第21話
誰かの悲鳴を皮切りにして、我々は正気を取り戻す。もうこうなれば敵も味方も関係ない。我々に共通するのは「餌」としての役割だった。
「う……予定より、早い……?」と酷く苦しげな少女が呟いた。その声に振り向くと、彼女はどろどろの黒い液体をその右目から流し続けていた。身体を伝わって地面へと落ちた真っ黒な泥は、驚くべきことに生きているかのように脈動していた。
声も出せない、とはまさにこのことだった。
ぼくは目の前で起きているおぞましい光景から目を背けられない。見たくない。それなのに目が離せない。二律背反した感情が胸中で渦巻き、ぼくをその場に縛り付ける。
だが、とぼくは頭を何度も振って頭の中のモヤを振り払おうとする。微かに聞こえたのは間違いなくキララの声だった。彼女の呼ぶ声がぼくを正気でいさせてくれる。彼女の元に戻らなくては、という想いがふつふつと湧き上がってくる。それはぼくから気怠さを吹き飛ばし、行動のための活力となってくれる。
視界の先では、半身を黒く汚した少女も仲間に付き添われて逃げようとしていた。襲撃者たちは、まだ半数程残っている。誰もこちらに気を配っている暇はなさそうだった。
「こっちだ!」と彼らのひとりが自動車を動かして手招きしている。逃げるための足は自動車が一番だろうが、ケモノ相手ではそうもいかない。
常軌を逸する光景を見せつけられた手前、彼らはケモノに対して何らかの情報あるいは関わりがあるはずだとぼくは思っていた。それなのに律儀に自動車で逃げようとするなんて、一体どういうことだ……?
案の定、自動車で逃げようとしていたところへ、ヒトガタから姿を変えた<黒いケモノ>が惹きつけられる。
ぼくの眼前を黒い暴風が通過する。その直線上にある機械類や人間を全て食い散らかす。誰にも止められない暴力の塊だった。
数人が乗り込んでいた自動車の正面からケモノは突っ込んだ。衝突音もなく、ゼリーをくり貫くように円状の通過点が出来上がる。運転席と助手席に座っていた人間、それから後部座席にいた者が巻き込まれて半身を消失させる。ペラペラになった服から大量の血液を噴出させ、そのぽっかりと空いた自動車の穴から崩れ落ちる。
そして背後から再びの強襲。獲物の生死など関係がないのだ。ケモノはただ人を喰らうために攻撃を繰り返す。あっという間に僅かな鉄屑のみになる自動車。吹き上がる炎。ぼくは転げ回りながらケモノの通過点を避ける。
くそ、とぼくは毒づいた。
喰われるのは襲撃者だけではない。捕まっていた住人、足を切りつけられ動けなかった住人がすでに喰われてしまっていた。辛うじて生き残っている者も、逃げるに逃げられず、頭を抱えてうずくまってる。
ヘッドライト目掛けて次々にケモノが突っ込み、そのたびに爆発が起こる。ぼくは熱風を遮るように腕で顔を覆った。
と、ふと視線をずらした先に、取り残されて微動だにしない子供たちの姿があった。そもそもなぜこの場に子供がいるのか理解できない。捕まった住人たちの子供なのか、それとも襲撃者たちが連れてきたのか。
いずれにせよ、自発的に逃げ出さない彼らは、ケモノの格好の獲物だ。
だが待てよ、とぼくは躊躇った。あの双子の件を思い出す。彼女たちはケモノの襲撃を予言するような物言いだったし、これまで調査してきた子供たちもどこか現実離れしていて、まるで人間らしくなかった。最近になって、子供たちはケモノと密接に関わっているのではないかと考えるようにもなった。
もしかすると、<黒いケモノ>の正体、あるいは生み出しているのは子供たちなのではないか―――――そんな想像がむくりと頭を持ち上げる。
この場に子供が突然現れたのも怪しいではないか。考えたくないことだが、今暴れているケモノは、この子供たちが原因で出現したのではないだろうか。
なら、助けようとするのはあまりにも馬鹿げている。むしろあの子供たちを気絶させるなりどうにかして、ケモノが消えるか試した方が無難だろう。
そんな思考を続けているうちに、目の前で3人の子供の上半身が消失した。
「え……」とぼくは呆気に取られた声をもらした。
衣服が地面に落ち、下半身だけになった身体がぐらぐらと揺れる。その死体は倒れる前に再度襲いかかったケモノに喰い尽くされた。
子供たちは死んだ。喰われたのだ。だが何も起こらなかった。
大人と同じように、ただ食料とされた。命の尊厳なんて少しも意味をなさなかった。
ケモノと関係あるかもしれないから様子を見よう。そんな馬鹿げた思考をした自分を殴ってやりたい。ぼくは見殺しにしたのだ。幼い子供たちを。目の前にいた彼らを、ケダモノに喰われるのを黙って見逃したのだ。もし子供たちがケモノを生み出していたのなら、どうしてそれに喰われようか。少なくとも、ケモノにとって子供たちなど餌以外の何者でもなかったのだ。それなのに、下手な勘ぐりをして許されない間違いを犯してしまった……。
呼吸が上手くできない。肺臓が痙攣を起こしているみたいだった。
駄目だ。気をしっかり持て。この場で嘆いていたところで状況は変わらないのだ。生き残る努力をする。後悔するのはそれからだ。
……一刻も早くここから離れなければならない。でないと全滅だ。
正直、予想を甘く見積もり過ぎた。襲撃者たちにしても、あんな団体だとは思わなかったし、双子に忠告されたものの、まだケモノが出現するまで猶予があると漠然と思っていた。今思えば、どうしてこんなにも楽観的に考えていたのかと自分を罵倒したい気分だ。
それに何より、ケモノの数が多い!
