第24話
スミレの言う通り、温泉には人影がなかった。彼女が服を脱いでいるうちに温度調整を済ませてしまう。すでに手馴れたものだった。
一番風呂は温度調整をしなければならないけれど、まだ誰にも許していない湯につかるのは格別の心地よさがあった。
ぼくはキララと一緒に先に入らせて貰うことにした。
湯温は少し高めにしてあるから、全身を沈める際に年寄り臭い声をもらしてしまった。
いかんいかん。人はこうして歳をとっていくのだろうな。そのうち何をするのにも「よっこらしょ」とか言うようになるのだろうか。
散々筋肉を酷使したせいもあり、温泉は染み入るようにしてぼくから疲労を取り去っていった。絶好調だと思っていた身体にも、気付けない疲労が残っていたようだ。
ぼくは身体全身を伸ばして一息ついた。
肩から順に筋肉を揉みほぐしていく過程で、あることに気づく。
「……まるで無傷だ」
呆然とする。一昨日、あれだけ転げ回った後だというのに、ぼくの身体には傷ひとつ残っていない。小さな擦過傷やら切り傷があってもおかしくはないのに。全くの無傷というのが、かえって不自然だった。
そのまま手首をさすりながら両腕のチェックをする。腕に繋ぎ目があるとか、そこだけ色が異なるとか、そういった目に見える異常は見当たらない。ごく普通の、肌色をしたぼくの腕があるだけだ。
―――――だがこの腕は、本当にぼくの腕なんだろうか。
今でもありありと思い出せるあの瞬間。ケモノに腕を喰われた瞬間だ。その時の目から火花が出るような激痛も鮮明に記憶している。あれが夢だったなんて到底思えなかった。
ぼくは受刑者を監視する刑務官みたいな目で自分の腕を見た。今にもぼくの意に反して勝手に動き出しそうな腕だった。これが自分の身体の一部であるとは思えない。よくできた義手を装着していると言われても納得できてしまう。
じっと両腕を見ていると、傍らのキララは不思議そうに訊ねた。
「セージ、うで、いたいの?」
「ううん。痛くはないよ。ただ、何となく違和感があるだけ」
違和感と言えば、目を覚ましてからというもの、やけに太陽光がきつく感じている。身体の異常が目に現れたのだろうか。それとも単に、ずっと眠っていたせいで目が弱っているだけなのだろうか。
キララはぼくの手を取って軽く握りしめた。彼女の小さな手では、ぼくの手を包みきれていない。包み込むというよりは、添えるといったところだった。
そしてそのまま目をつむってしばらくの後、彼女は手を離した。
疑問符を浮かべるぼくに、彼女は「おまじない」と小さな声で呟いた。
「おまじない、か」ぼくはしんみりと口にした。
『―――――寂しくないおまじない、してあげる』
彼女の母親も、よく同じようなことをしてくれた。繋がりは薄いかのように見えた母娘だったけれど、ちゃんと受け継がれているものもあったのだ。
ぼくは救われた気持ちになった。彼女の母親、アカリの最後は幸福なものとは言えなかった。でも、娘がこうして母親の仕草を覚えていてくれていると知ったら、アカリはきっと喜ぶに違いないのだ。
「どうもありがとう。何だか、元気になった気がするよ」とぼくは言った。気のせいか、本当に腕の違和感が消えたようだった。よく馴染んでいるというか、しっくりくるというか。
キララのおまじないの効果は抜群だったようである。
「おまたせ。お湯加減はいかがかしら」
そうしているうちにスミレがやって来た。このままだと下から見上げる形になってしまうので、ぼくは彼女が湯に入るまで視線を向けないようにした。35にもなって、デリカシーのない行為をするつもりはない。
「それにしても、やけに時間がかかったね。どうしたのさ?」
「女性にはいろいろとあるのよ。あまり不躾なことを訊かないでくれるかしら。デリカシーがないのね」
「……それは失礼」
言っている傍からこれである。ぼくの紳士度は要改善のレベルであるようだ。
スミレはぼくの隣に落ち着いた。「んんー」と気持ちよさそうにしている。彼女も大分疲れていたのかもしれない。非常事態を取るのは久しぶりのことだという話だったから、気苦労も多かったはずだ。
