第23話
『こんばんは、妹さん』
『こんばんは、お姉ちゃん』
『え? 何をしにきたのかですって? そんなの決まってるでしょう。お父さんの「治療」に来たのよ。あなただって気づいてるでしょう。お父さんはとても苦しそうにしていたんだから。ねえ、妹さん?』
『ええ、妹さん』
『何ですって? わたしたちのせいだって? それはちょっと酷い言い草じゃないかしら。だってあのままだったなら、お父さんは命の危険があったのよ? 確かに、あまり褒められた方法じゃなかったけど、最善を尽くしたと言えるんじゃないかしら。それに、何もできなかったあなたに責められるいわれはないわ。ねえ、お姉ちゃん』
『ええ、妹さん』
『ああもう、そんなに怖い顔しないでよ。別にわたしたちはあなたと喧嘩しにきたんじゃないのだから』
『そうよ、お父さんを助けにきたんだから』
『手助けは無用? 勝手なことを言わないで。このままお父さんに辛い思いをさせ続けるつもりなの? 拒否反応が出てしまってかなり辛そうだったじゃない』
『今だって、苦しそうにしているわ。ねえ、妹さん』
『ええ、お姉ちゃん』
『あなたの下らない意地のせいでお父さんが苦しみ続けるのは許容できないわ。わたしの言ってること、わかる?』
『わかるかしら?』
『……ふふ。ようやくわかってくれたみたいね。本当にわがままなんだから。お父さんはあなたひとりだけのものじゃないのよ? それは弁えて欲しいところだわ。ねえ、妹さん』
『ええ、まったくだわ。お姉ちゃん』
『それにしても、やはりというか、拒否反応が出てしまったわね。これでもかなり順応してる方なんでしょうけど。普通の人だったらこうもいかなかったでしょうね』
『いかなかったわね、きっと』
『あらあら、そんなに膨れた顔をしちゃって。そんなに気に入らない? わたしたちの「治療」は。これでもできる限りのことはしてるのよ? あなただってわかるでしょう。わたしたちにできることは少ないのよ。とってもね。その中でわたしたちは最善の行動をしなければならないの。本当、嫌になっちゃうわよね、妹さん』
『そうよね、妹さん』
『……じゃあ、早速「治療」に取り掛かりましょうか。あまり長居はできないから。あまり夜遊びに過ぎると怒る人がいるのよね』
『早くおうちに帰らないとね、お姉ちゃん』
『ええ、妹さん。さ、そこを通してちょうだい。別に取って喰おうとしてるわけじゃないんだから、そんなに警戒しないでよ。お父さんの中で拒否反応を起こしてるものを取り除くだけなんだから』
『え? そんなことをしたら傷が開いちゃうって? その通りよ。だから取り除くものの代わりが必要になるのよ。ねえ、妹さん』
『そういうことね、妹さん。どうやらわたしたちでは駄目みたいだから、とても口惜しいのだけど、その方がお父さんのためになるから、わたしたちはしぶしぶ代替案を呑まざるを得ないのよ。わかるかしら?』
『とても口惜しいのよね、お姉ちゃん』
『ええ、とても。だから代わりが必要なの。ここまで言えば続きを言う必要はないでしょ? さ、始めましょう』
『…………ん』
『って、痛い痛い! 髪を引っ張らないでよ! あなた、レディの髪を引っ張るなんて、どんな神経してるのよ』
『酷い仕打ちだわ、妹さん……』
『ええ、お姉ちゃん……』
『何ですって? それは本当に好きな人とじゃないとしちゃ駄目? 大人になってから? くすくす……あなた、面白いことを言うのね。いいえ、お父さんは、と言い直した方が無難かしら』
『お父さんは可愛らしいわね、そうは思わない?』
『思わない?』
『まあ、あなたがそこまで言うのなら別の方法でもいいのだけどね……このままだと大惨事になりそうだから、ここは譲っておくわ』
『時には引くことも大事なのよね、妹さん』
『戦術的撤退というやつね、お姉ちゃん』
『それじゃあ、お口が駄目ならお鼻といきましょう。それなら構わないでしょう?』
『……まだ不満なの? ここ以外は耳か、あるいは下の方になっちゃうけど、それでもいいの? わたしたちはどちらでも大歓迎だけど』
『大歓迎だけど』
『鼻でいい? それは結構だわ。手順を説明するわね』
『まずわたしたちがお父さんの中で拒否反応を起こしてるものを取り除く』