<喰ラウ>
背筋に寒気を感じたぼくは、前方へ思いっきりヘッドスライディングする。手のひらを強かに擦り剥いたものの、それに見合うだけの成果はあった。ぼくの立ち位置を目にも留まらぬスピードで4脚の形態を取ったケモノが通過した。音もない疾走を事前に察知するのは不可能だ。ここで命を預けられるのが、散々ぼくを悩ましてきた<直感>の力なのだから気分は最悪だった。
見る限りケモノは周囲の自動車に的を絞っているようで、我々を狙う順位は第2位程度だろうか。今なら逃げ出せるはずだ。
ヒトガタだったケモノは、攻撃に適した四脚の状態を取っている。この変幻自在な変形のおかげで自衛隊は空陸海と全滅してしまったのだ。このケモノたちは、その気になれば空だろうが海だろうが活動可能だから手に負えない。
やっとの思いで生き残りが密集する場所まで辿り着く。通説では逸れたものから襲われるというが、密集している方が絶対に危険だとぼくは思っている。つまりは、こうして怯えて寄り添っているのは、「美味しいですよ? どうぞ食べて」と行儀よくお皿の上に並んでいることにほかならないのだ。
「何ぼさっとしてるんだ! 早く逃げるぞッ」とぼくは彼らに怒鳴った。それに対してのろのろと顔を上げる数名。目の焦点が合ってない。
ぼくは舌打ちする。ここで錯乱されたら最悪だ。無理やりにでも動かさないといけないだろう。
「あ、あんた誰だ……?」と男が訊ねる。
「ぼくは『ゆのかわ』の者だ。あんたたちを助けに来た」と事前にスミレに教えられていた集落名を出す。
「ゆ、ゆのかわの!? ほ、本当に……?」
「ぼくが今、ここにいるのが何よりの証拠だろう!」
反論を許さない勢いでまくし立てる。彼らは突如現れた救援者に混乱しているが、のんびり説明している暇もない。とにかくケモノの狩場から離れなくてはならない。
幸いにも、襲撃者側の生き残りが頑張って逃げ回ってくれているおかげで、こちらを集中的に狙われる事態には陥っていない。だがそれも時間の問題だろう。逃げ回る獲物がなくなれば、今度は隠れている者を探すはずである。
ふと、あの少女はどうなったのだろうかという思いがよぎる。すでにケモノに喰われてしまったのだろうか。
いや、それはないな。
あの流れ出ていた泥は真っ黒だった。それこそ、目の前で蹂躙を続ける<黒いケモノ>のように。彼女は何らかの形でコイツらと繋がりがあるように思えた。その彼女が喰われてしまうことはないに違いないのだ。
背負ってきたリュックサックはどこかに失くしてしまっていた。だがもしもの時に備えていたために、切り札のスタンガンは腰にセットしてある。軽く手で確認してみる。あの少女に痛めつけられたり、ケモノから派手に逃げ回ったりしたけれど、幸い損傷は見当たらない。
このスタンガンを何に使うか。それはもちろん、用途に沿った使用をするのである。すなわち、人間を気絶させるのだ。
普通のスタンガンは、人を一撃で気絶させるような出力はないが、ぼくのものは特別に出力を上げてある。首元で使用すれば間違いなく気絶させられる。下手すれば死にかねないから、あまり褒められた手法でないものの、こうして意識を人工的に飛ばすしか生き残れる可能性はないだろう。
ケモノの習性―――――ぼくが考えていることが正しければ、意識を失った人間は襲われないはずである。そしてケモノはケモノの優先順位によって獲物を襲っているのだ。それはこうして<審判の日>を生き延びた人間が存在していることが証明している。
つまり、ケモノたちに襲われた時、何らかの原因によって気絶していたり、暗闇にひとり取り残されたりした人間が生き延びたのだ。本人たちはそれを「運良く」助かったと考えるだろう。
ぼくはそこにいた8人を連れて自動車の残骸から離れていく。
ケモノから生き残るための注意すべき点は3つだ。
ひとつ、集団にならない。
ひとつ、機械類、金属類をなるべく持たない。