この広い温泉を3人で占領してしまえるのは嬉しいことだった。けれども、何だか申し訳ない気持ちにもなるのは、ぼくが貧乏性のせいだろうか。
「何とも贅沢な使い方だよな」とぼくは言った。「3人だけで使ってしまってさ」
このまま泳げそうである。さすがにこの歳にもなって温泉で泳ぎ出す少年心は持ちあわせていないが。
「スミレは抜けてきてしまってよかったのかい?」
「わたしは昨日徹夜だったのよ。だから交代で休憩を取らせて貰えることになっているの。今は茂野さんがまとめ役になってくれているわ」
「そうなんだ」
言われてみれば、彼女の目元は眠たげである。このまま温泉に浸かりながら眠ってしまいそうなくらいだ。
温泉に入浴中に死んでしまったら溺死扱いになるのだろうか。温泉死とかありそうだよなあ。気持ち良くて、そのまま快楽死するみたいな。風呂好きの日本人からすれば、それは結構魅力的な死に方かもしれない。
「頑張ったみたいだね。お疲れ様」とぼくは彼女を労った。
「……うん」
彼女はぼくの肩に身体を寄せた。ぼくはちらりと視線を向けて、何も言わず彼女の髪に頬を寄せる。とても自然体だった。ぼくも、スミレも、お互いを意識しつつも、まるで長年付き添ったみたいな安心感があった。
ぼくたちの間に言葉はなかった。それは人影のない温泉にとても馴染んでいた。
ぼくは雪深い山の中にある小さな温泉を幻想した。そこでは降り積もる雪さえも音がする。真っ白な雪に覆われた中に、ぽつんと湯気を立ち上らせる温泉がある。入浴する者はおらず、その水面には絶え間なく雪の結晶が舞い落ちる。そんな静けさだった。
「ずっと気を張っていたから、ちょっと疲れちゃった」
「うん」
「さっきの食堂でのわたし、うまくやれてたと思う?」
「思うよ」
「100点満点中、何点くらい?」
「89点くらい」
そう言うと、彼女はくすくすと笑った。
「何よそのリアルな数字。学生時代に取ったことがあるわ。あと1点なんだからオマケして90点にしてくれてもいいじゃないって、よく愚痴を言ったっけ」
スミレの手が湯から出て、ぼくの肩に置かれた。彼女の吐息が首筋にかかる。彼女は俯いたまま、「89点か……まだまだだと思わない?」と呟いた。
ぼくは答えた。「十分合格点さ。君はよくやっているよ」
こうして目の下にクマを作るくらいに頑張っている。それを知っているからこそ、住人たちは彼女をリーダーとして認めているのだろう。この信頼関係は、なかなか作り上げられない代物なのだ。
「ねえ、キララちゃん」とスミレはぼくを挟んで向かいにいるキララに話しかけた。
「セイジのこと好き?」
「うん」
「そっか。わたしもね、セイジのこと好きだよ」
「……」
ぼくを挟んで、ふたりの女の子のやり取りは続く。そこでは、年齢の差はあまり関係がなかった。彼女たちは、ひとりの個人として言葉を交わしているのだ。
「お願いしてもいいかな? ちょっとだけ、目をつむっていてくれない?」
キララは透明な瞳の底で考え込んでいるようだった。ややあって、口を開く。
「……いいよ」
キララがそっと目をつむる。小さな吐息だけが残る。まるで眠っているような清閑な表情だった。
それを見届けると、スミレは顔を上げて、ぼくに短い口付けをした。唇が軽く触れ合うだけの、少女が初めてするような口付けだった。一瞬の熱。瞬間の触れ合い。それは離れ離れになっても、幻のように脳裏に焼き付いて離れない。
彼女は目を細めて自分の唇を触れていた。その仕草にぼくは動揺した。自分でも情けないくらいに赤面した。
スミレがあまりにも可愛くて、まともに顔が見られなかった。
自分がまるで、学生服を着ている少年であるような錯覚に陥る。だけどぼくはもうとっくに大人になってしまっていた。気づけば結婚し、離婚し、世界の終わりを経験し、元妻の死をも経験し、こうして温泉の中で年下の女の子相手に赤面している。
