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第22話

『赦して―――――』


 悲痛な声。誰かが一心に謝っている。誰に対して? どんな理由で? ただひたすらに謝罪の言葉を口にする相手に問いたいことはたくさんある。それなのに肝心のぼくが見当たらない。


『ごめんなさい……』


 大丈夫さ。きっと君を赦してくれる。だってこんなにも誠心誠意謝っているじゃないか。これでも相手が赦してくれなかったとしたら、それはきっと君のせいじゃないんだ。だから気にする必要はないんだよ。


 できることなら、ぼくはその声の主を慰めてあげたかった。もう泣かなくていいのだと、謝らなくていいのだと、そう言ってあげたかった。


 でもぼくの声は届かない。どれだけ懸命に声を張り上げても、相手には聞こえていないようだった。想いを伝えられない苦しさは、酷くもどかしいものだった。言葉ですら時折誤解を生むというのに、その言葉すら発せられないぼくは、どうして人と交われようか。


 ただ目の前で再生される映像に対して、音声に対して、マナーを弁えた観客でいるしかないのだ。


『赦して―――――』とその人は言った。


< 赦さない、とその時思った。>


『ごめんなさい……』とその人は続けた。


< 赦すものか、と続けて思った。>


< 自らのために嘘を重ねた者に赦しを与えるはずはない。その罪を告白するつもりもないのに、自らだけが赦されようとするなんて反吐の出る話だった。あまりに都合のいい話だった。己の救済を願いながら、その実、罪を認めているわけでもなかった。仕方のないことだったのだと罪から目を逸らしていた。自分は罪人であると、思ってもないことを並べ立てて罪悪感から逃れようとしていた。>


< 赦せるはずがない、とその時思った。絶対に赦すものか、と最後まで思った。その嘘は未来永劫に大罪の証として残るのだ。だから安心して眠るといい。その罪の重さに苛まれながら眠るといい。そしていつか、その重みに耐えかねた時、自らがしでかしたことの重大さを悟るのだろう。>


< ―――――『ゆるさない』 >




   ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■




 身体を揺さぶられる感覚がした。次いで、瞼を通して強烈な刺激がした。暗闇の世界をオレンジに染め上げる陽光だった。ぼくは眩しさに掠れた声をもらす。万物に恵みをもたらす太陽の光は、時には害悪にもなるのだと身をもって味わわされる。


「セイジさんっ、目を開けてください!」


 最初は遠慮がちに、やがて力任せに揺すられた身体は船酔いにも似た気持ち悪さに支配されていた。これ以上揺らされては堪らないと、ぼくはしぶしぶ瞼を上げた。


 覚悟していたものの、眼球を焼く日光は耐えがたいものだった。右手で遮る。


 ……右手で、だって?


 ぼくは勢い良く上体を起こす。光の刺激に対して涙を分泌させている両目が慣れてくると、辺りの様子が確認できるようになった。それに間髪おかず突っ込んでくるふたりの少女。


 キララとナズナはぼくに縋り付きながら声を上げて泣いた。


 初めは混乱していた頭も時間と共に正常に戻る。見渡してみると、昨日散々逃げ回った付近にぼくは野ざらしになっていたみたいだ。未だに燻る自動車の残骸からは、焦げ臭さと黒ずんだ煙が立ち上っている。


 ふたりの他にも昨晩助けた住人の生き残りが集まっている。まだ目を覚ましていない者の介抱をしている姿もあった。皆一様に酷い有り様であるものの、しっかりと生き延びた者たちであった。


「ほ、ほんとに、心配したんですから……腕だって血まみれだったし」としゃくりを上げるナズナが言った。


 そう、腕だ、とぼくは思った。見ると、長袖、その両腕の部分は血まみれで見られたものでなくなっている。だけど中身は傷ひとつ付いていなかった。血液滴る外装に反して、両腕は異常とも言えるくらい無傷だ。


