第16話
「―――――こんな感じでどうでしょう?」
提示した条件を睨みつけていた茂野さんは、口をへの字にしてぼくの問いに答える。「もうちょっとどうにかならんかな。こちらとしては、野菜の種子は喉から手が出る程欲しいんだよ」
「ええ、わかります」とぼくは言った。「ですがそれは他の所でも同様ですからね。こうして調整された種子の供給元がなくなった現在、残っている在庫は貴重なんです」
農作に関係した物資の取り引きは茂野さんの担当となっていた。だからぼくは目下彼と顔を付き合わせて交渉を続けるのだが、互いに譲る気がないために難航していた。
彼の担当である農作関係は、言わば食糧供給の要の分野である。ゆえに野菜の種子類は非常に貴重であった。以前はホームセンター等で簡単に手に入ったこれらも、現在では入手は不可能になっていた。そのため、僅かに残っている在庫の価値はうなぎ登りである。
しかしながら現在荷馬車にあるぶんを全て放出してしまうと、ぼくがこれから先で困ることになる。半分くらいなら取り引きに応じてもいいつもりだった。
交渉はいつも通り食堂で行われている。連日訪れるためか、食堂班の面々と親しくなった。あのおさげの少女も、いつまでも「おさげの少女」と言ってはいられなくなったので、きちんと名前を訊いておいた。
その彼女、大河内ミズノがお盆を片手に現れる。彼女は白熱する交渉を思ってか、喉を潤すための飲み物を持ってきてくれたのだった。細やかな配慮を欠かさないよくできた女の子だった。
「どうぞ」と彼女はぼくとキララに飲み物をくれた。喉の渇きを今さらながらに思い出したぼくは一気に飲み干す。それを予想していたのか、持っていたおかわりをみっちゃんは注いでくれた。
みっちゃん―――――大河内嬢のあだ名である。古き良き時代から存在していたようなあだ名だった。奇天烈な名前が世に溢れかえる中で、彼女のようなあだ名に出会えると非常に心が安らぐ。
みっちゃん。何だか童心に戻れるような響きではないか。長い長い旅路を経てぼくの下にやってきたかのような響きだった。
「なあ、ミズノ嬢からも頼んでくれよ。このセイジ殿は出し渋っていけない」
「え、えっと……」
強引な会話のパスにみっちゃんはおろおろとする。茂野さんはわかっていてやっているのか、意地の悪い笑みを浮かべている。このおっさんは変なところで子供っぽい一面を覗かせるのだ。
ぼくは助け舟を出すことにした。
「茂野さん。いきなり彼女に振っても困るでしょうよ。……悪いね、みっちゃん。茂野さんは自分の都合が悪くなるとすぐに他の誰かにちょっかい出すんだから」
知りあって間もないぼくでさえそう思うんだから、茂野さんはフレンドリーというか開けっ広げというか。歯に衣着せないのは好ましい反面、困りものである。彼の雰囲気に呑まれるといいようにされてしまうから油断できない。
彼女は口元をお盆で隠しながら、「あはは」と控え目に笑った。「あの、お邪魔でなかったらご一緒させて貰ってもいいですか」
「そうしなさい! ぜひそうしなさい!」と茂野さん。彼の言葉を華麗にスルーしたみっちゃんは、ぼくにうかがい立てているようで、返答と待っている。
「どうぞ。君の意見も聞いてみたいしね」
「じゃ、じゃあ、失礼します……」と言って、彼女はぼくのすぐ隣の席に座った。
いや。
結構席は開いているのに、なぜぼくのすぐ隣に……? 茂野さんの隣とかぼくの対面ならわからなくもないのだけれど、この控え目ながらも、ひしひしと感じられる積極性は一体……!