『そしてすぐにあなたが代わりのものをお父さんにあげて』
『いいわね? あまりもたつくと傷が開いちゃうから気を付けるのよ、妹さん』
『タイミングが大事なのよね、妹さん』
『それじゃあ、準備はいい? いちにのさんでいくわよ?』
『いち、にの、―――――』
■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■
目が覚めた。とても気分爽快だった。ひと晩眠っただけでここまで回復するとは思ってもみなかった。身体は十代の頃のように軽やかに感じる。寝起きなのに身体に力が溢れているなんて、ここ数年忘れていたことだった。
空腹でもあった。昨日は丸一日何も食べていない。空っぽになった胃袋は、食料を求めて鳴き声を上げ続けている。朝食には遅い時間帯だが、食堂に行って何か簡単なものでも作って貰うことにしよう。
一緒に布団に包まっていたキララを起こす。彼女はまだ疲れが抜けきっていないようだった。寝ぼけ眼である。
ぼくはよちよちと歩くキララの手を引いて食堂へ向かった。
途中、まだ警戒態勢を取っている住人たちとすれ違う。無事でよかったと何度も言われた。ぼくはそのたびに礼を言う羽目になったけれど、悪い気はしなかった。彼らは純粋にぼくの心配をしてくれていた。
食堂に入るより先に、厨房に顔を出す。
帰るなり卒倒したぼくの噂は聞いているようで、厨房班の面々は大いにぼくを気遣ってくれた。空腹であることを告げると、すぐに料理してくれるとのお達しだった。
ご婦人の方々が早速調理に取り掛かる中、みちゃんが傍にやってきた。
「怪我とかじゃないんですよね? わたし、ずっと心配で……」
「大丈夫、大きな怪我はしてないよ。この通りぴんぴんしてる。昨日は精神的な疲れとかが出たんだと思う。昨日ずっと寝てたおかげで、今日は元気満々だよ」
「そうですか。よかった……」
彼女は胸に手を当てて、ほっと息をついた。どうやらかなり心配させてしまったようだった。ぼくの体調不良は自業自得だけれど、こうして他の人にまで迷惑をかけてしまうのはいけないな。今後は気を付けなければ。
「ちょうど皆さんが集まられていますよ。セイジさんが昨日連れてきた方々も一緒です」
そうか。ならちょうどいいかもしれない。彼らからは話を聞きたかったのだ。襲われた経緯を根掘り葉掘り訊き出すのは気が引けるものの、この集落にだって無関係ではないし、個人的にも気になっている。
みっちゃんに礼を言って食堂に入った。ぼくは部屋の片隅に集まっている面々の方へ歩きながら、あの晩にあったことを思い出していた。
集落の住人を襲っていた連中。
ヤツらを率いていた少女。彼女は目から真っ黒な液体を流れ出していた。どう見ても普通ではない少女だ。
そしてなぜかその場にいた子供たち。あの子たちはなぜあの場にいたのだろうか。そしてケモノとの関係はあるのだろうか。目の前でケモノに喰われたのを見てしまってからは、その関係の存在について懐疑的になっている。もしも何らかの形で関わっていたとしたら、子供たちだけ襲われなければ、その証拠となっていたのに。だが事実、ぼくの目の前で子供たちはケモノの餌食となってしまった。
結局、ケモノと子供たちの関係性は、わからずじまいだった。
席には見覚えのある男が座っていた。ぼくに肩を貸してくれた男性だ。彼はぼくに気づくと軽く頭を下げた。ぼくはそれに応える。
彼の他に、救助した人間が3人いる。残りは怪我のためにこの場にいない。例の襲撃者たちに足を切られた人たちである。
こちら側の人間として、いつものメンバーが顔を並べて聞き取り調査を行なっている。スミレと茂野さんが中心だ。ナズナも救助した一員として、この場に居合わせていた。
彼らの気遣いの言葉に、体調はもう回復したと返す。力こぶを作るジェスチャーをして見せると、無理をしているわけではないとわかってくれたようで、同席を許してくれた。
「本当に、無理はしてないのよね」とスミレがまつげを少し伏せながら訊いた。
「ぼくは嘘を付かないよ。特に世話になっている人たちとか、大切な人にはなおさらだ」
「そ、そう。ならいいわ」と彼女はひとつ咳払いをして言った。