 一体どうなっている。


 記憶が正しければ、ぼくは意識を失う直前に、ケモノによって両腕を喰い千切られていたはずだ。出血の痕は血糊として残っている。あれが夢だったなんて思えなかった。


 何があったのか全く思い出せない。ぼくは死にかけていた。いや、あの時間違いなく死ぬのだと思いかけて―――――思いかけていたのか? ケモノを前にした時の不思議な感覚を思い出す。あの時に感じたのは恐怖だけでなかったはずだ。説明しようのない安心感のようなものも同時に存在していたのだ。


 それらが示すのはどういったことか。考えようとすればする程思考はまとまらず、ぼくはそうそうに無駄な努力をやめた。こんな覚醒しきっていない頭で考えたところで何も得ることはないだろう。


 周囲では、目覚めた面々が互いに無事を喜び合って、それから惨状に気づいたようで声を失っている。彼らの混乱が収まるのも、もう少しの時間がかかりそうだった。ぼくとしても、その方がありがたい。他ならぬぼく自身がまだ事態を把握できてないのだから。


「ナズナ、どうしてここに? 待ち合わせの場所で、ぼくが行くまで待機する約束だったろう?」


「そう、ですけど……でも、キララちゃんがどうしても行かなきゃならないって言ったんです。迎えに行くべきだって。危険な人たちはもう遠くに行ってしまったから、迎えに行っても平気だって、そう教えてくれたんです」ちらり、と同じくぼくの胸に顔を埋めるキララに目をやり、「わたしもキララちゃんの力を信用してましたし、心配で居ても立ってもいられなかったんです。約束を破ってしまってごめんなさい……」


 しゅんと頭を垂れる彼女を怒れるはずがなかった。彼女たちはぼくの身を案じてここまで来てくれたのだ。それを無碍にできるはずがない。むしろぼくは礼を言うべきなのだろう。


 ぼくは苦笑し、ふたりの頭をなでて礼を言った。いくらキララの力で敵がいないとわかっていても、この戦場跡に来るのは心細かっただろうに。その恐怖心を押して迎えに来てくれたのだ。ぼくはとても嬉しかった。


 ぐりぐりとぼくの胸に頭を押し付けてくるキララは見るからに怒っていた。あれだけ大口叩いたのに死にかけたぼくを責めているようだった。それに対しては弁解のしようもない。ぼくが完全に悪い。


 彼女の怒りはもっともだった。きっと謝罪の言葉を口にしたところで、酷く安っぽい代物になってしまうだろう。だから言葉の代わりに、ぼくは行動で謝罪の意を示すしかなかった。これでもかというくらいにふたりを強く抱きしめた。彼女たちから伝わってくる体温は、ぼくに生きている実感を与えてくれた。


 生きててよかった、とぼくは心底思った。そのおかげで、こうしてぼくは彼女たちと再会することができたのだから。死んでしまったらそれも叶わなかった。キララをひとり残して死んでしまう結果もあり得たのだ。


 あのまま両腕が切断された状態で放置されていたら、きっとぼくは死んでいた。そもそも、怪我自体が勘違いだったのか、それとも怪我を何者かが治してくれたのか。いずれにせよ、ぼくは想像の及びもつかないものに救われたのだと思った。それに感謝しなければならないな、とも。


 ふたりを慰めていると、混乱の収まった住人が周囲に集まりだした。その数は9人。逃げ出してきたのを保護したのと、ぼくが助け出したのとを合わせた数である。


 その中で、昨晩会話を交わした覚えのある年配の男が進み出た。彼は地面に座るぼくらの前で腰を屈める。


「礼が遅くなってしまって申し訳ない。昨日は助けてくれてありがとう」とその男は言った。


 ぼくは首を振った。「……でも、助けられたはずのふたりを助けられませんでした。本当にすみません……」


 眼の前で死なせてしまったふたりを思い出す。その時にぼくも腕を喰われたはずだった。それなのに、彼らは死んでしまい、ぼくは何事もなかったように無傷である。それは死んだふたりに対する冒涜であるようにぼくは感じた。助けられなかったぼくにも、罰があって然るべきなのだ。


