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第17話

 集落の住人たちと親睦を深めるにあたっては、己に言い含めておく条件がある。それはあまり彼らに深く入れ込み過ぎないことである。どんなに親しくなったとしても、所詮ぼくは放浪を常とする者である。


 なんて、格好付けた言い方をしてみる。


 まあ要するに、旅立ちに後ろ髪を引かれるような事態にはなるなという自戒である。


 ぼくは自分でも薄情な人間だと自負しているし、今まで出会った人間の多くがぼくに対して共通する認識だと思う。そんな人間、湯田セイジだからこそ、今まで集落を何食わぬ顔で渡り歩いてこられたわけであるし、その集落が後に消え去ったとしても一滴の悲哀を感じる程度で旅を続けられたのである。


 昨日まで平和だった生活が一瞬のうちに破壊されるのを、もはや当たり前のこととして認識されている世界だ。世話になった場所が消滅したくらいでショックを受けていては旅も続けられない。


 だからぼくみたいな人間は放浪の旅に向いているのかもしれない。世話になっている最中は親身になって付き合うが、一度距離を取ればどこまでも冷酷になれる。客観的に捉えることができる。


 それを人は、薄情と言うのだろう。実に正しいし、もしもぼくみたいな人間が目の前に現れたならば、絶対に信用しないし、仲よくもなりたくない。断言できる。


 かつて剣道をしていた頃、同門の先輩にこう言われたことがある。「おまえはロボットみたいなヤツだな」と。


 試合中のぼくが表情を動かさないことから言われたのだろうが、その表現には納得できないものがある。というか、ぼくみたいな人間をロボット扱いしては、ロボットに対して失礼である。


 表情のことはともかく、ロボット3原則に真っ向から歯向かっているぼくをロボット扱いするのはやめて欲しかった。彼らロボットは人間を傷つけないし、傷つけようとしないのだ。それどころか、人間を傷つけざるを得ない事態に陥った時、その原則ゆえに自己崩壊を起こすような完璧具合だ。


 人を傷つけることに大した呵責を覚えないぼくは、間違いなく彼らロボットよりも下等な生物だった。


 とまあ、こうしてぼくの抱える欠点を恥ずかしげもなく晒しているのは、今までのように後腐れもなく集落を出ていくタイミングを逃したゆえの逃避行動だと思って貰って構わない。


 当初の目的である取り引き終え、聞き取り調査もあらかた完了している。本来ならば次の目的地へ出発している頃である。だというのに、ぼくは囚われたように彼らの集落から離れられないでいた。


 今までと違って格段と良い生活環境のせいもある。まだ幼いキララにとって、旅の過酷さは害悪以外の何者でもない。その点、ここはぼくにとっても彼女にとっても天国みたいなものだった。


 キララの精神状態が改善していることも挙げられる。


 彼女の回復傾向はここに来て上昇の度合いを明らかにした。昼間は別として、太陽の沈んだ夜になれば、ぼく以外の人間にもちゃんと応答できるようになった。まだ饒舌にとはいかないものの、頷き、首振りでYESとNOは示せるし、僅かながらも言葉を返せるようになっている。


 これもスミレやナズナが根気強くキララに話しかけ続けた結果だろう。彼女たちが言葉を交わす場面を思い出すたび、ぼくは胸があたたかくなる。キララは、この子は、もっと多くの人と関わるべきなのだ。ぼくひとりだけの閉じられた世界ではあまりに狭過ぎる。これでは、彼女の両親にも申し訳が立たない。


 だから諦めずにキララに話しかけてくれたスミレとナズナには感謝してもしきれない。ぼくみたいな無骨な人間には、とても真似できない愛情をキララに教えてくれた。


 このままキララを彼女たちに預けた方がいいのではないかという思いが鎌首をもたげた。けれどもキララが承諾するとは思えないし、情けないことにぼくがそれを拒否している。キララと離れたくないという幼稚な思慕がぼくを囚えて離さないのだ。


 前にも進めず、かといって留まる決断をすることもできない。そんな中途半端な心情のまま、ぼくは滞在を引き伸ばし続け、当初の予定をとっくに過ぎても未だにこの場所から出発できないでいた。