茂野さんやナズナにも無理をしていると思われていたようで、誤解を解くのには骨が折れた。昨日あれだけ酷い顔をしていたのに、一日で全快してしまうなんて信じられないとのことだった。
自分でも、昨日はとても辛かったから、今日になってここまで回復するとは驚きである。ぼくももう30を過ぎているし、若い時のような回復は望めないと思っていた。だが下手すれば、二十歳の頃よりも回復能力が上がっている。こんなのは初めてのことだった。
「彼らから事情を訊いていたところなのよ。安心するまで非常事態は撤回するつもりはなかったから今も続けているけど、それは正解だったみたい」
スミレがそこまで言い終わった時、みっちゃんがぼくの朝食を持ってきてくれた。すいとんである。小麦粉を使って手軽に作れる料理だ。よく煮こまれた野菜もたくさん入っていて彩りが美しい。キララのぶんも彼女は用意してくれた。
「食べながらだけど失礼するよ」とぼくは言った。
「それだけ食欲があれば心配なさそうね」とスミレは笑った。
ぼくはみっちゃんにお礼を言った。彼女は「どうぞごゆっくり」と言い残して足取り軽く厨房へと戻っていった。
なんていい子なのだろう、とぼくは思った。将来いいお嫁さんになるだろうな、とも。
そんなことを思いながらほっこりしていると、何とも言えない顔をしたスミレと目が合った。
「……失礼?」とぼくは訊ねた。
「いえ、別に。何も。特に」とスミレは言った。
何だかへそを曲げているようにしか見えないのだけれど。同意を求めるようにナズナへと視線を向けると、彼女は苦笑しつつ目を泳がせていた。姉の援護をするつもりはないようだった。
「さて、今まで彼らから聞き取りしていたわけだが、セイジ殿のためにも、ちょっとおさらいしてみよう。なあ、スミレさんや」
助け舟を出してくれるのはいつもこの御方である。茂野さんには頭が上がらない。スミレもさすがに彼にはわがままな態度を取れないらしく、しぶしぶとぼくにジト目を送りながらも説明を始めた。
……そこまで機嫌を損ねることはしてないつもりなんだけどなあ。スミレはなかなか子供っぽい性格の持ち主なのかもしれない。
「じゃあ、わたしたちが聞いたところまで、かいつまんで説明するわね」とスミレは手元のノートに目をやりながら言った。
「彼らの集落が襲われたのは、一昨日の夜のこと。その襲撃の際に逃げ出せた人をキララちゃんが気づいたのね。そして殆どの住人は襲撃者たちに捕まってしまった。彼らはそこらをうろついているチンピラじゃなかったみたいね」
スミレの言葉に助かった面々は頷く。
「なかなか手強い連中だったみたいで、最初は抵抗したらしいんだけど、すぐに鎮圧されてしまったという話よ。特に異常な程腕の立つ女の子がいたそうだわ」
「……ああ、その子ならわかるよ。ぼくもメタメタにされたからね」
異常な反射神経と身体能力を持っていた少女。どう考えても、あの細腕から繰り出されるパワーではなかった。技術とか技とかを超越したものだ。
「何でも、『自分たちの仲間になれ』という話だったらしいわ。それを拒否したために争いになったのね」
それは仕方ないだろう。誰だって、あんな連中の誘いの言葉には乗らないはずだ。いきなり「仲間になれ」なんて言われても拒絶するのが当たり前だ。
「その時に言われたのが、『絆なき者は仲間にあらず』みたいなことだったわね?」
彼女はコツコツと机をペンでつつきながら男に訊く。彼は少し間を置いて肯首した。
「絆……?」とぼくは引っかかるものがあって聞き返した。「もしかして、<絆教>の連中か?」
<絆教>。2000年を過ぎて世界が混乱に陥っていく中、それに伴って増加した新興宗教の成れの果て。雑多で胡散臭いものが寄り集まってできた不特定の宗教集団の総称だ。彼らは一致団結、相互扶助を掲げたことから<絆教>と呼ばれるようになった。その題目だけならばまともに思えなくもないけれど、その実態はこれまで存在していた有象無象の新興宗教と何ら変わるところはなかった。
「ああ、確か、そんなのが昔にあったわね……」スミレたちが昔を回顧するように遠い目をした。「まだ生き残っていたとはね。驚きだわ」
「東北や北海道方面では結構知られた存在なんだよ。悪名高いって言っても間違いじゃないだろうね。都市部に住み着いたりして、かなり危険な相手だった」