ひとつ、意識を失くした状態にする。
なるべく人間を自然状態に近づけるのだ。そうすることによって、ケモノの我々を襲う優先順位が下がる。上ふたつは危険度を下げ、最後のひとつが襲われないための最重要点だ。
これは、ぼくが何度もケモノに襲われた際の方法を踏襲した方法だった。森の社の情景を心に投影して、可能な限り空っぽの状態にする。そしてケモノが身体に侵入してきても拒まないこと。そうすることによってぼくは生き延びてきた。
だが、これを常人に求めるのは酷な話なのだ。だってそうだろう? 化物が、自分の穴という穴から入り込んでくるのだ。それを拒まず受け入れられる人間がどれ程いるのだ。
拒絶したり、恐れたりした瞬間、ケモノは身体を喰い荒らすだろう。
そこで、無心になるための方法が、「物理的に気絶させる」ことだった。言ってしまえば種も仕掛けもないもので、意識を飛ばしてしまえば、怖がりも抵抗もせず、ケモノを通過させられるというわけである。
……ただ、実際に試したことはないので、成功するか失敗するかは天のみぞ知っている。
住人たちに疑念を持たれないように、ぼくは逃げながら脚色して対処法を説明する。
「それで、本当に、助かるのか!?」と息を荒くして男は訊く。
「助かる!」とぼくは躊躇なく表情で答えた。「絶対にだ!」
人間、時には嘘も方便である。ここでぐずられては助かるものも助からない。何だか詐欺師になった気分だったが、人命がかかっているのだから容赦して貰うしかないのだ。
「ひとり目はあんただ! 早くしろ!」
「わ、わかったよ……」
男を草むらに寝かせて、有無を言わさず首元にスタンガンを叩き込む。身体を跳ねさせた男は、見事に気絶したのだった。
そしてそこから離れた位置でふたり目の処置をする。距離を離した方がいいという独断で、ある程度の間隔をもって配置していく。
急いで行なっているものの、背後の喧騒は少しずつこちらに近づいているようだった。
「次ッ」とぼくは切羽詰まった声で急かす。3人目。4人目。
残り3人だ。急がないと。ぼくは手頃な場所を探すため周囲を見回した。その時だった。
<喰ラウ> <奪ウ>
すでに感じ慣れてもきた直感の警鐘。しかしながらタイミングの悪いことに、その時ぼくは場所探しのために注意が散漫になっていた。そのため反応するのが数瞬遅れてしまった。高速で襲ってくるケモノ相手にとって、その遅れは致命的だった。
「散らばれッ」自分の叫び声の鈍さが憎らしい。勘に従って、一番危険な場所に立っている女性を突き飛ばそうとする。けれども、ケモノに比べてあまりにも遅い人間の動きでは無駄だった。
突き飛ばすために伸ばした右手が黒い暴風に呑み込まれる。次の瞬間、肘から先が消失し、空っぽになった長袖が風に揺れていた。遅れて、心臓の鼓動に合わせるかのように出血が始まる。そして激痛。絶叫。
「―――――ッ!?」
信じられない痛みだった。今までに感じたことのない激痛だ。ぼろぼろと涙が溢れてくる。その滲む視界の先には、助けられなかったふたりの服が血の海にまみれていた。バラバラになった四肢が散乱している。ケモノはそれすら残さないとでも言うように散らばった四肢に群がった。
歯が砕けるくらい噛み締める。畜生、畜生、畜生、と呪いのように連呼する。助けられたはずの命を目の前で失ったという事実が、ぼくを正気に繋ぎとめる。
「あ、あなた、腕が……」
運良く難を逃れた最後のひとりが、ぼくの惨状を見て声を詰まらせる。それに応える余裕もないぼくは、残された左手にあるスタンガンで彼女の意識を奪った。崩れ落ちる彼女の周りには死体だけしかない。酷く最悪な目覚めになるだろうが、勘弁して貰おう。
腕の出血とショックで目が霞む。
これでやれるだけのことはやった。後は自分の世話だけだ。
気力を振り絞ってスタンガンを自分に使おうとする。しかし腕を半分程持ち上げたところでケモノの追い打ちがかかった。狙いは機械類に分類されるスタンガンだった。