それはとても不思議なことだった。ぼくという人間の縮図が描き出されているように思えた。ぼくの全てがこの時に繋がっていたのだと思うと感慨深かった。
運命、なんていう言葉はあまりにも陳腐だけれども、人間にはどうしようもない流れを感じずにはいられなかった。その大きな流れが、ぼくと彼女たちとを出会わせたのだ。
「ぼくは、君のことが好きだよ」
「……うん」彼女は小さく答えて、「でも、あなたはここを出ていくのね」
ずっとこのまま彼女といられたら、とても素晴らしいことだと思う。ずっと彼女たちと同じ時を過ごすことができたら、これ以上ない喜びだと思う。
だけどそれはできなかった。ぼくにとって、その選択をすることはできないのだ。
アカリを好きになった時から始まったのか、あるいは幼少時に自分の異常を悟った時から始まったのかわからない。それでも、それらの要素はひとつの答えに続いているのだ。その答えを手に入れるまでは、歩みを止めることは許されない。
世の中の出来事において、歴とした答えが用意されているものなど稀だ。大抵は決着も付かずにあやふやなまま、時間と共に薄らいでいくものばかりだ。
だから、こうしてぼくが答えを求め続ける行為は、きっと褒められたものではないのだろう。スミレの言う通りに、この集落に腰を据えて、彼女と一緒に余生を過ごすのがベストなのだろう。
ぼくにとっても、キララにとってもそれが一番適っている。なぜわざわざ危険を犯してまで、死にそうな目にあってまで旅を続けなければならないのか。
その答えはぼくに用意されてはいない。問われたところで、説明できそうにもない。
ただ漠然と、自分の身体のどうにもならない奥の底から、ふつふつと湧き上がる衝動があるのだ。それは言葉にできず、ぼく以外の誰にも理解されることのない原始の衝動だ。
ぼくはそれに支配されている。命を握られている。それに支えられて生きている。
ぼくはただ長生きするために生きてきたのではないのだ。自分の中に眠っているものの正体を見極めるために、そしてその答えを掴むために生きてきたのだ。
答えを得る前に無様な死を迎えるかもしれない。答えは結局存在しないのかもしれない。
だが、ぼくは答えが用意されていると信じて先へ先へと進むことでしか生きられないのだ。それが湯田セイジという人間の根本なのだ。前提なのだ。これを変えることは誰にもできない。愛する人にも。自分自身にも。
「全てが終わったら、のんびりするのも悪くないね」とぼくは言った。
「……その頃には、待ちかねて誰か別の人と一緒になっているかもしれないわよ」とスミレは言った。
ぼくは想像してみる。ぼろぼろになって、くたくたになって、それでも答えが見つからない。嫌気が差したキララが途中でぼくから離れていき、不潔な姿でそれでも形のない答えを探し回る。汚いと蔑まれ、罵倒され、その果てにこの集落に戻ってくる。そこでは、スミレは別の男と慎ましくも幸せに過ごしていて、彼女にも、ナズナにもぼくをぼくだとわかって貰えない。それどころかぼくの名前さえ忘れ去られている。ぼくは食べ物もなく、寝る場所もなく、友達もなく、愛する人もいない。ひとりぼっちで、人知れず、誰に看取られることもなく虫けらのように生涯を終えるのだ。
いいね、とぼくは思った。結構じゃないか。ぼくという男はそれで満足しながら死ぬのだろうさ。答えを探し続けたという事実に心底満足しながら逝けるに違いないのだ。
答えが見つかるかどうかはただの結果だ。ぼくはそこに至るまでの過程に意味を見出す。
こんなことを言うと、結果を欲しがらない自己満足の負け犬の遠吠えに聞こえるかもしれない。けれど、それをぼくは否定しない。恐らくその通りだからだ。ぼくは結果の成否に拘らないことによって、受ける傷を最小限にしようとしているのだ。誰の目にも明らかなことだろう。
常に前進する人間には、ぼくの行為は酷く愚かで無意味に見えるに違いない。ぼくが第三者であったなら、何もない暗がりで必死に穴掘りを続ける湯田セイジという人間を評価するはずがない。ただの物好きで変人の戯言だと斬って捨てるに違いないのだ。