だけど、とぼくは思った。ヤツらは北日本に限らず全国的に点在している。そもそも<絆教>という名称は特定の集団を指すものではないのだ。<ノストラダムスの大予言>がもたらした混乱によって生まれた新興宗教団体の総称なのである。
彼女たちが今まであまり気にしていなかったということは、この地域には<絆教>はいなかったということだ。それなのになぜ、今頃になって姿を表し始めたのだろう。
南下してきたか、あるいは北上してきたか。いずれにせよ、厄介な相手であることには変わりはない。
「狂信者か……一番相手にしたくない連中ね」スミレはげんなりして言った。
それには同意だ。あの手の連中を相手にする程無駄なことはない。話は通じないし、わかり合えることなど、まずないと言っていい。まるで遠い宇宙からやって来た宇宙人と話しているみたいな気分になる。ヤツらと我々では、思考回路が根本から異なっているに違いないのだ。
それでいて、相手も同じようなことを考えているに違いないから、議論はいつまで経っても平行線のまま。決して交わることはない。
「ここも危ないかもしれないわね」とスミレは茂野さんに言った。
この場には集落の有力者とも言える者が集まっている。言わば意思決定機関なのである。今話し合われている議題は、ここの防衛に関するものだ。ぼくが口を挟むべきことではないので、キララと一緒に目の前の食事に集中することにした。
みっちゃんたちが作ってくれたすいとんは、どこか懐かしい味がした。
ぼくは話し合いを横目に見ながら、助け出した男たちの方に目をやった。彼らは恐縮した様子で議論の推移を眺めていた。彼らからしてみれば、自分たちは居候という身分なので、何かと気苦労も多いのだろう。
そして何より、死んだ仲間たちの弔いもできないのだ。ぼくは彼らに同情した。
「もう一度聞くけど、ここの場所を訊かれるようなことはなかったのね?」とスミレが難しい顔をして訊ねる。
この場にいる救助された男女は、互いに顔を見合わせた。
「はい。逃げ出せた者たちは言うまでもありませんが、捕まっていた我々も、情報を訊き出されるというよりは、訳のわかならい戯言を延々と聞かされて続けていた口でして」
「……例えば、どういったことなの?」
「そうですね……」と男はあご髭を撫でて、「選ばれた者だとか、新たな誕生だとか、今思い出そうとしても頭の痛くなる話でした。それをヤツらは真面目な顔をして繰り返すものですから、とても恐ろしかったですね……」
捕まっていた時のことを思い出したのか、彼らは顔色を悪くした。
なかなかぞっとする話である。そんなネジの外れた話を囚われた間中聞かされていたら、気の弱い人間は発狂しかねない。
「おまえたちは大いなるものの贄となるのだ、とも言われました」
「大いなるもの……?」
その単語から連想されるのは神や天使といったものだろう。我々には程遠いところにある言葉だった。こんな世界になって、未だ純粋に神を信仰している者は余程の物好きしかいない。特に一神教の類は、もはや人々からそっぽを向かれてしまっている。だが恐ろしいことに、以前は胡散臭かった<絆教>の方が興隆しているのだから人間心理というものはわからない。
大いなるもの―――――神、天使、神の遣い、化身、いろいろな説があるが、共通するのはその神性だろうか。信仰の対象となるのはわからなくもない。神々の中にも生贄を求めるものがあるし、そもそもが新興宗教というものは、そちらの方向へ向きやすいから驚くべきことでもない。
<絆教>と言っても一口では語れない。その信仰対象は、神から悪魔から天使まで、多種多様に及ぶ。となると、ここの<絆教>の連中は、何を対象にしているのだろう。きっと生贄を求めるようなグルメな神様だろうけれど。
「だけど、『大いなるもの』ねえ」と茂野さんは嘲笑を隠しもせずに呟く。「<黒いケモノ>みたいな化物がいるんだから、神様や天使がいても不思議じゃないってか。幸せな連中だな」
ぼくはあの晩に遭遇した少女を思い出す。外見天使で中身は悪魔だった彼女だ。でもきっと、天使というのは善良でもあり悪徳でもあるのだ。だから現実に天使がいたとしたら、あの少女のような姿をしているのだろうな、とぼくは思った。