見ると、茂野さんはにやにやとぼくの動揺を面白がっている。このおっさんは絶対にSだ。そうに違いない。
ぼくはひとつ咳払いして、
「先程も言ったように、この後にも回らなければならない集落があるので、ここで在庫を全部放出するわけにもいかないんですよ」
ぼくの目的は世界に起こっている問題の調査なのだから、その表向きの顔である<キャラバン>としての活動はできるだけ長く行いたい腹積もりだった。そのためにも、限りある在庫は有効に使わなければならないのだ。
一方、彼ら集落側からすれば、不定期にしか訪れない<キャラバン>からは、できるだけ多くの戦果を得る必要がある。ルート契約はすでに結ばれているものの、次に訪れるのがいつになるのかわからない以上、ここでむしり取れるだけむしり取っておくのは当然のことだった。
茂野さんの言いぶんもわからないこともなかった。しかしながら、ぼくにはぼくの目的があるのだから折れてやるわけにもいくまい。こうして交渉は平行線になりつつあった。
そこに投じられたみっちゃんは災難というほかないが、何らかの状況の変化を狙って投入されたのなら、効果はありそうだった。
「あんまり、無理強いするのはいけないと思います」
「おおい、ミズノさんよ! そこはおれの側につくべきだろう。その言いぶんはまるでセイジ殿の味方についたみたいじゃないか」
大仰に身振り手振りで訴える茂野さんに、みっちゃんは「ううっ……」と首を引っ込める。自分の父親くらいも歳の離れた男にデカイ声出されるのは、さぞかし恐ろしいだろう。無遠慮な茂野さんに向かって、ぼくは注意する。
「そんな大声出さないでくださいよ。みっちゃんが怯えてるじゃないですか」
「そ、そんな人を熊みたいに言わないでくれよ……傷つくだろ」
外見はまんま熊なんだけれど、本人はそれが嫌であるらしい。後退った彼はバツの悪い表情で身体を小さくした。
「一度に全部というのは駄目ですけど、また、来てくれるんですよね? おおよその約束だけしておいて、その時に交渉すればいいんじゃないですか?」
いわゆる予約制みたいなものか。これならぼくと茂野さん両方の意見の折衷案と言えるかもしれない。ぼくは在庫を残しておけるし、茂野さんは予約をしておくことによって、優先的に種子を得られる。
悪くない案だった。茂野さんも同様であるらしく、しきりに頷いている。
それにしても、彼女らしい気配りの効いた裁定だった。こうした両方の顔を立てる判断というのは、簡単なようで難しい。特に自分の利益を第一に考えがちである人間は、思考の硬質化に陥りやすい。視野狭窄になっていても、自分では気付かないのが常だった。
彼女はおっとりしていて頼りなげだが、しっかりとした調子で意見を言った。人は見かけによらないということだった。
茂野さんも、凝り固まった空気の清涼剤という感じで同席させたのだろうが、思わぬ形で彼女は貢献したのだった。
「では、今回は先程の契約内容でいいですね? 次回の予約権付きの特約込みということで」
「ああ、それで構わない」
口約束だけでは信用に関わるので、ぼくは契約書を一応作る。すでに法の番人はどこにもいなかったとしても、「契約書」というのは信用が見出される代物だった。人々の頭に染み付いた過去の名残なのかもしれない。
正副2通を作成して、片方を茂野さんへと渡す。これで農作分野の取り引きは完了した。野菜の種子類を放出した代わりに、ぼくは生産された野菜とその加工品類を手に入れることとなった。
一度の取り引きで全ての現物を貰うわけにもいかないので、ぼくの側は数回にわけて受領することになる。言ってみれば「ツケ」みたいなものだ。もしくは「分割払い」とも呼べるかもしれない。
いずれにせよ、この取り引きはぼくと集落とが今後に渡って付き合いを続けることを前提に成り立っていた。ぼくとしても願ったり叶ったりだし、向こうとしても同様だろう。
ご満悦の様子で食堂を後にする茂野さんは、数人の女性陣に囲まれていた。どちらかと言えば成熟した女性に彼はモテるようで、慣れた様子で相手をしている。とても慕われているのがよくわかる光景だった。