横合いから狙い撃ちされたのを避けられるはずがなかった。自分自身に使用しようとしたスタンガンは、次の瞬間、ぼくの左腕ごとケモノの餌となっていた。ただでさえショート寸前だったぼくの思考は真っ白になった。
「いぎッ!?」なんていう阿呆らしい悲鳴を上げて前のめりに倒れ込む。両腕を失ったぼくは、立ち上がることもできずに地面をのた打ち回る。まるで芋虫になったみたいだった。
これで意識を失えたらちょうどよかったのに、意地悪な神様はぼくの意識を地上に留めさせていた。
気絶することもできず、逃げることもできない。地面に転がって、残された腕の断面から血液を垂れ流すためだけにぼくは生きている。
何てことだろう。こんなことが許されるのだろうか。こんなことが起きていいのだろうか。
じわじわとなぶり殺しにされる恐怖をぼくは味わっていた。死は覚悟している、なんて生易し過ぎたのだ。訪れる圧倒的な死の恐怖は、想像を絶するものだった。ぼくはいつの間にか失禁していた。口からよだれをこぼし、自分でも訳のわからぬことを口走る。
微かに自分の言っている言葉が聞き取れた。
「死に、たく、ない……」
死ぬかもしれないと知りつつここに来たのだ。訪れる死は自分の責任でもある。けれども、「死ぬかもしれない」と「死んでもいい」は決してイコールではないのだ。その実現を予想しながらも認容したわけではないのだ。
ぼくを見て、「ほら、言わんこっちゃない」と嘲る人間もいるだろう。それは正しい。でも行動するにあたっての危険は付き物なのだ。それに怯え、足を止めたままでは何も成すことはできない。
安全地帯で失敗者の姿を笑い、「自分はそんな危険を犯さない」とうそぶいているだけの人間に未来はない。ただ停滞した現在があるだけだ。そしてその現在さえも、そのうちに過去となっていく。残されるものは何もない。
ぼくは自ら進んで赴いた。だけど死ぬためにきたのではない。
住人たちをできる限り助け、自分も生きて帰るためにきたのだ!
顔を上げる。
眼前には何もない。ただの暗闇だけがあった。ケモノの形をした「死」がそこにあった。
顔にあたる部分がぼくを見据えている気がした。一息に殺さず、ぼくの反応を見ようとでもいうのか。いい趣味をしているケモノだった。友達になれそうにもない趣味を持つケモノだった。
逃れられない、圧倒的な死がそこにあった。
「―――――ク」
嗤う。とてもおかしかった。死を目の前にして足掻く自分の姿がとても滑稽に思えたからだ。ライオンに喉元を噛み付かれ、無駄な足掻きをするガゼルを見ている気分だった。
なぜ死ぬ? どうしてぼくが? そんな問いに意味はない。ぼくは別に特段の不幸に見舞われているわけでもない。ごく当たり前の食物連鎖の中にいるだけなのだ。
これまでは最上部に位置していた人間の上に、<黒いケモノ>が居座った。そうなれば、ずっと人間がしてきたように、我々も上位の捕食者に喰われることになる。肉食動物が草食動物を食い、草食動物が植物を食う。大昔から行われてきた命の営みに、ようやく人間も加わったのだった。
その瞬間、ぼくの視線は辺りを俯瞰していた。無様に転げる自分と、それを喰らおうとするケモノとを睥睨していた。空の彼方から見下ろせば、どちらもちっぽけであることに変わりはなかった。
それは大した不幸でもなく、悲劇でもなかった。ありふれた地球における日常のヒトコマだった。
ああ、何てことだろう、とぼくは思った。
こうしてケモノに喰われそうになることによって、自分が地球の一部であることを悟るなんてどうかしている。殺し、殺される関係だけではこうもいくまい。相手の糧となることによって初めて理解できる感情だった。
喉元に食い付かれるガゼルも、その命が消える瞬間にぼくと同じ心地になったに違いない。あのテレビで見たような無表情の奥底では、これ以上ないくらいに生の実感を味わっていたのだ。死を前にした直前、生きとし生けるものは、その終焉を迎えつつある生を感じ取るのだ。