ぼくが答えを探す意味は、そこにこそある。
誰の目にも明らかな答えであったなら、ぼくはこんなにも必死になって探そうとはしない。他の腕のいい人間に任せるさ。例えばインディー・ジョーンズ辺りにでもね。
でもその答えが、誰にも見えず、ぼくにしか感じ取れないものであったなら、ぼくは誰の手にも委ねないし、頼まないし、力を借りようとはしない。
ひとりで探すことに意味があるのだ。それは例えば、単独でエヴェレストに登頂するようなものだ。
誰に強制されたわけでもなく、そこに目に見える何かが置かれているわけでもない。
あるのは自分が人生をかけてここまでやって来たという事実と、そこから見える風景だけだ。カメラ越しに見えるものなど意味を成さない。その足で、その場で、その目で、その全身で感じ取るものだ。
ぼくが探しているのは、そうした果ての風景なのだ。
それが無様に死に絶える一瞬であれ、答えが見つからなかった絶望の果てであれ、そこから見える風景をぼくは欲する。
湯田セイジという根源から湧き上がる衝動は、そうした「探求」へとぼくを駆り立てる。
口に出すと、あまりに陳腐で調子のいい話だ。だからぼくは、この想いを、信念を自分の外に出すつもりはなかった。誰に理解されずとも構わなかった。一番知っていて欲しい人間は、他でもない自分自身なのだから。
あまりにも自分本位だと自嘲する自分がいる。それでいて、それこそがぼくなのだと自負をする自分もいる。
この愛しい女性と共にいたいというぼくと、答えのためにはあらゆるものを捨てなければならないというぼくがある。
そのどちらが偽物で、どちらが本物であることはない。その両方がぼくだった。湯田セイジという人間だった。数多くの選択肢を前にして、立ち竦む弱い人間だった。
けれども、さ。
ぼくは弱いなりに歩んでいこうと決めたのだ。アカリを亡くし、キララという彼女の娘を育てようと決めた時から。
この愚かなぼくを反面教師にするもよし、もう駄目だと見限るもよし。ぼくとキララは、そうした前提で一緒に旅を続けているのだ。
ここで留まる人間なら、それは湯田セイジではない。そう断言できる。
「君がもしも他に好きな人ができて、その男と一緒になっていたとしたら、ぼくはきっと散々悪態をついたり、面白くない態度を取ったりするんだろうと思う。高い確率で」
「高い確率で」と彼女は苦笑して繰り返した。
「それでも、ぼくはひとつだけ胸を張って約束できることがある。もしも探していた答えが見つけられたとしたら、探していた風景を見つけられたとしたら、君にその風景を見せてあげられると思うんだ」
「わたしが望むのは、不確かな未来よりも、確かな現在だと言ったとしても?」
「言ったとしても」とぼくは言った。「ぼくが君にあげられるのは、ひとつだけだから」
ぼくの迷いのない言葉に、彼女は「やれやれね」と肩を竦めた。腕を絡ませながら、ぼくの首元に口を寄せる。彼女の唇の柔らかさと熱を感じた。
彼女は怒っているようにも、泣いているようにも見えた。多分どちらも正しいのだろうとぼくは思った。ぼくは彼女を悲しませているのだとわかっていても、どうすることもできなかった。
「本当、おかしな人」と彼女は言った。「どうして、こんなおかしな人を好きになっちゃったんだろう」
「好きであることや嫌いであることに理由なんてないさ。突き詰めて考えること自体が野暮な行為なんだ。『どうして好きになったの』とか『自分のどんなところが好きなの』っていう問いはあまりにもナンセンスだろう?」
理由を求めたがるのは人間のさがだけれど、答えのための問いではなく、理由のための問いに価値はない。急ごしらえの言い訳に過ぎないではないか。それでも、表面上だけでも安心したい人間は満足できるのだろうさ。そうしてロボットみたいにハリボテのハートマークを追い求め続ける。
そんな愛は必要だろうか。
ぼくはいらないね。そうであるくらいなら、お金や打算に裏打ちされた愛の方がよっぽど価値があるし、意味がある。