 ……けれど、その想いも、結局のところ罪悪感を紛らわすためでしかないのかもしれない。


 腕を切り落としたところで、死んだふたりは返ってこない。助けられなかった彼らの記憶は、この先ずっと消えないのだろうな、とぼくは思った。


「それで、これからどうする?」と男が訊いた。


 ぼくは生き残った人たちを見た。彼らは殆どが疲労困憊といった体で、大小様々な怪我を負っている。追手がないことはキララによって確認済みであるものの、長くこの場に残るのは危険だった。騒乱に気づいた第三者が、おこぼれを狙ってやって来るかもしれないのだ。


「怪我をしている方もいるみたいですけど、移動できますか?」


 あの襲撃者たちは、住人たちの足を切り裂いて動けなくさせていた。胸糞悪い仕打ちだった。そのせいで殆どが逃げ出せずにケモノの餌食となってしまった。生き残った者も、足に怪我を負っていて、満足に動けないのが大半だ。


「肩を貸して歩けば、何とか大丈夫だ」


 彼らは怪我を押してでもこの場を離れたいようだった。無理もない。不気味な襲撃者に襲われ、その後にケモノに襲われ。散々な目にあった場所である。こんな所、すぐにでも離れたいのだろう。


 ぼくの体調は思わしくないけれど、動けない程ではない。無理をすれば集落まで戻れるはずだ。


「じゃあ、すぐにでも我々の集落に向けて出発してもいいですか?」とぼくが訊ねると、彼らははっきりと頷いた。


「と、その前に。ナズナ、お願いがあるんだけど」とぼくは言った。


「お願い? いいですよ」とナズナは答えた。


「昨日の戦闘の時に、持ってきたリュックサックを落としちゃったんだ。探してきて欲しい。キララなら、落ちてる場所もわかるはずだし」


 キララに確認するように目を向けると、彼女はこくりとして、可能であることを示した。


「わかりましたっ。わたし、全然セイジさんのお役に立てなくて心苦しかったところなんです。このくらいなら、お安い御用です!」


「そ、そうかい……じゃあ、頼むよ」


 昨日死にかけた身からすると、ナズナのテンションは少々気後れするくらいの快活さがある。徹夜明けに目にする太陽みたいだった。


 ナズナはキララを連れてぼくの落とし物を探しに行った。あれの中にはいろいろと貴重な道具が入っているから、ここで失くすのは惜しい。それに、長く愛用しているから、愛着もあることだし。


「それにしても、生き残れたのはあんたのおかげだよ」と隣に腰を下ろす男は話かけてきた。「気絶してれば襲われないって、どうやって知ったんだ?」


「それはちょっと違いますね」とぼくは答えた。「『襲われない』じゃなくて、『襲われにくい』の方が正しいかもしれません。あくまで、他にケモノの攻撃対象がある時でないと意味がありません。間違っても、ケモノに襲われたら気絶すればいい、なんて思い込まないでくださいね。気絶したまま喰われるだけですから」


 男を始めとした面々は、何だか実感がわかないようだった。一様にぽかんとした表情でぼくの話を聞いている。


「だけど、昨晩はそれで生き残れたじゃないか」


「昨日の場合、我々の他にも別に人間がいたでしょう? あの襲撃者たちが」


 彼らは移動には自動車を使っていたし、ライトも気にせず使用していた。近くに仲間がいたとすれば、そいつらも同様である可能性が高い。


 その場合、ケモノの襲撃優先順位は、ヤツらが1位になり、我々が2位になる。そうして攻撃から逃れられれば、生き残れるという寸法だった。


 ケモノは一度攻撃対象から外した獲物を、再度襲うことはないらしいのだ。理由はわからないが。


「ある程度条件が揃わないと使えない手ですね」


「なるほどな……そんなにうまい話はないってことか」


 この程度の対策でケモノから逃れられるのだったら、人類の殆どを失う事態にはなってなかったはずだ。我々はそんなに馬鹿ではない。経験から、一応の対策を練ることはできる。


 だがケモノに対しては焼け石に水の療法であることが多く、自衛隊という最大戦力を失った日本はあっという間に壊滅したのだった。結構前に撤退した在日米軍が残っていたとしても、結果はそう変わらなかっただろう。


