちゃん……」


「あなたが巻き込まれた事件のせいで、普通でいられなくなってしまったのはわかるわ。でもね、わたしはあなたに死んで欲しくない。セイジに付いて行くのも、ただの私怨からだっていうのなら、絶対に認められないから」


 慄然とした姉の態度に、ナズナはややたじろいだ。普段は妹であるナズナの方が姉を手玉に取る感が強いが、スミレも姉としての矜持があるのだろう。これだけは譲れないという決意が見て取れた。


 唇を噛み締め、俯き、ナズナは口を噤んだ。それからややあって顔を上げた彼女は、今にも泣き出しそうな儚い微笑を浮かべていた。


「敵わないなあ、お姉ちゃんには」とナズナは呟いた。「怒られてるはずなのに、どうして嬉しいって感じるんだろう」


 それはきっと、スミレの妹を想う気持ちゆえだろう、とぼくは思った。その姉の想いを、ナズナも感じ取っているのだろう、とも。


「理由はね、お姉ちゃん。生きるためだよ」と彼女は告げた。


「生きるため?」


「そう。わたしが最後まで、生きることを投げ出さないようにするためなんだよ。このままじゃわたし、途中で諦めちゃいそうだから」


 ぼくたちは絶句した。彼女がそこまで思い詰めているとは思いもしなかった。彼女はいつも笑顔で、帰ってきてからも泣き言を言わなかった。


 だが、表面上だけで判断してはならなかったのだ。大切な人の死は、心に負った傷跡は、すぐに治癒されるはずがなかったのだ。目には見えない部分の傷は尚更だった。他人には感知できない痛みとして、本人を苛み続ける。だから忘れられない。じくじくと痛み続ける。


 時間と共に癒える傷もある。だが彼女の場合は違ったのだ。時に任せていては、化膿し腐敗する。そうなれば先にあるのは自発的な死だけだ。


「わたし、今回、セイジさんに付いていって感じたの。殆ど何もできなかったけど、確かに何かをしていたんだって。生きるためにしょうがなく生きるんじゃなく、死ぬ前に精一杯生きてるんだって感じたの」


 ぼくたちは長生きするために生きているわけではない。一度しかない人生の中で、何かをなすために生きているのだ。そうでなければ人生にどんな意味があると言うのだろう? 


 人の一生に意味なんてない。そう主張して憚らない人もいるはずだ。ぼくもそう思うし、納得もできる。


 だけど、それが全てだとは思わない。


 無意味である一方で、何かしらの意味を持たせることができる。それは生まれる前から備わっている意味ではなく、生きている中で、自分自身で見つける意味だ。


 それを見つけた時、人の人生は無意味ではなくなる。ある究極の目的のための人生となる。自分の命は、人生は、その究極に達するための礎となるのだ。


 それは他人に強制されるものでなければ、教えられるものでもない。たったひとりで、自分だけの力のみで見つけるものなのだ。


 もしかしたら、ナズナは意図せずにもそれを見つけてしまったのかもしれなかった。


 あまり褒められた方向性の目的ではないかもしれないけれど、人生の目的というものは、善悪を超越した次元の話だとぼくは思っている。だから彼女のことを非難できないし、賞賛だってできない。


 彼女の手助けを約束してしまった手前、ぼくは彼女の同行を許すしかないようだった。


「あなたは昔から頑固だったけど、成長するにしたがって磨きがかかってるみたいね……」とスミレは嘆息しながらも、どこか嬉しげだった。「ナズナはもう、自分で生きることを決められる歳になったってことかな。……大人になりつつあるのかもね」


「わたしはまだ子供だよ。大人だったなら、こんなこと言い出したりはしないもの」


「自覚してる辺り、手に負えないというか何というか」


 スミレが同意を求めるように視線をやると、茂野さんたちも呆れと感心が入り混じった様子だった。


「……セイジ。妹のこと、頼めるかしら」


「ナズナとの約束もあるからね。できる限りのことはするよ」


 ぼくは隣に座るナズナに視線をやった。彼女は力強い目でぼくを見返した。復讐心だけで世迷言を言い出したわけでもなさそうだった。ならば信頼してもいいはずだ。彼女の言う通り、一緒にいることのメリットだってあるのだ。


 覚悟を決めた表情のナズナに、友人のみっちゃんは戸惑いがちに声をかけた。


「なっちゃん、わたし……」


「ごめんね、みっちゃん。せっかく戻ってこられたのに、また心配かけることになっちゃって」


「ううん。わたし、なっちゃんが苦しんでたことに気づけなかった。友達なのにね……」


 みっちゃんは友人の苦しみを見過ごしていたことを後悔しているようだった。けれども、それは彼女だけの過ちではないのだ。我々にも等しく言えることなのだから。


「なっちゃんはね、きっと、苦しんでいる人を放っておけないから行くんだよ。絶対にそうなんだよ」


「みっちゃん……」


 言葉をなくすナズナ。それを見た彼女の姉は、立ち上がり、何も言わずに抱きしめた。その抱擁は、ひとり立ちする妹への愛情で溢れていた。


 ぼくは少しだけ彼女たちが羨ましくなった。姉妹というものは、家族というものは、いいものだな、とぼくは思った。


 膝の上のキララは、承知しているとばかりにぼくの手を、その小さな手のひらで包み込んでくれた。


 そうだよね、とぼくは思った。ぼくにも家族はいるのだ。家族というものは、血縁だけで決まるわけではない。その繋がりは、共にいることで、あることで生まれるのだ。


「ナズナ、これだけは覚えておいて。あなたの命はあなただけのものじゃないの。いろんな人たちのおかげで成り立っているの。だから、簡単に諦めるようなことをしちゃ駄目だからね」


「……うん」


「『自分は自分だ。誰にも指図されるいわれはない』とか言う人もいるだろうけど、それは悲しいことだってわたしは思うわ。あなたは違うとわたしは信じてる。あなたはあなた。それでいて、あなたはわたしの妹なんだから」


「うん、お姉ちゃん」とナズナは姉の腕の中で安心した表情を浮かべていた。「わたしはお姉ちゃんの妹だよ。ずっとずっと、ずっとそうなんだから」


 だから、妹はお姉ちゃんの元に帰ってくるんだよ、絶対にね。


 ナズナはスミレを抱き返しながら、そう独白した。

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