「愛とは無条件に愛なのさ」
「何それ。軟派な台詞」
彼女は肩をくつくつと揺らして笑った。目尻には涙が浮かんでいる。
「柄じゃないこと言ったかな」
「いいえ。あなたらしいといえばあなたらしいのかも。ほら、あなたってどこか軽薄な雰囲気があるから」
「それはもしかして褒めてくれているのかな?」
確認するようにぼくは問うた。アカリ以外の女性とは寝ていないぼくは身持ちが堅いと言われて然るべきだ。まあ、未遂が過去に何件があるけれど、未遂なのだからノーカウントで構わないはずだ。
ゆえにぼくは軽薄ではない。思いやりに溢れた、重厚長大な人間である。
「もちろん、褒めているのよ?」と彼女は茶目っ気たっぷりに答えた。人指し指でぼくの胸板をなぞりながら、どこにいくともなしに指を走らせ続ける。
「そういう掴み所のない性格だから、わたしは好きになったんだと思うの。あなたがただの生真面目人間だったなら、取り引きだけしてさようならってことになってたんじゃないかしら」
彼女自身、そういう融通が利かない一面があるから、自分と似たような性格の人間とは、あくまでビジネスライクに一貫するのかもしれない。
「……そうね、少しくらいなら待っていてあげなくもないわ」
彼女はそう言って、儚い笑みを浮かべた。
「だから、早く帰ってきてね」
「―――――了解。なるべく早く、帰ってくるよ」
ぼくは空いていた右腕でスミレを抱き寄せた。彼女の身体はすっぽりと収まってしまうくらいに小さかった。こんな小柄な彼女が神経を磨り減らしてリーダーの責務を全うしようとしているのだ。ぼくは胸が締め付けられる想いだった。
彼女と寄り添っていると、隣から遠慮がちに横腹をつつかれる。目をつむったままのキララだった。スミレの言葉を律儀に守って目をつむっていてくれたらしい。
……何て健気な子なんだ!
「ごめんよ。放ったらかしにしてしまって。もう目を開けても構わないよ」
「……ん」
久方ぶりに開眼したキララは、ずっと地底の底に住んでいたみたいに目を細めた。ぼくもずっと感じていることだが、太陽の光が眩しくてサングラスが欲しいくらいだ。
「まだ入っていられる? 湯あたりはしてないかな?」
ぺたぺたとぼくの顔を触って遊んでいたキララは、軽く首を傾げて考え込んだ。それから思い出したように「へいき」と呟いた。
ぼくは彼女を抱き抱える形で座らせてあげる。彼女はご機嫌な様子で、水面を手で軽く弾く遊びに興じている。
「やっぱり、これかなあ」というスミレの声が横から聞こえてきた。
「どうかした?」
「うん。わたしね、あなたがキララちゃんと一緒にいる時の姿が大好きなのよ。最初は『お父さんしてるなあ』って見てただけだったんだけど、いつの間にか、目で追うくらい好きになっちゃってたのよ」
「そ、そうかい」
彼女の独白は非常に気恥ずかしいものがある。それをわかっているのだろうか。
女性の惚気話というだけでも難易度が高いというのに、その話はぼくに関することなのだから居心地悪いことこの上ない。もしかして狙ってやっているのだろうか。
ぼくは上機嫌に惚気るスミレの扱いにほとほと困っていた。彼女は堰を切ったように隣の男にどれだけ惚れているかを語った。ぼくは時折相槌を打ちながら、時には絶句しながら彼女の聞き手を務めるほかなかった。新手の拷問かと思う程だった。
どれだけ時間が経ったのか曖昧になってきた頃、ようやく彼女の口撃は下火になったのだった。
「ううん」と一仕事終えたように伸びをする。彼女の形のいい胸が水面に透けていた。
「……ちょっと、ガン見し過ぎ」
「失礼」とぼくは澄ました顔で咳払いした。キララの前で鼻の下を伸ばすような阿呆面を浮かべるわけにはいかない。
ぼくは学校の校庭にあった二宮金次郎像みたいに真面目な顔でごまかすことにした。
「……いろいろと手遅れ感がすさまじいけど、一応体裁は気にするのね」とスミレ。