 話しているうちに喉の調子が悪くなってきた。空咳を続けてすると、男が心配そうに覗き込んでくる。


「大丈夫か? 何だか顔が真っ白だぞ……」


「体調があまり思わしくないみたいで」とぼくは何とか笑みを浮かべて言う。


 すぐにでも眠りに落ちたい欲求があった。身体の底には、疲労感に似た重苦しい泥が溜まっていた。腰を下ろしてしまったせいで、余計に辛く感じられた。立ち上がる気力もなかった。


 それでも、無理をしてでも集落に戻った方が安全だ。ここで休養を取るのはあまりに無防備過ぎる。我々の構成メンバーは、怪我人ばかりに女子供で占められている。襲われたらひとたまりもない。


 ぼくなんか、加勢するどころか、足を引っ張りかねなかった。こんな状態で外で野宿するのは論外だった。襲ってくださいと言っているようなものだ。


 言葉少なにナズナとキララの帰りを待つことしばらく。


 彼女たちは目的のリュックサックを見つけて帰ってきた。近くで爆発があったのか、マイ・リュックは偉く薄汚れてしまっている。手製の弓矢も見つけてくれたのだが、用途に合わない使い方をしてしまったせいで破損していた。弓矢は投げつけるものではないってことだ。


「ありがとう、ふたりとも。これはぼくの大切なリュックなんだ。見つけてくれて、とても嬉しいよ」


 ナズナは「えへへ」と得意そうにはにかんだ。キララも口元を緩めている。


 さて、落とし物も見つかったことだし、ゆのかわの集落に帰りますか。


「じゃあ、皆さん、行きましょう」


 ぼくはふらつく足元を叱咤して立ち上がる。立ちくらみに襲われ、少しの間、目をつむってそれをやり過ごす。想像以上に消耗しているようだった。動けなくなる前に到着しなければならないな、とぼくは思った。


 ナズナにキララを任せ、ぼくは気力で歩みを進めようとするものの、今日において精神論は廃れて等しいように、気の持ちようでどうにかなるものではなかった。大して進まないうちに歩みは止まってしまう。


「セイジさんっ、無理しないでください。荷物はわたしが持ちますよ。自転車のカゴに載せれば、そんなに負担にもなりませんから」


「……ごめん、頼むよ」と自分の不調を誤魔化す余裕もなくなったぼくは素直に従った。


 リュックサックが肩からなくなると多少楽になった。それでも身体のダルさと頭痛は治まらないので、一歩進むごとに苦痛を感じた。まるでヒマラヤにでも登っているみたいだった。ただ歩くだけで身体の中から体力と気力が奪われていく。


 今にも倒れそうなぼくを見かねたのか、自身も怪我をしているのに、助けた男のひとりが肩を貸してくれた。


「……どうもありがとう」とぼくは礼を言った。


「こちらとら、あんたに命を救われたんだ。これくらい何てことないさ」と彼は言った。


 彼だって仲間がたくさん死んでしまったのに、それを感じさせずに強くあろうとしている。泣き言を一言ももらさない。それは彼以外の住人も同様だった。


 それは荒廃した世界での不文律のようなものだった。後悔したところで死人が還ってくるわけでもない。傷ついた心が癒されるわけでもない。度が過ぎた後悔は生きていくのに害悪にしかならない。だから人々は泣き言を口にしないのだ。無駄だと悟っているのだ。


 後悔は何も生まない。むしろ足かせとなる。


「今日を生きる」という困難さを誰よりも知っている者は、昼に強がり、夜に泣く。


 彼らもそうだ。今は失ったものについて思いを馳せている暇はない。少しでも早く安全地帯に逃れるのが最優先される。泣くのは、悲しむのは、それからでも遅くはない。


 集落へと進む我々はぼろぼろだったけれど、悲壮感は感じられなかった。それどころか、生きてやるという強い意志に支配されていた。かつての日本人にはなかったものだった。文明社会が失われ、命の価値が低くなってから獲得した観念だ。多くを失った代わりに、我々が得たものだった。


「ホームに帰る」という行為もぼくの背中を押していた。いつの間にか、あの場所はぼくにとってなくてはならぬものになっていた。こうなるのを避けるために今まで苦慮してきたはずなのに、歓迎されない事態に陥っているぼくは悪い気がしなかった。それでいいのだと、自然と受け入れていた。