 スミレのぼくに対する取り込み策は功を奏したと言えよう。しかしながら彼女を責められないのが実情だった。はっきり言って彼女の「勧誘」も「接待」もお粗末なものと評価せざるを得ず、他には特に目立った策略もなかった。


 50余人の命を預かる軍師としては力不足もいいところである。だがその稚拙さゆえにぼくの警戒心はチワワと化し、彼女の憎めない、危なっかしい性格に惹かれてしまったのだった。


 告白しよう。ぼくはスミレに好意を持ってしまっている。


 それは旅をする上でのタブーなのであり、ぼくから程遠い問題だと軽視していたものであった。まさか30を過ぎた歳になって、彼女みたいな年下の女の子に恋するとは思ってもみなかった。


 自分はずっとアカリに囚われたまま、これから先は恋などしないのだと漠然と思っていたのだ。その、今思えば赤っ恥なぼくの観念はスミレとナズナによって木っ端微塵に砕かれたのである。


 そう、ナズナだ。


 この恋人を失った少女は、何かと姉とセットになってピンクイベントに関わってくるようになった。本気でぼくを誘惑したいわけではないのはわかるものの、ぼくがイギリス紳士も真っ青なジェントルマンだと悟ったようで、面白半分か半ば本気なのか判別付かない誘惑をしてくるから困ったものだった。


 襲われているところを助けたせいで、おかしなインプリンティングがなされたのかもしれない。


 恋人が殺されたショック、己が犯されたショック、人を殺したショック……おかしくならない方がどうかしているではないか。表面上は平静そのものだから余計にたちが悪い。おかげで姉のスミレでさえ彼女の異常を察知できないでいた。


 中身はおかしくなったとしても、彼女はこれまでと同様の生活を送っている。その事実は喜ぶべきなのだろうが、本人にも無自覚に改変された意識をどうこうする力はぼくにはなかった。


 ナズナ自身が自覚して直していくよりほかはないのだ。ぼくが指摘したところで彼女にはちんぷんかんぷんに違いないし、その指摘する人間がスミレであっても結果は変わらないだろう。


 仮にもぼくが助けた女の子である。命は救った。後はバイバイというわけにもいくまい。


 彼女の行方が気になって仕方がないのも理由のひとつだった。


 とどのつまり、彼女たち久保田姉妹にぼくは魅入られてしまったということなのだろう。


 ぼくは「運命」というものを信じる方である。多くの人間は「運命なんかに信じない」とうそぶくけれど、世の中には抗いようのない大きな流れがあって、我々人間はその流れに翻弄されながら生きていかなければならないのだ。


「自由」とはそういった制限された自由なのであって、好きなことを好きなだけできるわけではない。


 そもそもが、人間として生まれ落ちた時点で不自由であることを自覚すべきだとぼくは思う。


 不自由だからこそ、できるだけ自由になろうとするのであり、運命に囚われているからこそ、できるだけよく考えて選択すべきなのである。


 ゆえに、この集落から出発できないでいる状態はぼくのせいにほかならず、こうしてぬるま湯に浸かっているのはぼく自身の選択なのである。彼女たちを責めるのはお門違いだ。


 このままいつまでも平穏な時間が続いていくのだと錯覚しそうになっていた。


 外の世界は危険な代物で溢れ返っているというのに、ここだけが切り離されて平和を謳歌しているようだった。


 けれども、そうした平穏は幻想に過ぎないことをぼくは知っていた。どんな平和も、どんな平穏も、終わりは必ずやってくるのだ。それは不意に、突然に。思いも寄らぬ方向からもたらされる。


<ノストラダムスの大予言>や<審判の日>に散々味わったというのに、我々人間は愚かにも時間と共に危機感を風化させる。きっとそのために神様は人間に試練を与えるのだと思う。


 忘れるな、人間よ、と。


 警鐘の意味を込めて、怒りの日に鐘を鳴り響かせるのだ。




   ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■




「さて、状況を整理しよう」とぼくは言った。うつ伏せになっているせいで声はくぐもっている。何とか枕から顔を起こして首を曲げるものの、殺風景な部屋の壁しか見えない。


 身体はその重量のために満足に動かせない。


 重い―――――なんて言ったら、きっと背骨を粉砕されるに違いないから、口が裂けても言うべきではなかった。


 お固いイメージがあったスミレは、やはりナズナと姉妹であったというか、親しくなるとやけに馴れ馴れしい調子になった。スキンシップが激しいのである。初めは遠慮がちだった慎ましさがなりを潜め、今では気兼ねなく張り付いてくるから勘弁して欲しい。