「あるいは、そのケモノがそうなのかもしれない」
ぼくの言葉に、全員が注目する。食事を食べ終えたぼくは、手身近にあった布巾を確かめてから、キララの口を拭ってやる。ちゃんと彼女も完食できたようだ。みっちゃんはキララの食事量を考慮してよそってくれているらしい。
「ケモノを拝むのかよ!? 冗談きついな。あれはどう見ても悪魔の部類だろう」
「人によっては、神にもなるんじゃないのかな。あれは人間の文明社会を滅ぼしたんだ。それはまさしく神の所業じゃないか」
神は人を癒したりもするけれど、また一方で人間に鉄槌を下すことだってあるのだ。戦争、差別、飢餓、環境問題。あらゆる問題を抱え、解決できなかった人類を神が見放したとしても不思議ではない。むしろ、こんな世界になって当然だと考える人間だっているかもしれないのだ。
『ある意味、これは当然の報いだったのかもしれないな……』
そうこぼした友人のことを思い出す。彼は破滅願望とまではいかないものの、それに近い思想観を持っていたに違いない。
ぼくは別に、人類の勝手によってこの世界が引き起こされたとは思っていない。もっと大きなうねりに翻弄されただけなのだ。そこには善も悪もない。我々の責任もない。もしかしたら、因果関係さえないのかもしれなかった。そんな事象に人間みたいなちっぽけな存在が関わられるはずがないのだ。
「終末信仰ならぬケモノ信仰……? ありそうで嫌だわ」とスミレは至極真面目に言った。
確かに、人は扱いきれないもの、手の届かないものを畏れ、敬う傾向がある。古来より大自然を奉ってきたのがいい例だ。そしてその意味で言えば、<黒いケモノ>は人の手に余る存在であることは間違いない。<絆教>の連中が崇めるのも無理はなかった。
「それに理由もある」とぼくは言った。助けだされた面々に視線を向け、「君たちは、『あれ』を見た?」
彼らは今にも吐き出しそうな表情で頷いた。あの至近距離だ。見たくもないのに見えてしまったのだろう。
「『あれ』って何のこと?」スミレはただならぬ雰囲気に気づいたらしい。茂野さんも同様だった。
ぼくは言った。「絆教の人間を率いていたらしい少女のことさ。まだ成人していないのは確かだろう。ナズナと近い年齢のはずだ」
「そんな子が、殺人をしてたっていうの……。それで、その少女がどうしたの?」
「口では伝わりにくいんだろうけど、一言で言わせて貰えば、目から黒い泥を吐き出していた」
「―――――」
その場に居合わせなかった面々は、ぼくの言葉が理解できずフリーズした。ぼくだって自分の言うことにいまいち実感が持てない。「目から泥」なんて、どう想像すればいいのだ? 目から出せるのは涙とか牛乳とか鱗がせいぜいだろうさ。
だが他に表現しようがない。彼女が流していたのは、紛れもなく真っ黒な泥だったのだから。
「泥? 黒い涙とかじゃなくて?」とスミレは確認するように繰り返す。
「そう泥だよ。あれは泥としか言いようがない。こう、何だか粘着質でもあり、固形物のようでもあったから。それを右目から際限なく流し続けていたんだ。悪夢としか思えなかった」
それに、とぼくは続けた。
「異様な身体能力もあった。真正面から飛んできた矢を軽々避けてみせたんだ」
弓矢に限らず、飛び道具というものは、そう簡単に避けられない。せいぜいが地面に伏せたり、適当な回避行動を取るくらいだ。弾道を見極めてから避けることなど、人間には不可能である。
それをあの少女はやってのけた。あの時、間違いなく彼女は矢の軌道を見切って回避を行なっていたのだ。まるで川の流れのような優雅な動きで。
「その子、人間なの……?」
スミレの純粋な疑問だった。現場に居合わせた我々は一様に口を噤んだ。スミレの一言は、我々の心境を代弁しているものだったからだ。
人間離れした力ということならば、キララの察知能力も当てはまるが、あの少女の見せた力の片鱗は、そうした「人間の超常的な力」とは一線を画していた。もはや「ヒト」という枠組みに収まらない何かだった。
「彼女から流れ出てた泥なんだけど、ぼくはどうにも、あの黒い泥がケモノと関係しているように思えるんだ」