 スミレのことを思い浮かべると、頭痛が少し和らぐ気がした。




   ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■




 集落に帰還を果たしたのは、太陽が西に傾き始める頃だった。非常事態に移行していた面々が出迎える中、ぼくは手製の槍を持ったスミレを見つけた。デジャブだった。ぼくが初めてここを訪れた時も、彼女はこんな格好をしていたっけ。


 妹が無事に帰ってきたことや、複数の救助者を連れて帰ったことに喜んでいたスミレは、ぼくの惨状を目にすると顔を青ざめさせた。


 顔色は真っ白であり、両腕にあたる部分は血に染まっている。そして肩を貸されているのだから、自分でも言うのも何だが重傷者である。外傷はないので、大げさに見えるのが恥ずかしい。


「セ、セイジ!? 怪我してるのっ、た、大変……!」とあたふたする姿はかわいらしく、また嬉しくもあった。ぼくは肩を貸された格好のまま、「そんなに心配しなくても、怪我してるわけじゃないよ」と彼女をなだめた。


「で、でも、すごく辛そうよ」


「うん、すごく辛い」とぼくは答えた。「外側じゃなくて、内側の調子が悪いみたいなんだ。帰ってきてそうそうで済まないけど、寝かせて貰っていいかな」


「何、気を使ってるのよ。当たり前じゃない。……ほら、部屋まで連れてってあげるから、わたしに肩を回しなさいよ」


 そう言って、スミレはここまで助けてくれた男の後を引き継ぐ。救助者の面倒は茂野さんに任せるみたいだった。


 彼女ひとりではぼくの体重を支えきれないので、ナズナも手伝ってくれることになった。久保田姉妹に両脇から支えられる形でぼくは帰還組の傍を離れる。


 肩を貸してくれた男に礼を言う。彼は疲労を滲ませながらも、安全地帯へ辿り着けたことに安堵しているようだった。緊張感が緩んだ気がする。彼は「礼を言うのはおれたちの方だ。後で改めて礼を言わせて貰うよ。あんたはゆっくり休んでくれ」と手を振った。それに続いて、助かった人たちが声を揃えてぼくに礼を言った。


 別に謝礼を求めて人助けをしたわけではない。だけど、こうして人から感謝されるのは嬉しいことだった。散々酷い目にあったことを帳消しにして余りある報奨だった。我ながら調子がいいな、とは思いつつも報われた気分だった。


 建物内に入ると、すれ違う住人たちはぎょっとしてぼくの安否を訊ねてくる。スミレはそれにいちいち答えながら、足早にぼくの病室へと向かう。


 まだ非常事態は解除されていないらしく、皆武装している。


 例の襲撃者のことは、救助された者たちから知らされるだろうが、一応忠告していた方がいいだろう。


 口を開くだけでも億劫だった。それでも、情報を持つ者の義務だと言い聞かせてスミレに伝える。


 彼女は足を止めずに話を聞いた。無理をしてでもぼくが伝えたいことなのだと知ると、一字一句聞き逃さないという真剣な表情で耳を傾けていた。


「警戒態勢は続けた方が無難みたいね……」と彼女はぼくの話の感想を述べた。


 後を付けられていないことはキララに確認済みだが、昨晩のように彼女の力が妨害されることもあり得る。警戒するに越したことはない。この集落は国道から離れているとはいえ、絶対に見つからないということはないのだ。


 あの不気味な集団はカルトじみた臭いがしていた。きっとどこかの宗教団体の生き残りだろう。そういった輩は倫理とか道徳とかいう壁の向こう側にいる。話は通じないし、考えられないような残酷なことを平気で行う。あまりに危険な連中だった。


 だから、しばらくは現状維持が好ましいのだとスミレに告げると、彼女は「言われるまでもないわ」と呆れた表情で言った。


「それよりも、自分の心配をしなさい。今にも死にそうな顔をしてるわ」


「そうそう。今のセイジさんに比べたら、キョンシーの方がずっと健康的な肌色してますよ」とナズナが姉に続いて言った。


 ぼくは死人よりも死人みたいな顔をしているっていうのか……。何か複雑だ。


「一体どうしたのよ? 怪我してるってわけでもなさそうだし、あなたの消耗具合は、他の人達と違う気がするんだけど」


「……」


 以前にも、ケモノが身体に侵入するとこういった疲労感や苦痛に見舞われたことがあった。人の身には過ぎた代物を受け入れた代償だろう。だが今回は特に酷い。自分ひとりで動けないくらい消耗するのは初めてのことだ。