 ぼくもぼくで、一度彼女を意識し出すと気になって仕方がなくなってしまった。ぼくが喜んでいるのを知ってか知らずか、彼女は無邪気なスキンシップを仕掛けてくるのだった。


「これは一体全体、何の罰ゲームなのかな?」とぼくは訊ねた。


「罰ゲーム? いいえ、これはご褒美よ」とスミレは言った。「だって粒ぞろいの女の子3人に言い寄られているのよ? ご褒美と言わずして何と言うの」


 直ちに反論しようとして、ぼくは胸の空気が押し出されたためにそれもかなわなかった。


 事の始まりはスミレの「ねえ、セイジ。マッサージしてあげようか?」という一言だった。どうやら、かつて話した「マッサージ接待」を覚えていたらしく、からかいついでに実践してくれるとのことだった。


 当然遠慮したのだが、そうは問屋が卸さないとばかりに久保田姉妹の手によってぼくは拉致され、こうして強制接待を甘受させられているのだった。


 ちなみに3人目は誰だと思う? キララさんでした!


「ただ言ってみただけ」


「……? 何言っているのよ」


 ぼくの独り言に眉根を顰めるスミレ。彼女は腰の位置の担当で、ぼくにまたがって腰のツボを的確に貫いてくる。そのたびに「おうっ」と情けない声を上げるものだから、彼女は調子に乗って怪しい腰の動きをしてくる。


 視界には入っていないが、きっとぼくの腰上では放送禁止になりかねない光景が広がっていることだろう。


 そしてスミレに続くのはナズナである。彼女はお尻から太もも担当だった。際どい部位の担当であるがゆえに、少しは遠慮してくれるかなと期待したものの、儚い希望は露と消えた。


 それはもう、物怖じしない態度でお尻やら太ももやらをこね回してくれる。あまりの手加減のなさに、本当にマッサージを受けている気がしてくる。ああ、マッサージか。なら仕方がないな、みたいな。


「ナズナさん、ナズナさん」


「何ですか、セイジさん」


「それ以上こね回されると、ぼくの臀部はゆるゆるになってしまいます。非常に危険です」


「なら引き締めるために、外から内へのマッサージに切り替えますね」


 そう言って、ナズナはぼくの尻肉を真ん中に寄せるように手を動かし始めた。あまりに堂々とし過ぎていて、逆に文句を言うのが申し訳なく思えてくる。何てこった。


 そして最後尾の担当が我らがキララ嬢だ。さすがに胴体部分は満席なので、彼女はぼくの足の裏を踏んで貰っている。これは決してぼくがマゾだからではなく、足の裏を踏んで貰うマッサージなのだった。


 彼女の体重では少々重みに欠けるのはご愛嬌。一生懸命に足を踏み踏みしてくれる姿が見られないのが残念だった。


 無表情で足を踏みつける少女の図。見ようによっては許されざる絵にならなくもない。今回のせいで、キララに変な嗜好が目覚めなければいいけれど……。


「どうですか、お客さん。気持ちいいですかー?」とナズナは言った。「かゆいところがあったら言ってくださいね?」


「床屋じゃあるまいし……」


「揉んで欲しいところがあったら言ってくださいね」


「何だか卑猥だな……」


 ツッコミ待ちなんだろうか? ナズナはぼくの返しに喜んでいるようだった。


 それはそうと、先程から背中にはダイレクトに彼女たちの太ももやらの感触が伝わってくるので、このうつ伏せ体勢は男の子的に辛いものがあった。湯田セイジ35歳、未だ現役である。


 腰の位置をずらそうにも、どっしりと乗りかかられているので微動だにできない。ポジションチェンジできないのは困りものである。これは男にしかわからない辛さだろう。


 かといってナズナに代行させるわけにもいかないし、一体どうすればいいやら。


「ねえ、お嬢さん方。君たちも年頃の女性なんだし、恥ずかしくはないの?」とぼくは訊ねた。


 スミレとナズナは反対方向を向く形で乗っかっていたので、ナズナが方向転換して姉の背中に寄り添った。ぼくは一連の行動を背中の感触を通して理解できていた。どんな特技だよ。