一仕事終えて、ぼくは水を飲み干す。隣では午後のひだまりの中で、キララがこっくりこっくりと船を漕いでいた。椅子からずり落ちてしまわないようぼくに寄りかからせる。彼女とは夜遅くまでお喋り等をするから、こうした気持ちのいい午後はこちらまで眠くなってくる。
あくびを噛み殺していると、席を立って一度調理場に戻ったみっちゃんがサンドウィッチを作って持ってきてくれた。
「セイジさん、お腹空いてませんか? いただいた小麦粉でパンを焼いたから、サンドウィッチ作ってみたんですけど……」
茂野さんとの交渉に熱が入っていて空腹を感じなかったのだが、目の前においしそうなサンドウィッチを差し出されたら途端に腹の疼きを覚え始めた。何とも現金な消化器官である。
この集落は昼食を抜くから、この差し入れはみっちゃんの独断だろう。ありがたくいただくことにする。
「ありがとう。とってもおいしそうだね」
ぼくは綺麗に小分けされた一切れを取ってかぶり付く。具材はトマトときゅうりというシンプルなものだった。しゃくり、という小気味いい音が口の中に広がる。ぼくは瑞々しい野菜のサンドウィッチをゆっくりと咀嚼した。
「これはまた、うまいな……」
思わず感嘆の声をもらしてしまった。たかがサンドウィッチ、されどサンドウィッチである。適当に具材を切ってパンに挟めばいいわけではない。野菜の切り方のいかんで味は決まると言っても過言ではないのだ。
彼女の作ったサンドウィッチは小麦粉パン使用、調味料不足という悪条件の下でも素晴らしい出来だった。
固く焼きあがる小麦粉パンを考慮して、具材、特にトマトは薄切りにされているし、量が少ないぶん全体にトマトが配置されるよう気配りが行き届いている。おかげで固いパンを噛み切る際にトマトが潰されずに済んでいる。
ぼくは無意識にみっちゃんの手を握りしめていた。彼女は真っ赤になって「え? え?」と狼狽した様子だが構わない。この感動を、興奮を、調理者に伝えずにいられようか、いや、いられるわけがない!
「すっごくおいしいよ! みっちゃんはいいお嫁さんになれるね」
「!?」
ああ、人間は何て不自由なのだろう。この迸る感情を余すことなく彼女に伝えることができないなんて悔し過ぎる。ぼくにグルメコメンテーターみたいな話術があれば違ったかもしれない。矮小なぼくの頭ではこの喜びを言い表せられないのだ。
少々興奮し過ぎだった気がするけれど、そこは勘弁して貰うしかない。
ぼくは黙々と残されたサンドウィッチを平らげる。途中で目を覚ましたキララに分けてあげると、彼女は嬉しそうに口にした。こうした自然のままの味を楽しめる食事が好ましいようだ。
空になったお皿を前にして、ぼくは唸った。まさかみっちゃんがこの若さにしてここまでの料理の腕を持っていたとは驚きだった。彼女に対する認識を改めなければならないだろう。
「ごちそうさまでした。とてもおいしかったよ」とぼくは心からの感謝を述べた。
「ど、どうも、お粗末様です」みっちゃんはぎこちない笑みを張り付かせて言った。
「どうかした? 何だか顔が引きつっているような」
「セ、セイジさんが変なこと言うからです……」
「変なこと?」
ぼくは首を傾げた。何かおかしなことを口走ったのだろうか。あまりの感動に支配されていて、何を喋ったのか思い出せない。
もしかしたら失礼なことを言ってしまったのだろうか。そう思い謝罪すると、彼女は慌てて首をぶんぶんと降った。そのせいでチャームポイントのおさげ髪が彼女の頬に襲いかかる。
自分の髪による攻撃に仰天した彼女は持っていたお盆を落としてしまった。面白いぐらいに踏んだり蹴ったりである。
彼女を落ち着かせるためにしばらくの時間を要し、少々髪型が乱れた彼女は焦点の定まらない様子でぼくの正面の椅子に腰掛けている。
「落ち着いた?」とぼくは訊ねた。
彼女は疲労困憊といった風に頷いた。ぼくは何だか悪いことをしてしまった気分になった。