「ケモノと?」
「色が同じだから、とか安易な理由じゃないよ。間近で見ればわかると思うけど、泥にまみれていた少女を前にした時、ぼくは<黒いケモノ>を前にしたのと同じ感覚を味わった」ぼくは持っていた箸を置いて、表現しづらい感覚を何とか伝えようと思考を巡らし、「うん、真っ黒で底の見えない竪穴に落ちた時みたいな感じ。こう、足場が定まらなくて力が入らない。身体は縮み上がってしまって自由にならない、みたいな」
どうにか例えて言うと、ぼくと同じ目にあった面々は「そうそう」としきりに同意した。
「あの感覚ばかりは忘れられないよ。だから、あの少女から感じたものが、ケモノに似通っていたのもはっきり覚えているんだ。―――――きっと、何かしら関係があるはずだよ」
スミレや茂野さんを始めとした集落の人たちは気まずい沈黙に包まれた。新興宗教勢力というただでさえ見つかったら厄介な相手だというのに、化物じみた少女までセットになっているのだから、ぞっとする話だ。
彼らにとってバッドニュースには違いないが、ここできちんと情報を伝えておかなければ後々に問題となるに違いない。対応を誤れば、この集落はたちまちヤツらに蹂躙されてしまうだろう。
抵抗するか、服従するか。
極論してしまえばこの二択である。だがこの場合、服従したところで助かる見込みは限りなく低かった。先例がそれを示唆している。
「まだ襲われるって決まったわけじゃないけど、降伏するのだけはあり得ないわ。したところで、また生贄だとか、狂った話にされるだけよ。でしょう?」
スミレの言葉に頷く面々。なるほど、頼もしい限りではないか。リーダーたるもの、こういう場面で躊躇いを見せてはいけない。選択肢が残されていない場合は、それを選ばざるを得ないとしても、あくまで自分が選んだのだと誇示する必要がある。そうすれば下の者たちの士気の低下も最低限に抑えられる。
スミレがそれを意識的にやったのか定かではないが、彼女は確実にリーダーとして成長しているようだった。今までの平穏な生活では埋もれていた彼女の素質が開花しつつあるのかもしれない。
「取りあえず、これからのプランを考える必要があるわね。襲撃があるかもしれないとしても、ずっと全員で非常事態体制を取っているわけにもいかないから」
農作業や様々な雑務をしないで済ませる程、この集落に余裕はない。警戒し、防衛体制を整えつつも、農作業などを並行して行う必要があった。そうしなければ日々の糧にも困ることになる。
「……まあ、今日はこのくらいでいいでしょう。何か付け足すことはある?」とスミレは周囲を見渡した。
「防衛の準備に関しては、朝倉にも手伝って貰おう。あいつは元自衛隊員だからな。それじゃあ、それぞれ自分の部署に説明するように。敵のことは『宗教狂いのヤバいヤツ』とだけ言っておけばいいよな?」と茂野さんは席を立った。それに続いて各人が解散していく。
ナズナも友人たちに用があるからと行ってしまった。残されたのは、ぼくとキララとスミレ。それに空になった食器だった。
あまりこういう緊張した場所に慣れていなさそうな食器たちは、どこか居心地が悪いようだった。とても白い顔をしている。ぼくは気遣わしげに食器を見るも、彼らは緊張に強張ってしまい、ぼくに対応する余裕はないらしい。
「どうしたの?」
「食事時じゃない時の食器って、何だか不自然な顔してるとは思わない?」
「……何おかしなこと言ってるのよ、あなた。それよりも」と彼女は口元を緩めて言った。「わたし、これから休憩時間なのよ。ちょっと付き合ってくれない?」
「別に構わないよ。ちょうどいいから、このまま食堂で続ける? それともぼくの部屋にする?」
彼女は小悪魔チックに「聞かれたくない話もあるから、まあ、あそこが妥当よね。うん」とひとり勝手に悪い笑みで納得している。ぼくは何だか嫌な予感がした。
「さあ、行きましょう。休憩時間は有効に活用しなきゃね」
「ちょっと待ってくれよ。行き先を聞いてない。一体どこに行くんだ?」
「そりゃあ決まってるじゃない。内緒話をするなら、この時間帯の人気のない場所でしょう。―――――すなわち温泉よ」
「……はあ、さいですか」
どうやら、嫌な予感は当たったらしかった。