「恥ずかしいって、どうしてよ」とスミレは言った。「ははあ、セイジったら照れてるんじゃないの?」


「照れてないって言ったら嘘になるだろうけど、それよりも問題なのは君たちの格好だよ」とぼくは呆れた声色で、「何で下の服だけ脱いでいるのさ」


 そう。スミレとナズナはマッサージしにくいからと言って下を脱いでしまっているのである。確かに、Gパンと履いたままだと足がうまく開かないし、ぼくの背中をまたげないだろう。


 もっともらしい理由を作って大胆な行為に出るのが彼女たちらしいというか……。


 下だけ履いていないっていうシチュエーションは、もしかすると全裸よりも恥ずかしいのではなかろうか。まあ、下着は付けているのだろうけれど。


 何とかキララが真似する事態は避けられたものの、彼女の教育上よろしくないのは明白だった。マッサージする時はパンツ一丁になること、なんて覚えられたら、ぼくは死んでも死にきれない。草葉の陰でいつまでも今日のことを後悔し続けるだろう。


「こ、これは普通のマッサージじゃないからよ。マッサージ接待なんだから」


 言ってて少しずつ小さくなる声。スミレのきょどり具合が目に浮かんだ。ぼくに指摘されてみて、改めて己の痴態を認識したのかもしれない。彼女はそういうところがあるから。


「何よ。わたしたちのマッサージが気に入らないって言うの?」


 彼女の硬質化した声がぼくをちくちくと刺す。


 ぼくは慌てて否定した。「いやいや、滅相もない。お嬢さん方に馬乗りされて恐悦至極ですよ。きっと公爵夫妻も羨ましがるに違いない」


「公爵夫妻?」とスミレは小首を傾げた。その姉にナズナが夫妻のことを紹介している。そういえば、夫妻のことを彼女たちに伝え忘れていたな。彼らもぼくの大事な相棒である。仲間はずれにして申し訳ないことをしてしまった。今度菓子折りでも持参して謝罪しに行かなくては。


「へえ、あのお馬さん、公爵夫妻っていうんだ」


「正確には、アンドレイ・チェフチェンコ公爵閣下と公爵夫人だ」


 ナズナの情報を補足してやると、何とも言えない視線を後頭部に感じた。


「何でしょう?」とぼくは言った。


「いいえ、別に」とスミレは素っ気なく言った。「本当、あなたって変わった人だなあって改めて思っただけ」


 変わった人だって? 失敬な。


 ぼくみたいな常識人はそうそういないだろうに。人間のみならず、旅の相棒たる馬たちにも敬意を払っているのだから。普通の人間なら、彼らを公爵待遇で迎えはしないだろう。よくて男爵くらいだ。


 憤慨したぼくは、身体をもぞもぞ動かしながら抗議の声を上げた。頭上では姉妹の上ずった声がもれている。どうだ、思い知ったか。


「いいかい、おふたりさん。我々人間は動物を軽視し過ぎていると思うんだ。だってそうだろ? 今まで我々は地球を支配してる気満々だったけど、このザマじゃないか。地球っていう大きな枠組からすれば、ぼくたち人類は矮小な存在に過ぎないんだよ。わかるかな?」


「わ、わかったから、あんまり動かないでよ……」


「いいや、わかってないね! 上辺だけの言葉はぼくに通用しないよ」とぼくは更に畳み掛ける。「こうして君たちに乗りかかられて実感できたよ。人間の乗り物になるのは楽じゃないってね。それを公爵夫妻は、来る日も来る日も文句ひとつ言わずに歩み続けたんだ。尊敬に値するじゃないか」


 背筋を総動員して彼女たちを執拗に責め続ける。だが勘違いしないで欲しい。これは好き好んでやっているのではないのだ。人間至上主義という悪しき思想に囚われた彼女たちを解放するためにやむを得ず施している処置なのだ。


 決して麗しき女性たちを辱めて興奮しているわけではない。あしからず。


「ほら、お馬さんの怒りを思い知れ。ほら! ほら!」


 左右の運動に加えて、上下もコンビネーションに入れようとするが、いかんせん重さに負けて実行できない。重量オーバーだ。


「あはは。セイジさん、はしゃぎ過ぎ」


「ナズナも笑ってないでこの人を止めなさいよっ」


「またまた。お姉ちゃんだって楽しんでるくせに。さり気なく押し付けてるじゃない」


 押し付けてるって何を……?