「何を仰るやら。ぼくみたいな清廉潔白な男を捕まえておいて、そのようなこと。ほら、キララ。ぼくはこの通り誠実な男子であってだな……」
話の途中で、キララは割り込むように口を開く。「セージ、えっち?」
「異議あり! それは違うよ、キララ。ぼくは決してそんな男じゃなくてだね」
「でも、みてた」と彼女はスミレの胸を指さしつつ言った。「ぜったい、みてた」
彼女の純真無垢な瞳の光に貫かれて、色欲魔ユタセージは敗北寸前だった。少女の飾り気のない疑問に対して答えるすべを持たないぼくは、真名を知られた悪魔みたいなものだった。
「み、見てないよ? ぼくはおっぱいなんて、これっぽちも視界に入れてないよ?」
キララは口を尖らせて反論する。
「うそはだめって、セージがいってた。うそは、だめなんだよ」
た、確かにそう教えたけれども。
ここで「おっぱい見てました! すっごくガン見してました!」と開き直るのもいかがなものか。そんなことをしたら、ぼくのこれまでに築きあげてきた信用は一気に瓦解する気がする。
「キララさん。別にぼくは邪な気持ちでスミレの胸を見ていたわけじゃないんだ」とぼくは言った。
「そう、なの?」とキララは疑問符を浮かべた。
「なるほど、ぜひ邪でないという理由を聞かせて欲しいわね」とスミレは顔を輝かせて言った。この御方、明らかに楽しんでいらっしゃる……。
ぼくはホームズに追い詰められた怪盗みたいな気分だった。
「が、学術的見地からの純粋科学的なアプローチでありまして、非常に遺憾なことながら、ぼくの理性的範囲から逸脱した本能の猛りを観測しようとした結果というか……」
「つまり、えっちなんだね」とスミレが断定した。
「いえ、決してそのようなことは」
「セージ、えっちなの?」とキララがコンビニの10円ガムを見るみたいな目で言う。
「多角的に解釈すると、そう捉えられても致し方ないといいますか……」
「えっちなんだね」
「……」
「えっち、なの?」
「……」
両脇をがっちりと抱えられたぼくに逃げ場はないようだった。ぼくはこれまでの苦労を思い返していた。温泉において混浴であっても紳士的態度を崩さなかったし、理想的な姿をキララに見せられたと思う。
だが……。
今日、ほんの少しの油断が招いた結果。逆らうことのできない男としてのさがに囚われてしまったゆえの過ち。
ここは正直に罪を認めるべきか? いや、否だ。ぼくはこれまでもずっと最後まで抗い続けてきたではないか。こんなところで諦めてはならないのだ。それが事実だったとしても、ぼくはキララの手前認めるわけにはいかないのだ。
ならば、どうにかしてこの修羅場を切り抜けるしかあるまい。
「よくぞ我の正体を見破ったな……だが知られた以上は生かして帰さん……」
もう自棄である。
しゅば、と立ち上がってポーズを取ると予想外なことに、キララはぼくのお遊びに乗っかるように立ち上がって同じ構えを取った。とても可愛らしい。
「くらえぃ」
キララに超低速の手刀で斬りかかる振りをすると、彼女はお湯の中だというのに、というかお湯の中に相応しい流水の動きで躱し、すれ違いざまにぼくの左腹へ手刀と入れた。まるで女座頭市みたいだった。
「ぐふう」とぼくは温泉の真ん中に倒れ込み、
「や、やられた……おっぱいだけに、ムネん……」と倒された演技をした。ついでに口が滑って変なやられ文句も言ってしまった。
キララが血糊を払う仕草をして即興のお遊びは幕を閉じたのだった。いそいそとお湯から上がって撤収支度をするぼくたちを見て、スミレは「急に何をやり出したのかと思えば……」と呆れ返った表情を浮かべた。
「唐突に始まって唐突に終わるのに、息ぴったりなんだから。さすがは親子」
「まあね。うちのキララはぼくの自慢の娘ですから」
それからスミレは、身体をタオルで拭きながら小さな声で言った。
「……少しずつ活発的になってきたみたいだし、いい傾向じゃない」
「そうだね」とぼくは答えた。キララの頭を撫で、嬉しそうにする彼女と自分の両腕とを見比べた。
「いい傾向であって欲しいと、心から思うよ」