 原因として考えられるのは、やはりケモノにやられた両腕だろう。見た目は何事もないのが余計に不気味だった。


 痛みは全くないものの、名状しがたい違和感のようなものがあった。これは自分の腕ではないのだと、身体が拒否反応を起こしているみたいだった。


 この身体の不調は両腕が原因なのだろうか、とぼくは思った。そうとしか考えられない。だとすればどうすればいいのだ? 再び腕を切り落とすのは勘弁願いたい。間違いなく両腕が害悪であり、切り落とさなければ死に至る、くらいに判明しない限りは現状維持とするしかないだろう。


「って、調子悪いのにいろんなことを訊くのは駄目よね。ごめんなさい」


 ぼくがだんまりをしていたせいか、彼女は気遣って話題を切り上げてくれた。その心遣いに感謝しなければならないだろう。ぼくだって何が起こっているのか把握しかねているのだ。


 部屋に着くと、ふたりがかりでベッドに乗せてくれた。それから血まみれになった上着の交換を手伝ってくれる。


 清潔な服に着替え、寝転がった柔らかな布団とシーツは、驚くべき心地良さだった。極楽浄土は確かにあったのだと確信できる程だった。


 ぼくの隣にキララが潜り込む。掛け布団からひょっこり顔を出した彼女は、ぼくをしばらく見つめた後、ゆっくりと目を閉じた。疲れているのはぼくだけではなかったのだ。それを今さらながらに思い知らされる。


「ここまで連れてきてくれてありがとう。ナズナも疲れているだろ? 休んでくれて構わないよ」とぼくは言った。「スミレも、助けた人たちと話があるんじゃないか? もう行ってくれて大丈夫だよ」


「……でも、看病しなくて平気なの? 熱があるようなら濡れタオルとか用意するけど」


「ありがとう。でも大丈夫。これはきっと病気とかそういうものじゃないんだ」とぼくは苦笑し、「つわりみたいなものさ」


「そんな冗談を言う元気があるなら大丈夫ね。……わたしはもう行くけど、辛くなったら遠慮せずに言うのよ? あなたは、何かとひとりで抱え込もうとするみたいだから」


 それじゃあ、とふたりは退出していった。ぼくは彼女に言われたことを反芻した。いろいろと覚えがないわけでもないけれど、改めて人から指摘されると非常に恥ずかしい。まるで人見知りの少年みたいではないか。


 布団に潜りながら、気の置けない調子で他人を頼る自分を想像してみる。


 ……ないな。


 あり得ない、とぼくは思った。人を頼るのは、頼られるのは別に悪いことではない。しかしながら、自分がそれを当たり前のように行う姿には反吐が出る。とてもではないが、彼女の言う通りはなれそうにもなかった。


 ぼくは助けられたり、助けたりしている。


 でも結局のところ、人間は独りなのだと確信している。家族や恋人や友人がいたとしても、本当に重要な局面においては、人間は独りで判断を下さなければならない。そこに他人を絡めると途端にややこしい話になる。


 あいつのせいだとか、あいつのためだとか。


 そういう話を、考えなしに押し付けられるのは遠慮願いたい。生死が絡んだ事態においては、命をかけるのだ。人を助けにいって死んだとしても、「そのせいで」としたくはないだろう? あくまで自分の都合で人は死ぬべきだ。誰かのせいにするべきではないのだ。


 そうすれば、失ったものも、得たものも、全部自分のせいということになる。


 ぼくはそれでいい。それで十分だ。


 なあ、キララ、とぼくは傍で眠る少女に話かける。もちろん声には出さずに。


 君はぼくみたいな大人になってはいけないよ。


 君は、君のお父さんみたいな立派な人になるんだ、とぼくは眠りに落ちていく狭間で願った。


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