 確認したいがそれはできない。何てことだ。考えてもみれば、恥ずかしげな表情を浮かべているであろう彼女たちの姿を見るのがベストだというのに、ぼくはこうして枕とキスしながら布団とまぐわっている。あまりにももったいないではないか。


「はあ、はあ……」


 ちょっと動き疲れてきたことだし、一時休戦を申し出た方がいいかもしれない。三十路過ぎの身体には全体運動は辛いのだ。しかも人間ふたりぶんの重量を乗せているのだから、その負担は計り知れない。


「もう、駄目……ギブアップ」とぼくは動きを止めた。


「やっと諦めた。往生際が悪いんだから」


 スミレの呆れ声に、ぼくは何と戦っていたのだろうかという気分になった。胸の奥底に燻る大切な想いのためだった気がするのだけれど、今となっては思い出せない。


 許してくれ……ぼくは精一杯戦ったんだ。


 もう、眠ってもいいよね……?


「起きなさいよ」とスミレはぼくから降りて、頭をぺしりと叩いた。姉に続いてナズナの体重が消える感覚がした。キララはとっくに退避済みだった。どうやら、ようやくぼくは解放されるらしい。長い拘禁生活だった。


 マッサージされていたはずなのに、嫌に凝り固まった身体を伸びをしてほぐす。そのままベッド上で反転してぼくは仰向けになった。


「ああ、長い冬は終わった」


「偉い言い草ね。サービスしてあげたっていうのに」


 腕組みをしてスミレは口を尖らせた。


「お客のニーズに合わないサービスは好まれない傾向があるのさ」とぼくは言った。やれやれである。


 久保田姉妹はベッドの脇でぼくを見下ろしている。こうして見ると、スミレはなかなかのプロポーションの持ち主であることがわかる。下から仰ぎ見ると、彼女の双丘がTシャツの下で激しく自己主張しているのが認められる。


 絶景かな、とぼくは口に出さずに思った。


 ふと、視線を下げると、キララがぼくの上にまたがっているのが見えた。まだ遊び足りないのだろうか。


 ちょこんと腰を下ろした彼女は、やや不満そうな声色で、


「わたしも、する」


「……するって何を?」


「おうまさんごっこ」


 そういって彼女はぼくの腰の位置くらいまで遡ってきた。ぼくは慌てた。スミレも慌てた。ナズナは面白がっていた。


「ちょ、ちょっと待つんだ、キララ。それはいけない」とぼくはなるべくキララを刺激しないように言った。過去の経験からわかるのだが、この子はぞんざいに拒否されると意固地になる傾向がある。なるべく穏やかに言い聞かせる方が無難なのだ。


「そ、そうよ、キララちゃん。そのお馬さんごっこは、まだあなたには早いわ」


 スミレとしては正論を言ったつもりなのだろうが、子供扱いされたキララは明らかに機嫌を損ねたようだった。


 本当、大事なところで裏切らないよね、スミレ嬢は!


「できるもん……わたしだって」と瞳に闘気をみなぎらせたキララは、背筋をぴんと逸した乗馬スタイルを取った。これはマズい。絵的にも道徳観念的にも非常によろしくない。


「さあ、おうまさん」とぼくを無常に見下ろした彼女は、有無を言わさず命令口調で言う。「うごいて」


「ひ、ひひん」


 ああ、神はいないのか! ぼくはあまりにも残酷な現実に絶望しそうだった。穢れなき天使であるキララが、30過ぎのどこの馬の骨とも知れない男の上にまたがる時が来るなんて……。


 神は死んだ! と、ニーチェばりに絶叫しかけた時、救いの手は思いも寄らぬところから差し出された。


「じゃあ、キララちゃん。わたしと勝負しようよ」


 ナズナだった。突然の申し出に、腰を浮かしかけていたキララは怪訝な顔をする。どういうこと、とナズナの言葉に興味を示していた。


 ナイスだ、ナズナ。無理に邪魔をしようとはせず、勝負事を持ちかけることによってキララの気を逸らすことに成功するとは。姉の成分表にない「機転」を母親の胎内から全て持ち出して生まれてきたみたいではないか。