「す、すみません。取り乱してしまって」
「いやいや。慌てたみっちゃんも可愛らしくてよかったよ」
「……もしかして、わざとやってます?」
「ばれたか」
みっちゃんはいじられていたことがわかると、頬をぷくっと膨らませた。本人は威嚇しようとしているつもりなのかもしれないけれど、これでは敵を追い返すことはできないだろう。逆に近寄ってくるに違いない。
これ以上彼女を怒らせるわけにはいかないので、形ばかりの謝罪をする。根が純情なのか、彼女はすぐに機嫌を取り戻した。
「何だか、不思議です」と彼女は語った。「わたし、人見知りだから、ここのみんなとも仲よくなるのに時間がかかったんです。でも、セイジさんとは自然に話せます」
最初はすごくぼくを警戒していたのを覚えているが、彼女の中ではあれでもマシな方だったらしい。世の中には様々なタイプの恥ずかしがり屋がいるものである。
「ぼくはこの通り、人畜無害な顔をしてるからね。だからじゃないのかな。ほら見てよ、この澄み切った瞳を」と言って、ぼくはアフリカゾウみたいなつぶらな瞳をアピールした。
「もしかしたら、わたしのお兄ちゃんに似てるせいかもしれませんね」
華麗にぼくのボケをスルーしたみっちゃんは、かなりの手練である。この短い間に、着実に彼女は進化していたのだった。
ぼくは気を取り直して彼女の話に乗っかる。
「お兄さん?」
「はい。わたしとは歳が離れてるんですけど、すっごく優しくて頼り甲斐があるんですよ。もうずっと会っていませんけど……」
彼女に限らず、家族の生死が不明だという人間は数知れない。生き別れた家族はどこで生きているのか、それとも死んでいるのか。それすらもはっきりしないのだ。
宙ぶらりんな状態に置かれた中で、家族の生存を願うことしかできない。彼女の瞳には、どこか諦めにも似た色が見て取れた。
「みっちゃんのお兄さんか……ぼくに似てるってことはいい男なんだろうね。出会ったらすぐわかると思うな」とぼくは言った。「旅の途中で見つけたら、みっちゃんのことを伝えてあげるね」
彼女はぽかんと口を開けて、それから「はいっ、よろしくお願いします!」と嬉しそうにぼくに頼んだ。
あんなにもおいしいサンドウィッチをご馳走になったのだ。これくらいの恩返しはさせて貰わないと。
打ち解けた彼女は時折言葉を詰まらせながらも、集落での体験を饒舌に語ってくれた。ぼくはそれに付き合って相槌を打ち、旅路の思い出も小出しにして話した。そうしていつの間にか夕食の時間になっていた。
厨房から呼び出された彼女は、「わ、わ」と目を回して謝罪している。食堂を仕切る女性に向かって、ぼくは手を合わせて彼女を怒らないよう懇願する。その女性はぼくにウインクひとつすると、みっちゃんの頭をぽんと叩いて厨房に消えていった。
残されたみっちゃんはたっぷりと呆けた後、紅潮させた顔をぼくに向けてぺこりとお辞儀した。そうして彼女の持ち場へと帰っていった。
厨房からはみっちゃんを含めた女性たちの楽しげな声がもれ出している。彼女は家族と離れ離れになってしまったけれど、こうして新しい家族に恵まれることになった。だからきっと大丈夫だろう。
「家族か……」とぼくはひとり呟いた。
キララは気遣わしげな視線をぼくに向ける。彼女を心配させてはいけないな、とぼくは思った。
「大丈夫。寂しくなんかないよ。ぼくにも家族はちゃんといるんだから」
キララをすっぽりと覆い隠すように抱きしめる。彼女は応えるようにぼくの背中に手を回した。小さな手のひらから感じる熱は、ぼくの孤独を癒してくれる。
これじゃあ、どちらが保護者なんだかわからないな、とぼくは自嘲する。情けなくもあるけれど、悪い気はしない。
互いに必要としていて、必要とされているのがはっきりとわかるからだ。こんな関係は初めてのことだった。
ぼくには血の繋がった家族はいたけれど、妻と呼べる女性もいたけれど。
「家族」って呼べるような関係になったのは、キララが初めてかもしれなかった。