両腕から熱がこぼれ落ちていく。生きるための力が失われていく。
酷く苦しく、我慢ならない死だった。これ以上なく、ぼくに相応しい死だった。やはり死ぬということは、このような耐えがたい苦痛を伴うものでなければならない。もしも死が甘美であったとしたら、人はこぞって自ら命を絶つに違いないのだ。
死ぬことは苦しく、恐ろしい。そう認識されなければならない。そうでなければ、その背中合わせにある生が尊重されることもなくなってしまう。死を忘れた生き物に、生きる喜びを見出せるはずがない。
ぼくは<黒いケモノ>に逃れられぬ「死」を見出し、同時に溢れんばかりの「生」の輝きを見た。その黒色は虚無ではなかった。ありとあらゆる色が混ざり合ったゆえの混沌の色だった。全ての命の色が渾然一体となり、闇よりも深い色合いを作り出していたのだ。
死にかけている。だが、まだ死んでいない。それどころか、今までの人生で一番必死に生きようとしている。極限まで引き伸ばされた死の間際において、ぼくはずっと求めていた答えを得られた気がしていた。
ぼくの視界は、いつの間にか山中の社にあった。子供の頃に幾度ともなく訪れた社だった。人気は全くなく、野生の動物の気配が辺りを支配していた。その社の支配者は人間ではなかった。その場において、ぼくは野生の動物と価値を同じくしていた。恐ろしくもあり、解放された気分でもあった。むき出しにされた命は小刻みに震え、生の実感を享受する。
その社にあった御神木。樹齢400年と言われている大樹だ。地球規模で見れば、若木と呼ばれる樹齢かもしれない。しかしながら、その御神木は周囲の木とは明らかに雰囲気が異なっていた。
そこだけ空気が異なるように、清澄な雰囲気に満たされていた。どっしりと地面に根を張り、胴回りは人間4、5人でやっと手を繋げる太さ。堂々とした佇まいは、まさに神社の主、御神木だった。それに比べれば、申し訳程度に奉納されている御神体など話にもならない。あれは人間が作り出した古いだけの工芸品だ。
人間の誕生する以前から、ずっと地球に根を張ってきた大樹たち。御神木は、それらと地の底で繋がっているようにぼくには思えた。
視界が戻る。
もはやすぐ眼の前まで迫ったケモノは、どこかあの社の大樹と似通っていた。姿形は少しも通じるところはないけれど、もっと深い部分でそれらは意味を共有しているのだ。
気づけば、その恐ろしささえもぼくは受け入れていた。かつてのような意図的な行為ではなく、たたあるがままに生と死の象徴に身体を、魂を受け渡す。
細胞の隅々にまで染み渡っていく感覚。ぼくという存在を余すことなく知り尽くそうとする。ぼくは拒まない。全てをさらけ出す。不自由を生み出す自我を捨てさって、まっさらな存在としてそこにあることを知る。
苦痛を伴う、死の瞬間。それは同時に、この地球に生まれ落ちる際の生の苦しみでもあるのだ。
全ての生き物は、苦しみと共に生まれ落ち、苦しみと共に一生を終える。
動物たちは知っている。死ぬことはとても苦しいものだと。
人間は忘れている。死ぬことはとても苦しいものだと。
だから限りある生を尊重することができずに、いつまでたっても同族で殺し合うことをやめられなかった。<黒いケモノ>は、ある意味、人類に打ち込まれた楔だった。
生と死の意味を忘れた人類にとって、<黒いケモノ>を理解することなどできはしなかった。殺戮者としか認識できなかった。恐ろしい化物としか捉えることができなかった。
だが、違うのだ、とぼくはようやく理解した。
彼らが司るのは「死」だけではなかったのだ。同時に、「生」をもその身に孕んでいたのだ。
彼らを受け入れた身体が、脳が、自然とその意味を悟っていた。
死ぬのだろうか、とぼくは思った。
いいや、きっと死にはしない、とぼくは思った。
その通りだよ、お父さん、と<彼女たち>は言った。