 そういう訳で、ここに人間乗馬ダービーが開催される運びとなった。当初のマッサージ接待からどんな変遷を経ればここに至るのか非常に興味に尽きない話である。まあ、とにかく、最悪の事態は避けられたのだからよしとしよう。


 ぼくはベッドから降りて四つん這いになり、その上にキララがまたがる。隣ではスミレが競走馬と化して背中に妹を乗せていた。


「すでに崩れ落ちそうになっているのは気のせいだろうか」


「お、お姉ちゃん、ファイトだよっ」との励ましの言葉に返答する余裕もないのか、スミレは表情筋をぴくぴくさせて踏ん張っている。


 スタート位置についた我々は号令がかけられるのをじっと待った。ゴールは部屋の端っこである。距離としては何てことない長さであるものの、背中に人ひとりを乗せていると話は異なる。


 ぼくとキララペアに比べて、スミレとナズナペアはどう見ても不利である。馬役の体力にしても、騎手のたいじゅ……いや、何でもない。


 勝負はわかりきっているかもしれない。けれども、勝負事は最後までわからないのが醍醐味だった。もしかしたら番狂わせが起こる可能性だって捨て切れないのだ。


 人数の関係上、号令はナズナがかけることとなった。準備万端でスタンバイする。背中のキララは愛馬を労るようにぼくの頭を一撫でした。


 ……馬っていうのも、悪くないかも。


「位置について、よーい」とナズナは声を溜めて、「どーん!」


 ぼくは勢い良く四肢を動かして前進する。騎手がキララなので負担もそんなに感じない。まるでよちよち歩きだが、それなりの動きをできていると思う。


 それに対して、


「お姉ちゃん遅いよぉ……」


「む、無理言わないでよ。あんたみたいな重量級乗せてんだから」


「うわ。うわ。酷いよ、お馬さんの癖に! 文句言ってる余力があるなら、もっと速く走ってよ」


 何やら後方で姦しい声がしている。振り返って確かめたいなあ、と思いつつぼくはゴールへ向かう。そしてそのまま一着でゴールインした。さもあらん。


 凱旋パレードよろしく堂々と部屋を練り歩く。キララも喜んでくれている。ぼくとキララふたりだけだと考えもしない遊びだった。歳相応に無邪気な笑顔を浮かべてくれているのは、ぼくひとりでは見られない光景だった。


 久保田姉妹ペアにちょっかいをかけるべく方向転換すると、ちょうどその瞬間、彼女たちは力尽きて落馬したのだった。


「ふぎゃっ」というカエルが潰れたみたいな声で崩れ落ちるお嬢さん方。スミレが前のめりにつんのめったので、乗馬していたナズナも同じ道を辿ったのだった。


 あられもない格好で伸びている光景を目の当たりにすると、得も言われぬ憐憫の情が湧き上がってくる。大股開けっ広げでは、千年の恋も冷めるというものだ。


 さすがに不憫になったので、ぼくとキララは彼女たちの救出に向かうことにした。勝負も終われば助け合いである。


 遊びに付き合ってくれたふたりには、後で礼を言わないといけないな。


「さあ、お姉ちゃんたちを助けに行くぞ。困った時には助け合う。それが友達ってもんだ」


「ともだち」とキララは確かめるように繰り返した。「……ともだち」


 向けられた視線の先にいるふたりは、苦笑してしまう様態を見せていたけれど。


 キララの表情は、とても優しげだった。




   ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■  ■




「……酷い目にあったわ」


「まあまあ、お姉ちゃん。でもそのおかげで、キララちゃんとも仲良くなれたんだから、結果オーライじゃない?」


「まあね……」


 部屋のベッドに腰を下ろしてレースの疲れを癒していると、落馬のショックから回復した姉妹がつらつらと言葉を綴っていた。半分魂の抜けたようなスミレは、夜勤明けのアルバイトみたいな疲れた顔をしている。


 ぼくは「お疲れ様」と彼女たちを労った。「すごく楽しかったよ。なあ、キララ」


 こくり、と笑みを浮かべて頷くキララ。満足気な彼女に、スミレも報われた表情を浮かべた。ぼくも同じ気持ちである。キララの笑顔が見られるのなら、少々の苦労なんて気にならない。


 隣でぐでっと仰向けになっているナズナも目をつむったまま、一仕事終えた様子である。しかし締まらないのは、Tシャツがめくり上がってお腹が見えている点であろう。


「お嬢さん、お腹がまる見えですよ」とぼくは言った。


「服を直してくださる?」とドレスの着付けを手伝わせている貴婦人みたいにナズナは言った。それが丸出しのお腹を隠すためでは雅さも優雅さもないのだが。


「やれやれ。君はもっとお淑やかになるべきだよ」


「大丈夫だよ、セイジさん。わたしは十分お淑やかだから」


 忠告を聞き流すお嬢さんには少々罰が必要かもしれない。ぼくはむき出しのお腹に素早く手を置くと、高速で十指を蠢かせた。気分はピアノの魔術師、フランツ・リストである。


 その指技絶技に対して、ナズナは女性にあるまじき奇声を上げてベッドから転げ落ちた。髪を乱れさせた彼女は、恨みがましい目をベッド下から向けてくる。


「酷いですよっ」


「大人の忠告を聞き流す君も悪い」澄ました調子でぼくは言った。


 ナズナは頬をかきながら、何ともなしに、


「何だか、お父さんみたいですよね。セイジさんって」


 そう思うでしょ、と話を振られた姉は、どう答えたらいいものやらという微妙な顔である。彼女も二十歳を越えているわけだし、お母さん呼ばわりされるのが嬉しくないことは自覚しているのだろう。そういう訳で、ぼくが「お父さんみたい」という評価に対してどう感じるのか想像がつかないこともないのである。


「ナズナみたいなやんちゃな女の子が娘だったら、きっと子育ても大変だっただろうなあ」


「またまた酷いことをっ」


 よよよ、と泣き崩れる真似をしてぼくに寄りかかってくる。ちゃっかり隣のポジションを確保していた彼女は抜け目がなかった。


「わたしも『お父さん』って言って甘えてもいいですか?」とナズナは言った。「ああ、これはあくまで擬似的なものでして、他意はないんですよ? いわゆる『親子プレイ』ってヤツですよ」


「余計にマズいから!」


 姉のツッコミチョップが炸裂する。ぼくも同様のツッコミをしようと思っていた身なので、振り上げた腕をどこに収めるか迷った。そこでそのまま引き返すのも収まりが悪いなと考え直して、「何て卑猥なんだっ」とナズナに第2撃を食らわせる。


「遅延ツッコミ!?」


 連撃されたおでこを抑えて涙目である。ちょっと意地悪が過ぎたかもしれない。何だかいじりやすいキャラになりつつあるんだもんなあ、ナズナ。


 彼女はぼくに縋り付いて、抗議をしてくる。見ようによっては甘えているようにも見えなくもない。そのせいか、キララは警戒モードに移行してナズナを威嚇し始めた。


「あはは、可愛いなあ。癒されるなあ。ほらほら、もっと頑張らないと、ナズナお姉ちゃんがセイジさんを食べちゃうぞ?」


 実際に食べられそうだから笑えないぞ、ナズナさんよ。


 ふしゃー、ふしゃー、と毛を逆立たせていたキララだが、突如身体を硬直させると、ぼんやりとした表情になった。そして今までの様子がまるで夢の出来事だったみたいに無表情に戻る。


 異変に気づいたスミレとナズナが不安げな顔を向けてくる。ぼくはそれに「心配いらない」と手を差し出して安心させた。


「以前にも同じようなことがあったんだ」と口にしてから、ぼくは自分でも声が抑揚を欠いたのに気づいた。だが仕方がない。もしも前回と状況が同じであったとしたら、緊急事態なのだから。


「だれかがくる」とキララは平坦な声色で告げた。


「どういうこと?」スミレがぼくに訊ねる。それに対して、ぼくは「やれやれ」と力なく首を振った。キララとも楽しく遊んで、スミレとナズナとも交友を深めた素晴らしい夜だったのに。


 どうして厄介事っていうものは、いつだってタイミング悪くやってくるのだろう。


 ぼくはスミレの瞳を見返しながら言った。


「さあ、リーダー。皆を集めるんだ。招かれざる客人がこちらに向かっている」

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